夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2018年 3月 5日(月)「俳句と自由」

2018年03月05日 11時37分46秒 | * 俳句 *
先日書いた俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とはなにか(3)の続きです。
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けての俳句と自由を考える場合、福田若之さんの有馬朗人氏に反対する
ー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってー
【週刊俳句】を見てみましょう。
これは有馬朗人さんのインタビュー記事そこが聞きたい!世界のHAIKUへの批判として書かれています。
結論から先に書くと、福田若之さんの「俳句とは?」の考え方が見えておらず、「近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」(引用)と、書いていますが、ここでは俳句とは「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」という事だけです。これでは有馬さんへの批判としては成り立たないでしょう。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。(3)」でも引用した有馬さんのお考えでえある
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
と、福田さんの
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
とは違いがないのです。
俳句の自由さを求める中で、自由が大衆迎合的になし崩し的な拡大解釈がされはじめてしまいます。
僕たちは自然に働きかけながらも自然の法則の中で規制されて生きています。ここには観念論的なまったくの自由はありません。自然の法則にその都度従う中で自由は貫徹されています。自由になりたいなら、自然に対して自由に働きかけたいならば、自然法則をしっかり見つめなければその自由を手に取ることができないでしょう。
それと同じように俳句には一つの法則のような決まりごとがあります。ここからはみ出せばすでに俳句ではなくなります。同じ5・75でも川柳とよばれる表現形態が独立しました。俳句から影響された絵画では俳画が生まれました。これらは俳句ではありません。福田さんがおかきの俳句から影響された音楽も俳句ではなくてひとつの表現方法であり「俳楽」ととでも呼ぶ新しい表現方法として広まればよいのです。
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」というだけでは誤りです。
同時に俳句をみじかい詩あるいは誰でも簡単に作ることができるとだけ規定をしてしまうと、それは季語さえ入れれば交通安全標語も俳句となります。これを俳句ではないと切り離して俳句的言葉遊びあるいは俳句的標語などという分野に置くべきでしょう。
次は俳句の世界で規制されている中での自由を書きたいと思います。

 俳句はなぜ自由であり得るか」につづく

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