文政九年四月二十八日(1826年6月3日)、堀の内の妙法寺(杉並区堀ノ内3)に詣でてから、門前の道を南に行き、八幡宮の大門の通りに出る。道の出口の北側に古い墓があり、傍らに石地蔵が二体あった。誰の墓かは伝えられていないということであったが、文字が記されていない事から、嘉陵は鎌倉初期のものと推定している。嘉陵が残した墓石の図からすると、杉並区指定文化財で南北朝時代のものと推定されている旧大宮寺宝篋印塔(大宮寺は大宮八幡の別当寺)が、この墓石に該当するかも知れない(未確認)。ここから、500mほどで八幡宮の惣門に着くが、ここに鞍掛の松(図)という大樹があった。源義家が鞍を掛けたという伝説の松である。八幡宮の松は、寛永寺の根本中堂(幕末に焼失)を造営する際に伐採されたため、松の大樹で残っているのは、鞍掛松のほかは、東にある一本松(現在は枯死)と、惣門内の林の中にある松だけだと記している。なお、初代の鞍掛松は既に枯れ、現在は、代替わりの松が商店街の中に聳えている。
大宮八幡(杉並区大宮2)の本社の正面には額があり、それには、金地に松の梢に白鷹のとまった絵が描かれていた。この額には慶安三年七月十五日とあったが、奉納者の名前は消されていた。人の話では、額を奉納した由井正雪が謀反人になってしまったため、名前を消したということであった。本来は額ごと取り外すべきだが、別当が惜しんで残したのだろうと、嘉陵は書いている。なお、額は非公開ながら、現在も神社に保存されているとのことである。
大宮八幡には弓術の額も掛っていたが、その中に文政の始めに奉納された片見流の額があった。片見流は近頃一派を立て、浅草観音に南蛮兜を弓矢で射ぬいたものを奉納しているが、神田明神にも大沼優之助と弟子が射ぬいた南蛮兜が奉納されており、あまり自慢にならないと嘉陵は考えていたようである。また、これに関連して、筋兜も薄い板金を使っているものは貫き易いが、この事を知った上で奉納したのかとも述べている。これに加えて、日置流七派の弓術について、極めればどの派も同じで、一派を立てるには及ばないと断じ、森川貞兵衛の大和流については、人を勧誘するために流派を起こしたのではないかとの疑問を呈し、況や片見流においては、森川の流派にも劣ると述べている。嘉陵は広敷用人として、庶務的な雑務をこなしていたと思われ、また、私的には文墨に親しむ文人的側面を持ってはいたが、武士である事には変わりはなく、武術や武具に関しても、一家言持っていたのであろう。
天保五年二月に嘉陵は、筋兜に関して、次のような事を追記している。
「文政の末に、三宅土佐守が、所持していた古い筋兜を木刀で試し打ちさせたところ、一太刀で細い鋲が飛び散って天辺がくだけ、二太刀目で兜の半ばまで鋲が抜け落ちた。筋兜は堅固ではなく、鉄の薄い場合は特にそうだという事を、大抵の人は知らない」
大宮八幡(杉並区大宮2)の本社の正面には額があり、それには、金地に松の梢に白鷹のとまった絵が描かれていた。この額には慶安三年七月十五日とあったが、奉納者の名前は消されていた。人の話では、額を奉納した由井正雪が謀反人になってしまったため、名前を消したということであった。本来は額ごと取り外すべきだが、別当が惜しんで残したのだろうと、嘉陵は書いている。なお、額は非公開ながら、現在も神社に保存されているとのことである。
大宮八幡には弓術の額も掛っていたが、その中に文政の始めに奉納された片見流の額があった。片見流は近頃一派を立て、浅草観音に南蛮兜を弓矢で射ぬいたものを奉納しているが、神田明神にも大沼優之助と弟子が射ぬいた南蛮兜が奉納されており、あまり自慢にならないと嘉陵は考えていたようである。また、これに関連して、筋兜も薄い板金を使っているものは貫き易いが、この事を知った上で奉納したのかとも述べている。これに加えて、日置流七派の弓術について、極めればどの派も同じで、一派を立てるには及ばないと断じ、森川貞兵衛の大和流については、人を勧誘するために流派を起こしたのではないかとの疑問を呈し、況や片見流においては、森川の流派にも劣ると述べている。嘉陵は広敷用人として、庶務的な雑務をこなしていたと思われ、また、私的には文墨に親しむ文人的側面を持ってはいたが、武士である事には変わりはなく、武術や武具に関しても、一家言持っていたのであろう。
天保五年二月に嘉陵は、筋兜に関して、次のような事を追記している。
「文政の末に、三宅土佐守が、所持していた古い筋兜を木刀で試し打ちさせたところ、一太刀で細い鋲が飛び散って天辺がくだけ、二太刀目で兜の半ばまで鋲が抜け落ちた。筋兜は堅固ではなく、鉄の薄い場合は特にそうだという事を、大抵の人は知らない」