文政元年五月二十六日(1818年6月29日)、夜明けごろ、永代橋近くの深川餌場から漁師の釣り舟に乗る。少し曇っていて富士も秩父も見えず、筑波山だけが見えていた。高輪沖には多くの船が停泊していた。その数、常時200艘。永代橋から距離にして8kmほど。船と船は後先を違えて停泊していた。江戸時代、各地から江戸に入ってくる廻船は、佃島沖か高輪沖に停泊し、荷物は川舟に積み替え陸揚げしていたのである。さらに釣り舟を漕いでいくと、鮫洲に海苔を取るヒビが並べてあるのが見えた。広重の名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」に描かれている光景である。舟が大森の磯に着いたので、舟を下り遠浅の海を歩いて岸に上がり、茶店に入って足を洗ってから出発した。時刻は午前10時。ここからは、東海道を南に向って行くことになる。
その先の磐井神社(大田区大森北2)に鈴石という石があったが、この日は見ないで通り過ぎている。この社には烏石の祠があるが、この烏石について、嘉陵は次のような話を書き記している。もともと古川町にあった鷹石という石を、書家の松下八蔵(1698-1779)が買い求めて烏石と名付け、磐井神社に祀って祠を建てた。これが烏石の祠である。松下八蔵は、将軍吉宗がこの地を訪れた時に、この石をご覧にいれたが、案に相違してお褒めの言葉もなく、大いに失望したという。その後、八蔵は烏石と号し門人を多く抱えるようになった。嘉陵の亡父は、松下烏石(松下八蔵)に書を習い、手本も二三書いてもらっていたが、烏石が京都に立つ折に、「私の筆遣いを真似しただけでは私を越えられない。古法帖を学び古人を師とせよ」と諭され、それからは古法帖だけを学ぶようになった。しばらく後に、京都に居た松下烏石が、嘉陵の父の書を見て感嘆し、自分の識鑑に間違いが無かった事を喜んだという。なお、鈴石と烏石は、現在も磐井神社内に保管されているということである。
江戸名所図会にも描かれているが、大森には和中散(食あたりの薬)を売る店があった。嘉陵はその店の少し先にある茶店の傍らから、東海道と離れて羽田の弁才天へと向かっている。大師参詣者が多く利用したとされる羽田道をたどったと思われる。現在の道で言えば、平和島口の交差点の先、左斜め前方に入るミハラ通りが旧東海道で、和中散の店もこの通りのうち(中原と南原)にあった。その先、内川橋を渡って左に入る「するがや通り」が旧羽田道である。ここからは、うねうねと続く道となるが、いま羽田まで歩くとなると分かりにくい道である。嘉陵は、羽田に向う途中に浦守稲荷の社があり、社頭は新築できらびやかだったと書いている。三百年前の創建という浦守稲荷(大田区大森南3)が、当時もこの付近に鎮座していたとすると、嘉陵の略図からして、この稲荷が嘉陵の見た稲荷に位置的には該当しそうだが、確かなことは分からない。
その先の磐井神社(大田区大森北2)に鈴石という石があったが、この日は見ないで通り過ぎている。この社には烏石の祠があるが、この烏石について、嘉陵は次のような話を書き記している。もともと古川町にあった鷹石という石を、書家の松下八蔵(1698-1779)が買い求めて烏石と名付け、磐井神社に祀って祠を建てた。これが烏石の祠である。松下八蔵は、将軍吉宗がこの地を訪れた時に、この石をご覧にいれたが、案に相違してお褒めの言葉もなく、大いに失望したという。その後、八蔵は烏石と号し門人を多く抱えるようになった。嘉陵の亡父は、松下烏石(松下八蔵)に書を習い、手本も二三書いてもらっていたが、烏石が京都に立つ折に、「私の筆遣いを真似しただけでは私を越えられない。古法帖を学び古人を師とせよ」と諭され、それからは古法帖だけを学ぶようになった。しばらく後に、京都に居た松下烏石が、嘉陵の父の書を見て感嘆し、自分の識鑑に間違いが無かった事を喜んだという。なお、鈴石と烏石は、現在も磐井神社内に保管されているということである。
江戸名所図会にも描かれているが、大森には和中散(食あたりの薬)を売る店があった。嘉陵はその店の少し先にある茶店の傍らから、東海道と離れて羽田の弁才天へと向かっている。大師参詣者が多く利用したとされる羽田道をたどったと思われる。現在の道で言えば、平和島口の交差点の先、左斜め前方に入るミハラ通りが旧東海道で、和中散の店もこの通りのうち(中原と南原)にあった。その先、内川橋を渡って左に入る「するがや通り」が旧羽田道である。ここからは、うねうねと続く道となるが、いま羽田まで歩くとなると分かりにくい道である。嘉陵は、羽田に向う途中に浦守稲荷の社があり、社頭は新築できらびやかだったと書いている。三百年前の創建という浦守稲荷(大田区大森南3)が、当時もこの付近に鎮座していたとすると、嘉陵の略図からして、この稲荷が嘉陵の見た稲荷に位置的には該当しそうだが、確かなことは分からない。