文化十四年九月七日(1817年10月17日)。嘉陵(村尾正靖)は、小金の牧で野飼いの馬を見ようと、朝早く家を出る。経路は明記されていないが、半田稲荷に行った時と同じく、吾妻橋を渡り世継(四つ木)に出て曳舟を利用し、亀有から水戸街道(旧水戸街道)を行き、新宿を経て金町に出たのであろう。ここを過ぎて、利根川(江戸川)の堤に出ると、香取大明神(葛西神社。葛飾区東金町6。写真)があり、祭礼で行われる木偶回しの準備が進められていた。木偶回しとは、あやつり人形の事だが、嘉陵が聞いたところによると、この神社の木偶回しは、国守の許しを得て戦勝祝いとして行われたのが始まりといい、江戸から代官配下の者も来るということであった。嘉陵は知らなかったようだが、神社の由緒によると、家康が当地を訪れた際に、この神社の木偶回しを見て、奇特なこととして御朱印十石を与えたという。木偶回しとはいえ、由緒ある神事であった。
香取大明神を出て、堤の上を半里ほど行くと松戸の番所(葛飾区東金町8)に出る。番所の少し先が、松戸の渡し、または、金町の渡しとも称された渡し場である。番所は日没以降、人を通さなかった。また、番所では女を通さなかったが、上流の小むかいの渡しと下流のやぎれの渡し(柴又の矢切の渡しとは別の渡し)で、内証で女を渡していたという。
利根川(江戸川)を渡れば、水戸街道の松戸の宿(松戸市本町ほか)である。松戸は戸数500戸ほど。中に、「津の国」や「竹沢」などの造り酒屋があり、また、渡し場の南には、川で獲った魚を集めて江戸に送るための会所があったと記している。松戸からは水戸街道(旧水戸街道)をさらに進むことになる。
香取大明神を出て、堤の上を半里ほど行くと松戸の番所(葛飾区東金町8)に出る。番所の少し先が、松戸の渡し、または、金町の渡しとも称された渡し場である。番所は日没以降、人を通さなかった。また、番所では女を通さなかったが、上流の小むかいの渡しと下流のやぎれの渡し(柴又の矢切の渡しとは別の渡し)で、内証で女を渡していたという。
利根川(江戸川)を渡れば、水戸街道の松戸の宿(松戸市本町ほか)である。松戸は戸数500戸ほど。中に、「津の国」や「竹沢」などの造り酒屋があり、また、渡し場の南には、川で獲った魚を集めて江戸に送るための会所があったと記している。松戸からは水戸街道(旧水戸街道)をさらに進むことになる。