目白駅に近い豊島区目白3丁目に、天保の頃、感応寺という大寺があった。その寺は、本堂の入仏供養をしてから僅か5年にして突然、廃寺を命ぜられ、跡形もなく取り壊されて姿を消した。今回、歴史メモ帳として取り上げるのは、この感応寺である。
(1)感応寺の再興
谷中の天王寺は、もと感応寺と称し、日蓮宗の不受不施派に属していたが、幕府に咎められて天台宗に改宗させられた。元禄11年(1698)のことである。日蓮宗では、名刹の感応寺の日蓮宗への復帰を願っていたが、果たせずにいた。ところが、天保4年(1833)になって、本門寺から出されていた日蓮宗への復帰願いが聞き届けられることになった。ただ、寛永寺の意向もあって、谷中の感応寺は天王寺と改称してそのまま残し、感応寺は別の土地に再興することになった。感応寺の再興が認められた背景には、日蓮宗・中山智泉院の僧日啓の実子(妹とする説もある)で、時の将軍家斉に寵愛された側室、お美代の方の関与があったとされる。
天保5年、再興する感応寺の敷地として、磐城平藩安藤対馬守の下屋敷跡地、28,642坪をあてる事が決められた。その敷地は、“大江戸の尻尾のあたり鼠山”と川柳に詠まれた、江戸の場末の、そのまた外れの鼠山に隣接していたため、“鼠が大寺を引いてきた”と、評判になったという。鼠山感応寺の建立から廃寺に至るまでの経緯は、雑司ヶ谷村の名主から転じて鼠山感応寺の寺務を担当した戸張平次左衛門が、「櫨楓」という資料にまとめており、今回は、これを主な資料として用いている。
天保6年、感応寺に対して、乗輿と白書院での独礼が許されるという破格の寺格が与えられている。また、長耀山という山号も認められている。感応寺の伽藍のうち、本堂にあたる祖師堂のみ幕府が建立し、それ以外の堂宇は池上本門寺が建立する事になり、その費用をまかなうための勧化すなわち寄付金集めも許可されている。感応寺住職は、本門寺貫主の日満が当面兼ねることも承認されている。この年の8月、本堂の地所の地形を整えるため千本突きが行われたが、この時の事が、「櫨楓」「巷街贅説」「寝ぬ夜のすさび」「天保雑記」「事々録」に記されている。その様子は、江戸近在の信者が老いも若きも着飾って集まり、本丸・一橋家・加賀家からの奥女中も多数加わって、揃いの手拭、揃いの着物で徒党を組み、土を掘り或いは運び、飯や茶を施す者もあり、幟に所の名を書いて押し立て、やかましく騒ぎ、見物人も多数いて、前代未聞の事であったという。
(2)感応寺の建設
天保7年(1836)、幕府の作事方により感応寺本堂の建設が始まり、12月には完成を見る。作事方には大棟梁として甲良、平内、鶴の三家があるが、「櫨楓」に記された棟札から、今回は平内家の平内安房斉部廷臣が、大棟梁を務めたことが分る。平内廷臣は、もとの姓を福田と言い、長谷川寛門下の和算家であったが、平内家の養子となり大棟梁となる。平内廷臣は伝統的な大工技術の奥義とされた規矩術を理論的に解明し書物として公開した人物である。
「櫨楓」は、感応寺本堂の規模を、縁を除いて7間四面と記しているが、資料によって、記載されている規模は異なっている。「論考・鼠山感応寺本堂の姿を探る」では感応寺本堂の規模を7間四面として、感応寺本堂復元図も載せている。寺社建築の場合は、柱と柱の間隔を1間とする慣習があり、1間は必ずしも6尺ではないため分かりにくいが、縁を除いて、おおよそ20数m四方の規模になる。
感応寺本堂が完成したことにより、天保7年12月、本門寺に奉安されていた日蓮聖人尊像が、感応寺に運ばれ入仏供養が行われた。この時の引っ越しの行列について、「瓦版」は絵入りで伝えている。道筋は、池上より下宿本芝二丁目栄門寺、金杉橋、新橋、京橋、日本橋通り、昌平橋、お茶の水、小日向筋、音羽9丁目、目白通り、感応寺で、御先触れは新曽妙顕寺、御供は本門寺の前貫主日教と当貫主日満、それと経王寺、長遠寺、江戸五ケ町ほかの総講中であった。
本堂の完成に引き続き、他の堂宇の建設が本門寺により進められる。天保8年、将軍家斉は将軍職を家慶に譲って自らは大御所となる。天保9年、開堂供養が行われ、もと中延法蓮寺の住職であった日詮が、日満の名代を勤めるが、その後、日詮は日満に代わって感応寺の住職に就任する。天保10年、感応寺でお会式が行われ、「東都歳時記」にも取り上げられている。天保11年、この年は特に、徳川家、大奥、大名家からの参詣が多かった年である。天保12年1月、前将軍家斉が亡くなっている。
天保12年10月頃の感応寺の境内の様子を、「櫨楓」により記すと、本堂①と東側の惣門④との間に敷石が敷かれ、敷石の傍らに鼓楼③、その後ろに客殿と庫裏と居間②が建てられていた。南門近くには源性院⑥、その東側には大乗院⑦が建ち、境内のあちこちに千本松と千本桜が植えられていた。境内西側の池⑧の近くには、弁天社と一如庵があった。本堂の北側では鐘の鋳造が始まっており、翌年の3月に鐘供養を行う手筈になっていた。また、千川上水から分水して池に水を引くことになり、総延長1960間余の堀を造る予定であった。山門と五重塔については、その次の年に建設を開始する事を計画していた。
(3)感応寺の廃寺
天保12年の10月、本門寺の貫主は寺社奉行に呼び出され、感応寺の廃寺を申し渡されている。青天の霹靂のような出来事であった。廃寺の申し渡しは、本門寺経由で感応寺に伝えられているが、その時の文書が「藤岡屋日記」と「天保雑記」に掲載されている。その文書によると、感応寺住職は別段御構い無く、一宗の内の相応の寺院で住職をするのは勝手次第としている。「藤岡屋日記」によると、日蓮宗の多くの寺院で捕縛者があり、中山智泉院の僧の日啓と日尚が遠島と晒しを、堀之内妙法寺の住職も遠島を命ぜられたという。しかし、感応寺住職は何のお咎めもなかった。
感応寺の廃寺については、川路聖謨の「遊芸園随筆」にも記されており、中山智泉院の当住と先住(日尚と日啓)が女犯の罪で遠島になったとしているが、感応寺住職については何も述べていない。斎藤彦麿は「神代余波」に、山門も出来ぬうちに破却が命じられ、跡形もなく取り壊されたのは夢の中の夢のようだ、と記している。片山賢は「寝ぬ夜のすさび」の中で、大御所の思し召しで建立されたものを、他界されるとすぐに廃寺にしたのは如何なる事か、お上のする事は分からないと述べるとともに、近頃の法華宗の行いが甚だしい事をあげ、感応寺が廃寺になったのもあり得ることだと書いている。喜多村香城は「五月雨草子」に、前将軍家斉が菩提のために建立したものを、他界してすぐ取り壊したのは、道にそむくと書き、水野忠邦に対する批判を記している。「櫨楓」は、住職の日詮について、道念堅固なること鉄の如く、いささかも不律不如法の事なく、明書経巻を読誦する外、世の楽を知らずと記し、この寺の住職として堂舎を壊すという前代未聞の珍事に逢ったとしている。また、将軍が代替わりとなって、改革の手始めに廃地となるのは、時のしからしむる所で、是非を論ずるには及ばないと記している。これらの資料を見る限り、法華宗(日蓮宗)の中に問題があったにせよ、当時の感応寺に、いかがわしい風評があったとは思えない。
大谷木醇堂の「燈前一睡夢」には、感応寺についての、いかがわしい話が記載されている。感応寺が廃寺になった頃、醇堂はまだ幼児だったので、ずっと後になって祖父から話を聞き、明治25年になって書きつけたのが、その話という事になる。その内容だが、中山智泉院の僧と感応寺の住職を取り違えている上に、話の中身も、うわさ話の類に過ぎないものである。当時、将軍の寵愛を受けていた側室のお美代の方の縁で、日蓮宗が勢力を拡大していたが、その専横ぶりに対する反発もあったらしい。恐らく、流言飛語の類もあったのだろう。「燈前一睡夢」は、後になって、三田村鳶魚によって取り上げられ、世間に知られるようになる。この種の話を好む人が居り、また、面白い話は記憶に残りやすいから、風評が事実を駆逐してしまう事になったのか、感応寺には、いかがわしい風評が付いて回ることになる。
感応寺の廃寺については、思し召しとだけあって理由は知らされていない。真実は闇の中だが、当時、天保の改革を推し進めようとしていた老中水野忠邦にとっては、前将軍家斉のもとで権勢をふるっていた家斉の側近たちや側室のお美代の方の影響力を、何としても排除する必要があったのだろう。お美代の方の息のかかった感応寺について、住職の罪を問えないまでも、廃寺にすべしと考えたのは、不思議ではない。ただ、多岐にわたる天保の改革については、思ったようには進まなかったようである。結果として、改革は失敗に終わり、水野忠邦も罷免されている。
感応寺の廃寺の後、すべての堂宇は取り壊され、一木一草に至るまで撤去されてしまっている。堂宇のうち一部は移設されているが、本堂の古材はしばらく保管された後、身延山の祖師堂を再建する際に使用されている。感応寺の跡地のうち東南側には、浅草の花川戸にあった小出伊勢守の屋敷が移され、小出伊勢守の屋敷跡には境町や葺屋町の芝居小屋が移転させられている。また、感応寺跡の西側は旗本の小屋敷の地となり、北東側には江戸市中に住んでいた巫女や修験などが移住させられている。なお、感応寺の跡地のうち三か所について、豊島区により試掘調査が行われたが、感応寺のものと確認されたものはなかったようである。
(4)感応寺跡周辺散歩
感応寺が廃寺にならなければ、鬼子母神付近から感応寺まで町続きになっていただろうという話もある。鬼子母神から感応寺に直接出る江戸時代の道は、鉄道により分断されてしまったが、それに近い道を歩いて、感応寺跡の周辺をめぐってみよう。鬼子母神から北に行くと、桜の名所でもある法明寺の前に出る。その前の道を左に行くと明治通りに出る。歩道橋を渡り、すぐ南の道を西に入って進んで行くと西武線のガードに出る。昔は、ガードを潜って開かずの踏切でJRを渡っていたが、今は踏切が閉鎖されているので、ガードの手前を左に行き、JRの上を歩道橋で渡り、右に折れてガードを潜り、線路の北側を西に向かう。次の踏切で左に行くと、目白庭園がある。
園内でちょっと休憩したあと、目白庭園の北側の道を西に向かう。少し先でT字路になるが、南北に通じる道は感応寺の東側の境界の道に相当している。ここを左に行く。そのまま歩いて行くと目白通りに出るが、そのすぐ手前を右に入る道が、感応寺の南側の境界の道になっている。この道を進んで行くと、左手に目白の森の看板がある。この辺りの右側が感応寺の西端に当たる場所である。
左手の道に入り、少し先の目白の森に行く。ここは、鼠山の東の端に当たっている。もとに戻って、感応寺の西端に当たる場所から、感応寺の北側の境に相当する、細い道に入る。しばらく道なりに進んで行くと、その先で、道は線路で行き止まりになる。その手前の道を右に折れると、少し先に徳川黎明会の建物がある。この辺の右手が本堂跡になるだろうか。さらに南に進むと目白通りで、左へ行けば目白駅に出る。
(注)今回、次の資料を参考としました。「櫨楓(「新編若葉の梢」所収)」「豊島区史資料編3」「東京市史稿・市街篇37、38、39」「鼠山感応寺展図録」「雑司ヶ谷風土記」「三田村鳶魚全集1、3」「藤岡屋日記」「一夜で消えた大寺の謎」