【2023年】ツイッターつぶやき
今年は苦手な11月もさっと過ぎて、12月もあと2週間ですなぁ。
何かと忙しかったので11月は苦手だなんて言ってられなかったのかも。
来週はクリスマスで、再来週はお正月。
そろそろおせち料理を考えねば。
いそがしさは年を越えそうです。
≪過去の記事≫
【2003年】
『ホリー・ガーデン』
新潮文庫
江國 香織 著
江國さんは、あとがきに「余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。そういうものばかりでできている小説を書きたかった。」と書いていますが、読むものにしてみると、ページをめくるたびにといっていいほどその「余分なこと、無駄なこと」な日常や言葉中にドキッとするものがあり、けして「余分なこと、無駄なこと」ではない。
登場する二人の幼馴染の女性それぞれの恋も、不倫であり、設定としては一人の女性としてみれば人生の中での重大事である。
「きらきらひかる」では、同性愛の夫と、アルコール中毒の妻という、世間一般から見たら「異常」な恋を描いているが、「ホリー・ガーデン」の二人の女性、これも世間一般から見たら(テレビのワイドショウーで慣れているとはいえ)やはり特別な恋愛であり、不倫小説として盛り上がる小説は書けるだろうと思う。
しかし江國さんは、これらの世間一般の常識から外れた恋をごく自然に、さらりと書き、読者はこの「異常」を忘れ、まるで純愛小説でも読んでいるように感じてしまう。ここに江國さんの作品の魅力があると思う。
これは、江國さんが「異常さ」のあるものをさらりと書いてしまうという技法のうまさや「異常さ」を正当化するようないやらしさがないというだけではなく、その奥底にある人が人を好きになる、愛するという純粋なもの、それが毅然として流れていること、これこそが江國さんの作品の魅力となるのだと思う。
たとえば、子供や少年少女が、相手の社会的なものというすべての殻を見ないで純粋に好きになるというようなそんな純粋なものが江國さんの作品にはある。もちろん登場する人々は大人であり、社会という殻にがんじがらめにされている人々である。不倫という二人の女性、あるいは「きらきらひかる」の中の同性愛やアルコール中毒、これらはすべて社会の中では「異常」として見られる。これほどの社会的な殻の中でもそれぞれの登場人物は純粋でいられる。まるで子供や少年少女のように。。。。。
「ホリー・ガーデン」においては、この純粋なものは、恋愛小説でありながら二人の幼馴染という女性の中にある。
不倫相手、そのほかの二人の女性を取り囲む男たち、これらの男たちには顔がない。漠然とした顔しか見えない。二人の女性にとっては、これらの男たちは「余分なもの、無駄なこと」なのかもしれない。「余分なこと、無駄なこと」というと変だが、この「余分なこと、無駄なこと」とは、ある意味では「日常」であり、二人の女性の中に流れる日常という時間のひとコマに男がいるような気がする。
男との恋愛を含めた仕事などの雑多な日常という時間の流れのなかに、二人の女性の間にある、お互いを心配しあったり喧嘩をしたりと、二人の中には、友情というには足りない、それ以上の純粋な間柄を感じる。愛情なのか。。。。
純粋さも「余分なこと、無駄なこと」という日常を通して感じられる。
「きらきらひかる」の中で、同性愛やアルコール中毒という「異常さ」をお互いの両親から責められるが、二人にとっては、このような社会の殻の中での常識は、「余分なこと、無駄なこと」である。しかしその中でお互いの純粋な愛情を確認する。
「ホリー・ガーデン」の中の二人の女性は、お互いの不倫相手を快く思っていない。お互いに「余分なもの、無駄なもの」的な感覚で見る。しかしこれを通じて二人の女性の間に純粋なお互いを思いやるものが見える。夫婦間も同じで、いろいろな社会から受けるわずらわしさなどをお互いに対処しあったりしている中に、純粋な思いやる心や愛情が現れているのかもしれません。
江國さんは、匂いや色、手触りなど、五感をうまく使った表現が多く有りますが、日常の中で何気ないことが心を揺さぶることがあります。「余分なこと、無駄なこと」と見えるのかもしれませんが、案外この日常が必要でもあり、「余分な時間ほど美しい時間はない」のかもしれません。
昨日の日記の日付、間違っていましたね。。。。
午前中、布団でも干そうかとベランダまで布団を持っていくと、すうっと日が蔭ったりしていらいらしました。午後からは雲もなくなりよい天気です。布団を無事干せそうです。
しかし風が強い。。。。寒い風です。
家にいると、コーヒーとタバコが増えてしまいます。
コーヒー好きの僕は一日にどのくらい飲むだろう。。。まあ、コーヒーとタバコが僕のエネルギー源かも?
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
肉じゃがを煮てます。
東京も寒い日が続き暖かいものが恋しくなります。
凍る月。。。。
スポーツジムに行ってきました。
今日から筋トレが2ラウンド。。。。さすがに辛い。どうも上半身が弱いようで、同じ回数トレーニングしても辛さは倍なような気がする。足腰は昔サッカーをやっていたのでその名残が残っているのかな?
筋トレが終わったらウォーキングマシーン。30分ほど歩いたらものすごい汗でした。隣の人を見たらランニングをしているのにそうは汗をかいていない。何で僕だけこんなに汗をかくんだろ?最後にインストラクターの人と昔で言えば整理体操にあたるストレッチをやるんだが、それですら汗が噴出す。
帰ってから体重を量ったら1キロ痩せていました。僕のような体系は痩せる必要もないんだけど。。。体重を減らさないぶん筋肉をつけなくてはならないのかな?それで筋トレが2ラウンド?
隣のスタジオでは、おばちゃんたちが太極拳をやっていた。
汗もかかずに涼しい顔をしてやっていました。中国の映像で太極拳をしているお年寄りに肥満はいない。あんがい効果があるのか。。。。楽そうです。
【2006年】
12月も中旬となってしまいました。
もう来週はクリスマスですからね。。。ううう
のんきな僕もなんだかせっつかれているような気持ちになります。大掃除はどこから手を付けたらよいのか。。。まぁ、目に付いたところからやり、見たくないところは見ないようにするしかありません。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。
一昨日の「自然水中(2)」では賃金高や雇用者数との関係から利潤率への影響が語られているといった中身について書きましたが、利潤率は労働力を買う場合にもその価値によって買うわけですから他の原材料を買うのと同じで利潤を得るには価値通りの値段で買ってそれを消費して商品をつくる中で得られるものです。今は労働力も買いたたかれて安く雇用売ることが企業の利益だといった謝ったものがはびこるようになってしまいました。しかし利潤率の一定化と商品価値(市場での価格)は下がるのが法則だといった視点で考えるべきかと思います。
以下、以前書いたものの再録ですが、長いのであくまでも自分自身のおさらいとしてこちらに乗せます。(まとまらずにわかりにくいです。自分でイライラする(笑))
「労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。 」
と書きました。
ある商品を生産するには生産手段と労働力が結びつかねばなりません。企業は生産手段と労働力を買うわけですが、それは生産手段を買うための不変資本と労働力を買うための可変資本を投資します。ここでは生産手段も労働力もその価値どうりに支払われます。
労働の生産性が高まるというのは、より少ない労働力でより多くの商品を生産することにあります。そのために機械化は進み生産システムは合理化されます。例えば、ある企業が今までは1000人の労働力を使って年間10万個の商品を作っていたとします。この中で生産性が高まり、極端な数字ですが、年間20万個の商品を生産できるようになったとします。すると可変し本領資本量は変化しませんが不変資本は新たな工場や機械を導入したり原材料も2倍になるわけですから可変資本に対して不変資本は大きくなります。または市場を見て20万個の商品は過剰という見通しを立て今までのように10万個の商品を生産するとなると必要な労働力は500人と半減をします。
ここで何がおきるかといえばこのような労働の生産性の向上は不変資本に対する可変資本量の変化として現れます。この変化は生産のための不変資本と可変資本の有機的組成を変化させます。
この企業は市場に倍の20万個の商品を出すか、同じ10万個の商品を出して500人首を切るかを選択するわけです。
このような中で何がおきるかといえば、上の企業と同じ商品を生産する産業があるわけですが、その産業全体で同じことが行われるわけですから、市場にはあふれるような商品が投げ出されるか、その産業内においての労働力の削減が行われるわけです。商品の過剰生産か失業が不可避的になります。そしてこの生産性の向上は、国内、現在では全世界において行われ、資本主義生産は過剰生産と失業という矛盾を引き起こさざるを得ません。
次はこの矛盾を引き起こす原動力となるものが何かをみなければなりません。
労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。
ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
というひとつの産業内のこの3社を別の角度から見ることにする。
A社は、不変資本(設備や原材料など)と可変資本(労働力を買うための賃金)に投資をして生産を行うわけですが、100人あたりという労働力が5万個という商品量に価値移転させる不変資本量は少ない。一方C社は同じ100人あたりの労働力が15万個の商品を生産するために不変資本量は多くなる。すると100人あたりの労働力への賃金である可変資本量は同じでも不変資本量は大きな違いを見せる。同じ可変資本量に対して不変資本量が大きくなる割合として資本の有機的な組成が高くなるわけですが、これは企業活動から見ると一つの生産拡大となります。
また、C社は圧倒的にその商品価値を安く生産できるわけですから(5)で診たように平均的な市場での価値(価格)で商品を売らなくても値下げをして市場での独占化を行うことができます。独占化はより多く生産された商品を売りさばくことにも有効なわけですから、商品を値引きしたとしてもそれは利潤の拡大となります。この独占化傾向は、C社がもう一つ同じような工場をつくる動機ともなります。ここに生産拡大というものが強くなります。
(5)でも書いたようにAB両社もこれに追いつけ追い越せと生産性を上げながら生産拡大を行います。
商品がより多く生産される拡大再生産されるというものは資本主義経済法則の一つの現れです。
ちなみにこの生産拡大によるより多く市場に出された商品価値(価格)はどうなるかというと、100人あたりの生産性の拡大の中では、その生産拡大は不変資本量の増加という形で現れることを上に書きましたし、C社がもう一つ工場を作り新たな100人という労働力を増やしたとしても100人あたりというものには変わりはなく資本の有機的な組成は変化しません。労働の過程の中により多くの不変資本が新たな商品に価値移転(機械の減価償却や原材料の消費など)されるわけですが、この不変資本は価値移転されるだけであり新たな価値を生み出すものではありません。新たな価値を生み出すのは、不変資本を商品という形に価値移転させる過程においての労働力量にほかなりません。ですから商品の価値は、不変資本量がどのくらい価値移転されたかというものにプラスされて労働過程でどのくらいの労働力量が消費されたかにあり、新たな価値創造として残るのは労働力の消費という形での価値の増加という商品価値となります。
C社が以前はB社と同じ生産性にあり、生産性の工場により現在の生産性に高まったと過程をしてみると、以前は100人の労働力量で10万個の商品を生産していたのですが、今は15万個になった。しかし商品に新たな価値としてプラスされたのは同じ100人の労働力なわけですから、以前の10万個の商品価値と現在の15万個の商品価値は同じとなります。これを一つあたりの商品価値としてみると、一つあたりの商品価値は以前より価値を減らしたということになり、市場における商品価値はsがっていく傾向を示します。価値どおりに売られれば商品は相当安くなります。
この商品の価値の低下による低価格化葉もまた資本主義的生産の法則性となります。これで資本主義の市場においての商品の低価格化と商品量の爆発的な生産拡大が資本主義的経済法則の必然であり法則性だということがいえると思います。
ではこの資本主義的生産がどのような帰結をもたらすのかということになります。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
(6)でも触れましたが、この労働の生産性の違いから生じる商品の市場価格がその価値からはなれて平均の価格形成としての特別な剰余価値を与える中での各社の利潤率はC社が一番高くA社が一番低くなる事を見ました。そしてここに資本主義的競争の原動力がある事を見ました。
この中でA社はもちろんB者もその生産性を向上させようとします。そしてC社と並ぶ生産性を得たと仮定します(C社の生産性は現在のある限界内にあり停滞するとします)。するとこのある商品を生産する産業内には平均な利潤が確定します。各社はそれぞれ100人当たり15万個の商品を生産することができるのですから、この産業をX産業とすれば
X産業は100人あたりの生産性は45万個
となります。
仮に10年前のX産業の生産性は低くてA社並みだったとすれば、X産業はこの10年で同じ労働力量(100人あたり)での商品の生産数が15万個から45万個の増加したこととなります。10年前と現在でも不変資本量と可変し本領の投資される資本は同じとすれば、それを分母として商品の総(100人あたりの労働力に対してですが)売上を分子にした場合、ある利潤率が決まります(追記:分子分母反対だったかな?)。しかしこの生産性の違いにより何が異なるかといえば、生産された商品量にあります。ある一定の利潤を得るには、10年前は15万個生産をしていたが今では45万個を生産している。そうすると商品1個あたりを見るとその価格は3分の1になります。X産業では同じ利潤を得るのにより多くの商品を市場に出さねばならなくなったということです。
同時に特別な剰余価値を得られなくなっているわけですから市場価格は価値に一致してきます。
資本主義生産とその資本主義的競争がもたらす一つの帰結は、市場における商品量の増加と一つあたりの商品の価格は価値に一致をして低下するということです。
これは資本主義生産の無政府性として現れざるを得ません。
X産業では、より多くの利潤を求めようとすれば工場の新設や市場の独占化のために各社の潰しあいに頼らざるを得なくなります。これがまた資本主義競争として行われるようになります。そしてまたこの工場の新設の競争がさらに市場に送る商品量の増加とも結びつくことが起こります。しかしここでは先にも書いたように特別な剰余価値を得られなくなっていますから、企業の利潤率は上がりません。生産性の向上のない中に工場の新設だけでは利潤額は上がるが利潤率は高まらない。ここに企業あるいはX産業そのものにまず停滞感が現れます。
一方商品量は市場の中により多く出されるわけですしその商品量は無政府性の中にあり一度過剰感が出てくると各社の中では値下げ競争もはじまります。値下げといっても赤字になるわけではないが、利潤低下であると同時に剰余価値率の低下として現れ始めて企業の停滞感はさらに深まります。
その産業では株価が下落をして資金が他の産業に流れていくでしょう。今資本をより吸収する産業の育成とか言われていますが、それはこのことからはじまる一つの帰結菜わけです。
しかし以上のような現象が他の産業にも波及をしていくならば、一つの社会そのものが不況という形をとり始めます。
【2011年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊16面の社説の下の「記者有論」欄に「高校教育 最低限の学びくらいは」という記事があった。以前から小学生から大学生まで学力不足が言われていたがこの記事も今の高校や大学の実態を書いている。高校の進学率は98%そして大学は「全入」時代。本来はより多くの青年たちが高い学力を得る教育環境にあるということだろうが、現実は学力の低下につながっているということだろう。
記事の中に「学校間格差を縮めて学びの内容を充実させるべき」と書かれているが、学力といった者だけでとらえるような格差ではなくて、今の社会全般に広がっている格差の一つの現れが教育や学力に出ているのではないか。学歴社会という言葉を今はあまり聞かなくなったが、今もみんなが高校を出る世の中なのだからその上の大学を出ないとだめと学力社会は進み、大学という利潤目的の面もそこに絡んできて全入となるわけです。
もう小学校の内からその学力で将来が見えてしまう世の中。。。。
昔は大学に進学はできないような高校でも卒業をして一生懸命に働けば家を持ちそうはぜいたくはできないが生活ができる中に夢もあった。その中に学習意欲もそれなりのレベルで存在をして学力をつけた。せめて高校ぐらいは出ていないと。。。。というものが今やせめて大学という名のついたところを出ていないと。。。。となっているのかもしれない。大学の良し悪しは就職率が重視をされているのではないか。そして企業の意識は?大学の勉強は3年生までで後の1年は就活。
このような中に学力の低下も出ているのではないか?よい私立小学校や中学、よい私立高校そしてゴールは良い大学。このためには学力もあるが親の生活レベルによる学校以外の学習塾などが。そしてその受験テクニック。。。。出題の傾向と対策。
学力は暗記力になってしまう。
同じく朝日新聞1面には、学校の教科書が変わるという。原発事故を受けて教科書の記載も「安全神話 覆された」と加筆。これ自体は良いことと思うが、今まで原発は絶対安全と「記憶」していたものが「安全神話は覆された」と暗記することに変わるだけの教育なら学力も上がるわけはないわけです。大人(専門家)は「どう教えるか」の中身を変化させて教えると。子供ははいとそれを暗記する。大人は原発事故をめぐって原発の在り方で右往左往しているわけで、それも金が絡んだり利権が絡んだりしているわけです。子供は知らないわけですから「なぜ?」を考えないでしょうし大人はどこまでこの「なぜ?」を教えられるか。あるいは考える自由を与えられるか。。。。。
子供も中学ぐらいになれば社会の中をある程度見ることができる。昔はこの中で社会を考えることが素晴らしいこととも得た時代だった。考えて間違った行動もあったし、正しい行動もたくさんあった。その中で議論をして考えた。この間げることが色々と知りたいものを増やして学習をして結果学力もある程度付けた。人の学習は独習が主なのです。独習といっても学校の勉強を自宅でするというのではなくて、社会と向かい合い考えて勉強をするということです。
子供たちにはこの独習する環境をたくさん持たせないとだめなような気がします。そうすると社会批判は増えて従順な人間は減っていきます。困る人たちがたくさんいるでしょう。しかしこれしか学力は発達しないのです。社会批判は良いことで考えることは良いと外国では見るとすれば、日本はこれを害だという。
【2012年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2013年】ツイッターつぶやき
東電を始め電力会社の原発再稼動が急がれようとしている。
電力はこの冬も原発ゼロでもまかなえるでしょうが、それにもかかわらずなぜ再稼動が急がされるのでしょうか?
朝日新聞朝刊に「東電破綻回避へ一心同体 金融機関」という記事があるが、東電には金融機関からの融資が入っており、左記リンクページの図を見ても多くの無担保融資もある。このような状態ですから東電救済=金融機関救済にもつながるのでしょう。そのために東電の破綻は回避して黒字化をしなければならない。その中に原発の再稼動もある。
他の電力会社も再稼動を急いでいますがやはり黒字化あるいは利益拡大のためと見ることができる。
原発が停止をして火力発電の燃料費が経営を圧迫しているとも言われていますし、それが貿易収支や経常収支の赤字化の要因にもなっているといわれます。確かに燃料消費費は上がっているのかもしれませんが、燃料費の負担増はアベノミクスと日銀の量的緩和による円安に原因の多くがあるはずです。貿易収支や経常収支の赤字化の原因も円安にあるという分析もできるでしょう。この上に立って安倍政権の成長戦略があるわけですが、成長を続けるには再稼動も必要となるわけです。
国民意識は脱原発でした。そして現実に原発ゼロが続いているわけです。そこに再稼動を言い出すのはまったくの成長路線という安倍政権の経済政策だけであり、安全性などは後回しになった再稼動の要請なわけです。
再稼動も成長戦略に組み込まれている。
消費増税は社会保障の充実(社会保障に使う)というものでしたが、いつの間にかこれも成長戦略に組み込まれた財源となりました。生活保護に対する政策に顕著に現れていますし、年金改革にも影響をします。
安倍政権は賃上げを呼びかけますが具体的な展望があるわけではなくて依然として低賃金化は進んでいます。財界は安倍総理のこの要請に応えてボーナスのアップを言っていますが現実は「冬ボーナス、「減る」が「増える」より多かった 日経モニター調査から浮かんだ現状」という現状のようですし格差が広がっているともいえます。同時に中間層(年収1000万あるいは1200万の層以上)の所得税の増加につながることも出ていますし、ホワイトカラーエグゼンプションも進められようとしています。そのほか労働の規制緩和は進められてますます不安定雇用の増加が行われようとしています。そして一方における法人税関連の「減税」が。
こう見るとすべてが成長戦略に国民生活の低下や安全の低下が組み込まれているのではないかと思います。
もちろんそこには政治上の強力な統治が置かれます。
【2014年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
ツイッターから
なんだか・・・・・力の社会になってきました。良いか悪いかではなくて力が強いか弱いかでの解決。
日本は二大政党制に一時向かいましたが、その二大政党制の崩壊原因の一つが「決められない政治」だったと思います。国会内はスキャンダル合戦になったり。そして決められる政治が自民党の圧勝でした。
決められない政治とは、民主主義の欠如ですね。というのか、政治哲学が政治家の中にあるかどうかですね。数の力で国会が動いたり、政治家個人の力が一般人を抑え込んだり、、、、もちろん報道カメラの前では謙虚ですが、それでも本音が出て「失言」連発とか。
企業もブラック化をして、そのブラック化の背景にあるのが企業の力です。
このような社会が当たり前になると、良いか悪いかではなくて損得勘定や感情の流れるままに力を行使するようになる。社会の隅々にこの力による論理がはびこります。もちろんネット上も例外ではない。
でも、この力による社会システムは、寄生性を持つものであり、普通の人々がいなくなると存在できなくなる。一般庶民から富を吸い上げて寄生をしてもその庶民が疲弊をしてしまうと寄生もできなくなる。
タクシードライバーへの暴行記事を見ても、タクシードライバーは企業に縛られているから反撃できないわけで、そこに暴行する客は寄生をして料金を払わない。このような構図が政治や経済にまで波及してるのでしょう。
春菊のかき揚げがどうしても食べたくなり支度をしていたら小麦粉がない。。。。。
どうしても食べたいのでコンビニに行ってくると言ったら、妻が他の料理にしようとネットで調べ始めました。
という事で春菊のナムルというあっさり形となってしまいました。
旬愚句は食べやすい大きさに切ってさっと湯通し。
水であく抜きをして水分を取り、塩、ごま油、おろしニンニクで味付け。
簡単でした。
でも、春菊の風味が強いのでごま油の風味が消えてしまったような・・・・・
でも、美味しかったです。日本酒・・・・アハハハ
【2018年】ツイッターつぶやき
寒くなりましたが、こう寒いと暖かいものが食べたくなります。時々自宅でもカレーうどんを作るのですが体が温まりますね。
今日は朝からだいぶ遠出をしましたがちょうど昼飯時になったので埼玉県杉戸の
道の駅アグリパークによりました。
ここのレストランが好きで以前から時々立ち寄っています。
ここはカレーが特徴的で、新鮮な野菜がたっぷりのカレーです。
やはり寒いのでカレーうどんを食べました。
カレーうどんですから和風にアレンジしています。辛さもそうはきつくありませんがちょうどよい辛さです。
食い終わったら福引券をくれましたのでやってみましたがティッシュでした。。
【2019年】ツイッターつぶやき
安倍総理が
「どんどん財布の紐を開いて」と呼び掛けているようです。
デフレマインドを払拭?
なんだか総理の言葉としては笑うに笑えぬ言葉です。
デフレ不況が続く中で10月に無理やり消費増税を思ない、消費減を防ぐためにポイント制度などを導入してさらに26兆円もの景気刺激策を行わなくてはならない実態。何のための消費増税だったかのわからなくなっているんでしょ。
大幅な賃上げのない中で、政府・日銀による円安誘導で食料品が大幅に値上げされ、社会保障費の負担はどんどんと上がっている。そして社会保障自体は縮小していく。
ない袖は振れませんなぁ。。。。。。
デフレマインドを払拭する問心の問題ではなくて唯物論的に個人消費は落ち込んで節約に走らざるを得ないのです。
このような個人消費を落ち込ませておいて景気刺激策でまた企業にカネをばらまいても、消費が伸びる展望がないならば企業も設備投資はしないでしょう。今の企業の設備投資は景気の拡大のためではなくて、企業間のつぶし合いの中での自己保身だけです。
こちらのサイトを見ますと、サラリーマンの平均的な小遣いは4万円弱のようです。既婚者となると3万円前後。
20代のサラリーマンの1回の昼飯代が平均541円、飲み代13041円。
30台になると、それぞれ592円そして9447円だそうです。
安倍総理が言うように毎回二次会までは付き合えませんね。
この実態の中で、よくデフレマインドを払拭してなどと言えますなぁ。
安倍総理をはじめ、政府は生活実態を見ないようにしているのかもしれません。
【2020年】ツイッターつぶやき
何週間ぐらい前だろう?現在の感染拡大を第三の波かそうでないかの判断がなかなか出なかったが、さらに感染拡大傾向が出てきて大都市圏が第三の波であるというものが確実になり、Go Toへの疑問も大きくなっていた。それでもGo Toは続き11月の三連休をはじめとした行楽の季節は出かける人が多かった。しかしそれ以後は全国的な感染拡大があり自粛意識が高まり自治体でも注意喚起が大きくなってきた。
すると11月の下旬の人出から3週間の間に感染は拡大をして現在があるわけですから、もしかしたら感染の増加はピークに近づいているかもしれない。ですからGo Toは感染拡大と関係ないとしきた勝負の三週間と言っていた時期は、皮肉にも感染拡大の時期となった。
政府は28日からGo Toの一時中止をするといいますからそれまでの2週間が勝負の週となるでしょう。政府がのらりくらりとしていますが確実の国民の中には危機意識が出ています。これで感染が下げ傾向になれば、さらに正月休みとGo To一時中止でぐっと感染者は減るでしょう。
しかし今の情勢ではGo To中止も骨抜きですし、高止まりとなる可能性があります。そして年末年始に人手があればさらなる感染拡大となるでしょう。
政府の対策は常に2,3週間遅くなっていますね。
【2021年】ツイッターつぶやき
1株100円の株があり、為替が100円ならアメリカ人は1ドルで1株買える。
1株100円に変化がなく、為替が120円になったらアメリカ人は1ドルで1.2株買える。
しかし1株100円の株を為替が100円の時に買ったアメリカ人はそれを売っても0.8ドルしか得られない。
日本経済が好景気なら1株100円の株が120円に上がれば、アメリカ人は1ドルで1株しか買えなくなるが、100円で買っていたアメリカ人は売る場合には1ドルで売れる。
日本経済が落ち込むと1株100円で
勝った買ったアメリカ人は損を少なくしようとして株を売る。1ドルで多くの株を買えるはずのアメリカ人も買わなくなる。
今は株価も実体経済を反映しないのでわかりませんが、最後は経済状態という一体経済ですからね。
(まちがってるかな?)
【2022年】ツイッターつぶやき
自衛隊自体が憲法違反とされる中、専守防衛により解釈改憲を行ってきたが今度は敵基地攻撃能力を正当化させた。
長い年月専守防衛を討議されてきたものが閣議決定で蔑ろにされた。
民主党政権前後の与野党伯仲時代、スキャンダル国会で「決められない政治」という批判が出ていた。この批判の中で生まれたのが安倍政権です。
安部自民党は決められる政治という期待の中で選挙に勝ち続けた。
しかしこの決められる政治は民主主義を無視した多数の力として今の岸田内閣において戦争の準備に行きついた。
安倍政権の時から決められる政治に危惧を持っていたが、この決められる政治とは、民主主義の中で十分な政策討議がされて決定に至ることで、この決定に誤りがあった場合は少数意見であるプランBに素早く移行できるものでなければならない。しかしこの決められる政治が悪用されたとき、国会内の討議を蔑ろにして数の力による決定となりそれには民主主義とは邪魔な存在となる。
日本だけではなく、先進国から自由と民主主義という言葉が聞こえなくなった。
経済や軍事の多数派形成による派遣。
それは中東におけるイスラエルそしてヨーロッパにおけるウクライナの存在を産み、それはアジアにおける日本がつくられようとしている。日本の存在価値は経済から軍事に軸足を移していく。アメリカの戦略として。