夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

26.松前から青森へ

2008-08-23 11:25:38 | 巡見使の旅
(105)享保2年7月12日(1717年8月18日)。
松前での巡視も終わり、あとは青森への渡海を待つだけとなるが、順風が吹かず、船を出せないため、この日は松前に逗留。巡見使へのお慰めとして、藩主の松前志摩守から出された品々を見て過ごす。

(106)同年7月13日。
 風待ちのため、この日も松前に逗留する。松前町内の寺社を見て回り一日を過ごす。

(107)同年7月14日。
 順風すなわち西風が吹く。渡海のため、津軽藩から提供された馬丸に、料理茶湯などを積み込む。一行は夜中に船に乗り込み、出航を待つ。

 ところで、享保の時は、風待ちの逗留が比較的短かくて済んだが、天明の巡見の時は松前での逗留が十二日間に及び、その間、一行の中に幕府の威光を傘に着て横暴の限りを尽くした者があったらしい(「福島町史」)。「此度の巡見、不埒の事多し」という話は幕府上層部の耳にも入ったようで、この時の巡見使が職を失うという事態になったという。

(108)同年7月15日。
 朝、松前を出航。順風を受け海上二十五里、二十四艘の船に出迎えられて、無事、青森に到着。供船が着いたのは八つ(午前二時)過ぎであった。湊から二丁離れた宿に泊まる。

 なお、宝暦の時は早朝松前を出航し亥の刻(午後10時)に青森着船となったが、天明の時は夜四つ(午後10時)に三馬屋に到着し、青森までは陸路を通っている。

【松前での巡見使の調査内容】

 今回、参考文献として用いた巡見使の覚書は、陸奥出羽松前の名所を記載した道中記であり、これとは別に、各藩の監察結果をまとめ幕府に提出した報告書があった筈である。その一端を示すものとして、松前蝦夷に関する報告内容を記したとされる、「松前蝦夷記」という資料がある。その内容だが、まず、松前藩主の居所福山館の概要と侍屋敷、足軽について記し、次に松前城下の町と寺社の数、東西在郷の村数、軒数、人数、宗門改めと切支丹について記している。次に、松前は米の収穫が無いので、それに代わるものとして鯡、数の子、昆布、薪、材木、雑穀について役料を納めさせていることを記している。松前は蝦夷地との交易で成り立っているが、各地から松前に交易のため到来する船の概況について記し、その際の役料について記している。また、幕府への献上品、特に鷹に関することについて記し、また、金の採掘に関すること、馬に関すること、土産品と産地に関すること、蝦夷人と通詞に関すること、など多岐に亘る調査報告になっている。一方、松前での案内人の質疑応答をまとめた「松前巡見使応答控」には、松前の町、社寺、在郷村数、番所、商所、鮭採取場、切支丹、金山、畑作、鷹、材木について記載されているが、「松前蝦夷記」の内容は、その範囲を越えているので、他からも情報を得ていたと思われる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 25.松前東在郷の巡視 | トップ | 27.青森から田名部へ »

巡見使の旅」カテゴリの最新記事