夢七雑録

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13.手向の尾花 牛田薬師、関屋天神

2009-02-13 20:40:08 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 年月日は不明だが(文化年間?)、嘉陵は牛田薬師と関屋天神を参詣している。牛田は戸数12、3戸の村だが、相応の家づくりで、貧しそうには見えないと嘉陵は書いている。経路は明記されていないが、略図によると、木母寺の堤を北に行き、綾瀬川を渡って牛田の堤を右に行ったと思われる。現在の道で言えば、吾妻橋を渡って墨堤通りを北に向い、旧綾瀬川を渡った先を右に行くと牛田薬師である。なお、墨堤通りを西に行けば北千住に出られる。千葉山西光寺(西光院。写真。足立区千住曙町)の本堂は南面して大日如来を安置し、そのそばに薬師堂が東に面して建てられていた。寺僧に聞いたところ、書付なども無く来歴も不明だが、千葉介常胤の守本尊と伝わっており、山号を千葉ということから、恐らくは千葉家に由緒のある寺だろうと云う事であった(千葉常胤の孫が祖父の守本尊の薬師如来を本尊として建てた寺とされる)。寺は真言宗で、少しの地所を人に頼んで耕作してもらっているという。庵ほどの寺とはいえ、堂宇、門、塀に至るまで壊れた所が無いのは、不思議でもあった。この薬師堂に狩野元信の牛の画があったのを、以前見たことがあり、洪水の時に流失したという事であったので、寺僧に尋ねてみたが、全く知らないという。また、石出帯刀の建てた碑があったが、文字は読めなかったと記す。現存する日念碑のことであろうか。この寺へも、春になると偶に訪ねてくる人があるということであった。

 牛田の堤を西に千住の方に行くと大川(墨田川)の入堀があり、その西側、田の中の小高い場所に関屋天神の小祠(足立区千住関屋町)があった。古来よりの祠といい、鳥居もあって、畔の小道を伝って参詣するようになっていたと、嘉陵は書いている。ところで、江戸名所図会の「関屋天満宮」には氷川神社の中に鎮座する関屋天神が描かれており、嘉陵の記述とは違っている。一方、田の中に元天神の名も見えているが、こちらの方が嘉陵の記述には合っているようである。実は、関屋の里はたびたび出水した為、天明7年(1787)に関屋天神を氷川神社内に遷座し、跡地に小祠を建てるという事があった。多分、嘉陵は跡地の方に詣でたのであろう。なお、現在の関屋天神は文化4年(1807)の石碑とともに、千住の氷川神社(足立区千住仲町)境内に鎮座している。

 嘉陵は宿願の事があって、亀戸天満宮に詣でていたが、この日は25日でもあったので、本来なら亀戸天満宮を参詣する筈であった。ところが、やむを得ぬ事情があって、千住のこの辺に来てしまったのである。はからずも、この天神を詣でることになったのは、如何なる縁があったのだろう。亀戸にしろ、関屋にしろ、場所は違っていても同じ神である。心の行き届いた神である事に、かたじけない思いがして、嘉陵は神に手向ける和歌を詠んでいる。
 「しくれ降枯生の薄それをだに たてながらこそぬさにまつらめ」

 と、ここまでは良かったのだが、このあと嘉陵は、この天神が菅原道真なのかどうか疑念が湧いてきたらしい。もともと、天神とは天の神の事であって、菅原道真だけを指す言葉ではない。実は、物部氏の神も天神と称していたのである。武蔵の北野天神は物部の天神であったが、これに菅原道真の神が混じって、各地に分祀するという事があり、その場合も菅原道真の神と称していた。ここの天神も、専ら菅原道真の神と称してはいるが、当てにはならない、と嘉陵は思ったらしい。武蔵の北野天神とは所沢の北野天神(所沢市北野)である。この神社は、もともと物部氏の天神を祀っていたが、後に京都の北野天満宮を勧請して北野天神と称するようになる。享保7年(1722)、この北野天神が目白坂上にあった目白不動に出開帳をした事があり、多くの参詣客が訪れたが、北野天神のことを物部の神として、悪く言う者も居たらしい。嘉陵は、その事を知っていたのだろう。

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