しばらく行くと羽田で、大師河原渡し道の石標を過ぎ、町の東の外れから堤をたどると堀切があり仮橋が架かっていた。橋を造るための資金を集めていた僧に、銭を渡して向こうに渡り、荒磯の細道を行くと羽田の森で、弁才天の祠があった。実は、嘉陵がここに来たのは始めてではない。最初は、安永三年(1774)頃、今は亡き父に連れられて来たのである。その時は、蓮乗院様御用人の高橋太兵衛の建てた社があり、貫を多く用いた掘立式で、床下は3mほどあって梯子で上がるようになっていた。文化七、八年(1810,11)に舟で通りかかった時には、緋の垣根があり社も赤く塗られていた。ところが、この日、来てみると、石垣を高く造り、その上に拝殿と土蔵造りの本社が建てられていて、朱の玉垣も全て取り払われ、欅の白木造りになっていた。建てたのは、酒問屋の小西九兵衛だという。周辺には石の鳥居や灯籠、僧の居る房や常夜灯があり、宇賀神の祠もあった。鳥居の傍らには蛤を蒸して食べさせる店も出来ていた。江戸名所図会の「羽田弁財天社」にも描かれている店である。嘉陵は、この店で蛤を食べ、まことに美味と褒めている。沖の洲で獲れる蛤は、この店でしか食べられないということであった。当時の羽田弁財天の位置は現羽田空港内に当たるが、現在は移転させられて、堤防下(大田区羽田6)に鎮座し、名称も玉川弁天になっている。ところで、この辺りで良く知られた神社といえば穴守稲荷神社だが、この稲荷も羽田空港内から現在地(大田区羽田5)に移転させられている。もっとも、この稲荷が繁盛したのは明治以降で、江戸時代は個人の祠に過ぎなかったという。穴守稲荷の縁起によると文政二年の創建とされているので、嘉陵が訪れた時には、穴守稲荷は無かったかも知れない。
蛤を売る店の主人は鈴木五郎左衛門と云い、舟を四隻所有していた。その舟を操る男が居たので、嘉陵は銭を渡して舟に乗り、大師河原の渡しに着けている。そこから堀切に沿って平間寺(川崎大師。川崎市大師町。写真)の門前に出る。しばらく茶店で休み、開帳を待って内陣に入り尊像を拝む。そのあと、厄除けの符をたくさん買って、午後4時少し前に出発。石観音の道標を過ぎて六郷の渡しを渡り、周知の道である東海道を歩いて午後5時頃に八山に着く。ここで舟に乗り、午後6時には永代橋の上がり場に着いている。この日、ものを食べたのは羽田の蛤の店と、大森の山本という茶漬け飯屋だけであった。その他の店は不潔で高価であったが、平間寺前の茶店はことのほか高かったという。舟賃は、大森までが六百文、八山からが百五十文であった。羽田で食べた蛤と酒代が三人で三百文、そのほか数十銭を使ったと書いている。この日は、往復に舟を利用しているので、歩いた距離は25km程度であったろう。
蛤を売る店の主人は鈴木五郎左衛門と云い、舟を四隻所有していた。その舟を操る男が居たので、嘉陵は銭を渡して舟に乗り、大師河原の渡しに着けている。そこから堀切に沿って平間寺(川崎大師。川崎市大師町。写真)の門前に出る。しばらく茶店で休み、開帳を待って内陣に入り尊像を拝む。そのあと、厄除けの符をたくさん買って、午後4時少し前に出発。石観音の道標を過ぎて六郷の渡しを渡り、周知の道である東海道を歩いて午後5時頃に八山に着く。ここで舟に乗り、午後6時には永代橋の上がり場に着いている。この日、ものを食べたのは羽田の蛤の店と、大森の山本という茶漬け飯屋だけであった。その他の店は不潔で高価であったが、平間寺前の茶店はことのほか高かったという。舟賃は、大森までが六百文、八山からが百五十文であった。羽田で食べた蛤と酒代が三人で三百文、そのほか数十銭を使ったと書いている。この日は、往復に舟を利用しているので、歩いた距離は25km程度であったろう。