文化十三年三月七日(1816年4月4日)、嘉陵(村尾正靖)は仕事を終え、昼12時に清水邸を出て、上高田の氷川神社に向う。連れは石坂、永井、加藤の三人である。嘉陵は高田馬場(高田馬場跡。新宿区西早稲田3)から北側の道を西に行くが、途中の寺の門前に戸塚村の石碑があり、さらに進むと井の頭の流れ(神田川)に渡す戸塚村の石橋があって、その手前の小高い所に薬師堂があったと記す。大江戸絵図や村絵図から、寺とは観音寺(新宿区高田馬場3)、戸塚村の石橋は小滝橋、薬師堂とは観音寺薬師堂を指すと考えられる。嘉陵はまた、橋を渡った少し先に馬継場(新宿区上落合1)のような休憩地があったと記しているが、この通りが青梅街道の裏道としてよく利用されていたことを示すものであろう。この道は、現在の早稲田通りとも重なる道である。ここで嘉陵は北に向い、次に西南に行き、上落合の最勝寺(新宿区上落合3)に出ている。さらに行くと焼場法界寺(新宿区上落合3。落合斎場)がある。ここを霧ケ谷といい、出外れの乗馬の死骸を捨てる場所を狼谷と呼んでいた。この先、上落合と上高田の境となる溝を渡り、新井薬師へ行く道を左に分け、北へ行くと氷川明神(中野区上高田4。氷川神社)に出る。
氷川明神(図)の石段を下った所に湧水のある御手洗池があった。位置的には、この地にあった桜ケ池と思われる。嘉陵はこの池にすむ大黒虫(沙虫)を持ち帰っている。このあと一行は、社の前を北に登って展望の開けた岡の上に出る。ここから小径を下り、石神井の水(妙正寺川)に渡す橋を渡る。少し行くと社(御霊神社か)があり、東に行けば恵古田(江古田)村の道に出る。ここを東に行けば椎名町で、ここから先は既知の道である。
氷川明神(図)の石段を下った所に湧水のある御手洗池があった。位置的には、この地にあった桜ケ池と思われる。嘉陵はこの池にすむ大黒虫(沙虫)を持ち帰っている。このあと一行は、社の前を北に登って展望の開けた岡の上に出る。ここから小径を下り、石神井の水(妙正寺川)に渡す橋を渡る。少し行くと社(御霊神社か)があり、東に行けば恵古田(江古田)村の道に出る。ここを東に行けば椎名町で、ここから先は既知の道である。