(124)享保2年8月2日(1717年9月6日)、昼まで大雨、晩方晴。
盛岡の町出口で、十七艘の舟を並べた舟橋で北上川を渡る。舟橋は延宝8年(1680)に完成したものの翌年流失。その後、一旦は土橋に架け替えられたが、享保2年以前に、その土橋も流失して舟橋に架け替えられたのであろう。盛岡を出た一行は郡山に向かう。ここでは、十一面観音を本尊とする観音堂を参詣している。別当は高水寺。寺は称徳天皇の勅願寺で、八幡太郎義家が安部宗任貞任を攻めた時の陣場であった。また、近くに古館があり、城主は志和殿(斯波氏)、南部信濃守などと記している。郡山で休憩後、北上川を藩提供の舟で渡り、佐比内を経て大迫に出て泊まる。行程は七里半である。
(125)同年8月3日、半晴。
もともとの巡見使経路は、大迫から遠野に向かっていたが、遠野が巡視対象地から外れたため、大迫から花巻に向かうようになった。享保の巡見使も、これを踏襲して花巻に向かっている。稗貫川を渡った先で、愛宕神社を参詣し、諏訪前(外川目)で、岩鼻の不動明王宮、懸け造りの観音堂を見る。三つ境(水境)から、なめり峠(滑峠)を越えて、土沢で休憩。小山田の不動堂を参詣後、江刺舎人古館のある矢沢に出て、北上川を舟で渡る。花巻に北松斎の古館あり、今は藩主休所と記す。行程七里余、花巻で泊まる。
(126)同年8月4日、晴。
花巻から奥州街道を通り、といさ川(豊沢川?)を渡って、二子を経て黒沢尻に出る。左に国見山の観音、右に駒ケ嶺を見る。和川(和賀川)を舟で渡り、男山を見つつ鬼柳に出て休憩。南部藩番所を通り、古館のある相去で仙台藩番所を過ぎる。古館のある金ガ崎で馬継(馬と人足の交代)となり、胆沢から水沢に出て泊まる。行程は八里である。
(127)同年8月5日、晴。
下河原から、仙台藩提供の舟で北上川を渡り、高寺に出る。左手には尻掛森、明神山が見えている。岩屋戸(岩谷堂)では毘沙門天の宮を参詣。鈴木三郎重家の笈があったという。また、岩屋戸には伊達左兵衛の屋敷があったと記す。このあと、持田(餅田)を通り左手に万正寺山を見ながら横瀬に出て休憩。ここから左に銚子森、永倉山、右に前田山、国島山を見ながら、伊手に向かう。ここに古館二ヶ所ありと記す。この日の行程は四里半余、伊手で泊まる。なお、巡見使経路からは外れていたが、巡見使は正法寺と黒石寺についても話を聞き、覚書に書き留めている。
(128)同年8月6日、半晴。
伊手を出立。藤田左兵衛の古館ありと記す。種山の麓、七曲の難所を上り、江刺気仙郡境を越える。前方に愛染ガ岳、五葉山が見えてくる。子飼沢、大又川を通り、大又(大股)で泊まる。五里弱の行程であった。
(129)同年8月7日、晴。
大又を出立。明神のある石助山峠を越え、瀬田米に出る。途中に古館あり、また瀬田米にも浅沼氏の古館二ヶ所ありと記す。田畑を過ぎ横田で休憩。横田に砂鉄山があり、堀主は茂兵衛と勘兵衛と記し、又木沢と竹駒にも砂鉄山があり、堀主は須兵衛と記す。また、横田に紺野(昆野)大学の三日市館、 矢剥(矢作)に矢剥玄蕃の山鳥かい館、竹駒に佐々木安慶の本宿館ありと記す。この日の行程は七里弱、今泉〔陸前高田〕に泊まる。
【参考】江戸時代の公用道中の場合、先触の者が先々の宿場に先行して各種手配を行ったが、巡見使の場合も同様で、先触の者が宿場に先行し巡見使を迎えるにあたっての注意事項を伝えていたようである。延享3年に巡見使が横田で昼食休憩した時の記録によると、巡見使使用人からの御定目として、「料理がましきことは不要。酒は宿に入れるな」などが示されたという。また、4ヶ月前に巡見使の使用人が来て、治安の維持と過分の接待無用と伝え、昼食は茶漬けに焼味噌、奈良漬、ごま塩のほかは不要と申し渡したという(「陸前高田市史・沿革編上」)。ただ、受け入れ側ではこれを額面通りに受け取るべきか迷ったのではなかろうか。ちなみに宝暦11年の巡見使を横田に迎える際に用意した食材は酢、醤油、酒、肴のほか、き瓜、夕顔、なんばん、から取、ささげ、夏な、いそのきう、な須、卵、鮎、とう婦であったという。なお、食事代金は無料ではなく、相場で支払われていた。
(130)同年8月8日。
今泉を出立。鷹待ちの山を見る。今野助九郎古館のある長部を通り、郡境にあたる松の坂を越える。濱田村に千葉安房守の古舘・米ケ崎館ありと聞く。また、千葉藤左衛門が籠城した八幡舘が東南にありと記す。ここからは右手に青野沢、不動山、左手に小河原の愛宕権現の森、みさけ島も見える。綱木坂を越え鹿下(鹿折)に出る。ここに、鹿下石見の白鳥館、千葉蔵人の松ノ舘、鹿下信濃の忍館ありと記す。鹿折からは海辺となるが、ここに塩竃ありと記す。この日の宿泊は気仙沼。四里四丁の行程であった。
盛岡の町出口で、十七艘の舟を並べた舟橋で北上川を渡る。舟橋は延宝8年(1680)に完成したものの翌年流失。その後、一旦は土橋に架け替えられたが、享保2年以前に、その土橋も流失して舟橋に架け替えられたのであろう。盛岡を出た一行は郡山に向かう。ここでは、十一面観音を本尊とする観音堂を参詣している。別当は高水寺。寺は称徳天皇の勅願寺で、八幡太郎義家が安部宗任貞任を攻めた時の陣場であった。また、近くに古館があり、城主は志和殿(斯波氏)、南部信濃守などと記している。郡山で休憩後、北上川を藩提供の舟で渡り、佐比内を経て大迫に出て泊まる。行程は七里半である。
(125)同年8月3日、半晴。
もともとの巡見使経路は、大迫から遠野に向かっていたが、遠野が巡視対象地から外れたため、大迫から花巻に向かうようになった。享保の巡見使も、これを踏襲して花巻に向かっている。稗貫川を渡った先で、愛宕神社を参詣し、諏訪前(外川目)で、岩鼻の不動明王宮、懸け造りの観音堂を見る。三つ境(水境)から、なめり峠(滑峠)を越えて、土沢で休憩。小山田の不動堂を参詣後、江刺舎人古館のある矢沢に出て、北上川を舟で渡る。花巻に北松斎の古館あり、今は藩主休所と記す。行程七里余、花巻で泊まる。
(126)同年8月4日、晴。
花巻から奥州街道を通り、といさ川(豊沢川?)を渡って、二子を経て黒沢尻に出る。左に国見山の観音、右に駒ケ嶺を見る。和川(和賀川)を舟で渡り、男山を見つつ鬼柳に出て休憩。南部藩番所を通り、古館のある相去で仙台藩番所を過ぎる。古館のある金ガ崎で馬継(馬と人足の交代)となり、胆沢から水沢に出て泊まる。行程は八里である。
(127)同年8月5日、晴。
下河原から、仙台藩提供の舟で北上川を渡り、高寺に出る。左手には尻掛森、明神山が見えている。岩屋戸(岩谷堂)では毘沙門天の宮を参詣。鈴木三郎重家の笈があったという。また、岩屋戸には伊達左兵衛の屋敷があったと記す。このあと、持田(餅田)を通り左手に万正寺山を見ながら横瀬に出て休憩。ここから左に銚子森、永倉山、右に前田山、国島山を見ながら、伊手に向かう。ここに古館二ヶ所ありと記す。この日の行程は四里半余、伊手で泊まる。なお、巡見使経路からは外れていたが、巡見使は正法寺と黒石寺についても話を聞き、覚書に書き留めている。
(128)同年8月6日、半晴。
伊手を出立。藤田左兵衛の古館ありと記す。種山の麓、七曲の難所を上り、江刺気仙郡境を越える。前方に愛染ガ岳、五葉山が見えてくる。子飼沢、大又川を通り、大又(大股)で泊まる。五里弱の行程であった。
(129)同年8月7日、晴。
大又を出立。明神のある石助山峠を越え、瀬田米に出る。途中に古館あり、また瀬田米にも浅沼氏の古館二ヶ所ありと記す。田畑を過ぎ横田で休憩。横田に砂鉄山があり、堀主は茂兵衛と勘兵衛と記し、又木沢と竹駒にも砂鉄山があり、堀主は須兵衛と記す。また、横田に紺野(昆野)大学の三日市館、 矢剥(矢作)に矢剥玄蕃の山鳥かい館、竹駒に佐々木安慶の本宿館ありと記す。この日の行程は七里弱、今泉〔陸前高田〕に泊まる。
【参考】江戸時代の公用道中の場合、先触の者が先々の宿場に先行して各種手配を行ったが、巡見使の場合も同様で、先触の者が宿場に先行し巡見使を迎えるにあたっての注意事項を伝えていたようである。延享3年に巡見使が横田で昼食休憩した時の記録によると、巡見使使用人からの御定目として、「料理がましきことは不要。酒は宿に入れるな」などが示されたという。また、4ヶ月前に巡見使の使用人が来て、治安の維持と過分の接待無用と伝え、昼食は茶漬けに焼味噌、奈良漬、ごま塩のほかは不要と申し渡したという(「陸前高田市史・沿革編上」)。ただ、受け入れ側ではこれを額面通りに受け取るべきか迷ったのではなかろうか。ちなみに宝暦11年の巡見使を横田に迎える際に用意した食材は酢、醤油、酒、肴のほか、き瓜、夕顔、なんばん、から取、ささげ、夏な、いそのきう、な須、卵、鮎、とう婦であったという。なお、食事代金は無料ではなく、相場で支払われていた。
(130)同年8月8日。
今泉を出立。鷹待ちの山を見る。今野助九郎古館のある長部を通り、郡境にあたる松の坂を越える。濱田村に千葉安房守の古舘・米ケ崎館ありと聞く。また、千葉藤左衛門が籠城した八幡舘が東南にありと記す。ここからは右手に青野沢、不動山、左手に小河原の愛宕権現の森、みさけ島も見える。綱木坂を越え鹿下(鹿折)に出る。ここに、鹿下石見の白鳥館、千葉蔵人の松ノ舘、鹿下信濃の忍館ありと記す。鹿折からは海辺となるが、ここに塩竃ありと記す。この日の宿泊は気仙沼。四里四丁の行程であった。