子供の頃、この寺の辺りは、遠征するには丁度良い距離であったので、何度か寺の境内に入り込んだ事がある。ただ寺らしい建築物があったという記憶がない。ところが今は、由緒がありそうな立派な寺院に生まれ変わっている。山門を入ると、石畳に沿って小さな庭が続き、さらに歩を進めると、突然、清水の舞台と思しき本堂が、台地の上に現れる。その劇的効果を誰が考えたのかは知らないが、この寺の敷地を、実際よりも、かなり広く見せている。
いつ頃からか、この寺に牡丹が植えられるようになり、花時になると、この寺も混雑するようになった。こんな絶好の儲け時に、入場無料という至極当然の習慣を守って呉れているのは有り難いが、有料だったら、多分、誰も来ないのだろう。まあ、それはともかく、昼間はこうやって、群衆の一人として花を楽しむのも悪くない。
この寺の牡丹も、丹精をこめて育てる人があって、毎年、美しい花を咲かせているのだろう。大風で牡丹が傷ついた時には、枝に添え木をしたり、悪戯者が花壇を荒らした時には、落ちた花を拾い集めて悲しむようなこともあるのかも知れない。ただ、牡丹は人のために毎年美しい花を開いている訳ではないし、仮に牡丹が知性を持っていたとしても、世話してくれる人に感謝の念など抱くとは思えない。牡丹のような生命体には、生存本能の一つでもある恐怖の機構などは無意味なものでしかなく、まして、強大な存在に同化して心の安定を保つメカニズムなど無用な筈である。牡丹にとって、育ててくれる人の存在は、外界の構成要素の一つに過ぎず、時には有益で、時には害をなす、そして大抵の場合は無関係な存在でしかないのだ。人は勝手に牡丹を育て、牡丹は勝手に花を咲かせているのである。
牡丹は花の王様だと言う。王様だから何もしない。人間が手入れしてやらないと何も出来やしないのに、一本、一本、大面をしてふんぞり返っている。むろん、こちらの思いが通じないのは分かっている。それでも、何とか思い知らせてやりたい。こんな事を考えるようになったのは、いつの頃からだろうか。
その日、用事で夜遅くなって、偶然にも寺の前を通りかかると、何時もは閉まっている門が開いている。こんな機会を逃す手は無い。さっそく境内に進入し、近くにあった草刈り鎌で、ばっさばっさと牡丹の首を掻ききった。しかし勝利感に酔い過ぎたらしい。人影が暗闇の向こうに現れた事に気付かなかった。「誰だ!」と言う声に一瞬ぎょっとしたが、とっさに「牡丹です」と言ってやった。それに納得したのだろう、人影は見えなくなってしまった。それでも、暫くはその場にじっとしていることにした。そうして居るうち、何だか牡丹になったような気がした。その時になって初めて、牡丹が如何に幸せな存在なのかという事に気が付いた。このまま、永遠に牡丹のままでいたい。そう思った途端、目の前に現れたものがある。鎌の刃だった。