文政三年五月八日(1820年6月8日)、嘉陵は駒ケ原と北沢の淡島社を訪れている。その経路だが、青山通りから道玄坂を越えて、旧滝坂道(淡島通り)をたどったと思われる。嘉陵の略図では、青山から渋谷川に下る坂を道玄坂と記しているが、富士見坂(宮益坂)の誤りであろう。この坂を下って渋谷川を渡ると田圃で、ここを過ぎると町屋の続く坂道になる。この坂を一般に道玄坂と呼んでいた。享保17年(1732)に刊行された「江戸砂子」は、道玄坂について、和田義盛の一族である道玄が岩窟に隠れて山賊をしていたという話を載せているが、嘉陵は登戸の辺ならともかく、この辺の話としては疑わしいとして切り捨てている。坂を上ると、世田谷海道(大山道。現在の玉川通り)から右に駒ケ原への道(旧滝坂道)が分かれている。嘉陵の略図とは異なり、やや下っていく道である。嘉陵の略図では、その少し先で十字路に出るが、三田用水沿いの道と交差する場所であろうか。ここから道は急坂を下っていき、田圃を過ぎて坂を上がる。松見坂である。松見坂の名は、道元の一味が物見に使っていた物見松に由来するという。江戸名所図会の「富士見坂一本松」には、富士見坂から道玄坂を越えて、大山道と分かれる滝坂道が描かれているように思えるが、これが正しいとすると、図会の一本松は物見松ということになりそうである。一本松の前の川は駒場野を水源とする空川で、空川沿いに右に行く道は大山道に出る道、空川を渡る道は、松見坂を上がっていく旧滝坂道ということになる。現在の道で旧滝坂道をたどると、道玄坂上交番の信号から右に入り、旧山手通りを越え、その少し先で三田用水の跡を過ぎ、山手通りを越えて、松見坂の下に出る。
松見坂を上がると、道の左手に五万坪の御薬園(跡地は目黒区大橋2)があった。その御用屋敷の前を北に行き田圃を過ぎると駒ケ原(駒場野。跡地は目黒区駒場3)である。駒ケ原は幕府の御狩場であったが、嘉陵によれば、御用地の外に「無用の者入るべからず」と記す制札を立て、用地内の西側に土を盛って御立場を築き、中には木を植えず周囲には松を植えていたという。地元の言い伝えでは、その南にある胴勢山は、頼朝が胴勢(大軍)を置いた所で、北側の土器塚は頼朝が酒を賜った時の土器を埋めた所ということであったが、嘉陵は、これについては疑問だとしている。ところで、江戸名所図会に「駒場野」という図があり、急坂を下った先に、遥か先まで原野が広がっている様子が写されている。しかし、道玄坂の上から駒場野(駒ケ原)方面を眺めた絵とすると、地形とは合わないように思える。むしろ、道玄坂の先の大坂の上から、目黒川を渡って西に向う大山道の周辺と、背景としての丹沢方向の山並みを描いたとする方が、合っているようにみえる。それとも、駒場野の広さを表現するために、誇張した図になっているのだろうか。
駒場野から淡島通りに戻って西に行き、淡島通りが左に折れるのを見送って直進すると、北沢の願心寺(森巌寺。世田谷区代沢3。写真)に出る。嘉陵はその境内にある北沢淡島社を参詣している。社は十年ほど前の失火で焼失し、まだ仮の社頭であったという。本堂の前には銀杏樹の大木が二本あったと記しているが、今に残る銀杏樹であろうか。淡島社は諸病に効能のある灸によって知られ、月の三と八の日を灸の定日としていた。嘉陵が訪れた日は、ちょうど定日に当たっていたため、午後2時頃までに二百人余りの参詣客があったという。寺の前には酒飯を商う店が一軒、近くに同じような店が他にもあり、路地には茶屋も各所に出て多少の銭を得ているようであった。寺僧の金儲けだと言って非難する人もいたようだが、すべてが悪いというべきではなかろうと、嘉陵は書いている。このあと、北沢の総鎮守である八幡宮(北沢八幡神社。世田谷区代沢3)を訪れている。ここに、富士の巻狩りを描いた額があったが、色彩も剥げ落ちて形のみ残っていたと記している。
松見坂を上がると、道の左手に五万坪の御薬園(跡地は目黒区大橋2)があった。その御用屋敷の前を北に行き田圃を過ぎると駒ケ原(駒場野。跡地は目黒区駒場3)である。駒ケ原は幕府の御狩場であったが、嘉陵によれば、御用地の外に「無用の者入るべからず」と記す制札を立て、用地内の西側に土を盛って御立場を築き、中には木を植えず周囲には松を植えていたという。地元の言い伝えでは、その南にある胴勢山は、頼朝が胴勢(大軍)を置いた所で、北側の土器塚は頼朝が酒を賜った時の土器を埋めた所ということであったが、嘉陵は、これについては疑問だとしている。ところで、江戸名所図会に「駒場野」という図があり、急坂を下った先に、遥か先まで原野が広がっている様子が写されている。しかし、道玄坂の上から駒場野(駒ケ原)方面を眺めた絵とすると、地形とは合わないように思える。むしろ、道玄坂の先の大坂の上から、目黒川を渡って西に向う大山道の周辺と、背景としての丹沢方向の山並みを描いたとする方が、合っているようにみえる。それとも、駒場野の広さを表現するために、誇張した図になっているのだろうか。
駒場野から淡島通りに戻って西に行き、淡島通りが左に折れるのを見送って直進すると、北沢の願心寺(森巌寺。世田谷区代沢3。写真)に出る。嘉陵はその境内にある北沢淡島社を参詣している。社は十年ほど前の失火で焼失し、まだ仮の社頭であったという。本堂の前には銀杏樹の大木が二本あったと記しているが、今に残る銀杏樹であろうか。淡島社は諸病に効能のある灸によって知られ、月の三と八の日を灸の定日としていた。嘉陵が訪れた日は、ちょうど定日に当たっていたため、午後2時頃までに二百人余りの参詣客があったという。寺の前には酒飯を商う店が一軒、近くに同じような店が他にもあり、路地には茶屋も各所に出て多少の銭を得ているようであった。寺僧の金儲けだと言って非難する人もいたようだが、すべてが悪いというべきではなかろうと、嘉陵は書いている。このあと、北沢の総鎮守である八幡宮(北沢八幡神社。世田谷区代沢3)を訪れている。ここに、富士の巻狩りを描いた額があったが、色彩も剥げ落ちて形のみ残っていたと記している。