712年に古事記が編纂されて、今年で1300年ということで、各地でイベントが開催されるという。そこで今回は、古事記のオトタチバナヒメの伝説の地について取り上げることにした。古事記は、3巻からなり、上巻は天地の始まりから神武天皇誕生までの神話を、中巻は神武天皇から応神天皇までを、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの事績を扱っているが、そのうちの中巻のハイライトが、ヤマトタケルとオトタチバナヒメの物語である。
(1)オトタチバナヒメの物語
古事記による物語の概略を次に示す。なお、720年に完成し正史とされた日本書紀も同様の内容を伝えているが、オトタチバナヒメをオシヤマノスクネの娘とする古事記に無い記述がある一方、古事記の記述のうち、畳を敷いた上に身を置いた事、オトタチバナヒメの歌、流れ着いた櫛を陵に収めた事は、日本書紀に記載が無い。
「ヤマトタケルが走水の海を船で渡ったとき、海神が荒波を起こしたため、先へ進めなくなった。そこで、オトタチバナヒメが海神をなだめるため身代りになると言い、菅の畳を八枚、皮の畳を八枚、絹の畳を八枚、波の上に敷き、その上に身を置いて波間に沈んだ。すると、波も穏やかになり、船は楽々と進むようになった。この時、オトタチバナヒメがうたった歌が、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問いし君はも」である。それから七日ほど経って、オトタチバナヒメが身につけていた櫛が海岸に流れ着いた。そこで形見の櫛を取り上げて陵を造ってその中におさめた」
(2)都内のオトタチバナヒメの伝説地
①「寄木神社」(品川区東品川1-35)
旧東海道を進み、目黒川にかかる品川橋から東に向かい、洲崎橋から北に行くと、住宅地の中に寄木神社がある。本殿は土蔵造りで、扉内側に描かれた伊豆の長八の鏝絵で知られている。寄木神社の由緒では、オトタチバナヒメが入水されたのち、船木などが流れ寄ったことから、此処に神霊を勧請したとしている。また、源義家が奥州征伐の折に、その話を聞いて祈願し、平定後の帰路に兜を奉納したとしている。
寄木神社は江戸時代に刊行された江戸名所図会にも取り上げられており、次のような内容が記されている。ヤマトタケルとオトタチバナヒメが乗った船が転覆して、その船材が所々の浦に漂着し、この地にも流れついたので、オトタチバナヒメの霊を祭って寄木神社と号した。遥か後に、船魂・西宮大神を合殿とした。源義家が帰路に当社を詣でた時に兜を収めたので、この地を兜島と呼ぶようになった。往古は一面の洲であったが、後に目黒川の流れにより洲が二つに分かれた。その頃に、兜の紐を神体とする社と、洲の崎明神の二社に分けた。洲の崎明神は諏訪明神と名を変えて天妙国寺の鎮守となった。紐島の名は、兜の紐からついたとも、オトタチバナヒメの衣の紐が流れ着いたためとも、細長く海中に突き出した洲の形が紐に似ていたからともいう。なお、当社のほかに寄木の社と称するものが、品川から川崎の間にもあって、同じ様な由緒を伝えているとしている。
寄木とは流木のことをいい、寄木神社と号する神社は全国各地にある。それらの寄木神社は、仏像漂着の伝説を持っていたり、漂着物を御神体としたり、流木で社殿を建てたりしており、漂着物と関連がある神社のようである。
②「亀戸浅間神社」(江東区亀戸9-15)
東大島駅で下車し大島八の交差点を北に行き、首都高の下を潜ってその先を右に行くと亀戸浅間神社に出る。この神社については、当ブログの「あの町この町」でも取り上げている。亀戸浅間神社の沿革によれば、この辺り、高貝洲はオトタチバナヒメの笄が漂着した地であり、景行天皇が笄を埋め、祠を立てて祭ったとされる。その場所、笄塚の上に創立されたのが浅間神社で、造営時期は1527年とも近世初期とも言われている。現在の社殿は昭和9年の建築で、もとは富士塚(笄塚の跡)の上にあったが、都の防災再開発事業に伴って、現在地に移されている。現在の富士塚跡は上面が切られて低くなっているが、発掘調査の結果、もとは高さ3m直径20mの塚であったことが判明している。東都歳時記には、江戸で造られた富士が列挙されているが、その中で本所六つ目・亀戸普門院持ちと記されているのが、この富士塚であり、境内には富士講奉納の水盤も残されているので、江戸時代には、この神社が富士信仰の一つとして参詣されていた事は確かである。しかし、オトタチバナヒメの史跡として認識されていたかどうかは分からない。亀戸浅間神社は幕末から明治にかけて衰退していたようだが、たのみの辞碑という明治33年の石碑に、「此浅間山は橘媛の笄の漂着せしとか語りつきて笄洲とは云う 星移り歳かさなりて漸くあ(荒)れしを、心あへる人々相協り宮を潔め山を繕ひぬれは云々」とあるので、明治の終わり頃から、オトタチバナヒメの伝説の地として知られるようになったのかも知れない。
③「吾嬬神社」(墨田区立花1-1)
亀戸駅で下車して明治通りを北に行き、北十間川を渡ってすぐ右に行くと吾嬬神社に出る。吾嬬神社の創建は、1200年とも、1219年とも、1532年頃とも言われ、鈴木、遠山、井出の三氏により造営されたと伝えられている。この辺りは吾嬬森または浮洲森と呼ばれていた微高地で、塚から土器も発掘されている。吾嬬森は二つの幹からなる連理の樟で知られ、広重も名所江戸百景の一つとして取り上げている。ヤマトタケルの箸から生じたという伝説を持つ、その樟も、今は枯れて、吾嬬神社の境内に枯れてしまった幹と根を残すのみである。
吾嬬神社の境内には、幕府の専横を非難したため、死罪に処せられた山県大弐が、1766年に建てた下総国葛飾郡吾嬬森碑がある。吾嬬森のある隅田川の東側はもともと下総国に属していたが、幕府により武蔵国に編入されていたにもかかわらず、吾嬬森を下総国葛飾郡と記したのは意図的と思われても仕方ないが、石碑が残っているところを見ると、石碑自体はお咎め無しという事になったのだろう。この石碑の碑文だが、日本書紀をもとにして、オトタチバナヒメの入水や、ヤマトタケルが吾妻はやと嘆いた事を述べ、その後、海沿いに多く建てられた祠の一つが吾嬬森にあり、オトタチバナヒメの墓と言い伝えていると記している。江戸時代の社記によると、オトタチバナヒメの御裳がこの辺の海上に浮かんだので、群臣に命じてこの所に収め、壇を築かせ玉垣を巡らせて廟としたとある。新編武蔵風土記稿には、オトタチバナヒメとともに海中に沈んだ鏡を、白狐神により取り戻し、その鏡を御神体とし、十一面観音を本地とする吾妻権現として祭ったとする縁起が記されている。江戸砂子に記載されている話もこれと同様な話だが、さらに荒唐無稽な縁起になっている。
(3)各地のオトタチバナヒメの伝説地
都内以外の各地のオトタチバナヒメの伝説地を次に示すが、他にもあるかも知れない。
①「橘樹神社」(千葉県茂原市本納):延喜式神名帳に上総国長柄郡の小社、橘神社と記されている神社に該当し、上総国二ノ宮の古社である。由緒では、ヤマトタケルが陵を造りオトタチバナヒメの櫛を納め、橘を植えたとする。もとは拝殿のみが存在し、背後の墳丘を拝礼する形になっていたという。1800年に本殿を建てるため墳丘を削ったところ、壺が出てきたので埋め戻したという話もある。
②「吾妻神社」(千葉県木更津市吾妻2-7):漂着したオトタチバナヒメの衣の袖を納めるために創建された神社という。江戸名所図会では、上総国の君不去(木更津)の吾妻明神(吾妻神社)を、遺骸が漂着したため廟を造った場所としている。なお、オトタチバナヒメ伝説にかかわる君不去から木更津や君津の地名が生まれたとする地名由来説がある。また、袖が漂着したので袖ヶ浦と呼んだという説もある。
③「吾妻神社」(千葉県富津市西大和田):オトタチバナヒメの遺品(櫛)をまつる。漂着した遺品を馬が咥えて駆け上がったという伝説があり、馬だし神事が行われている。ただし、馬だしは江戸時代に始まる行事で、周辺各地で行われていたともいう。オトタチバナヒメの布が流れ着いたので富津(布流津)と称したという説もある。
④「島穴神社」(千葉県市原市島野):延喜式神名帳に記載される古社で、オトタチバナヒメが龍田大社の風神に、上総国に無事到着するよう祈ったことから、ヤマトタケルがその遺志をつぎ、風神を祭ったという由緒がある。
⑤「みさざき島」(千葉県安房郡鋸南町):オトタチバナヒメの遺骸が漂着したので、埋葬したという伝説がある。
⑥「橘樹神社」(神奈川県川崎市高津区子母口):郡の名を伝える古社で、流れ着いたオトタチバナヒメの衣や冠を祭ったと伝える。新編武蔵風土記稿には子母口村の立花社として掲載されているが、由緒の記載はない。近くの富士見台古墳をオトタチバナヒメの廟とする説もあるが、6世紀ごろの有力豪族の方墳とする説も出されている。
⑦「走水神社」(神奈川県):走水神社の由緒によると、ヤマトタケルから授かった冠を村人が石棺に収めて埋め、その上に建てたのがこの神社であるという。また、旗山崎にあった橘神社は、漂着したオトタチバナヒメの櫛を納めたという由緒があったが、神社の場所が軍の敷地となったため、走水神社に合祀したという。新編相模国風土記稿には、ヤマトタケル東征時の御所があったという御所ケ崎、その背後の山で旗を立てたという旗山、ヤマトタケルが乗船した皇島、オトタチバナヒメの従女が身を投げた姥島のむぐりの鼻を、土地の通称として記している。同書は、走水権現(走水神社)について、ご神体を石櫃に収めたと記している。何が起きたのか、気になる内容である。また、相模国風土記残本の、ヤマトタケル東征時に官軍が疾病により死亡したので葬ったとする記録についても取り上げている。なお、橘神社については記載が無い。
⑧「吾妻神社」(神奈川県中郡二宮町):由緒によると、オトタチバナヒメの櫛が漂着したので埋めて陵を作ったとし、その地を埋沢(梅沢)と呼んだとする。また、小袖が磯に漂っていたので山頂に祭ったとし、その海岸を袖ヶ浦と呼んだとする。ご神体のオトタチバナヒメ神像は千手観音で等覚院に安置しているとしている。江戸名所図会では、櫛が漂着したので陵を作ったが、その場所は、相模国の梅沢の吾妻神社としている。新編相模国風土記稿は、吾妻神社の社伝として、ヤマトタケルの東征時にオトタチバナヒメが身を投じて風浪を鎮め、その七日後に渚に流れ着いた櫛を収めたという説と、衣を埋めたという説があるとし、本地仏の千手観音を御神体と記している。また、梅沢について昔は埋沢と書いたとし、衣を埋めたので埋沢になったという、この土地の言い伝えを記しているが、同書では出鱈目な話としている。
(4)オトタチバナヒメの物語の謎①
720年頃に成立した常陸国風土記に、倭武の天皇が倭より下ってきた后の大橘ひめと会ったという記述がある。また、倭武の天皇と橘の皇后が、海の幸と山の幸を競った事も記されている。
倭武をヤマトタケルと読むと、天皇という表記が気になる。ヤマトタケルは景行天皇の子とされるが、系図に不自然な点があるので、系図が改ざんされていると考え、ヤマトタケルは天皇として西国と東国を征伐したとする説がある。この説に従えば、常陸国風土記の記述は正しいことになる。ところが、大橘ひめ、橘の皇后とあるのをオトタチバナヒメと解釈すると、ヤマトタケルとオトタチバナヒメが常陸国に滞在していたことになり、オトタチバナヒメが入水したとする日本書紀や古事記の記述と食い違いが生ずる。そうなると困ったことになるので、大橘ひめや橘の皇后は別人だとする説も出されている。常陸国風土記に古老の話として記されている内容は、常陸国が成立する以前の昔の話であり、正しく伝承されていない可能性もある。とは言え、常陸国風土記も公的な文書であり、史料としての価値が劣るわけではない。オトタチバナヒメの感動的な物語が創作であった可能性は、本当にゼロなのだろうか。
(5)オトタチバナヒメの物語の謎②
オトタチバナヒメの同じ様な伝承が、異なる土地に存在しているのは何故なのだろうか。それに、由緒、縁起などというものは、遥か昔の事柄を伝えていると思いたいところだが、果たして千年以上の時を越えて、まともに伝わるものだろうか。古事記の序文にも、諸家の先祖からの伝承が真実と違い、虚偽を加えていると書かれている。天皇の周辺でさえそうなのだから、他は推して知るべし。仮に遠い昔からの伝承が残っていたとしても、原型を留めないほど変容しているのではないか。そうであるとすれば、同じ様な伝承が各地に残る事には、ならないのではないか。
柳田国男は、安徳天皇の旧跡が九州や四国などの各地に存在すること、平家の隠れ谷が南は与那国島から北は出羽に至るまで無数にあることを指摘するとともに、同じような伝説が各地に存在する理由の一つとして、一つの伝説を共有して各地に移り住んだ木地師の事例を取り上げている。この説に従えば、他から伝えられたオトタチバナヒメの物語に、土地の伝承を取り入れ、その土地に合うように整えられた物語が、各々の土地に定着して、現在に至っている。そんな風に考えられないだろうか。
それでは、オトタチバナヒメの物語は、どのようにして伝えられたのだろう。平安時代には、日本書紀が歴史書として読まれていたが、庶民には縁の無いものであったろう。中世に入ると、日本書紀の内容は仏教の影響も受けて改変され、時には荒唐無稽な物語にまで変容し、さらに寺社の縁起や、軍記物、語り物として人々に伝わっていったとされる。その一方で、古事記は一部が引用されただけで、ほとんど読まれないまま推移したという。古事記が人々に読まれるようになったのは、江戸時代の終わりに本居宣長の古事記伝が完成し1820年に刊行されてから後の事だろう。明治に入ると政府は皇民化政策をすすめるため、古事記を重視するようになる。勇敢な少年と献身的な少女の育成をはかるための格好の材料として、国定教科書に採用されたヤマトタケルとオトタチバナヒメの物語は、こうして国民の中に浸透していったのだろう。このような経緯からすると、古事記にのみ記載された櫛を陵に収める話は、江戸時代後期か、明治以降に取り入れられたとも思われるし、また、荒唐無稽な話が取り入れられたのは、中世にまで遡るとも思われる。ただ、そう断定することは出来ない。また、どのようにして日本書紀や古事記の内容が、各地に伝わったのかも分からない。東京湾やその周辺には、難破船からの漂流物、船の板や帆、衣や袖、笄や櫛、遺骸が流れ着く事があり、時には中世の鏡が引き上げられる事もあったと思われるが、それらの伝承が、日本書紀や古事記と混じりあった可能性も無いとは言えない。
オトタチバナヒメについての伝承は、地元にとって重いものであり、信仰に近いものがあるようにも思える。そして、多分、そのような伝承・由緒・縁起は、史実とは別の次元のものなのだろう。現在、オトタチバナヒメの櫛を収めたという陵の場所は分かっていないが、それで良いのかも知れない。