夢七雑録

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26.2 北沢淡島並びに駒ケ原(2)

2009-04-22 22:20:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は帰路に渋谷八幡宮(金王八幡神社。渋谷区渋谷3。写真)に立ち寄っている。嘉陵は、文政二年八月にも渋谷八幡宮を参詣しているが、今回は、「江戸砂子」に記載された城跡を確かめようとしたのだろう。「江戸砂子」の記載内容だが、まず、渋谷金王丸城跡が渋谷八幡の西にあり、馬場、的場、築地の形があると記している。次に、河島荘司次郎(河崎庄司次郎?)の館跡が、八幡の西、堀の内にあって古くは大堀や築地ありとし、荘司次郎が六郷の川崎に移った際、山王社は移したが稲荷社は残したと記す。さらに、妹尾平次左衛門光景の館跡も同じ辺りにあり、築地や馬場の跡が残り、馬を冷やした池や馬繋の榎があると記している。しかし、嘉陵が調べた範囲では、これらの旧跡は見当たらなかったという。嘉陵は、「江戸砂子」の記述について、幾つかの疑問を呈している。その一つは、金王丸は祖先の地に住んでいた筈で、祖先の名ではなく金王丸の名を城に付けるのは、おかしいということ。第二に、金王丸の祖先である渋谷六郎基家が住んだのは相模の渋谷庄で、この場所(現在の渋谷)ではないということである。さらに、根拠は無いがと断りつつ、近くに金王丸物見塚という展望の良い場所があるのに、地勢が良くない堀の内に住むとは思えず、単に馬場や弓場や家屋を設けただけではないか。堀の内という地名も古名ではない、と書いている。嘉陵は、渋谷六郎基家の系図も載せている。その概略を示すと、「高望王―良兼(村岡五郎・平良文)―(略)―将恒(将常)―秩父別当・武基―秩父十郎・武綱―下野権頭・重綱―渋谷六郎・基家―渋谷・河島平三大夫・重家―庄司・重国―高重」である。しかし、この系図には金王丸は含まれていない。

 金王八幡神社の社記によると、秩父武綱が源義家に従い奥州金沢柵を攻略した功により、河崎基家の名を賜り、武蔵国谷盛庄(渋谷、代々木、赤坂などの地域)を与えられ、寛治六年(1092)に八幡宮を創建したのが、金王八幡の創始という。また、基家の子の重家が禁裏を衛っていた時、賊徒を捕らえた功により、堀川院から渋谷の姓を賜ったという。重家がこの八幡宮に祈願して授かったのが金王丸で、源義朝に従って保元の乱で大功をたてたが、主君の死後は渋谷に戻って出家し、土佐坊昌俊と名乗ったと記している。一方、金王八幡別当寺の東福寺に残る鐘銘によると、武蔵の豪族河崎基家が源頼義より賜った谷盛庄に八幡を勧請し、別当寺として親王寺を建てたとし、基家の子の重家が、八幡宮に祈願して金王丸を得、親子渋谷氏を称し、八幡宮を渋谷八幡と号したと伝える。ただし、何れの史料も伝説の域を出ず、史実としての信憑性は薄いとされている。

 社記では金王丸を重家の子とするが、この点については異説もあり、土佐坊昌俊との関係も定かでない。渋谷氏の系図には諸説あるが、一説に、基家は武蔵国河崎を与えられ河崎冠者と称したとする(現在の川崎市に河崎氏館跡という地あり)。河崎氏はその後、相模国渋谷庄を賜るが、基家の孫の重国が渋谷庄司を名乗ったのが、渋谷氏の始まりとされる。また、重国の子が金王丸で、この地に移り住んだという説もあるが、はっきりしない。現在、この八幡宮は金王丸の名声に因んで、金王八幡神社と称しているが、もと渋谷八幡宮と称していた事から、渋谷の地名が起こったともいう。なお、東京都遺跡地図では、金王八幡宮を渋谷城(金王丸城跡)とし、その西側を河崎庄司郎(妹尾氏)館跡としている。


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