古いアルバムの中に眠っていた戦前・戦中の写真の中から、公開した方が良さそうな写真を選んでみた。最初に、昭和初期までの写真を公開する。
この写真は、明治の末か大正の初めに、東京の幼稚園で撮られた記念写真である。ただ、撮影地は分かっていない。撮影したのは職業写真家と思われる。一般の集合写真では全員を整列させて写すことが多いが、この写真では、幼稚園の日頃の様子が想像できるような撮り方になっている。
昭和4年(1929)8月19日、硬式飛行船の発明者の名を冠したドイツの大型飛行船ツェッペリン伯号が、世界一周の途中に日本の霞ヶ浦に飛来した。この時、東京上空を通過する飛行船を見ようと、人々が集まって大騒ぎにとなったという。この写真は、東京上空を通過するツェッペリン伯号と、飛行船を見上げる群衆を写している。
昭和7年(1932年)、長野県の霧ケ峰はスキーの適地として広く知られるようになる。上の2枚の写真は、スキーの指導に当たっていた外国人の一人、ドイツ人のホフマン氏で、昭和7年の撮影である。
上の2枚は何れも、昭和8年2月に撮影した霧ヶ峰の写真である。上の写真には、遠くに二階建てらしき建物が写っている。該当するかどうかは分からないが、当時すでに、初代の霧ケ峰ヒュッテが建てられていたということである。写真にはスキーをする人の姿も見られるが、当時はまだ、スキー客も多くはなかったらしい。
この写真は、明治の末か大正の初めに、東京の幼稚園で撮られた記念写真である。ただ、撮影地は分かっていない。撮影したのは職業写真家と思われる。一般の集合写真では全員を整列させて写すことが多いが、この写真では、幼稚園の日頃の様子が想像できるような撮り方になっている。
昭和4年(1929)8月19日、硬式飛行船の発明者の名を冠したドイツの大型飛行船ツェッペリン伯号が、世界一周の途中に日本の霞ヶ浦に飛来した。この時、東京上空を通過する飛行船を見ようと、人々が集まって大騒ぎにとなったという。この写真は、東京上空を通過するツェッペリン伯号と、飛行船を見上げる群衆を写している。
昭和7年(1932年)、長野県の霧ケ峰はスキーの適地として広く知られるようになる。上の2枚の写真は、スキーの指導に当たっていた外国人の一人、ドイツ人のホフマン氏で、昭和7年の撮影である。
上の2枚は何れも、昭和8年2月に撮影した霧ヶ峰の写真である。上の写真には、遠くに二階建てらしき建物が写っている。該当するかどうかは分からないが、当時すでに、初代の霧ケ峰ヒュッテが建てられていたということである。写真にはスキーをする人の姿も見られるが、当時はまだ、スキー客も多くはなかったらしい。