夢七雑録

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5.2 谷原村長命寺道くさ(2)

2008-12-09 19:27:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 清戸道(目白通り)をさらに進むと、長崎村の内の椎名町に出るが、入口に慶徳屋という穀物を商う豪家があったという。元文元年(1736)の中野成願寺鐘楼の寄付者として、大久保の杉浦藤兵衛の孫・慶徳屋藤右衛門の名があるが、同一人物とすれば、古くから手広く商売をしていたことになる。この通りは練馬からの穀物輸送ルートでもあり、嘉陵は、この辺に貧しい家は無いと書いている。目白通りは、この先、二又交番の所で道を分けるが、清戸道は右側の細い方の道である。ここから、清戸道は五郎窪を通り千川上水に出たあと、千川上水に沿って西に向かい中荒井(練馬区豊玉)を通る。現在は千川上水が暗渠化されているため往時の面影は無いが、桜並木の残る千川通りが清戸道で、練馬駅の付近で目白通りに合流する。ここからは、現在の目白通りが清戸道の道筋となる。嘉陵によると、貫井の道の左に子の権現の小祠があり古着を商う市が開かれる場所があったと記す(練馬区貫井5の円光院は子の権現を祀る)。また、その先の分かれ道に東野某が銘文を作った碑があったと記す。この碑は現存しており(練馬区貫井5・練馬二小前交差点の北側)、清戸道が分かれる地点に置かれている。ここからは曲がりくねった参詣道を長命寺(練馬区高野台3。写真)に向うことになるが、いま歩くとなると分かりにくい道である。この道をたどると、長命寺の裏門に出ることになるが、嘉陵も裏門から長命寺に入っている。

 長命寺は、後北条氏の血筋を引く慶算(増島重明)が、夢で弘法大師のお告げを聞き、茅堂を建てて弘法大師像を安置したことに始まる。その後、奥ノ院が造られたが、高野山を模していたため、俗に東高野と呼ばれるようになった。江戸時代は、紀州の高野山を参詣したのと同じだけの御利益があるとされて、人気があった寺である。ところで、嘉陵が土地の者から聞いていた話では、曹司谷(豊島区雑司ヶ谷)から長命寺まで二里半(10km)ということであったが、実際には、それより遠かったらしい。長命寺から石神井の池までの半里を、やや遠いと書いているところをみると、石神井まで足を延ばすのは諦めたのだろう。午後からの出発ゆえ、そろそろ帰途につく時間になっていたはずである。帰路については記載されていないが、もと来た道を戻ったとして、清水家を起点とした往復の歩行距離は、30数kmほどになる。長命寺は頼めば宿泊もできたようだが、嘉陵一行は、そうせずに帰ったのではなかろうか。なお、現在の長命寺の境内は、江戸時代のままではないが、奥の院と石仏群は当時の面影を残しているということである。
 
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