【2023年】ツイッターつぶやき
今年の漢字は「税」だそうですね。
悪性の物価高の中で消費税により税収は増えているそうです。
子育て支援で5万円程度の減税をし、無税世帯にはそれに見合うバラマキをするそうですが、一方では防衛費増による増税が待っています。
岸田さんの今年の漢字は「克」だそうです。
来年も賃上げをして以下の経済状態を克服するからだそうです。
去年もある程度の賃上げがありましたが、消費税で多くの納税をさせられましたし、社会保障費負担も。
賃上げがあっても国に吸い取られます。収奪は拡大する。
来年も賃上げをと言いますが、防衛費増による増税が待っているでしょうし、たばこ増税もあります。
また賃上げ分は国に吸い取られるでしょう。今年の漢字を「克」として来年のことを語れば鬼が笑う。国民は苦笑いしかない。
≪過去の記事≫
【2003年】
どうも車の調子が悪い。
時々エンジンが停止してしまいます。どこが悪いのか?まったく機械オンチの僕はわかりません。以前も同じ症状が出たのでメーカーの工場に持っていったのですが、メーカーに持っていくと、車は澄ました顔で?いつもと同じように調子よくエンジンを回している(笑)
今日も早めに帰ってメーカーに持って行こうと独り言を言ったら、買い物後には調子がよかったです。。。。ううう
ガッハッハッハ。。。。
【2004年】
寒い一日でした。久しぶりに妻と二人でお茶。何ヶ月ぶりだろ?
先日登呂遺跡見学に行ってきました。ずっと昔の記憶なのですが遺跡が発見されたときは大ニュースでした。今でも登呂遺跡といえば誰でもが知っていることでしょう。
公園のように整備され弥生時代の建物が復元されていました。隅のほうには博物館があり、これを楽しみにしていました。しかし、たしかに子供たちにとってはある程度の学習資料となるのですが、発掘されたものの展示もほとんどなく、なんとなく寂しい思いでした。
登呂遺跡!!=豊富な発掘品の展示
これが僕の想像だったのに。。。。
そういえばドライブに行ったときはよくその地方の博物館に行きますが、期待を裏切られるほうが多いです。建物自体はものすごく豪華なのに中身は寂しい。。。。
たぶん数億円の金を使って作ったのでしょうが、中に入るとどんよりしてしまいます。
もちろん素晴らしいところもありましたが。
【2005年】
「東京日記 卵一個ぶんのお祝い。」
平凡社
川上 弘美 著
「『東京日記』という題は、(中略)敬愛する内田百閒の同題の作品にも。とはいえ、百閒先生と並んでしまってはおこがましい気がして、表紙には『東京日記』という字は、小さく印刷しました。」
(「あとがき」より)
川上さんを通じて百閒を知ってからは、どうも川上さんの作品を読み終わると、百閒の作品を読みたくなる。逆に百閒を読んでからは川上さんの作品を読みたくなる。
というわけで、ちょっと寄り道をした後に百閒の「百鬼園日記」を読みはじめた。百閒の「東京日記」は持っていなかったので、同じ日記を読みはじめた。(百閒の「東京日記」は、さっそく岩波文庫で取り寄せることにした)
百閒といえば、漱石の弟子だが、今、津田清楓の「漱石と十弟子」という本を開いたら扉の挿絵に百閒がちんまりと右隅に鎮座している。挿絵の横には一人ひとりの名前が書いてあるが、そこには「百閒」ではなく「百鬼園(ひゃくきえん=ひゃっけん)」とあった。どうも百閒=百鬼園とは知らなかったので、漱石山房の人々の中での百閒を読み返したくなった。
百件は、漱石の「夢十夜」に影響されているようで、不思議な心の世界を書いている。そして川上さんも初期の作品においては心の世界という不思議さを書いている。また、百閒には、暗い世界の中にもユーモアを感じるが、これは「贋作吾輩は猫である」にも出ているのか?この人間の中にある思わず笑ってしまうような皮肉のあるユーモアは、川上さんの中にもあると思う。
その意味では日記は世の中の身の回りに起きる事々を書いているわけで、日常に何を見ているのかがわかるものである。その中に不思議さを見たりユーモアを見たりすることは、その作品にも表れるだろう。川上さんの「卵一個ぶんのお祝い。」はその点でも楽しく読める作品である。
百閒の「百鬼園日記」のはじめは、電車(今の都電)に乗ったら、向かいの席に貧相なばあ様が眼帯をして座っており、次の駅に着いたら、やはり同じように貧相なばあ様がやはり眼帯をして向かいの席に前の婆様と並んで座る。あまりな偶然に百閒は笑いたくなるのだがそれをこらえる。読んでいてこっちもニタニタしてしまうような風景である。偶然にも川上さんの日記も百閒が乗った飯田橋を通る都電と同じ界隈を走るたぶん中央線から総武線に乗り入れる黄色い電車の中だろうと思われる電車の中の風景である。「『大福おじさん』を見た。」ではじまる。
姿勢良く立ち大福を6個食い十六茶を飲み干したら次の駅で降りていったというのである。これもまた読んでいるこっちもニタニタしてしまうような風景である。
百閒が30歳を迎えようとした大正6年という時代も、川上さんが見た平成の世も、人の棲息する世界にはそうは違いがないのである。漱石は「人は喜劇を演じる」という。この言葉には重みがあるが、あくせくとした中に人は様々な喜劇を演じ、この2人の日記に現れるようなニタニタしてしまうような風景をも演じるのである。
2人の共通項に俳句というものもあるが、その俳諧趣味というのか、日常に起こるちょっとした風景に動かされる自分の心をさらっと書き表す楽しさを読むことができるだろう。
この日記の題名である「卵一個ぶんのお祝い」とは、引越し先のアパート(仕事場)が決まったので、納豆に卵を一つ落として食ったというだけのことである。
ここに俳諧趣味を見ないだろうか?
川上さんは、やはり「あとがき」の中で次のように書いている。
「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」
たしかに五分の一ぐらいは、「椰子・椰子」の不思議な世界がある。
五分の四は、日常の生活の中にあったほんとの話を書き連ねるが、この五分の一は、そこに心の動きを新たに書き表すためのものだろうと思う。
この川上さんの心の動きは、「妙なこと」への微笑であったり、いらいらであったり寂しさだったりほんの少しの幸せだったりする。読み終わるといつの間にか後方へ流れ去っていく今という時間の中にある物事がよくよく見れば妙なものだと思えてくる。ようは、日常の中に現れる自分自身の心の動きが大切なのである。
百閒の「百鬼園日記」もこの点では優れている。
優れた日記というのは、作家の書く日記というのは、日常のほんとの出来事が四分で、そこにそのほんとうのことに一分の魂を吹き込めるかにあるのだろう。それは解説を書くことではない。長く書けばよいというものでもない。一分の嘘を書くことに難しさがあるのである。
俳句の作り方に、嘘は許されるかというものを読んだことがある。これは、江國香織さんがインタビューのときに「小説に書かれていることはほんとの体験ですか?」というようなことを聞かれ、そんなことを聞くような記者はバカみたいだと一笑している。銀色夏生さんの日記「つれづれノート」を「嘘を書いている」といった夫に対しての夏生さんの態度。川上さんも同じようなことを書いていたと記憶しているが、公開されている日記は、その作家にとってはひとつの作品である。作品であるならば一分の嘘日記という心の動きを表現されていなくてはならない。だからこそ読者の心に結びつくのだろう。
あまり日差しが良くなかったのですが一応布団を干しました。
5時少し前、西の空の夕焼けがきれいでした。
また痛ましい事件があった。
塾の講師が小学生の女の子を殺したという。この講師にはいろいろと問題があったと報道されているが、どうも幼児性のあるキレルのが早やいような人だったらしい。ご両親は残念でしょう。
しかし、今の世の中少子化で塾も子供を集めるのに大変らしい。この中で、もし塾が子供をお客さんとしてちやほやしているならこれも問題である。以前ファーストフード店で、二十歳前後の女性が小学生の子供に「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりですか」と敬語を使っていが、こういうやり方が塾にももしあるとすれば、塾の講師のストレスはそうとうなもんだろう。
子供は大切にしなければならないというのは真理だが、小学生からして将来は立派な悪になるだろうという子供がうろうろしている。悪といっても犯罪予備軍というだけではなくて大人の弱みに付け入るような悪でもある。影でいじめをしている良い子とか。
こう書くと、すぐに勘違いをして愛の鉄拳は必要とか、変な精神論を説くことがありえるが、そうではなくて、金中心のあまりにもひどい世の中になって大人が子供に対して自身をもてなくなっていることが問題である。
【2006年】
(記事なし)
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
(3)では、労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。
一昨日の「自然水中(2)」では賃金高や雇用者数との関係から利潤率への影響が語られているといった中身について書きましたが、利潤率は労働力を買う場合にもその価値によって買うわけですから他の原材料を買うのと同じで利潤を得るには価値通りの値段で買ってそれを消費して商品をつくる中で得られるものです。今は労働力も買いたたかれて安く雇用売ることが企業の利益だといった謝ったものがはびこるようになってしまいました。しかし利潤率の一定化と商品価値(市場での価格)は下がるのが法則だといった視点で考えるべきかと思います。
以下、以前書いたものの再録ですが、長いのであくまでも自分自身のおさらいとしてこちらに乗せます。(まとまらずにわかりにくいです。自分でイライラする(笑))
「労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。 」
と書きました。
ある商品を生産するには生産手段と労働力が結びつかねばなりません。企業は生産手段と労働力を買うわけですが、それは生産手段を買うための不変資本と労働力を買うための可変資本を投資します。ここでは生産手段も労働力もその価値どうりに支払われます。
労働の生産性が高まるというのは、より少ない労働力でより多くの商品を生産することにあります。そのために機械化は進み生産システムは合理化されます。例えば、ある企業が今までは1000人の労働力を使って年間10万個の商品を作っていたとします。この中で生産性が高まり、極端な数字ですが、年間20万個の商品を生産できるようになったとします。すると可変し本領資本量は変化しませんが不変資本は新たな工場や機械を導入したり原材料も2倍になるわけですから可変資本に対して不変資本は大きくなります。または市場を見て20万個の商品は過剰という見通しを立て今までのように10万個の商品を生産するとなると必要な労働力は500人と半減をします。
ここで何がおきるかといえばこのような労働の生産性の向上は不変資本に対する可変資本量の変化として現れます。この変化は生産のための不変資本と可変資本の有機的組成を変化させます。
この企業は市場に倍の20万個の商品を出すか、同じ10万個の商品を出して500人首を切るかを選択するわけです。
このような中で何がおきるかといえば、上の企業と同じ商品を生産する産業があるわけですが、その産業全体で同じことが行われるわけですから、市場にはあふれるような商品が投げ出されるか、その産業内においての労働力の削減が行われるわけです。商品の過剰生産か失業が不可避的になります。そしてこの生産性の向上は、国内、現在では全世界において行われ、資本主義生産は過剰生産と失業という矛盾を引き起こさざるを得ません。
次はこの矛盾を引き起こす原動力となるものが何かをみなければなりません。
労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。
ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
というひとつの産業内のこの3社を別の角度から見ることにする。
A社は、不変資本(設備や原材料など)と可変資本(労働力を買うための賃金)に投資をして生産を行うわけですが、100人あたりという労働力が5万個という商品量に価値移転させる不変資本量は少ない。一方C社は同じ100人あたりの労働力が15万個の商品を生産するために不変資本量は多くなる。すると100人あたりの労働力への賃金である可変資本量は同じでも不変資本量は大きな違いを見せる。同じ可変資本量に対して不変資本量が大きくなる割合として資本の有機的な組成が高くなるわけですが、これは企業活動から見ると一つの生産拡大となります。
また、C社は圧倒的にその商品価値を安く生産できるわけですから(5)で診たように平均的な市場での価値(価格)で商品を売らなくても値下げをして市場での独占化を行うことができます。独占化はより多く生産された商品を売りさばくことにも有効なわけですから、商品を値引きしたとしてもそれは利潤の拡大となります。この独占化傾向は、C社がもう一つ同じような工場をつくる動機ともなります。ここに生産拡大というものが強くなります。
(5)でも書いたようにAB両社もこれに追いつけ追い越せと生産性を上げながら生産拡大を行います。
商品がより多く生産される拡大再生産されるというものは資本主義経済法則の一つの現れです。
ちなみにこの生産拡大によるより多く市場に出された商品価値(価格)はどうなるかというと、100人あたりの生産性の拡大の中では、その生産拡大は不変資本量の増加という形で現れることを上に書きましたし、C社がもう一つ工場を作り新たな100人という労働力を増やしたとしても100人あたりというものには変わりはなく資本の有機的な組成は変化しません。労働の過程の中により多くの不変資本が新たな商品に価値移転(機械の減価償却や原材料の消費など)されるわけですが、この不変資本は価値移転されるだけであり新たな価値を生み出すものではありません。新たな価値を生み出すのは、不変資本を商品という形に価値移転させる過程においての労働力量にほかなりません。ですから商品の価値は、不変資本量がどのくらい価値移転されたかというものにプラスされて労働過程でどのくらいの労働力量が消費されたかにあり、新たな価値創造として残るのは労働力の消費という形での価値の増加という商品価値となります。
C社が以前はB社と同じ生産性にあり、生産性の工場により現在の生産性に高まったと過程をしてみると、以前は100人の労働力量で10万個の商品を生産していたのですが、今は15万個になった。しかし商品に新たな価値としてプラスされたのは同じ100人の労働力なわけですから、以前の10万個の商品価値と現在の15万個の商品価値は同じとなります。これを一つあたりの商品価値としてみると、一つあたりの商品価値は以前より価値を減らしたということになり、市場における商品価値はsがっていく傾向を示します。価値どおりに売られれば商品は相当安くなります。
この商品の価値の低下による低価格化葉もまた資本主義的生産の法則性となります。これで資本主義の市場においての商品の低価格化と商品量の爆発的な生産拡大が資本主義的経済法則の必然であり法則性だということがいえると思います。
ではこの資本主義的生産がどのような帰結をもたらすのかということになります。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
(6)でも触れましたが、この労働の生産性の違いから生じる商品の市場価格がその価値からはなれて平均の価格形成としての特別な剰余価値を与える中での各社の利潤率はC社が一番高くA社が一番低くなる事を見ました。そしてここに資本主義的競争の原動力がある事を見ました。
この中でA社はもちろんB者もその生産性を向上させようとします。そしてC社と並ぶ生産性を得たと仮定します(C社の生産性は現在のある限界内にあり停滞するとします)。するとこのある商品を生産する産業内には平均な利潤が確定します。各社はそれぞれ100人当たり15万個の商品を生産することができるのですから、この産業をX産業とすれば
X産業は100人あたりの生産性は45万個
となります。
仮に10年前のX産業の生産性は低くてA社並みだったとすれば、X産業はこの10年で同じ労働力量(100人あたり)での商品の生産数が15万個から45万個の増加したこととなります。10年前と現在でも不変資本量と可変し本領の投資される資本は同じとすれば、それを分母として商品の総(100人あたりの労働力に対してですが)売上を分子にした場合、ある利潤率が決まります(追記:分子分母反対だったかな?)。しかしこの生産性の違いにより何が異なるかといえば、生産された商品量にあります。ある一定の利潤を得るには、10年前は15万個生産をしていたが今では45万個を生産している。そうすると商品1個あたりを見るとその価格は3分の1になります。X産業では同じ利潤を得るのにより多くの商品を市場に出さねばならなくなったということです。
同時に特別な剰余価値を得られなくなっているわけですから市場価格は価値に一致してきます。
資本主義生産とその資本主義的競争がもたらす一つの帰結は、市場における商品量の増加と一つあたりの商品の価格は価値に一致をして低下するということです。
これは資本主義生産の無政府性として現れざるを得ません。
X産業では、より多くの利潤を求めようとすれば工場の新設や市場の独占化のために各社の潰しあいに頼らざるを得なくなります。これがまた資本主義競争として行われるようになります。そしてまたこの工場の新設の競争がさらに市場に送る商品量の増加とも結びつくことが起こります。しかしここでは先にも書いたように特別な剰余価値を得られなくなっていますから、企業の利潤率は上がりません。生産性の向上のない中に工場の新設だけでは利潤額は上がるが利潤率は高まらない。ここに企業あるいはX産業そのものにまず停滞感が現れます。
一方商品量は市場の中により多く出されるわけですしその商品量は無政府性の中にあり一度過剰感が出てくると各社の中では値下げ競争もはじまります。値下げといっても赤字になるわけではないが、利潤低下であると同時に剰余価値率の低下として現れ始めて企業の停滞感はさらに深まります。
その産業では株価が下落をして資金が他の産業に流れていくでしょう。今資本をより吸収する産業の育成とか言われていますが、それはこのことからはじまる一つの帰結菜わけです。
しかし以上のような現象が他の産業にも波及をしていくならば、一つの社会そのものが不況という形をとり始めます。
【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2012年】ツイッターつぶやき
拝啓 川上弘美様
東京日記を拝読いたしました。
「洗練された外国的行為」のご様子頼もしく思いました。
僕は外国といったところは新婚旅行のハワイ一度しかありません。
あのチップというものはプレッシャーになるものですね。
ガイドブックを見て相場はいくらかと勉強していったのですが、
やはりその相場を計算すると端数が出る。
その端数まで枕の下に置けばいいのかと置いてしまいました。
日本円で言えば1円玉まで置くようなものですなぁ。。。。。
あのストレスは一生忘れないことでしょう。。。。。
あれ以来外国は恐ろしくなっていかないことにしました。
「洗練された外国的行為」に尊敬をいたします。
そしてその「洗練された外国的行為」の最後は。。。。
あれを置いてくればいいのですね。。。。。
敬具
しばらくこちらを書けないでいました。
変なオヤジからのお手紙風はご迷惑かと思ったりもしましたが、そこは開き直ってまた書かせていただきます。
【2013年】ツイッターつぶやき
秘密保護法の強行可決に特徴的に見られる政府と国民意識の乖離は、政府と国民の断絶にまで進む危険性がある。
「ねじれの解消=数の力」という保守二大政党制の矛盾が今の与党に色濃く出ている。政治哲学の欠如である。
秘密保護法でも今後国民の理解を得ていくとし、経済面でのアベノミクスも賃上げや雇用の改善をすると期待を持たせるだけである。しかし一連の石破発言や国会内討論を見ても秘密保護法の拡大解釈がどこまでもできてしまうという器具を国民に与えているし、アベノミクスも一部輸出企業(大企業)のボーナスの増加はあるものの賃下げはとまらずに不安定雇用の増大に向かっている。そして税制や予算面での国民生活の低下を引き起こしている。
すべて今の政府が行っている政策は、数の力による国民統制に向かっている。国は国民の声を聞く耳を持たず、国民は政府と討論ができない国家は、まさに政府と国民の断絶である。
この断絶の中に国と国民を結びつける接着剤として出てきたのが「国を愛する」ことという第一次安倍内閣の二番煎じである。そこには「政府は国民を愛する」ことという意識はない。国民は自由や民主主義の低下そして日常の生活低下の中にも「国を愛せよ」とするだけである。まさに国民生活の安定や自由や平等という民主主義を発展させる中で国民は国を愛するということとは逆立ちをした論理である。
この逆立ちは経済理論にもあり、経済の建て直しは今までの低賃金化や雇用の不安定性の中での企業利益の拡大という経済政策の誤りを捨てることにあるのだが、国民生活の低下に加えて円安誘導による物価高をデフレの解消とする。
逆立ちをした論理が数の力として行われ続ければ社会もまた逆立ちをした社会となり経済法則は国が定めるものという統制経済と向かうでしょう。
それは自由主義・資本主義の経済からの離反でしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
窮乏化というのは単なる貧困化を言うばかりではなくて、資本主義の生産様式の発展の中で労働者の状態が悪化していくことです。単なる貧困化といった場合は、たとえば資本主義が発展していく中で科学技術の発展から国民生活は昔の国民よりも豊かになっていますから、この意味では単なる貧困化はない。窮乏化は窮乏化作用であり、その時代時代において国民生活を低下させようとする作用が働くという事です。
昨日次のように書きました。
資本主義の発展は、それは経済発展でもあるが、生産性の向上と科学技術の発展との螺旋的発展である。この間このブログでも繰り返し書いてきたがこの生産性の向上と科学技術の発達は互いに作用しながら商品価値を下げていくというところにその特徴がある。価格ではなくて価値を低下するという事である。商品価値の低下はその商品をより多くの国民に配分する条件である。それは国民生活を豊かにするだろう。
しかしこの生産性の向上はもう一つの作用がある。労働力の節約である。労働力の節約があるからこそ商品価値は下がるのであるから。この労働力の節約はこれかで失業者を作り出すものであった。しかし本来は労働力の節約は労働時間の短縮としてあらわさねばならなかったのである。労働時間の短縮は国民生活を豊かにするだろう。
そして貨幣量の問題がある。成長には貨幣量の増大だけが必要だろうか?それは間違いで、貨幣量の増大を必要とする前に癌時点の貨幣量をどう回転速度を速めるかを考えねばならないのである。国民・企業・国家へと貨幣がどう早く循環をするかである。血液のようなものである臓器に血液が不足していても輸血をして増やせばいいというものではなく、増やしてもその臓器に血液がなぜ回らないかを解決しなければ何の解決にもならない。血液量は足りているのだからどう循環を速めてその臓器に回すかなのである。血液量が国民生活という臓器に足りなければそこに血液を回すことが必要である。一定の必要な貨幣量は国民生活を豊かにするだろう。同時に循環を速めれば血液量は少なくて済むだろう。
賃金は労働力の再生産費=生活費である。
諸商品の価値が低下するならば生活費は少なくて済む。そこでそうは大きな賃上げをせずに済むようになるだろう。
国家に金が回りその金が所得の再配分としての社会保障に廻れば国民はそうは貯金をせずに済む。
医療費や教育等などに国の金が回れば国民の生活費はさらに減るだろう。
資本主義の発展は本来国民生活を豊かにする作用を内包しているのですが、しかし資本主義はその内包する法則を無視をして利潤追求に走る。
物価の下落はデフレ不況を招き、社会には失業者や不安定雇用者が増えそれをもとに労働者の賃金が下落をしていく。
このような現実の資本主義経済が国民に与える現象すべてが窮乏化作用といわれる。
今の日本で起きている様々な国民生活の低下という矛盾を言い表すといってよいでしょう。
なぜ単なる窮乏化という言葉ではなくて窮乏化作用という言葉なのか?
窮乏化については上気しましたが、常にその窮乏化は国民生活に襲い掛かるといった意味で窮乏化作用なのですが、しかし国民も窮乏化を受け入れるだけではないでしょう。日本でも55年体制というものがありましたが、急病化に対する国民側からの改良の要求が起こります。この改良によって窮乏化は一定食い止められますし緩和をします。ですから窮乏化は絶対的ではないのです。改良によって豊かさにかえることができます。しかしもう55年体制の復活だけを言うのではなくて、資本主義の最高段階としての社会民主主義を作らねばならないでしょう。
【2015年】ツイッターつぶやき
軽減税率では自民公明間で食品のどこまでを当てはめるかでもめていた。しかしここにきて自民党が公明党案を上回る案を出してきて合意をしたという。
そこで問題として取り上げられたのが軽減税率実施に伴うその財源である。
なぜこのような財源が問題となるのか?
財源とは国家予算を上回って生じた税の必要性が出た場合に問題となるべきものでしょう。しかし軽減税率は、簡単に見れば、2%の増税を1%にしましょうというものでしかないのです。それでも増税で1%は税収は増えるのです。その1%多くなった税収を社会保障に使えばいいのです。
増税が半分になったから社会保障の削減は詭弁でしょう。
消費増税は社会保障に使うことが原則です。国民は増税分が前年度の実績にプラスされると思っていたのですが、そうではなくて社会保障費は消費増税で賄うということなのです。
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
海は荒れ
空は黒い雲が渦を巻く
大きな白波が
打ち寄せる大岩に
老人が二人座っていた
一人は目を落とし
一人は見上げている
次の大きな波で消えていった
【2018年】ツイッターつぶやき
熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月12日は七十二候では「熊蟄穴(くまあなにこもる)」に当たるそうです。
先週は暑いくらいの気候でしたが、今週になりだいぶ寒くなりました。
朝、ごみを出しに行ったら息が少し白くなっていました。
今年は暖冬かなと思いましたが、もしかして厳冬かな?
熊も穴にこもって冬眠だそうですが、毎年冬になると僕も冬眠をしたくなります。
家事もやらねばならないことはありますので少しは動きますし、買い物ぐらいも行かなければならない。暇な時間になると炬燵に潜り込んでいます。昼飯後はこたつで冬眠、いや昼寝。
気持ちいいですなぁ。。。。。。
寒いのは仕方ないのですが、晴れ間がないというのは嫌ですね。あと日が短いと伊野はいうのはすごく気がめいります。
冬至まであと10日。
日が長くなるという気持ちだけで楽になります。
あとはクリスマスで、紅白観て正月ですからなぁ。
【2019年】ツイッターつぶやき
今夜は満月です。
十五夜の月とかその季節ごとの満月はありますが、12月の満月が好きです。
冬がはじまり寒い中で昼の長さが短くなっていく
しょつ初冬は苦手ですが、冬至も近づくころの月は早くから登り始めて登り始める月は大きい。
毎年月が見えるとしばらく寒さを忘れて眺めてしまいます。
だいぶ高く登ると冬の星座も見えてさらに美しい。
露出が悪いけど金冠の月。。。。。。
【2020年】ツイッターつぶやき
僕がPCR検査を受けに行ったと仮定する。
検査結果は陰性で一安心。しかし一歩外に出た瞬間電車の中や飲食店で感染するかもしれない。
すると陰性だといわれても現実は感染していつ陽性になるかわからないので先の検査は何だったのかとなる。
こうなるとPCR検査なんて無意味だと感じてしまうかもしれません。
でも、ここにはなぜ検査を受けるのか?が抜けています。
風邪ひいたかな?でもコロナも心配。うわっ、陽性。
このどこに検査不用の理屈があるんでしょ?
無症状者も同じですが、検査を受けて陰性なら他の人にうつすことはまずない。検査多くやればやるほど感染拡大防止になりますね。
一人の人単位で考えると変な論理になります。数万数十万単位の人の集団で見れば、多くの検査により多くの陽性者を隔離して多くの陰性者は社会活動する。すると一人単位の人も次の瞬間感染する可能性が減ります。この繰り返しが検査の有効性です。
検査で陰性になっても次の瞬間感染する可能性があるとして検査不用を言うなら社会全体で陽性者が増えていく可能性が増加するだけです。すると次の瞬間感染する可能性自体も増加していくだけ。検査不用という人もその感染確率が増加する。
【2021年】ツイッターつぶやき
アメリカのインフレが加速しそうだそうです。
アメリカの中央銀行が引き締めに走ればドル高円安が進みます。為替も115円に?
居間今でも円安のために輸入品の値上げが激しいですが、さらに円安が進めばあらゆる商品製造に影響が出て値上げにならざるを得ないという。
インフレというのは労働者の賃金も上がり消費も過熱するから需要増のためにインフレになるのですが、アメリカもこのような経済の過熱によるインフレが起きているのでしょうか?
物価が上がれば消費が減少するでしょう。今現在でも個人消費は減少傾向にあるのですから一気に景気は冷え込みます。金融資本主義は株価や企業の利益のためにあり国民生活から乖離した経済対策でした。その経済が冷え込む。冷たいバブルの崩壊です。
【2022年】ツイッターつぶやき
中国はこれまで数人の感染者が出ただけで都市を封鎖するほどの強い感染拡大防止策を取ってきたが、若い人たちを中心に社会的規制を緩める訴えが出たり、西側諸国からも中国の経済への不信が出され中国政府も社会的規制を緩めた。
しかしこのため感染拡大傾向が現れ検査を希望する人々が病院に列をなしているらしい。
このまま感染拡大が広がれば企業活動も止まるのではといわれている。
現地日本企業が中国の社会規制が強すぎるとしていたが、結局は感染が拡大すれば企業活動も止まる。