夢七雑録

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33.岡の秋風

2009-05-23 11:14:51 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政八年七月十五日(1825年8月28日)、今日明日と盂蘭盆会で、御殿の飛騨の匠も出仕せず、朝から暇だったので、嘉陵は寺詣に出掛けている。その途中、仙台坂(港区元麻布1)の上にある茶屋で休んでいるが、昔、この付近で起きた、大名伊達美作守と旗本岡八郎兵衛との争いについて、以前から関心があったのか、わざわざ取り上げて、この一件についての経緯を書いている。「徳川実紀」による事件の概要は次のようなものである。

 「徳川実紀」の元禄十二年九月二十六日の記事は、この日、伊達美作守村和が逼塞(謹慎処分)となり、小姓組番士岡八郎兵衛孝常が小普請入り(実質的な免職)、逼塞(謹慎処分)となったとし、その経緯を次のように記している。

 元禄十二年九月九日、岡八郎兵衛が登城の途中、伊達美作守の行列と行き合ったが、八郎兵衛が行列を横切ったとして、美作守の従者が駆けつけ八郎兵衛に組みついた。八郎兵衛が刀を抜いて討ち払おうとしたところ、後から五六人が駆け集まり、刀を奪ってしまった。美作守はその事を知らなかったのか、駕籠を早めて自邸に急ぎ帰り、狼藉した従者も八郎兵衛を捨ておいて、主人の後を追った。八郎兵衛は大いに怒り、槍を持って屋敷まで駕籠を追いかけた。美作守の家人は慌てふためき大騒ぎとなったため、八郎兵衛は目付あてに事の次第を報告させた。そこで、番頭や目付が美作守の屋敷に行き、八郎兵衛をなだめて帰した。その後、裁決があり、美作守の従者の挙動に問題ありとして、従者三人については美作守屋敷において処刑し、美作守も処理の仕方が良くないとして逼塞処分となり、八郎兵衛も美作守の行列を突っ切ったとして、小普請入りとし、逼塞を命ぜられた。

 茶屋を出た嘉陵は、このあと麻布四の橋の西福寺(港区南麻布2)に詣でている。森銑三の「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」によると、西福寺は村尾家の墓所であったらしい。つまり、嘉陵は先祖の墓参りに西福寺を訪れたのだろう。そのあと、まだ日が高いので、渋谷川を渡って爺が茶屋を通り、目黒不動に向かっている。爺が茶屋は、家光を始め将軍が度々立ち寄ったという茶屋である。茶屋の名は一軒茶屋・彦四郎であったが、実際には、爺が茶屋と婆が茶屋の二軒あったという。確かに、広重の名所江戸百景「目黒爺々が茶屋」を見ると、茶屋が二軒あるようにも見える。現在、茶屋の跡地(目黒区三田3)付近に、説明板が置かれているが、当然のことながら往時の面影は無い。

 道を下って少し行くと目黒不動(写真。目黒区下目黒3)である。昔は、目黒の不動尊、雑司ケ谷の鬼子母神、浅草寺の三か所を江戸の三拝所と言い、何れ劣らぬ活況を見せていたが、今は目黒と雑司ヶ谷は寂しくなってきているようだと、嘉陵は書いている。浅草観音の賽銭も、宝暦や明和の頃には、月々、かます20袋もあって金や銀も混じっていたのが、天明になると10袋に足らないこともあった。まして、目黒や雑司ヶ谷ではその十分の一が相場だろうという。この日は、明日の斎日に備えて全ての末社が扉を開けていたので、嘉陵は仏像を拝観して回っている。目黒には甘薯先生(青木昆陽)の墓があるが、今回は詣でるのは止めて、祐天寺(目黒区中目黒5)に向う。この寺は明日が千部経の始めということで、準備を進めており、周辺には仮茶屋が並んで、明日を待っていたという。

 ここから田圃の中の道を北に行くと、目切り坂(目黒区若葉台1)を上がった先に二つの富士がある。そのうち東の峯(新富士)の麓には蕎麦を売る店があった。最近、近藤十蔵(近藤重蔵守重)が戻ったと聞いていたので、垣根を作っている男に聞いたところ、時々ここにも来るという。今はすっかり貧しくなったが、相変わらず喧しいという事であった。近藤重蔵は、蝦夷地探検家として知られる人物だが、性格が災いして文政二年に書物奉行から大坂御弓奉行に転出。さらに文政四年には、その職も解かれて謹慎を命ぜられていたのである。新富士は重蔵の屋敷内に築いたものだが、標柱に置かれていた鶴の造り物は、落ちて無くなっていた。千年不死鳥を願ったのだろうが、それも虚しかったわけで、児戯に等しい事と嘉陵は書いている。

 まだ日が暮れぬうちに、嘉陵は青山百人町(港区南青山3、北青山3)を通り過ぎるが、近辺の同心の家々で、高灯籠を掲げているのを見る。長い竿を数本つないで、樅や杉の梢に結び付け、細い糸で灯籠や提灯を吊り下げるようにしたものである。盆会の時に、日光の御宮に奉納する気持ちで掲げていたものだが、今も、上意を受けて続けているという事であった。この日、家に帰り着いたのは、午後6時頃であった。