都立武蔵国分寺公園は中央鉄道学園や郵政省宿舎の跡地を整備して2002年に開園した公園で広域避難場所にもなっている。国分寺市立歴史公園は武蔵国分寺の僧寺跡と尼寺跡ならびに東山道武蔵路跡を整備して歴史公園としたもので、場所は分散しており、僧寺跡については今も整備が進行中である。
西国分寺駅の南口を出て左に、武蔵野線のガードをくぐり、府中街道を渡って右に行き、次の交差点を左に入る。道の南側一帯は中央鉄道学園の敷地跡で、道の北側には下河原線が通っていたらしいが、当時の面影らしきものは見当たらない。先に進んで日本芸術高等学園に沿って南に行くと、古代の官道・東山道武蔵路の遺構レプリカを屋外展示している場所に出る。ここは歴史公園の一部にもなっている。屋外展示の先を左に入ると武蔵国分寺公園に行けるが、今回は西側の歩道に移る。この歩道は、中央鉄道学園跡地の市街地整備事業の一環として行った発掘調査で、東山道武蔵路跡が発見された事から、遺跡保存を考慮して整備された歩道で、振り返ると幅12mの古代官道が恋ヶ窪へと向かっていく様子が見て取れる。
東山道武蔵路跡を整備した歩道を、南に向かって進み、国分寺四小入口の交差点を渡る。その先の角を右に入ると、東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)の市立歴史公園がある。国分寺四小が移転した後の発掘調査で東山道武蔵路跡が発見されたため歴史公園としたもので、この公園の南側には、国分寺崖線上から見た古代の想像図が置かれている。国分寺崖線を下った先、東山道武蔵路は南に向かって真っすぐ伸びている。右手、武蔵路の近くには国分尼寺の伽藍が見える。左手には國分僧寺の伽藍があり、その奥には七重塔が聳え、さらに、武蔵国府の町も遥か向こうに見えている。東山道を遥々旅して来た人々にとって、眼下に広がる広大な国分寺の寺域と壮大な伽藍は、まさに武蔵の国の華に見えた事だろう。
国分寺四小入口の交差点まで戻り多喜窪通りを東に、武蔵国分寺公園に向かう。北側の泉地区は円形の広場が敷地の大半を占めている。公園の南側には武蔵の池と称する滝の落ちる池がある。園内にはこの地が鉄道学園だった事に因んで記念碑が置かれている。
眺めの良い人道橋“ふれあい橋”で多喜窪通りを渡って西元地区に行く。この地区の中心となる“こもれび広場”は適度に木が植えられた芝生地で、ピクニック向きである。この地区の南側、国分寺崖線沿いの野鳥の森と呼ばれる樹林の中を歩いて行くと、武蔵国分寺公園と一続きになっている史跡武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)歴史公園に出る。
ここには、国分寺崖線の上で発見された武蔵国分僧寺の北側境界の区画溝が、復元展示されている。溝はここから東に200mほど続き、西側は薬師堂の先まで続いていた。この溝は崖線と平行して設けられていたようである。国分寺崖線上には、国分寺を指導監督する講師院との説もある北方建物跡もあり、国分寺と崖線は一体として認識されていたらしい。
歴史公園から南に下ると湧水地があり、真姿の池と弁財天の祠がある。今も湧水量は多く、汲みに来る人がいるほどだが、飲用可の保証はないらしい。湧水の流れに沿って先に進み、振り返ってみる。紅葉にはまだ早いが、良い雰囲気である。
おたかの道を西に進み、史跡の駅・おたカフェで入園券を求め、おたかの道湧水園に入る。ここは国分寺崖線下地域の歴史公園でもある。とりあえず湧水地の様子を確認し、それから武蔵国分寺跡資料館に入ったあと、七重塔の推定復元模型を見に行く。
おたかの道湧水園を出て、僧寺伽藍中枢部跡に行く。講堂の基壇は整備されているが、金堂の基壇の整備はこれからのようである。金堂跡のすぐ南は中門跡だが、ここも整備される予定なのだろう。ところで、国分寺の伽藍配置は統一されておらず、国によって異なっている。武蔵国分寺では中門から塀をめぐらせて金堂や講堂などを囲み、塔は外に置いているが、中門と金堂を回廊で結ぶ例が一般的で、中には回廊の中に塔を置く国分寺もあったようだ。
僧寺に関しては金堂に限らず今なお整備中の場所があり、全体が歴史公園となるには少々時間がかかりそうである。説明板のイメージ図のような歴史公園の完成が楽しみでもある。中門跡を横目に南に進み、左に折れて七重塔跡へ向かう。その高さ60m。どうやって建てたのだろう。知識、経験が無ければ七重塔の建造は難しそうだが、全国各地からの要請で技術者を派遣していたのだろうか。なお、七重塔建立から70年後に塔は落雷で焼失したが、地方豪族の手で再建されているので、その頃には塔建立の技術が地方に根付いていた事になる。
金堂跡の南側の道を西に行き、今回は文化財資料展示室を割愛して府中街道を渡り、武蔵野線をくぐって武蔵国分尼寺跡の歴史公園に行く。国分寺は唐に見習ったものだが、尼寺はわが国独自で光明皇后の進言によるものと言う。尼寺の中門跡から金堂の基壇を見る。基壇の前には幢竿の跡を示す柱が立っている。金堂基壇の断面の展示を見てから尼坊跡に行き金堂の方向を眺める。尼寺には講堂や鐘楼、経蔵があったと考えられているが、今のところ未発見だという。帰りは伝鎌倉街道を通って西国分寺駅に戻る。
武蔵国分寺には謎がある。その一つは伽藍配置についてで、金堂と七重塔の距離が離れ過ぎているのが謎である。説明の都合上、僧寺伽藍中枢部の説明板から伽藍配置図を抜き出したのが上の写真で、図の上が北を示し国分寺崖線は緑で示されている。僧寺の中で金堂講堂などが含まれる区画が中枢部区画で塀と中門で囲まれ、その外側の塔を含む伽藍地区画と、一番外側の寺院地区画は境界を表す溝で囲まれていた。
武蔵國分寺については寺域に変遷があった事が知られている。8世紀中頃の草創期においては、上の伽藍配置図で中枢部を南北に横断する点線が僧寺の西側の境界になっており溝(古寺院地区画溝)が掘られていた。この時期には七重塔が僧寺の中央近くに位置していた事になる。その後、古寺院地区画溝は埋められて寺域は西に拡張され、その西寄りに金堂などの中枢部が設けられる。また、東山道武蔵路の西側には国分尼寺も建てられる。9世紀の中頃になると、七重塔の再建に合わせて整備拡充が行われ寺域は東山道武蔵路まで延長される。では、寺域が西に拡張されたのは何故なのだろう。
741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を発するが、進捗が捗々しくなかった事から、747年、国司の怠慢を叱責し地方豪族である郡司に協力させて3年以内に造営を完了するよう督促する。しかし、国分寺の造営には膨大な費用と労力、それと年月を必要とする。武蔵国分寺の場合、造営が完了するまでにさらに10年余りを要したようである。寺域が西側に拡張されたのは、この督促の時期とも考えられている。これは単なる想像だが、国分寺を国の華として見せるために当初計画を変更して、僧寺の伽藍を東山道武蔵路に近い位置に移動するとともに、尼寺を武蔵路の西側近くに設置したのでは、と思われる。その結果、七重塔と僧寺中枢部が離れてしまう事になった。これも想像に過ぎないが、七重塔再建の際、50mほど西に移して伽藍中枢に近付けようとしたものの、何かの理由で実現しなかったのではなかろうか。ついでに言うと、武蔵国府の中心部から武蔵国分寺は見通せないが、金堂の屋根ぐらいは見えていたかも知れない。もちろん、七重塔は国府中心部からも十分眺めることが出来た筈である。
武蔵国分寺の中枢部と七重塔の方位が異なる点も謎の一つである。国分寺は南向きの土地に建てる事を求められるが、寺域について条里制に従う必要が無い場合は、寺域が方形になるとは限らず、地形の影響により様々の形をとる。武蔵国分寺の寺域は不整形で、北側の境界が崖線に平行に設けられているため、全体として真北に対し西に偏っている。国分寺の多くは、金堂や塔の向きが南北の線に一致している。武蔵国分寺でも七重塔の向きは南北の線に一致しているが、中門から金堂・講堂に続く中心線は真北からやや西に偏っている。国分寺によっては真北に対して偏りがある例もあるので、西に偏る事自体は必ずしも問題ではないのだが、塔と金堂の向きの不一致は気になる。武蔵国府の地域には条里制に従っている例も見受けられるが、国府全体としては条里制に拠っているわけではないようである。国府から国分寺への連絡道は、北に向かう道の途中から尼寺に向かって斜行する道が開かれ、その途中から僧寺への道が分岐しており、条里制には従っていない。周辺にも条里制の跡が見られないので、武蔵国分寺は条里制に従っていないと思われる。ここから先は想像に過ぎないが、七重塔は南北の線に合わせているので、最初の計画では伽藍も敷地の中央に南北の線に合わせて建てる予定であったと思われる。ところが、伽藍中枢部を西寄りにするよう計画変更したため、不自然にならないよう西側の境界の向きと伽藍中枢部の向きを合わせたのかも知れない。尼寺については東山道武蔵路の向きに合わせているように見えるが、官道が条理の基準線になる場合もあるので違和感はない。
<参考資料>「見学ガイド・武蔵国分寺のはなし」「鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺」「国分寺を歩く」「武蔵府中における条理地割の基礎研究」「都立公園ガイド」「今昔マップ」