【2024年】
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
冬至
仕事で遅くなり夜は外食。なんとなく暖かくなってきました。暖かくなると雨?でも、夜空は星がきれいでした。
冬の楽しみは、星を見ること。富士山が遠くに見えること。
これから年末年始は東京の空も澄み渡ってきれいでしょうね。
今日からこの「夕螺のつれづれノート」も冬です。
冬至って、冬に至るという意味かな?
ということは今日から冬ということですよね?
季節もそうですし、すべていろいろな物や事象の境目は難しいものです。秋と冬のようにどこからどこが秋で冬なのか?でも必ず秋という季節はありますし、冬という季節もある。その境目が難しいだけです。
秋から冬へは、秋らしさが少なくなっていくと同時に冬らしさが顔を出す。そしてだんだん冬らしさが強くなっていき、秋らしさは限りなく少なくなる。量的な変化です。しかしこの量的変化は質的な変化となり冬という季節が来る。
それが冬至という最も日照時間が少ないときなのでしょう。
そしれしばらくは冬が続き、そのうちに春らしさが顔をのぞく。。。。。
季節。。。。冬は嫌いですが楽しいですね。
暗 鬼文春文庫乃南 アサ 著主人公法子は、あまり気がすすまなかったが一枚の見合い写真を見せられる。写真を見ると紀子のタイプ。
見合い相手は大きな屋敷を構える家で親子4代で住んでいる。このような旧家そして大家族の中に入るという不安はあったものの、法子は見合い相手の和人の優しさにひかれ、家族にも会う中でその不安を解消して結婚をする。
しかしこんなどこにも不安のない家族にもだんだんと不思議さや疑念が出てくる。この小説のサスペンスとしてのこわさは、この非の打ち所のない家族の恐ろしい実態が表れてくるということだけではなく、その恐ろしい家族関係の中に引きづり込まれていき、その恐ろしさの中で法子自身が幸せな気分になり、恐ろしさを恐ろしさと思えなくなって家族の一員となっていくところにある。
家族というのは、社会という外界とつながりはあるにしても家というひとつの塀に囲まれた人間集団でできている。その意味ではその中に外の人間から見たらおもしろい人間関係を見ることができるかもしれない。嫁が苦しむというのも、単なる人間関係というものだけではなく、家そのものからくるものに苦しめられるのではないかと思う。
和人の家族は異常である。その家族の一員となろうとする嫁紀子は、その異常さの中に引き込まれていくが、ある意味では、嫁がその嫁ぎ先の人間、家族になっていく過程を見れば普通の結婚だったのかもしれない。多少の以上には慣れていく。。。。
こんな家族という人間関係を思い知らされるような感想がありました。
しかし、この小説は、和人の家族の異常さを単なる異常と描くのではなく、そこには特殊なキノコやサボテンによるドラッグがある。異常な中にも幸せで暮らす家族、しかしこの幸せはドラッグから成り立っている。自分たちの家族を正当化することができるのもこのドラッグである。
この意味ではこの小説は正面から家族を考えさせることを目的としない。やはりサスペンスという域を出ない。読む者そして家族を持つ者にしてみれば、この家族が正常な生活者でありながら異常な家族関係を築いているのではなく、ドラッグというものの力を借りてその異常さがあるという点で救われる。
そうとはいえ、ドラッグに侵された和人の家族をサスペンスの世界と安心はしていられない。
今は家族が家族を殺すという事件が後を絶たないし、家族の人間関係がおかしくなっていることは事実である。このように書くと、昔ながらのよき日本の家族制度がなくなったからだと短絡的に考える人間もいるがそうではない。家族という人間集団も外的なものに支配をされる。社会の中にある経済的な過度の競争、貧困などによるものは大きい。また、エログロナンセンスも氾濫をさせている。この中で家族の人間集団も壊されているのだと思う。
昔ながらの日本的な家族制度。。。これも家父長制的な社会の悪い影響を受けてその考え方に犯された家族制度である。異常な家族である。民主主義が発達すれば家族制度も変わる。
【2004年】
明日は我が家のクリスマスでもと思っています。
イチゴも出てきていますし手作りケーキもいいかな。スポンジケーキはスーパーのものにしようか。だいぶ昔にスポンジケーキも手作りにしたことがありました。焼き具合はうまくいったのでわくわくしたのですが、その後がよくなかった。。。。だいぶ冷めたと思って作りはじめたら生クリームが溶け出してしまいました。やはり粗熱が残っていたものと思います。悲惨なケーキになってしまった。
それ以来手作りケーキは作っていません。
普段食べる食事は適当に作ってもそれなりにおいしいのですが、ケーキというものはやはり基本ができていないとだめですね。。。
所々の家にイルミネーションがともっています。はじめは1件ほどでしたが、数年の間に増えました。夜の帰宅のとき見えると楽しいです。
そういう我が家も出窓に小さなツリーを出したことがありましたが、なんか恥ずかしくなってやめてしまいました。派手なデコレーションもいいですが窓に小さな飾りが見えるというのもきれいなものです。雪国に雪が降り積もり、その出窓から暖かい光が。。。というのはきれいだろうなぁ。こんな空想をするのも雪のない東京だからこそできるのかな?雪国は大変ですからね。
そういえば新潟地震で被害にあわれた地方も雪が降り始めたようですね。。。。
【2005年】
冬至
今日からこの日記も冬です。
本屋さんへ駆け込んだら、ありましたありました。。。。銀色夏生さんの「庭ができました」が!!今日発売です。
檸檬の木も植えられていましたね。初期の詩集に檸檬の木の下で。。。というよおうな甘酸っぱい詩が幾編かあったのを覚えています。好きな木や葉がたくさん植えられ、クローバーを摘んできて植えたり野の草花も大切にしているようです。家をたてる前の取りは荒れ放題だったという写真もありましたが、整地をしても片隅に昔の木を残して木の下の草や南天をそのまま残す区画を作ってありましたが、それがまた味があり好きです。昔のものを少し残すところなどはえらいです!(笑)
それにしてもすごい集中力ですなぁ。。。。感性も。。。
きっと庭やガーデニングの好きな方はもちろん庭造りのプロの方が見ても興味深い庭ではないかと思います。
庭というのは時間がたたないとしっとりと落ち着いた雰囲気が出ないものですが、木だけではなくて育つのが早い草花をうまく使うことでこの嫉妬りさが出ています。
【2006年】
「ハヅキさんのこと」
講談社
川上 弘美 著
表題作「ハヅキさんのこと」を含めた1999年から2005年までに書かれた短編集です。
先に読んだ短編集「ざらざら」とほぼ同時期の作品です。「ざらざら」は雑誌クーネルに連載されたものを出版されましたが、「ハヅキさんのこと」は、他の様々な雑誌に載せた作品です。同じように「エッセイという体裁をとった小説」(あとがき)という面では共通しています。
「ざらざら」の感想でも書きましたが、この2冊は両方をお読みになることをお薦めします。
とはいえ、同じような「エッセイという体裁をとった小説」としても、「ざらざら」は、どちらかというと結婚前の恋愛の中の別れや男女関係を描いていますが、「ハヅキさんのこと」は、「後半の『階段』から『だめなものは』までの11篇」(あとがきより)は除き、どちらかといえば、結婚後の別れや夫婦関係を描くものが多いと思います。これは、同時期の長編「真鶴」につながっていきます。
『ネオンサイン』は、「今朝私は48歳になった。」という言葉からはじまります。川上さんご自身も1958年生まれですから48歳です。48歳になった「私」は、娘と暮らし、鈴木くんという恋人がいる。そんな「私」の平凡な1日は過ぎていく。恋人の鈴木くんという名前からして平凡である。48歳になった日の川上さんの心の中を小説として描いたものなのでしょう。
川上さんの様々な作品を読むと、夫婦間としての男女をいろいろな形で書いていますが、その中でも2つの特徴があります。
夫婦間の関係は破綻をして恋人がいる女性。何らかの理由で逃げていってしまった夫に取り残されたような女性。
どちらも高校生ぐらいの息子や娘がいる。
もちろんこの小説の設定そのものが実際の川上さんご自身の生活かといえば違いもあるのでしょうが、一人の女性として初老を感じる年齢に近づき、過ぎた時間の中で一つの家族、夫婦関係が残っており、50歳も近い女性の目で特に夫婦間の男女としての関係や一人の女としての自分を見つめる心は描かれているのだと思います。
先に読んだ「ざらざら」の『トリスを飲んで』という短編には、娘から見た両親という夫婦関係を見ることができます。「トリスを飲んでハワイに行こう」。。。むかし、ハワイというのははるかな夢のような島。。。そんな古いテレビコマーシャルを僕も覚えがあるが、この両親は50を過ぎているだろう。子から見た両親の夫婦関係は霧の中。「ハヅキさんのこと」には『ネオンサイン』『かすみ草』『森』など、この50歳前後の夫婦関係を書いている。『誤解』の初枝もそうだろう。
子には見えない両親という夫婦関係。
子というのは、両親の30歳前後の姿から覚えがある。それ以前は霧の中であり、夫婦関係も含めて一人の男、一人の女というものも霧の中で、やはりお父さん、お母さんなのである。「トリスを飲んで」にはこの娘の目を描いている。しかし「ハヅキさんのこと」という短編集には、この年老いてゆく男や女という一人の人間が見える。
これは対をなすのではないでしょうか?
川上さんのお年としてから見つめた自分という一人の女の内面を実際の生活を記すのではなくてもその題材を借りて心の中を描いているという意味においてエッセイなのかもしれません。それがあとがきにある「虚と実のあいわいにあるなんだかわからないものが知らず知らずにに現れているのが、(中略)文章を書くとはなるほどそのようなものなのだったと、いまさらながら合点しているところなのである。」という言葉になるのではないかと思います。
今の60歳代は元気である。心も体も若い。40代後半という年齢では、こういう母を持っているかもしれない。「蛇を踏む」という作品では、主人公はもう少し若いが母との葛藤を描いていると思いますが、「誤解」も同じようなものを感じます。どちらも激しい心の動きを描きます。違いは、この母親も「誤解」では語っているということです。40代後半になると自分自身の子が成長し母という面が強くなります。「蛇を踏む」では、娘から見た母への葛藤ですが、今は自分自身がその母になっているわけですから、「誤解」その他の作品において母にも語らせられるというものもでてくるのではないでしょうか。そしてその中にはその時の夫婦関係もあり一人の女もいるわけです。今の川上さんの心がその年齢において描かれるわけです。
こう見ると、短編集という形をとったエッセイなのです。
40歳代後半。。。
母もいて娘や息子もいる。母でもあり娘でもある。その意味で中途半端である。それは、母でもあり一人の女でもあるということで、その二面性に戸惑う。それよりももっと深い一人の人間というものもある。
「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」(「センセイの鞄」より)
子から見た両親は、お父さん、お母さんという切り取られた人間を見ているのであり、○男○子という生きている人間を見ているのだろうか?40歳後半はそれが見えてくる。自分というものを通してなんとなく分かってくる。その自分を見つめたとき、死はそうは近くもないがそうは遠くもないという中途半端さを感じる。人生を振り返ったりこれから先を思う。そうは短くはないがそうも長くはないこれからを。
結局雑多な時間を過ごしていくのでしょうが。。。
40歳後半の女性の心の激しさは、「真鶴」という長編となっていったのだと思います。
冬至
東京のイチョウの木も葉を落とし、木々も裸になりました。
この日記も今日から冬です。
空っ風が吹く冬の乾燥した空気というのは好きではありませんが、こうも天気がはっきりしないのも困ります。
風邪はひと段落ですが。。。
【2007年】
冬至
冬に至るということで。。。
この日記も今日から冬です。
ううう。。。忘年会・・・・
【2008年】
この前、ラーメン屋さんの厨房の中が見えて思った。
寸胴の大きな鍋と火力。。。油通しの大きな油鍋。
プロの技は道具という面があるなぁと。
家庭料理は家庭料理。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
今日は冬至です
冬至になると心がぱっと明るくなります
11月から12月の寒さが苦手です
今年は暖かくて楽でしたが
日が短くなる中の寒さは苦手です
8月も下旬になるとはっきりと日が短くなるのを感じ
そのうちに5時ともなると暗くなる
部屋の電気をつけても明るくならない部屋
そんな夕暮れになっていく
そして寒さを感じるようになり。。。。。
冬至になるとトンネルを抜けたよう
クリスマスや正月は嫌いだけど
これから日が伸びるんだという喜びの行事
その点では心が浮き立ちます
寒さはこれからが本番で
真冬ですからね
でも日が伸びていくのを感じると
寒さもまたよいものです
春という言葉が近づいてきます
カボチャを食って柚子湯に入りました
でも今日は暖かかった。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
社会保障のための消費税の増税や復興財源のための所得税の増税が行われようとしているが、今朝の朝日新聞9面を読むと株の配当や売却益というのは相当な額でその税金も大きい。しかし小泉政権時に証券優遇税制というものが始まってその税額の下がっているという。株式も大口の個人株主もいるだろうが企業や銀行など株の持ち合いもしているわけですからその投資額から見ても証券優遇税制によりだいぶ設けているのではないかと思う。
復興財源では法人税の税率アップも言われていたが、結局は以前から約属されていた減税を一時ストップさせるぐらいに終わりそうである。
また所得税にしてもこれまで高額所得者への減税(税率の下げ)が行われてきて金持ち優遇の税制度となっている。この中で税の所得再配分というものは機能しなくなっているという。
アメリカでは格差に対する反対デモが行われていたが、日本は不労所得の減税や所得税の優遇やら格差の現実を思い知らされる現実がある。
その中で、社会保障のためとか復興だとか庶民への大きな負担を求めてくる。
【2012年】ツイッターつぶやき
◎鶏モモ焼き
ボールに赤ワイン・醤油・蜂蜜・レモンの絞り汁・ニンニク一かけら(スライス)・タイム5本ほどを入れてかき回して鶏モモを漬け込みます。
2時間ほど漬け込んだら耐熱皿に乗せて漬けこんでいたタレのニンニクとタイムを肉の上に乗せます。『スピードオーブン』(レンジのメーカーによって名称が違うと思うのですが、オーブンと電子レンジが一緒に機能するもの)で250度で20分ほど焼きます。
その間にフライパンにバターを入れて溶かし、小麦粉を適量入れて焦げないように少し炒めます。そこに先ほどの漬け汁を少しづつ入れて、ワインのアルコールを飛ばして少しとろみがついたら火を消します。
ここに焼きあがった鶏を入れてたれを絡ませます。
◎手作りケーキ
市販のスポンジを使いました。
生クリームに砂糖(我が家はオリゴ糖)を入れて硬めにホイップします。
ミックスのドライフルーツをみじんに切り、やはりミックスの無塩ナッツをミキサーで粒粒感がだいぶ残るほどに細かくします。
ホイップした生クリームをスポンジの間に入れる分だけ別のボールにとり、上のドライフルーツとナッツを入れてかき回します。
スポンジの下に上の生クリームを乗せ、薄くスライスしたイチゴを敷き詰めます。
上のスポンジを乗せて後は普通のケーキのように生クリームを塗ります。
少しだけ生クリームを残しておいてインスタントのコーヒーを溶かしたものを入れて絞り用のビニールに入れます。我が家はインスタントがないので普通のアイスコーヒー。
あとはイチゴを飾り、コーヒー味の生クリームで飾り付けをします。
鶏モモもケーキもおいしかったです。
鶏モモは柔らかくて赤ワインのソースがしつこくなくて美味かったです。
ケーキは、ドライフルーツやナッツの粒粒感が味のアクセントになり、ほんのりしたコーヒー味が奄美の飽きを防ぎます。
イブは仕事が入り家族皆がそろうのも今夜だけなので早めのメリクリ。。。。。
朝日新聞に「衆院選ツイッター460万件分析」という記事があった。
その調査方法は、約60語を選定して「前向き」「後ろ向き」な言葉を分けて自民・民主そして第三極へのツイートを分析したという。
選挙結果は自民圧勝でしたが、自民党の政策を支持するという意見は少なく、民主党が悪いといった中身となっている。
この点については、民主党への「後ろ向き」なツイートが多く、自民党への「前向き」なツイートは少ないものの「後ろ向き」のツイートも少なかった。しかし自民党に関してのツイート自体はダントツに多かった。そしてこれは自民党の発言はツイッター上の話題としてのものだった。「前向き」か「後ろ向き」かの判別ができないツイートが多かった。
なんとなくこのツイッタのツイートの現状と選挙結果は一致するような気がする。
維新の会も橋下市長の発言をめぐってのツイートが多かったと思うが、やはりツイッター上の話題として多かったのだと思う。
こう見ると案外ツイッター上での議論とマスコミの世論調査とは一致するのかもしれない。
ただツイッターは自分がフォローする人とその人がリツイートした人を中心とした意見を多く読むわけですから、なかなか全体は見渡せないですね。
ただ、マスコミの世論調査とは違い、例えば民主党の支持率が下がっているというだけではなくて、民主党はだめだという中身の生の声がある程度伝わってくるわけです。その意味での中身の問題が案外複雑なのかもしれません。その点で調査でも「前向き」か「後ろ向き」かの判別ができないツイートが多かったという事になるのかもしれません。
【2013年】ツイッターつぶやき
安倍総理が「努力した者が報われる社会」を言いますが、この土台には日本社会に平等さによる自由が必要ですし報いるための民主主義が必要です。何も理想を国に求めるのではありませんが、そのための国家の理念はもち続けなければならないはずです。
同じ能力があってもそこでの競争には生れ落ちる家庭による格差(ハンデー)があってはならないでしょう。もちろん昔から貧乏をしても立身出世をした努力家はいるしそれをたたえもします。しかし国家が補償する努力したものは報われるというのはこのような人を言うのではないのです。平均的な生活を受けられることなのです。平等に。
学歴や仮定状況に左右される社会、親の因果が子に祟る社会ではではだめですね。
そして努力したという中身は0か1かではないはずですし、敗者復活戦が補償されねばならない。
それが平均的な努力での報われる社会です。
日本社会はこの国家が責任を負うべき国民が努力すれば報われる条件という土台を縮小をしてそれも公助から自助へと向かいます。この土台を縮小する中での「努力をするものが報われる」どういうことでしょうか?
逆に捕らえれば今報われない人々は努力が足りないからだといって片付けられてしまう社会です。そこに国の責任はなくなります。そうすると努力しなかった人々という定義づけから助ける必要はないといった論理に進みます。
【2014年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2015年】ツイッターつぶやき
今日は冬至。。。。ということでカボチャを買ってきました。
家族が煮つけはあまり食いたくないというのでポタージュにしてみました。
カボチャは皮をむいてラップをかけて8分ほど電子レンジでチン。
玉ねぎ半分を細かくみじん切り。
鍋にバターを入れて解けたら玉ねぎのみじん切りを入れてよく炒め、塩コショウで下味。
玉ねぎがしんなりとしてきたら少量の水とコンソメスープの素を入れて少し煮詰めます。
そこにゆでたカボチャを入れてつぶしながら炒めます。つぶしすぎないようにコロッとところどころにカボチャが残るほどに。
つぶし終わったら少しづつ生クリームを入れながらペースト状にしていきます。とろみ具合を見ながら牛乳を入れて塩コショウで味を調えて少し煮てから火を止めます。
少し冷ましてから食べるときにまた牛乳を入れて温めます。
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
やっと冬至になりました。
立冬から12月中旬までは苦手な季節です。日も短くなりだんだんと寒くなり心細くなります。
12月下旬の当時過ぎはクリスマスやら正月がやってきて忙しくてカネもかかりますが、冬至が過ぎたという気持ちも楽になり忙しさも楽しめるようになります。
今夜は冬至という事でかぼちゃの煮つけと柚子湯。
ラジオでお寺の冬至の行事をやっていましたが、もしかしたら宗教や暮らしの中での行事というものがたくさんあるかもしれませんね。食い物もカボチャだけではないかも。。。。。
こういったものを調べるのも楽しいかもしれません。
行事などがあれば、クリスマスより冬至の方がワクワクしますね。
ロイターに「中国も出る2.0の衝撃」という記事があった。
これは経済の発展における経済の自由な活動をどう見るべきかを教えてくれる。
「見えざる手」と「見える手」という言葉で表現をされているが、「見えざる手」はもちろん新自由主義での経済の自由を言っている。しかし「見えざる手」によって経済は好転し発展するという論理はすでに破たんをしている。結論を一言で表現すれば、富はますます少数の人々の手に移っていき格差が拡大をしてそれが経済の発展に対する足かせ【桎梏】となるという事である。経済は自由に行動する人により営まれるが、結果は経済の自由な活動の桎梏となる。この矛盾が「見えざる手」の結末である。
外需によりどうにか息をついているアベノミクスの現実はどうだろうか。結局は積極財政として国家の公共事業によるカンフル剤に頼り、国内消費の低迷は軍事費として穴埋めされようとしている。勿論外国人観光客の消費にも。日銀の金融緩和は失敗だったというのがおおよその声になってきて、現実として出口が見えない状況である。
一方における「見える手」とは何か?
今の中国は昔のような教条的な社会主義(共産主義)ではないが、一定の計画経済を導入している。経済矛盾が大きくなりそうになればそこを改善できることが計画経済の一部である。もちろん5か年計画というものは最大の計画経済である。
この間中国のバブル崩壊や成長の鈍化を経済学者など入っていたが、この間の成長維持を見ればある程度成功していると言えるでしょうし、日本を抜いて経済対国家している。アメリカの混迷は相対的に中国の経済力を発展させるでしょう。この中で日本政府も一帯一路路線に協力を申し出なければならない状態となった。
政治的自由は中国の状態というのはまだ発展途上でしょう。しかし日本やアメリカが政治的自由を発揮しているかと言えば現実は後退をしている状況でさらに加速しそうである。
中国も統制社会でしょうが、日本も国民を統制する社会となっている。経済を統制するばかりではなくて政治的な国民統制という形をとる。
経済の自由が国民の自由を発展させるでしょう。国民生活を犠牲にした格差拡大が経済の自由を高めることにはならない。国民の経済の自由、これは生活の自由ですが、これを押さえつけるには必ず政治的自由の後退を必要とする。結果は社会の発展の桎梏となる。
【2018年】ツイッターつぶやき
木枯らしの吹く公園のベンチに座っていた
いつもなら子供を連れたお母さんたちや
日向を楽しむおばあちゃんが
のんびりとした時間を楽しんでいる時間なのに
なぜか僕一人だけがベンチに座っていた
足元には木枯らしが吹き付けていた
一枚の枯葉が小さなつむじ風に乗っていた
クルクル。。。クルクル。。。。
いつもなら一瞬にして消えてしまうつむじ風なのに
いつまでも僕の足元を回っていた
気が付くと、少し大きいつむじ風
大きくてどこか優しいつむじ風
大きくて力強いつむじ風が。。。
僕の周りを回っていた
僕は楽しくなって立ち上がり
真似をして少しくるくると回ってみた
クルクル。。。クルクル。。。。
僕は右足のつま先だけで回れるようになっていた
僕は楽しくて楽しくて。。。。
「こんにちは」、「こんにちは」。。。
「こんにちは」、「こんにちは」。。。
いつの間にか4人の家族と一緒に
クルクルクルクル回っていた
「こんにちは。。。!」
僕も弾む声で答えた
「ハハハ・・・・こんにちは」
「こんにちは。。。。」
僕はその家族と楽しく回りながら挨拶をし続けた
どのくらい時間がたったのだろう
4人の家族はいきなり高く舞い上がった
僕も必死で舞い上がった
空を1週したとき
「あなたは来てはいけないよ」と言われた
そう言い残してつむじ風たちは
高い空の上に舞い上がっていく
気がつくと僕はまた。。。。
公園のベンチに座っていた
すごく寂しかった。。。
空を見上げて涙が出た
そのとき。。。。。
高い空の上からかわいい声が
「おじさん、もうすぐだよ」
「もうすぐ春の家族がやってくるよぉ。。。」
(旧ホームページより)
【2019年】ツイッターつぶやき
年末の土日は買い物はよしたほうがいいと毎年思うのですが、夕飯の買い物ぐらいはしなくてはいけないので今日もつい買い物に行ってしまいました。
道路も混みあっていてスーパーの駐車場に駐車するのも一苦労です。みんな殺気立って空きの駐車場を探す。イライラするので運転も荒っぽい。
店内は、大根1本棚から取るにも人を避けながらで苦労する。
いつもの棚にいつものものが並んでいない。正月用品が鎮座していていつもの物を探すのに苦労する。
レジは混んでいて長い行列。エレベーターも2回待ち。カートまでエレベーターに乗ってくるんで後ろに並んでいると入る隙間がない。
毎年毎年同じ風景が繰り返される。
帰り道、やけに渋滞しているなぁと思ったら百円ショップの駐車場待ち。
クラクションの音が鳴り響く。
【2020年】ツイッターつぶやき
新規国債発行43兆6千億円。
財政再建は捨てられました。
消費増税は社会保障のためというものもチャラに。
これ以上の消費増税を考えているのでしょう。近い将来に。。。。
赤字国債は借金といわれるが、その借金の金を使う人間と返済する人間が分離をしています。コロナ下で企業の救済が進められますが、この間ずっと法人税は減税をされています。借金を返すために行われるのが消費増税です。
【2021年】ツイッターつぶやき
大阪で家族3人のオミクロン株の感染が出た。
海外への渡航歴もなく濃厚接触者でもなかったことから市中感染と判断されました。
海外からの帰国者への水際対策もやはり手薄だったようですね。これまでの大きな波を見ればやはりかと感じました。市中感染は時間の問題だったのかもしれません。今回は大阪でしたが大都市圏をはじめどこで市中感染が広がるかわかりません。
ここで大切なのはこれまでもこのブログで何回も書いてきたように検査を多くやるしかないのです。
親の方は教師だそうですが学校での感染が心配されます。
この3人以外にも4人の感染があったようですが、この4人は先の3人との接触はなかったそうですから別の市中感染と考えられます。
ワクチンについても両親は2回接種済みだったようです。
ワクチンの接種証明アプリもよれよれの状態で始まったようですが、ワクチン自体の信頼性も低下しています。
沖縄でもアメリカ軍基地からの広がりが心配されはじめています。
群馬でクラスターがありました。
年明けにどうなるんでしょ。
年末年始の連休ですからこれをどう生かすかですね。ワクチン証明で出かける人が多くなればオミクロンも全国に広がる危険性があります。
【2022年】ツイッターつぶやき
数の力による国会の形骸化と民主主義の後退は、政治が力による国民統合に移っていく。
マイナンバーカードは任意であったが、現実は健康保険証を無くすというものとなり、来年からは紙の保険証では初診料などで6円ほど負担増を行うようです。これは健康保険の負担の平等を蔑ろにするものです。金額がわずかだという問題ではなく健康保険証をマイナンバーに紐づけする強制です。
力による恫喝は、何も強制はしていないと言いつつ、現実は強制につながる。
メリットは2万円のポイントだけです。
金で釣るというのもえげつない強制です。
岸田内閣は数の力を力の政治に具体化する危険な内閣です。
【2023年】ツイッターつぶやき
久しぶりに用事があり都心の方に出かけてきました。
電車に乗ると今の若い人は背が伸びたなと思います。女性でも僕より背が高い。
でも、少し前までは、女性よりも少しは背が高かったのですが。
どうも僕が縮んだんだとわかりました。
先日妻の付き合いで病院に行ったのですが、暇なのでぶらぶらしながら歩いていると体重計と慎重をはかる機会がありましたので、背をはかってみました。何と2センチも低くなっている。
背が縮む原因は、背骨の間の軟骨のようなものが薄くなるためだと言われている。
たしかにこれでは背が縮んだことになる。
しかし背が低くなるのは背骨の曲がり具合なのかとも思う。
ウウウ。。。。。
老化が進んでいる。
小さくなった婆ちゃんや爺ちゃんを見るが、そういう自分が間もなく来るのかもしれない。
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
冬至
仕事で遅くなり夜は外食。なんとなく暖かくなってきました。暖かくなると雨?でも、夜空は星がきれいでした。
冬の楽しみは、星を見ること。富士山が遠くに見えること。
これから年末年始は東京の空も澄み渡ってきれいでしょうね。
今日からこの「夕螺のつれづれノート」も冬です。
冬至って、冬に至るという意味かな?
ということは今日から冬ということですよね?
季節もそうですし、すべていろいろな物や事象の境目は難しいものです。秋と冬のようにどこからどこが秋で冬なのか?でも必ず秋という季節はありますし、冬という季節もある。その境目が難しいだけです。
秋から冬へは、秋らしさが少なくなっていくと同時に冬らしさが顔を出す。そしてだんだん冬らしさが強くなっていき、秋らしさは限りなく少なくなる。量的な変化です。しかしこの量的変化は質的な変化となり冬という季節が来る。
それが冬至という最も日照時間が少ないときなのでしょう。
そしれしばらくは冬が続き、そのうちに春らしさが顔をのぞく。。。。。
季節。。。。冬は嫌いですが楽しいですね。
暗 鬼文春文庫乃南 アサ 著主人公法子は、あまり気がすすまなかったが一枚の見合い写真を見せられる。写真を見ると紀子のタイプ。
見合い相手は大きな屋敷を構える家で親子4代で住んでいる。このような旧家そして大家族の中に入るという不安はあったものの、法子は見合い相手の和人の優しさにひかれ、家族にも会う中でその不安を解消して結婚をする。
しかしこんなどこにも不安のない家族にもだんだんと不思議さや疑念が出てくる。この小説のサスペンスとしてのこわさは、この非の打ち所のない家族の恐ろしい実態が表れてくるということだけではなく、その恐ろしい家族関係の中に引きづり込まれていき、その恐ろしさの中で法子自身が幸せな気分になり、恐ろしさを恐ろしさと思えなくなって家族の一員となっていくところにある。
家族というのは、社会という外界とつながりはあるにしても家というひとつの塀に囲まれた人間集団でできている。その意味ではその中に外の人間から見たらおもしろい人間関係を見ることができるかもしれない。嫁が苦しむというのも、単なる人間関係というものだけではなく、家そのものからくるものに苦しめられるのではないかと思う。
和人の家族は異常である。その家族の一員となろうとする嫁紀子は、その異常さの中に引き込まれていくが、ある意味では、嫁がその嫁ぎ先の人間、家族になっていく過程を見れば普通の結婚だったのかもしれない。多少の以上には慣れていく。。。。
こんな家族という人間関係を思い知らされるような感想がありました。
しかし、この小説は、和人の家族の異常さを単なる異常と描くのではなく、そこには特殊なキノコやサボテンによるドラッグがある。異常な中にも幸せで暮らす家族、しかしこの幸せはドラッグから成り立っている。自分たちの家族を正当化することができるのもこのドラッグである。
この意味ではこの小説は正面から家族を考えさせることを目的としない。やはりサスペンスという域を出ない。読む者そして家族を持つ者にしてみれば、この家族が正常な生活者でありながら異常な家族関係を築いているのではなく、ドラッグというものの力を借りてその異常さがあるという点で救われる。
そうとはいえ、ドラッグに侵された和人の家族をサスペンスの世界と安心はしていられない。
今は家族が家族を殺すという事件が後を絶たないし、家族の人間関係がおかしくなっていることは事実である。このように書くと、昔ながらのよき日本の家族制度がなくなったからだと短絡的に考える人間もいるがそうではない。家族という人間集団も外的なものに支配をされる。社会の中にある経済的な過度の競争、貧困などによるものは大きい。また、エログロナンセンスも氾濫をさせている。この中で家族の人間集団も壊されているのだと思う。
昔ながらの日本的な家族制度。。。これも家父長制的な社会の悪い影響を受けてその考え方に犯された家族制度である。異常な家族である。民主主義が発達すれば家族制度も変わる。
【2004年】
明日は我が家のクリスマスでもと思っています。
イチゴも出てきていますし手作りケーキもいいかな。スポンジケーキはスーパーのものにしようか。だいぶ昔にスポンジケーキも手作りにしたことがありました。焼き具合はうまくいったのでわくわくしたのですが、その後がよくなかった。。。。だいぶ冷めたと思って作りはじめたら生クリームが溶け出してしまいました。やはり粗熱が残っていたものと思います。悲惨なケーキになってしまった。
それ以来手作りケーキは作っていません。
普段食べる食事は適当に作ってもそれなりにおいしいのですが、ケーキというものはやはり基本ができていないとだめですね。。。
所々の家にイルミネーションがともっています。はじめは1件ほどでしたが、数年の間に増えました。夜の帰宅のとき見えると楽しいです。
そういう我が家も出窓に小さなツリーを出したことがありましたが、なんか恥ずかしくなってやめてしまいました。派手なデコレーションもいいですが窓に小さな飾りが見えるというのもきれいなものです。雪国に雪が降り積もり、その出窓から暖かい光が。。。というのはきれいだろうなぁ。こんな空想をするのも雪のない東京だからこそできるのかな?雪国は大変ですからね。
そういえば新潟地震で被害にあわれた地方も雪が降り始めたようですね。。。。
【2005年】
冬至
今日からこの日記も冬です。
本屋さんへ駆け込んだら、ありましたありました。。。。銀色夏生さんの「庭ができました」が!!今日発売です。
檸檬の木も植えられていましたね。初期の詩集に檸檬の木の下で。。。というよおうな甘酸っぱい詩が幾編かあったのを覚えています。好きな木や葉がたくさん植えられ、クローバーを摘んできて植えたり野の草花も大切にしているようです。家をたてる前の取りは荒れ放題だったという写真もありましたが、整地をしても片隅に昔の木を残して木の下の草や南天をそのまま残す区画を作ってありましたが、それがまた味があり好きです。昔のものを少し残すところなどはえらいです!(笑)
それにしてもすごい集中力ですなぁ。。。。感性も。。。
きっと庭やガーデニングの好きな方はもちろん庭造りのプロの方が見ても興味深い庭ではないかと思います。
庭というのは時間がたたないとしっとりと落ち着いた雰囲気が出ないものですが、木だけではなくて育つのが早い草花をうまく使うことでこの嫉妬りさが出ています。
【2006年】
「ハヅキさんのこと」
講談社
川上 弘美 著
表題作「ハヅキさんのこと」を含めた1999年から2005年までに書かれた短編集です。
先に読んだ短編集「ざらざら」とほぼ同時期の作品です。「ざらざら」は雑誌クーネルに連載されたものを出版されましたが、「ハヅキさんのこと」は、他の様々な雑誌に載せた作品です。同じように「エッセイという体裁をとった小説」(あとがき)という面では共通しています。
「ざらざら」の感想でも書きましたが、この2冊は両方をお読みになることをお薦めします。
とはいえ、同じような「エッセイという体裁をとった小説」としても、「ざらざら」は、どちらかというと結婚前の恋愛の中の別れや男女関係を描いていますが、「ハヅキさんのこと」は、「後半の『階段』から『だめなものは』までの11篇」(あとがきより)は除き、どちらかといえば、結婚後の別れや夫婦関係を描くものが多いと思います。これは、同時期の長編「真鶴」につながっていきます。
『ネオンサイン』は、「今朝私は48歳になった。」という言葉からはじまります。川上さんご自身も1958年生まれですから48歳です。48歳になった「私」は、娘と暮らし、鈴木くんという恋人がいる。そんな「私」の平凡な1日は過ぎていく。恋人の鈴木くんという名前からして平凡である。48歳になった日の川上さんの心の中を小説として描いたものなのでしょう。
川上さんの様々な作品を読むと、夫婦間としての男女をいろいろな形で書いていますが、その中でも2つの特徴があります。
夫婦間の関係は破綻をして恋人がいる女性。何らかの理由で逃げていってしまった夫に取り残されたような女性。
どちらも高校生ぐらいの息子や娘がいる。
もちろんこの小説の設定そのものが実際の川上さんご自身の生活かといえば違いもあるのでしょうが、一人の女性として初老を感じる年齢に近づき、過ぎた時間の中で一つの家族、夫婦関係が残っており、50歳も近い女性の目で特に夫婦間の男女としての関係や一人の女としての自分を見つめる心は描かれているのだと思います。
先に読んだ「ざらざら」の『トリスを飲んで』という短編には、娘から見た両親という夫婦関係を見ることができます。「トリスを飲んでハワイに行こう」。。。むかし、ハワイというのははるかな夢のような島。。。そんな古いテレビコマーシャルを僕も覚えがあるが、この両親は50を過ぎているだろう。子から見た両親の夫婦関係は霧の中。「ハヅキさんのこと」には『ネオンサイン』『かすみ草』『森』など、この50歳前後の夫婦関係を書いている。『誤解』の初枝もそうだろう。
子には見えない両親という夫婦関係。
子というのは、両親の30歳前後の姿から覚えがある。それ以前は霧の中であり、夫婦関係も含めて一人の男、一人の女というものも霧の中で、やはりお父さん、お母さんなのである。「トリスを飲んで」にはこの娘の目を描いている。しかし「ハヅキさんのこと」という短編集には、この年老いてゆく男や女という一人の人間が見える。
これは対をなすのではないでしょうか?
川上さんのお年としてから見つめた自分という一人の女の内面を実際の生活を記すのではなくてもその題材を借りて心の中を描いているという意味においてエッセイなのかもしれません。それがあとがきにある「虚と実のあいわいにあるなんだかわからないものが知らず知らずにに現れているのが、(中略)文章を書くとはなるほどそのようなものなのだったと、いまさらながら合点しているところなのである。」という言葉になるのではないかと思います。
今の60歳代は元気である。心も体も若い。40代後半という年齢では、こういう母を持っているかもしれない。「蛇を踏む」という作品では、主人公はもう少し若いが母との葛藤を描いていると思いますが、「誤解」も同じようなものを感じます。どちらも激しい心の動きを描きます。違いは、この母親も「誤解」では語っているということです。40代後半になると自分自身の子が成長し母という面が強くなります。「蛇を踏む」では、娘から見た母への葛藤ですが、今は自分自身がその母になっているわけですから、「誤解」その他の作品において母にも語らせられるというものもでてくるのではないでしょうか。そしてその中にはその時の夫婦関係もあり一人の女もいるわけです。今の川上さんの心がその年齢において描かれるわけです。
こう見ると、短編集という形をとったエッセイなのです。
40歳代後半。。。
母もいて娘や息子もいる。母でもあり娘でもある。その意味で中途半端である。それは、母でもあり一人の女でもあるということで、その二面性に戸惑う。それよりももっと深い一人の人間というものもある。
「でも、どのひとも、ほんとうに生きているひととして認識していなかった。生きて、自分と同じように雑多な時間を過ごしているのだとは、考えていなかった。」(「センセイの鞄」より)
子から見た両親は、お父さん、お母さんという切り取られた人間を見ているのであり、○男○子という生きている人間を見ているのだろうか?40歳後半はそれが見えてくる。自分というものを通してなんとなく分かってくる。その自分を見つめたとき、死はそうは近くもないがそうは遠くもないという中途半端さを感じる。人生を振り返ったりこれから先を思う。そうは短くはないがそうも長くはないこれからを。
結局雑多な時間を過ごしていくのでしょうが。。。
40歳後半の女性の心の激しさは、「真鶴」という長編となっていったのだと思います。
冬至
東京のイチョウの木も葉を落とし、木々も裸になりました。
この日記も今日から冬です。
空っ風が吹く冬の乾燥した空気というのは好きではありませんが、こうも天気がはっきりしないのも困ります。
風邪はひと段落ですが。。。
【2007年】
冬至
冬に至るということで。。。
この日記も今日から冬です。
ううう。。。忘年会・・・・
【2008年】
この前、ラーメン屋さんの厨房の中が見えて思った。
寸胴の大きな鍋と火力。。。油通しの大きな油鍋。
プロの技は道具という面があるなぁと。
家庭料理は家庭料理。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
今日は冬至です
冬至になると心がぱっと明るくなります
11月から12月の寒さが苦手です
今年は暖かくて楽でしたが
日が短くなる中の寒さは苦手です
8月も下旬になるとはっきりと日が短くなるのを感じ
そのうちに5時ともなると暗くなる
部屋の電気をつけても明るくならない部屋
そんな夕暮れになっていく
そして寒さを感じるようになり。。。。。
冬至になるとトンネルを抜けたよう
クリスマスや正月は嫌いだけど
これから日が伸びるんだという喜びの行事
その点では心が浮き立ちます
寒さはこれからが本番で
真冬ですからね
でも日が伸びていくのを感じると
寒さもまたよいものです
春という言葉が近づいてきます
カボチャを食って柚子湯に入りました
でも今日は暖かかった。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
社会保障のための消費税の増税や復興財源のための所得税の増税が行われようとしているが、今朝の朝日新聞9面を読むと株の配当や売却益というのは相当な額でその税金も大きい。しかし小泉政権時に証券優遇税制というものが始まってその税額の下がっているという。株式も大口の個人株主もいるだろうが企業や銀行など株の持ち合いもしているわけですからその投資額から見ても証券優遇税制によりだいぶ設けているのではないかと思う。
復興財源では法人税の税率アップも言われていたが、結局は以前から約属されていた減税を一時ストップさせるぐらいに終わりそうである。
また所得税にしてもこれまで高額所得者への減税(税率の下げ)が行われてきて金持ち優遇の税制度となっている。この中で税の所得再配分というものは機能しなくなっているという。
アメリカでは格差に対する反対デモが行われていたが、日本は不労所得の減税や所得税の優遇やら格差の現実を思い知らされる現実がある。
その中で、社会保障のためとか復興だとか庶民への大きな負担を求めてくる。
【2012年】ツイッターつぶやき
◎鶏モモ焼き
ボールに赤ワイン・醤油・蜂蜜・レモンの絞り汁・ニンニク一かけら(スライス)・タイム5本ほどを入れてかき回して鶏モモを漬け込みます。
2時間ほど漬け込んだら耐熱皿に乗せて漬けこんでいたタレのニンニクとタイムを肉の上に乗せます。『スピードオーブン』(レンジのメーカーによって名称が違うと思うのですが、オーブンと電子レンジが一緒に機能するもの)で250度で20分ほど焼きます。
その間にフライパンにバターを入れて溶かし、小麦粉を適量入れて焦げないように少し炒めます。そこに先ほどの漬け汁を少しづつ入れて、ワインのアルコールを飛ばして少しとろみがついたら火を消します。
ここに焼きあがった鶏を入れてたれを絡ませます。
◎手作りケーキ
市販のスポンジを使いました。
生クリームに砂糖(我が家はオリゴ糖)を入れて硬めにホイップします。
ミックスのドライフルーツをみじんに切り、やはりミックスの無塩ナッツをミキサーで粒粒感がだいぶ残るほどに細かくします。
ホイップした生クリームをスポンジの間に入れる分だけ別のボールにとり、上のドライフルーツとナッツを入れてかき回します。
スポンジの下に上の生クリームを乗せ、薄くスライスしたイチゴを敷き詰めます。
上のスポンジを乗せて後は普通のケーキのように生クリームを塗ります。
少しだけ生クリームを残しておいてインスタントのコーヒーを溶かしたものを入れて絞り用のビニールに入れます。我が家はインスタントがないので普通のアイスコーヒー。
あとはイチゴを飾り、コーヒー味の生クリームで飾り付けをします。
鶏モモもケーキもおいしかったです。
鶏モモは柔らかくて赤ワインのソースがしつこくなくて美味かったです。
ケーキは、ドライフルーツやナッツの粒粒感が味のアクセントになり、ほんのりしたコーヒー味が奄美の飽きを防ぎます。
イブは仕事が入り家族皆がそろうのも今夜だけなので早めのメリクリ。。。。。
朝日新聞に「衆院選ツイッター460万件分析」という記事があった。
その調査方法は、約60語を選定して「前向き」「後ろ向き」な言葉を分けて自民・民主そして第三極へのツイートを分析したという。
選挙結果は自民圧勝でしたが、自民党の政策を支持するという意見は少なく、民主党が悪いといった中身となっている。
この点については、民主党への「後ろ向き」なツイートが多く、自民党への「前向き」なツイートは少ないものの「後ろ向き」のツイートも少なかった。しかし自民党に関してのツイート自体はダントツに多かった。そしてこれは自民党の発言はツイッター上の話題としてのものだった。「前向き」か「後ろ向き」かの判別ができないツイートが多かった。
なんとなくこのツイッタのツイートの現状と選挙結果は一致するような気がする。
維新の会も橋下市長の発言をめぐってのツイートが多かったと思うが、やはりツイッター上の話題として多かったのだと思う。
こう見ると案外ツイッター上での議論とマスコミの世論調査とは一致するのかもしれない。
ただツイッターは自分がフォローする人とその人がリツイートした人を中心とした意見を多く読むわけですから、なかなか全体は見渡せないですね。
ただ、マスコミの世論調査とは違い、例えば民主党の支持率が下がっているというだけではなくて、民主党はだめだという中身の生の声がある程度伝わってくるわけです。その意味での中身の問題が案外複雑なのかもしれません。その点で調査でも「前向き」か「後ろ向き」かの判別ができないツイートが多かったという事になるのかもしれません。
【2013年】ツイッターつぶやき
安倍総理が「努力した者が報われる社会」を言いますが、この土台には日本社会に平等さによる自由が必要ですし報いるための民主主義が必要です。何も理想を国に求めるのではありませんが、そのための国家の理念はもち続けなければならないはずです。
同じ能力があってもそこでの競争には生れ落ちる家庭による格差(ハンデー)があってはならないでしょう。もちろん昔から貧乏をしても立身出世をした努力家はいるしそれをたたえもします。しかし国家が補償する努力したものは報われるというのはこのような人を言うのではないのです。平均的な生活を受けられることなのです。平等に。
学歴や仮定状況に左右される社会、親の因果が子に祟る社会ではではだめですね。
そして努力したという中身は0か1かではないはずですし、敗者復活戦が補償されねばならない。
それが平均的な努力での報われる社会です。
日本社会はこの国家が責任を負うべき国民が努力すれば報われる条件という土台を縮小をしてそれも公助から自助へと向かいます。この土台を縮小する中での「努力をするものが報われる」どういうことでしょうか?
逆に捕らえれば今報われない人々は努力が足りないからだといって片付けられてしまう社会です。そこに国の責任はなくなります。そうすると努力しなかった人々という定義づけから助ける必要はないといった論理に進みます。
【2014年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2015年】ツイッターつぶやき
今日は冬至。。。。ということでカボチャを買ってきました。
家族が煮つけはあまり食いたくないというのでポタージュにしてみました。
カボチャは皮をむいてラップをかけて8分ほど電子レンジでチン。
玉ねぎ半分を細かくみじん切り。
鍋にバターを入れて解けたら玉ねぎのみじん切りを入れてよく炒め、塩コショウで下味。
玉ねぎがしんなりとしてきたら少量の水とコンソメスープの素を入れて少し煮詰めます。
そこにゆでたカボチャを入れてつぶしながら炒めます。つぶしすぎないようにコロッとところどころにカボチャが残るほどに。
つぶし終わったら少しづつ生クリームを入れながらペースト状にしていきます。とろみ具合を見ながら牛乳を入れて塩コショウで味を調えて少し煮てから火を止めます。
少し冷ましてから食べるときにまた牛乳を入れて温めます。
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
やっと冬至になりました。
立冬から12月中旬までは苦手な季節です。日も短くなりだんだんと寒くなり心細くなります。
12月下旬の当時過ぎはクリスマスやら正月がやってきて忙しくてカネもかかりますが、冬至が過ぎたという気持ちも楽になり忙しさも楽しめるようになります。
今夜は冬至という事でかぼちゃの煮つけと柚子湯。
ラジオでお寺の冬至の行事をやっていましたが、もしかしたら宗教や暮らしの中での行事というものがたくさんあるかもしれませんね。食い物もカボチャだけではないかも。。。。。
こういったものを調べるのも楽しいかもしれません。
行事などがあれば、クリスマスより冬至の方がワクワクしますね。
ロイターに「中国も出る2.0の衝撃」という記事があった。
これは経済の発展における経済の自由な活動をどう見るべきかを教えてくれる。
「見えざる手」と「見える手」という言葉で表現をされているが、「見えざる手」はもちろん新自由主義での経済の自由を言っている。しかし「見えざる手」によって経済は好転し発展するという論理はすでに破たんをしている。結論を一言で表現すれば、富はますます少数の人々の手に移っていき格差が拡大をしてそれが経済の発展に対する足かせ【桎梏】となるという事である。経済は自由に行動する人により営まれるが、結果は経済の自由な活動の桎梏となる。この矛盾が「見えざる手」の結末である。
外需によりどうにか息をついているアベノミクスの現実はどうだろうか。結局は積極財政として国家の公共事業によるカンフル剤に頼り、国内消費の低迷は軍事費として穴埋めされようとしている。勿論外国人観光客の消費にも。日銀の金融緩和は失敗だったというのがおおよその声になってきて、現実として出口が見えない状況である。
一方における「見える手」とは何か?
今の中国は昔のような教条的な社会主義(共産主義)ではないが、一定の計画経済を導入している。経済矛盾が大きくなりそうになればそこを改善できることが計画経済の一部である。もちろん5か年計画というものは最大の計画経済である。
この間中国のバブル崩壊や成長の鈍化を経済学者など入っていたが、この間の成長維持を見ればある程度成功していると言えるでしょうし、日本を抜いて経済対国家している。アメリカの混迷は相対的に中国の経済力を発展させるでしょう。この中で日本政府も一帯一路路線に協力を申し出なければならない状態となった。
政治的自由は中国の状態というのはまだ発展途上でしょう。しかし日本やアメリカが政治的自由を発揮しているかと言えば現実は後退をしている状況でさらに加速しそうである。
中国も統制社会でしょうが、日本も国民を統制する社会となっている。経済を統制するばかりではなくて政治的な国民統制という形をとる。
経済の自由が国民の自由を発展させるでしょう。国民生活を犠牲にした格差拡大が経済の自由を高めることにはならない。国民の経済の自由、これは生活の自由ですが、これを押さえつけるには必ず政治的自由の後退を必要とする。結果は社会の発展の桎梏となる。
【2018年】ツイッターつぶやき
木枯らしの吹く公園のベンチに座っていた
いつもなら子供を連れたお母さんたちや
日向を楽しむおばあちゃんが
のんびりとした時間を楽しんでいる時間なのに
なぜか僕一人だけがベンチに座っていた
足元には木枯らしが吹き付けていた
一枚の枯葉が小さなつむじ風に乗っていた
クルクル。。。クルクル。。。。
いつもなら一瞬にして消えてしまうつむじ風なのに
いつまでも僕の足元を回っていた
気が付くと、少し大きいつむじ風
大きくてどこか優しいつむじ風
大きくて力強いつむじ風が。。。
僕の周りを回っていた
僕は楽しくなって立ち上がり
真似をして少しくるくると回ってみた
クルクル。。。クルクル。。。。
僕は右足のつま先だけで回れるようになっていた
僕は楽しくて楽しくて。。。。
「こんにちは」、「こんにちは」。。。
「こんにちは」、「こんにちは」。。。
いつの間にか4人の家族と一緒に
クルクルクルクル回っていた
「こんにちは。。。!」
僕も弾む声で答えた
「ハハハ・・・・こんにちは」
「こんにちは。。。。」
僕はその家族と楽しく回りながら挨拶をし続けた
どのくらい時間がたったのだろう
4人の家族はいきなり高く舞い上がった
僕も必死で舞い上がった
空を1週したとき
「あなたは来てはいけないよ」と言われた
そう言い残してつむじ風たちは
高い空の上に舞い上がっていく
気がつくと僕はまた。。。。
公園のベンチに座っていた
すごく寂しかった。。。
空を見上げて涙が出た
そのとき。。。。。
高い空の上からかわいい声が
「おじさん、もうすぐだよ」
「もうすぐ春の家族がやってくるよぉ。。。」
(旧ホームページより)
【2019年】ツイッターつぶやき
年末の土日は買い物はよしたほうがいいと毎年思うのですが、夕飯の買い物ぐらいはしなくてはいけないので今日もつい買い物に行ってしまいました。
道路も混みあっていてスーパーの駐車場に駐車するのも一苦労です。みんな殺気立って空きの駐車場を探す。イライラするので運転も荒っぽい。
店内は、大根1本棚から取るにも人を避けながらで苦労する。
いつもの棚にいつものものが並んでいない。正月用品が鎮座していていつもの物を探すのに苦労する。
レジは混んでいて長い行列。エレベーターも2回待ち。カートまでエレベーターに乗ってくるんで後ろに並んでいると入る隙間がない。
毎年毎年同じ風景が繰り返される。
帰り道、やけに渋滞しているなぁと思ったら百円ショップの駐車場待ち。
クラクションの音が鳴り響く。
【2020年】ツイッターつぶやき
新規国債発行43兆6千億円。
財政再建は捨てられました。
消費増税は社会保障のためというものもチャラに。
これ以上の消費増税を考えているのでしょう。近い将来に。。。。
赤字国債は借金といわれるが、その借金の金を使う人間と返済する人間が分離をしています。コロナ下で企業の救済が進められますが、この間ずっと法人税は減税をされています。借金を返すために行われるのが消費増税です。
【2021年】ツイッターつぶやき
大阪で家族3人のオミクロン株の感染が出た。
海外への渡航歴もなく濃厚接触者でもなかったことから市中感染と判断されました。
海外からの帰国者への水際対策もやはり手薄だったようですね。これまでの大きな波を見ればやはりかと感じました。市中感染は時間の問題だったのかもしれません。今回は大阪でしたが大都市圏をはじめどこで市中感染が広がるかわかりません。
ここで大切なのはこれまでもこのブログで何回も書いてきたように検査を多くやるしかないのです。
親の方は教師だそうですが学校での感染が心配されます。
この3人以外にも4人の感染があったようですが、この4人は先の3人との接触はなかったそうですから別の市中感染と考えられます。
ワクチンについても両親は2回接種済みだったようです。
ワクチンの接種証明アプリもよれよれの状態で始まったようですが、ワクチン自体の信頼性も低下しています。
沖縄でもアメリカ軍基地からの広がりが心配されはじめています。
群馬でクラスターがありました。
年明けにどうなるんでしょ。
年末年始の連休ですからこれをどう生かすかですね。ワクチン証明で出かける人が多くなればオミクロンも全国に広がる危険性があります。
【2022年】ツイッターつぶやき
数の力による国会の形骸化と民主主義の後退は、政治が力による国民統合に移っていく。
マイナンバーカードは任意であったが、現実は健康保険証を無くすというものとなり、来年からは紙の保険証では初診料などで6円ほど負担増を行うようです。これは健康保険の負担の平等を蔑ろにするものです。金額がわずかだという問題ではなく健康保険証をマイナンバーに紐づけする強制です。
力による恫喝は、何も強制はしていないと言いつつ、現実は強制につながる。
メリットは2万円のポイントだけです。
金で釣るというのもえげつない強制です。
岸田内閣は数の力を力の政治に具体化する危険な内閣です。
【2023年】ツイッターつぶやき
久しぶりに用事があり都心の方に出かけてきました。
電車に乗ると今の若い人は背が伸びたなと思います。女性でも僕より背が高い。
でも、少し前までは、女性よりも少しは背が高かったのですが。
どうも僕が縮んだんだとわかりました。
先日妻の付き合いで病院に行ったのですが、暇なのでぶらぶらしながら歩いていると体重計と慎重をはかる機会がありましたので、背をはかってみました。何と2センチも低くなっている。
背が縮む原因は、背骨の間の軟骨のようなものが薄くなるためだと言われている。
たしかにこれでは背が縮んだことになる。
しかし背が低くなるのは背骨の曲がり具合なのかとも思う。
ウウウ。。。。。
老化が進んでいる。
小さくなった婆ちゃんや爺ちゃんを見るが、そういう自分が間もなく来るのかもしれない。