夢七雑録

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占春園から小石川植物園へ

2015-11-05 20:19:33 | 公園・庭園めぐり

(1)占春園

 地下鉄茗荷谷駅で下車し春日通を渡り左へ、次の角を右に入り左側の歩道を進む。次の角で左に行くと東京教育大跡に開設した教育の森公園となるが、今回は割愛して直進する。歩道で湯立坂を下りても良いのだが、公園めぐりの企画なので、道路から一段高くなっている窪町東公園の中を歩く。右手、道路の向こう側に、銅御殿と呼ばれた重要文化財の旧磯野家住宅の立派な門を見ながら進むと、程なく“こもれびの滝”という人工の滝に行き当たる。斜面を流れ落ちる水の音は思いのほか迫力がある。滝を過ぎて下って行くと、右側に水車が見えて来る。ここを左に行き、占春園の説明版を確認して、その先に進む。

 

道の右側、樹木が生い茂っている場所が、守山藩邸の占春園という大名庭園の跡という。初代水戸徳川家の四男として生まれた松平頼元は、萬治2年(1659)、大塚吹上に屋敷を賜ったが、その敷地は現・教育の森公園を含む六万二千坪の広さがあった。そのうち、池を含む一帯を占春園と称していたらしい。邸内は松や樫の深林があり幽邃境であったと伝えられるので、自然そのままを残した庭園であったと思われる。「東都歳時記」には小石川白山の辺りがホトトギスの名所の一つに挙げられているが、守山藩邸もホトトギスの営巣地として知られていたのだろう。また、占春園の池にはマガモが多く集まっていたという。

 

明治以降の占春園は、東京高等師範、東京教育大へと引き継がれ、今は筑波大付属小の自然観察の場所になっている。一般にも公開されているというので、園路をたどって池に行ってみる。この池は誰が付けたか落英池と呼ばれている。池には湧水があったそうだが、今は確認されていないという。手入れも行き届かないらしく、池も荒れて見える。今は難しそうだが、都市計画公園として整備された暁には、マガモが飛来する池になるのかも知れない。園内を歩いていると、占春園の石碑に行き当たった。頼元から数えて三代目の頼寛が家臣に命じて延享3年(1746)に建てた石碑で、占春園の由来として三代にわたる桜の古樹との関わりを取り上げている。なお、頼寛は藩主としての仕事のかたわら、屋敷内の観濤閣に荻生徂徠や服部南郭を呼び、論語徴集覧の編纂を行っていたという事である。

 (2)建築ミュージアム

 占春園から窪町東公園に戻り千川通りに出る。千川上水沿いの別の道路も千川通りと呼ばれているので少々紛らわしいが、この地を流れていた小石川が、その上流にあたる谷端川に千川上水からの分水が加えられていた事から、千川と呼ばれていたためらしい。

 

千川通りを渡って先に進むと、小石川植物園の西南の角に出る。中に入ると右側に植物園の出口があり、左側には重要文化財の旧東京医学校本館がある。現在、東京医学校本館の建物は東大総合研究博物館小石川分館となり、建築ミュージアムとして使用されている。東京医学校本館の正面は植物園に面した車寄せの側になるが、建築ミュージアムの入口は反対側にある。入館は無料だが、月火水は休館になっている。館内に入って最初に目を引くのは立ち入り禁止のテラス越しに眺める植物園の池の風景という事になるのだろうが、写真を撮るのは、一般の博物館の例にならって取りやめる。館内では常設展示が行われていて、建築模型やモンゴルの天幕、カヌー、生物標本などが展示されている。アーキテクチャの一語でくくった時に、この博物館の範疇に収まるのかどうかシロウトには見当も付かないが、既成の枠を取っ払うには良いのかも知れない。

 (3)小石川植物園

外に出て小石川植物園の正門をめざしてひたすら歩く。現在、植物園の塀を取り壊し敷地の一部を削って歩道を広げる工事が進行中である。地表面から少し掘っているところを見ると遺跡調査も兼ねているらしい。小石川植物園は五代将軍綱吉の白山御殿(小石川御殿)の跡地であり、また御薬園や武家屋敷の跡地でもあったので、何かが見つからないとも限らない。歩道が広がって緑道風に整備されれば、退屈せずに正門まで歩く事が出来るだろう。

 

正門の発券機で100円玉4枚を入れて入場券を購入。券には明治9年の植物園一覧図の部分図が印刷されている。なお、当ブログでも取り上げているが、吹上坂の下の歴史と文化の散歩道・池袋コースの案内板にも、明治の頃の小石川植物園の絵がある。小石川植物園の前身は江戸幕府の御薬園だが、麻布の南薬園をこの地に移した時点を植物園の始まりと考えれば、小石川植物園は世界でも有数の歴史をもつ植物園という事になる。入口でもらった案内図を確認し、正面のゆるやかな坂を上がると本館の前に出る。中央の時計塔が気になるが、関係者以外立ち入り禁止になっている。

 

本館を後にして柴田記念館に行く。ここは、恩賜賞の賞金で大正8年に建てた研究室だそうだが、昔の洋風の住宅のようで、どこか懐かしい佇まいである。内部は公開されているので入ってみる。それから、温室を見に行くが、残念ながら閉鎖中。改築のため近く取り壊されるという事なので、現在の姿を記憶に留めておけるのは今しかない。ただ、改築の予算が不足しているという。大丈夫だろうか。

 

この植物園では御馴染みのメンデルのブドウとニュートンのリンゴを見に行く。今も実を付けるかどうかは知らないが、後継となる木が各地に分譲され、中には実を付けるものがあると言う事なので、そのうち、メンデルブドウのワインやニュートンリンゴのパイが市場に出回る事があるのかも知れない。それまで、親木の長寿を願って、その場を去る。

 

享保7年(1722)、町医者の小川笙船による目安箱への投書がきっかけとなって、貧しい病者に薬を与え養生させる養生所が御薬園のうちに設けられる。明治になると、養生所は廃止されるが、植物園一覧図を見ると、明治9年頃までは建物が残っていたようである。現在は養生所内の井戸跡のみ残るが、関東大震災の時にはこの井戸が飲料用に役立ったという。ただ、今も使用できるのか飲用可能なのかは分からない。近くには、青木昆陽がこの場所で甘藷の栽培を試行した事を記念する碑が置かれている。

 

江戸時代、養生所の横に御薬園を横断する鍋割坂という道があり、この道を境にして南東側と北西側に御薬園を分けて管理していたという。今は無き鍋割坂の辺りを過ぎると、樹木の姿や形も変わってくる。ボダイジュの林を出でて、シマサルスベリの林に入る道は心地よく、ゆっくり歩いていきたいが、その前に右手奥の柵の中にサネブトナツメを見に行く。それから、スギやヒノキの林を抜け、ツツジの群落の中を日本庭園に下る。

 

現在の日本庭園は白山御殿の庭園跡と言われている。日本庭園のある低地は、目に見える程ではないにしろ、今でも湧水が4カ所確認されているので、江戸時代なら池の水を維持するに足る湧水量があったと思われる。庭園を造るとすれば、この場所が適地であったろう。庭園の池の向こうには、時計塔を乗せた旧東京医学校本館が見えている。その姿は、初めからそこに存在していたと錯覚させるほど、日本庭園の風景の中に溶け込んでいる。東京医学校本館は植物園の出口から直ぐのところにあるが、一度出たら再入場は出来ない。東京医学校本館と植物園との間に境界など設けない方が良かったような気もする。

 

小石川植物園のうちには太郎稲荷と次郎稲荷が祀られている。江戸時代からあった稲荷に違いない。麻布の薬園をこの地に移した時、薬園内の稲荷も移しているので、どちらかが該当する可能性がある。江戸には数多くの稲荷があり、人々のありとあらゆる願いを引き受けていたが、養生所から下りて来る鍋割坂、通称・病人坂の近くに位置している太郎稲荷は、養生所には必要不可欠な存在であったろう。一方、次郎稲荷の方は、湧水地と思われる場所に置かれているので、湧水を守るために祀ったのかも知れない(湧水地に稲荷を祀った事例もある)。

(注)御薬園は二つに分けて管理していたので、各々の区画に稲荷を祀ったとしてもおかしくはない。或は、御殿跡地の低地に幾つかの屋敷があった時期があり、屋敷稲荷として祀られた稲荷が、たまたま2社残った事も考えられる(11.8追記)。

 

植物園は、やはり、個々の植物の季節ごとの変わりようを見ないと、ここを訪れる意味が薄れてしまう。できれば、また、春先にでも来てみようと思うが、今日のところは、様々な姿を見せてくれる池と、メタセコイアの林に見送られて、帰ることにしよう。

 【追記】

白山御殿から御薬園に至る経緯につき、江戸の地図や各種文献を参考にして、まとめてみた。

三代将軍家光の四男徳松は承応元年(1651)、白山の地に下屋敷を賜る。翌年、徳松は元服して綱吉となる。寛文元年(1661)、綱吉は舘林城主となり館林宰相と称されるようになる。屋敷も順次拡張され、寛文10~13年(1670~1673)の新板江戸大絵図によると、その敷地は現在の文京区白山三、四丁目に相当し現在の植物園の倍ほどの広さがあった。この屋敷が設けられる以前の正保(1644~1647)の頃を描いたとされる正保年中江戸絵図によると、敷地の北西側に喜多見久大夫の下屋敷がある以外は百姓地であった事が分かる。現在の日本庭園の場所も百姓地で、流れか池があり田もあったようである。下屋敷を造営するにあたって、敷地内にあった白山神社、簸川神社、女体社は他に移しているが、白山神社の神木であった船繋松は屋敷内に残されたものの、近くにあった名水の滝は水が出なくなったという(当ブログの江戸名所記の白山権現の項に記事あり)。

 

延宝8年(1680)、綱吉は五代将軍となる。館林宰相時代の下屋敷は空屋敷のようになったと思われる。天和2年(1682)の増補江戸大絵図を見ると、下屋敷の跡地の北西の角に本多中務のほか寺が記載されているが、他は空白になっている。貞享元年(1684)の絵入江戸大絵図でも、下屋敷の跡地の状況に変化はない。江戸には寛永15年(1638)から南と北に薬園が設けられていたが、天和元年(1681)に護国寺を造営するため北の薬園が廃止となり、さらに貞享元年(1684)に白金御殿の拡張に伴い南の薬園が廃止されたため、館林宰相時代の下屋敷の跡地に薬園が移されている。現在の植物園の三分の一ほどの広さであったという。その後、下屋敷の跡地のうち北東側は開発が進み小屋敷が並ぶようになる。また、南西側には御殿が造営され、元禄6年(1693)の江戸の大絵図には、現在の植物園の位置に小石川御殿(白山御殿)が記載されている。元禄9年(1696)には、白山御殿、寛永寺、浅草寺、湯島聖堂に上水を引くため、玉川上水から分水した千川上水が引かれており、巣鴨の元舛から白山御殿へは1尺2寸四方の樋を敷設している(千川上水については当ブログの千川上水花めぐりに記事がある)。白山御殿は将軍家の別邸の扱いであり御殿番が置かれていた。また、御殿の周囲には石垣を築き白壁の塀で囲って堀を巡らせ、千川上水の水を流していた。坂の内には五段の滝があり絶景であったという。元禄12年(1699)の改撰江戸大絵図にも、堀割で囲まれた白山御殿が記載されている。

 

宝永6年(1709)綱吉が死去し、家宣が六代将軍となる。正徳3年(1713)、白山御殿は廃館となり取り壊される。また、翌年には千川上水からの水の供給も止められる。白山御殿の跡地が御薬園となった時期は不明だが、御薬園に関する享保6年(1721)の文書がある事から、それ以前に白山御殿跡地に御薬園が設けられたことになる。その敷地は現在の植物園に近い広さがあったという。享保13年(1728)の分間江戸大絵図では、白山御殿跡地の南東側に松平左近将監の屋敷地が記載されているが大半は御薬園になっている。明和元年(1764)の分間江戸大絵図でも南東側に松平越中守の屋敷地はあるが大半は御薬園のままである。しかし、文政8年(1825)の分間江戸大絵図になると、御殿跡地の低地の側に高井、田沼、谷田、青柳、小笠原、松平能登守の屋敷地が並ぶようになり、御薬園の敷地は縮小される。さらに、安政6年(1859)の安政江戸図や文久2年(1862)の分間江戸大絵図では、御殿跡地の南東側一帯が松平駿河守の屋敷となり、他に低地の側に高井、蜷川、小笠原、丹羽の屋敷が並んで、御薬園の敷地は大幅に縮小されている。白山御殿の廃止後の変遷にともない庭園も様変わりしていたと思われる。池の水は湧水により維持していたと考えられるが、江戸時代に谷端川下流の小石川の水を取り込んでいたかどうかは分からない。ただ、余水は小石川に流していたと考えられる。

 

<参考資料>「小石川植物園」「新撰東京名所図会・小石川区之部」「東京市史稿遊園編1」「千川上水三百年の謎を追う」「リーフレット(建築ミュージアム及び小石川植物園)」「日本植物研究の歴史」、ほかに新板江戸大絵図など絵図。


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