夢七雑録

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世田谷コースを歩く

2014-02-07 19:11:52 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「世田谷コース」は、「松濤駒場ギャラリー散歩(渋谷駅~淡島通り)」、「松陰太子堂散歩(淡島通り~上町駅)」、「ボロ市木もれ陽散歩(上町駅~砧公園)」、「静嘉堂わき水散歩(砧公園~二子玉川園駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は15.8kmになる。

(1) 松濤駒場ギャラリー散歩

 渋谷駅をハチ公口に出て交差点を渡り、道玄坂を少し歩いて、109の右側の文化村通りを左側の歩道で上がる。東急百貨店本店のビルに沿って左に行きBunkamuraの入口を過ぎて、次の角を右に折れる。その先、標識Bを目印に、左に入る細い道を進むと、道は左に曲がって通りに出る。ここを右に行けば鍋島松濤公園に出る。明治時代、紀伊徳川家下屋敷跡の払下げを受けた鍋島家が、地名の由来にもなった松濤園という茶園を開いたが、この茶園が廃止になった後、その一部を児童遊園として公開したのが、この公園の始まりという。この池は渋谷川支流の宇田川の水源の一つで、現在も湧水があるらしい。明治の地図を見ると、三田用水からの分水により水車を回していたようで、今も池の畔には水車が設置されている。

 鍋島松濤公園の池を半周して上がり、公園の外に出て左に行き山手通りに出る。山手通りを右に行き、次の信号で左側の歩道に移る。先に進んで、北に向かう山手通りと分かれて西に向かうが、この道をコスモス通り(旧航研通り)というらしい。山手通りからコスモス通りに続く道は江戸時代からの道で、道の左側には三田用水が流れていたが、今は暗渠になっている。上原二の信号で左に入り南に向かうのがルートで、今回は二番目の角を右に入り東門から駒場公園に入る。入ってすぐ左側の和館に入り庭を眺めながら小休止。近代文学館と洋館は外観を見るだけにして先を急ぐ。この区間のタイトルからすれば、コース途中の美術館や博物館をじっくり見て回るべきかも知れないのだが。

 駒場公園を南門から出て、その先を左に行き、本来のルートに戻って右に行くと、右側に京王井の頭線の踏切が見えてくる。踏切を渡って駒場野公園の前に出ると、入口近くに案内板が置かれている。公園内に入りケルネル田圃や池を眺め、園内を散策したあと、南門から外に出て先に進み、突き当たって左、直ぐ右に曲がって、駒場野公園の拡張部を左に見ながら南に向かえば、淡島通りに出る。通りの名は森巌寺境内にある淡島神社に由来するが、この道は甲州街道に出る滝坂道でもあった。

 上の図は、村尾嘉稜(当ブログのカテゴリー“江戸近郊の小さな旅”参照)が、この道を通って淡島神社を参詣した時の紀行文に添えられた略図で、道の南側には御用屋敷と幕府の薬園、北方には鷹狩で使用される駒ケ原(駒場)が記されている。将軍家の鷹狩の場は六ケ所の筋に分かれていたが、駒場のほか世田谷領の村々は目黒筋の鷹場に含まれていた。「鷹場惣小絵図」によると、目黒筋の鷹場のうち、江戸城から遠い場所は、徳川御三卿のうちの清水家に貸し与えられていたようである。

(2) 松陰太子堂散歩

 淡島通りを左側の歩道で西に向かい、駒場学園高の前の信号で左に折れる。下りきったところのT字路を右に行くと北沢川緑道に出る。北沢川は上北沢を源流とする目黒川の支流であったが、今は暗渠化されて緑道になっている。この緑道を横切り、その先の突き当りを左に、次の突き当りを右に行くと、烏山川緑道が見えてくる。烏山川は烏山寺町を源流とする目黒川の支流だが、この川も今は暗渠となり緑道に代わっている。信号を渡った先から烏山川緑道に入って進むと、案内板が置かれている。地名の由来となった円泉寺の太子堂は割愛して先に進むと、人通りの多い茶沢通りに出る。ここを渡り緑道を先に進むのがルートだが、今回は、茶沢通りを左に行き、三軒茶屋の交差点に出る。

 玉川通りと世田谷通りが分岐する三軒茶屋の角に、江戸時代の道標が置かれている。この道標は、大山参りで賑わった大山道の新道と旧道の分岐点に置かれていたものという。現在の道でいうと、大山道の新道は、玉川通りを新町一まで進み、そこから桜新町を経由するルートをたどり、瀬田で玉川通りに戻って二子の渡しに出るのが道筋であり、大山道の旧道は、世田谷通りを進んで円光院の前で左折、ボロ市通りに出て西に行き、世田谷通りを少しはみ出して左に曲がり、世田谷通りを経由する登戸道を分けたあと、直線的に進んで用賀で新道に合流するのが道筋ということになる。

 三軒茶屋から茶沢通りを戻って、烏山川緑道に入り先に進むと、やがて環七通りに出る。左側の若林踏切の信号で環七を渡って右に行き、左側の烏山川緑道の続きの道を進む。ほどなく、道幅の割には車が多い松陰神社通りに出る。緑道左側の標識Bを確認して、この道を左に行くと右側に松陰神社がある。「世田谷領二十ヶ村絵図」によると、この場所には長州藩の抱屋敷があった。抱屋敷とは百姓地を買い上げて屋敷地としたものだが、明暦の大火のあと、長州藩でも災害に備えて、八王子千人同心頭の志村氏の知行地であった若林村に抱屋敷を設けることにしたのだろう。ただ、屋敷地といっても実際は田畑と林ばかりで、耕作も従来通り行われていたらしい。幕末、刑死した吉田松陰を小塚原の回向院から、この抱屋敷に改葬することが行われたが、蛤御門の変の結果として、長州藩の江戸屋敷が没収され、松陰の墓所も壊されてしまった。そして、明治。松陰の墓所は修復され、松陰神社が創建されることとなる。

 松陰神社を出て、隣の若林公園に行くと、道路側に案内板が置かれている。先に進んで、世田谷区役所前の交差点を過ぎると、やや下りとなり、突き当たって右に、すぐに左に折れて進み、江戸時代に品川橋が架かっていた場所で烏山川緑道を渡る。その先の信号で左折、先に進むと右側に世田谷城址公園がある。入口近くに城址公園の説明版があり、近くには標識Bも置かれている。世田谷城址公園の交差点を渡って南に進むと、世田谷線の上町駅に出る。


(3) ボロ市木もれ陽散歩

 踏切を渡って左側にある標識Aを確認し、通りを渡って先に進むと世田谷通りに出る。歴史と文化の散歩道の車止めポールがある交差点を渡って、やや細い道を上がっていくと、大山道の旧道であるボロ市通りに出る。ここを左に行き、右手の世田谷代官屋敷に入る。ここは、彦根藩世田谷領の代官を務めた大場家の役宅で、主屋と表門が重要文化財に指定されている。大場家は彦根藩の代官であったが、世田谷領の村々が将軍家の鷹場になっていた為、幕府の役人で駒場の役宅に詰めていた鳥見の支配を受けていたようである。鳥見は、鳥の生息環境の維持という点から、家屋の修理や参詣客のための出店にも干渉していたらしい。代官屋敷の敷地内には、世田谷郷土資料館があり、常設展のほか企画展も開催されている。入館は無料。館外に、大山道の旧道と登戸道との分岐点にあった道標も展示されている。

 代官屋敷を出て左に行き、すぐ西側の道を入って南に進み、突き当りを右に行く。その先の突き当りで左に行き、駒留通りを信号で渡って、その先の四つ角を右に折れ、松丘小と実相院との間を先に進むと教育センター通りに出る。左側にある標識Bを確認して左に行き信号を渡って、歴史と文化の散歩道のガードレールがある道に入る。この道は目黒川支流の蛇崩川が流れていた場所でもある。この道を進むと左側に大山道児童遊園があり、大山道旅人の像が置かれている。この児童遊園の西側の道が、大山道の旧道であることに因んだものなのだろう。文化2年の「目黒筋御場絵図」を見ると、大山道旧道が蛇崩川を渡る場所に八幡橋が記され、近くには八幡の祠も記されている。また、八幡橋の西側には、蛇崩川の水源となる水溜(溜池)も書かれているので、この辺りは一休みしたい場所であったかも知れない。なお、同図には、蛇崩川のもう一つの水源として、現在の桜新町駅の北方と思われる地点に水溜が書かれている。

 児童遊園西側の案内板でルートを確認し、大山道旧道を渡り、左側の道を進む。右側の松丘公園に沿って上がり、四つ角に出て左に、右手にJRA弦巻公園を見ながら進んで、その先の角を左に上がって行くと弦巻五の交差点に出る。西北の角の標識Bを確認して右に、馬事公苑の外壁に沿って進む。今は姿を見る事が出来ないが、馬事公苑の東側の境界沿いには、玉川上水から分水し千歳通りを経て流れてきた品川用水の水路があった。馬事公苑の北側、登戸道(現在の世田谷通り)が品川用水を渡る場所には喜多見(北見)橋が架かり、大山道旧道が品川用水を渡る場所(現在の陸上自衛隊交差点)には下之橋が架かっていた。下之橋から先の品川用水は、桜新町を経由して東流し、目黒田園調布コースで歩いた目黒不動道と碑文谷道の分岐点(後地の交差点)を通って流れていた。

 本来のルートは馬事公苑の周辺を回るようになっているが、午年の馬の様子を眺めるべく、今回は弦巻門から馬事公苑に入る。ただ、あまり時間を取れないので、一通り見て回ったあと正門から退出。左に下って行き、用賀中町通りに出て左に折れ、馬事公苑に沿って左側の歩道を進む。馬事公苑前駐在所の交差点で右折。用賀七条通りを右側の歩道でやや下る。桜並木の西用賀通りを過ぎれば、程なく環八通り。ここを渡れば、左側が次の目的地、砧公園である。

 砧公園に北口から入ると直ぐに案内板がある。歴史と文化の散歩道のルートは砧公園内にも設定されていて、所々に標識Bも置かれているのだが、公園ぐらいは気ままに散策したい、世田谷美術館にも久しぶりに入ってみたい、そんな気もする。ただ、今回だけは、おおむねルート通りに歩いてみる。何年前の事だったか、武蔵小金井から花を求めて野川を下り、砧公園で花見をした事があった。まさに春爛漫の一日。今年、もう一度、あの日のように歩いてみたい。今年の桜を今から待ちわびる。それも、また良きかな。

 砧公園の中を先に進むと橋がある。橋の下には小さな川が流れている。川の名は谷戸川という。品川用水が流れていた千歳通り近くの千歳台付近を源流とし、砧公園を抜けて、丸子川に合流するまで3kmほどの短い川である。この川も、砧公園の中だけは、本来の姿を少しだけ残しているように思える。それでも、公園を出れば都市部の川に変貌してしまうのだろう。橋を渡り、西口から公園の外に出る。そこには、標識Aが置かれていて、いささか中途半端ながら、季節外れの木もれ陽散歩の終わりを告げている。


(4) 静嘉堂わき水散歩

 砧公園の西口を左に公園橋を渡る。東名高速道路の行く手に、山並みの姿を期待するが、今日は無理のようだ。橋を渡って左に、標識Cにより右側の歩道で下る。下り終えた少し先に一ノ橋があり、下を谷戸川が流れている。橋の手前で右に行き、谷戸川沿いの道をたどる。一ノ橋のあとの橋の名と、所々に埋め込まれている標識Cを確認しつつ進み、六ノ橋に至って右に折れ、坂を上がる。途中、坂道を横断してさらに上がれば道は平坦になるが、それも束の間で、急な堂ヶ谷戸坂の下りとなる。下り終えた所が丸子川に架かる堂ヶ谷戸橋で、ここから左に丸子川沿いの遊歩道を歩く。丸子川の水源は付近の湧水というが、その流路は六郷用水の跡である。

 六郷用水は、和泉で多摩川から取水し、農業用水として六郷に送る用水路で、小泉次太夫により慶長16年に開削されている。この結果、それまで多摩川に流入していた筈の、野川、入間川、仙川、谷戸川などの河川は、六郷用水により分断されてしまう事になったが、工事に先だって余った水の切り落とし地点を設定しているので、分断された川の水利用についても一定の配慮はしていたのだろう。それでも六郷用水利用の要望はあったのか、後になって、途中の村々でも六郷用水が利用できるよう改修されたということである。丸子川に沿って遊歩道を先に進むと岡本公園に出る。湧水が多いらしく夏でも涼しそうな場所である。ここには、民家園も併設されているので入ってみる。

 民家園を出て岡本静嘉堂緑地に沿って進む。この辺りには湧水が多いらしく、冬でも少しは気分爽快になる。少し先、左側から丸子川に合流してくる小川がある。静嘉堂下の湧水を入れた谷戸川である。その先の信号を右に折れるのがルートだが、ここは左側の緑道のような歩道を歩く。幽篁庭園という名園の跡に建てられたマンションの公開空地を遊歩道のようにしたものという。先に進んで次の四つ角を左折するのがルートだが、ここは一旦、緑道のような歩道から下りて左に折れ、右側の歩道を進む。その先に、案内板が置かれているが、それには、公園橋から谷戸川に下りるルートとは別のルートが記されている。その方が、歩きやすいのかも知れない。

 案内板から先に進むと、右斜め前方に入る遊歩道があり、きしべの路と記されている。きしべの路とは成城学園から二子玉川に至る散歩道のことだが、ここの遊歩道は、暗渠化された谷川(やがわ)の上を遊歩道としたものだろう。「目黒筋御場絵図」には、仙川が六郷用水に合流する地点で、六郷用水から分水され、諏訪社の近くで多摩川(現在は野川)に流入する水路が書かれているが、この水路が谷川に該当しそうである。この水路は、昭和30年の地図にも記載されており、谷戸川合流点の下流で丸子川から分流した水路も合流して、きしべの路の遊歩道に相当する水路を流れていた。谷川を、六郷用水により分断された谷戸川の下流だとすると、仙川合流地点からの分水の下流として、谷戸川の下流部分を利用したという事になるだろうか。

 きしべの路の遊歩道を進んで行くと、砧線跡遊歩道に出る。ここを左に行く。東急砧線は多摩川の砂利を運ぶことを目的として大正時代に開通した、二子玉川から砧本村の間2kmほどの路線であったが、昭和40年代に廃線になっている。谷川は、この線路に並行して流れたあと右に分かれて諏訪神社の方向に流れていた。谷川緑道がその跡である。砧線跡遊歩道を先に進むと、中耕地駅跡の標柱が立っている。ここを過ぎて、厚木街道の下をくぐり、その先を右に行けば、コースの最終目的地である二子玉川駅に出る。大山道の旅人が渡ったであろう二子の渡しは、駅のプラットホームから、その方向を眺めるだけにとどめて、このコースを終わりとしたい。


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