明治の終わりごろから昭和の初めにかけて、まだ農村地帯であった中央線の沿線や国分寺崖線沿いに多くの郊外型別荘が建てられた。その大半は消滅してしまったが、一部は公園や緑地などとして今に残っている。今回は、小金井市の国分寺崖線に残る旧別荘庭園、滄浪泉園、三楽の森公共緑地、美術の森緑地を訪ねてみた。
(1)滄浪泉園
武蔵小金井駅で下車し、連雀通りを西に15分ほどで滄浪泉園(小金井市貫井南町3-2-28)に着く。滄浪泉園は三井銀行の役員で衆議院議員をつとめた波多野承五郎が大正元年に購入した別荘地に始まる。滄浪泉園は犬養元首相の命名で入口付近の石標の文字も犬養元首相によるものという。当初の敷地は一万坪あり、北は連雀通り、南は薬師通り、東は弁車の坂、西は新小金井街道の辺りにまで及び、現在の敷地の3倍ほどあったらしい。敷地内には200坪の池があり水車もあって道も通っていたという事なので、それらを含めてまるごと買い上げたようである。この別荘地は昭和になって川島三郎の所有となり、昭和50年頃にはマンション建設の計画も持ち上がるが、地元の反対運動の結果として、昭和52年に都が買収して現在に至っている。入口で入園料を払って中に入ると、石畳の車道が森の中へと続いている。別荘だった頃には入口近くに2部屋の門番小屋があったそうだが、現存しない。
石畳の道をたどると、小さな広場のような場所に出る。右側には滄浪泉園の説明版があり、左側には芝生を前にして休憩所がある。この場所に建っていた別荘の主屋は残念ながら取り壊されてしまったが、日野の名主の家を移築したという70坪ほどの茅葺の建物であったらしい。その高い縁側からは池が見えたと言う話だが、当時は木の高さが低かったので、雑木林越しに富士を望むことが出来たかも知れない。現在の滄浪泉園は特別緑地保全地区に指定され、建築行為などを制限して原状を凍結するかたちで緑地の保全を図っている。周辺の樹木を手入れして、大正時代のような眺めの良い場所に変える事は出来そうにない。
園路を下って行くと木々の間から水面が見えて来る。池に沿って右に行き木橋を渡る。杉や赤松のような針葉樹が目立つようになるのは昭和になってからで、別荘を構えた大正の頃の池の周辺は、落葉広葉樹の斜面林と低地の桑畑からなる、今より明るい雰囲気であったかも知れない。水車があったという事からすると湧水量も多かったと思われる。まさに、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭であったのだろう。今は、この池も淀んだままの憂鬱な表情を見せることがあり、曇天で訪れる人が少ない時は、清々しい雰囲気とまでは言いにくい。
池に沿って進むと湧水のある場所に出る。この池の湧水地はもう一カ所、板橋の下を流れてくるのが、それである。この湧水があった事が、この地に別荘を構える事になった理由の一つであったかも知れない。滄浪泉園の湧水は、東京の名湧水の一つに選ばれているが、小金井市では、この他に、貫井神社の湧水と、美術の森の湧水が名湧水として選定されている。
池の周囲を歩き土橋を渡る。橋の下から続く水路を追ってみると、滄浪泉園の外に出ていくようである。確認はしていないが、野川に流れ出ていると思われる。土橋を渡った先に赤い前掛けをした、おだんご地蔵が祭られている。滄浪泉園内には鼻欠け地蔵や馬頭観音も祭られているが、薬師通りが新小金井街道に出る辺りに石塔場があり、村内の石仏が集められていたという事なので、そこから滄浪泉園内に移したものらしい。なお、現在の新小金井街道は貫井トンネルを通るようになっているが、もともとは貫井大坂という曲がりくねった急坂で、府中から所沢方面に出る幹線ルートだったという。
池から石段を上がって休憩所に戻る。その裏手に三宅島友好都市記念碑が置かれているが、緑地保全地区に指定される前に設置されたのだろう。近くには水琴窟があるが、別荘だった頃からあったのだろうか。滄浪泉園には石仏のほかに燈籠や井筒が置かれ日本庭園風の造作もされているが、全体としては自然のままの庭になっている。波多野承五郎はその随筆の中で、日本の庭園を、実景を縮写した縮図式の庭と、京都桂御所のような天然にあり得る形の等身式の庭に分け、等身式の庭が最近の流行と記すとともに、庭は建築の延長であると書いている。また、表門と玄関の間を庭園風に造る事については批判的で、瓢亭のように表を粗に裏を美にするのが良いとも記している。滄浪泉園は、このような考えのもとに、等身式で茅葺の主屋に調和する庭として造られたのだろう。
(2)三楽の森
滄浪泉園を出て連雀通りを西に向かい、小金井四小の手前を左に入る。左に三楽公園を見て、その先の三楽集会所の横を入ると庭門が見えてくる(小金井市貫井南町3-6-18)。庭門から先が三楽公共緑地で、NECの設立発起人の一人であった前田武四郎の、三楽荘という名の別荘の跡である。
庭門を入ると、今は周辺を雑木林で囲まれた芝地だけがあり、別荘時代の建物らしきものは見当たらない。入園は無料だが昼間のみ開放、火曜は休園になっている。ここは、国分寺崖線上にあり、貴重な自然環境を保存するため、芝地以外への立ち入りは禁止されており、昆虫や小動物のための仕掛けも設けられている。
前田武四郎は大正8年にこの地を入手したが、郷里新潟の醤油醸造の旧家を買い取って、巨大な梁を使った別荘を建てたのは大正13年になってからである。当時の敷地は1万坪あり、北は連雀通り、南は斜面の途中まで、西は三楽坂辺りまでが敷地の範囲であったという。主屋は東向きで台地上の西側にあり、連雀通りの表門から針葉樹の中を車道が弧を描くように主屋の玄関に通じていたようである。南側は斜面まで芝生でおおわれた明るい庭で、東南には築山が設けられ四阿が建てられていた。ここから南を望むと、多磨霊園西側の浅間山が見えることになるが、四阿のある築山を浅間山の標高80mに合わせようとしたらしい。眺望に優れていること。それが、この地を別荘地に選んだ理由だったかも知れない。
(3)美術の森
はけの道を東に進むと、小金井二中の先に中村研一記念はけの森美術館(小金井市中町1-11-3)がある。武蔵小金井駅からは15分ほどで着く。美術館の東側に“美術の森緑地”の入口がある。東京の名湧水の一つでもある美術の森緑地の湧水の流れは、道路の下を潜って南に続いていて、水路沿いに径がある事を示す“はけの小路”の石標が、道路の向こう側に置かれているが、今回は割愛して美術の森緑地に入る。
美術の森緑地は美術館の東側から裏手にかけての緑地で、入園は無料、開園は昼間だけで、年末年始と月曜は閉園となる。美術の森緑地は国分寺崖線の斜面と湧水地からなり、武官であった小橋寿が明治42年に別荘地とした事に始まる。戦後は画家の中村研一がこの地に移住してアトリエを構える。門を入って間もなく左側に見えてくるのが旧中村研一邸である。
先に進むと小さな池があり、石舛からは水が湧き出ているように見える。この緑地の水源は竹林の中にあるそうだが、立ち入る事は出来ない。池の向こうの旧中村邸は、現在、オーブン・ミトンというカフェになっている。
竹林の中を上がると北側の門に出る。門の外側の“おお坂”を右に上がると連雀通りで、この通りを西に行き前原坂上の交差点を右に行けば武蔵小金井駅に出る。なお、美術の森緑地の東側は、岩村海軍中将が大正3年に別荘地とした場所で、1500坪の敷地内には池もあったという。その東側のムジナ坂沿いには、昭和23年に大岡昇平が寄寓していた富永邸があるが、富永邸自体は大正時代からあったようである。大岡昇平の「武蔵野夫人」は小金井から国分寺にかけての国分寺崖線が舞台になっているという。
<参考資料>「緑と水のひろば71」「滄浪泉園リーフレット」「続々小金井風土記」「古渓随筆」「東京の公園と原地形」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「多摩文学紀行」