以下は2008年にホームページでそれまで「俳諧大要」を読んだ感想をまとめたものです。
時々子規の「俳諧大要」をペラペラ開きながら読み、そのつど感想をブログ内に「俳句考」として書いてきました。
まとまらないし解釈が妥当かは自信がないので巣が、「感想」としてと同時に「俳句ってなんだろ?」と考えながらの感想です。
これまで書いてきた感想の転載ですから箇条書き風になっています。
俳句のことを考えながら正岡子規でもと本棚を探していたら、「俳諧大要」という本が目についた。
もう15年以上昔に読んだ本です。
俳句とは?といったものを初心者に解説した本であり、同時に過去の俳句を紹介をして子規の味わい方のようなものの解説があります。
近代の俳句も子規から始まるとはいえ、子規亡き後は弟子たちの間にもいろいろな考え方も出て来て、今はさまざまな枝葉のような発展があるのだろうと思いますが、子規がどのように書いているかをあらためて読むのもおもしろいと思います。
俳句を文学(詩)に高めるための力強い文体に圧倒されます。
今読んでいる本に平行しながらぺらっと読み返したいと思います。
芭蕉の「古池や。。。。」の句を静寂とか解釈すが、芭蕉はただ、かえるが池にボチャンと飛び込んだというのを詠んだのだと。
漱石と子規とのあいだに、俳句はスケッチだという言葉がたしか出ていたと思うのですが、その自然などを見つめる目が大切ということだろうか?
「俳諧大要」は、初心者に向けて書かれていますが、初心者はまずこのスケッチをたくさんしろということかもしれない。
俳句には17文字とか季語を入れるとかいくつかの決まりがあるわけですが、子規は初心者に対してすごく寛大であり、字数。。。。18文字でもいいんじゃない。「雑」季語が要れられないならそれも。。。とか、まずは見つめる目を養うということを教えているのかもしれません。
かえって俳句のお師匠さんを気取る方への批判も。
決まりごとに縛られるより自由に目を肥やす。それがだんだんと決まりごとを守れるような俳句に進歩していきますよ♪。。。そんな子規の笑顔が見えるような著書です。
オリジナリティーな自由な心の中から出てくる言葉。。。。
東京は天気がはっきりせず薄ら寒さも感じます。
5月や10月、一年間のあいだに過ごしやすい季節というのは2ヶ月ほどかもしれません。まぁ、夏は好きですが。。。。
でも、過ごしやすいというのは人間から感じる自然です。もしかしたら人間だけではなくてすべての生物にもいえるのかもしれません。自然は、生物に対して厳しさを持つというのが基本かもしれません。生物は自然に順応することで生き延びている。
そうならば、一生物である僕も順応するしかない。もちろん順応しているから生きているわけですが、気持ちの中にある「嫌な季節・天気」というものにも心として順応しなくてはいけないのかなということです。
まぁ、嫌なものは嫌なのですが、自然を見つめる事でどうにか順応できるのではないかと思います。幸いに日本にはきれいな自然の移りゆきがありますし、それを心で感じ取ろうとする俳句というものがある。ううう。。。。ん、俳句かぁ・・・・
前回の俳句考1では、俳句はスケッチのようにそのままを詠むということかと書きましたが、俳句はこのように四季の自然を用いる事が基本で、その意味においてのスケッチといえるかもしれない。
しかし子規は、俳句に表現されるものは自然の景物に限るものではないと。「季以外の雑財」を取り入れて読むべきだと。そしてこの両者が並ぶ事により句の狭さがなくなると。
では、この「雑題」が何かを考えると、四季の自然以外ということから人の営みということだろう。それは農耕をはじめに四季折々の習慣などかもしれない。
自然に対する人間(人工)は、なんとなく見方によっては対立的にも見ることができるが、子規はこの両方がないと駄目だと。それは言うに及ばず人の感情が入るということではないか?
この意味においての人間の姿のスケッチでもあるということではないか?
ここに俳句の複雑さと面白みがあるのだろう。
子規は、このような意味での俳句を(人間の感情が入るにしても?)難しく詠めば高尚な句であると勘違いをしてはならないといっているようである。そうではなく「平凡なる句はなかなかに貴し」という。
その意味では
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
という有名な句は、スケッチ的でありわかりやすく平凡さもある。
しかし子規は書く
「このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり」と。。。。。
人の行いが現れているし、朝顔という自然の貴さも出ているが、これは俳句とは呼べないとも。厳しいですなぁ。。。。
もっと自然な形の中に心を表せということでしょうか?。。。。うううう
難しいですなぁ。。。。
第6章では、就学第二期に入ります。
「利根のある学生俳句をものすること5千首」
このぐらい詠めれば第二期に入れと。
利根。。。賢く機転が利くというような意味だそうです。「学生」については先のほうにも出てきましたが難しいです。
普通の人でも少しは学問のある者でも1万首詠めば第二期に入ってもよいだろうと。
この少しは学問がある者というのが難しいですなぁ。
明治の時代のインテリは、漢文や古事に詳しくといった教養を連想しますし、さらさらと毛筆で達筆な手紙をきちんと書けるとか。俳句にもこのような教養が出てくるようです。現代でも俳句の世界ではこの教養のあるないに俳句の深みが決まってくるのでしょうか?
仮にこれを伝統的な俳句とするならば、現代的インテリジェンスや教養、あるいは現代人の持つ機転のある頭のやわらかさから来る俳句もあるはずですね。季語も変化してきているようです。明治の子規の句も現代俳句、今の俳人の句も現代俳句なのでしょう。。。。
まぁ、どちらにしてもよりすぐれた頭脳や少しは学問のある普通の人でもない僕としてはたじろぎますなぁ。。。。
しかし、ここで書いている子規の言葉は、最後の第三期に上り詰める志、プロとはいわないまでも俳句雑誌などで名が通るような、俳人になることを目的にしているのかもしれません。これに対して学問はないが少しでも俳句を楽しみたいといういわば素人がいてもいいわけです。「俳諧大要」で言えば修学第1期にとどまる素人が大勢いることもまた俳句の世界を広げるわけです。でも、ただの大衆受けをするようなだけの俳句の世界ができてもとは思うが。。。
うん。。。1匹狼の自己満足?
こういう俳句もあっていいのかも(笑)
でも、学問はないから大層なことは書けないが、それでも正直に素直に書くこと。俳句でも読書感想文でも。
新聞の俳句欄を時々開いて入選した句を読ませてもらいます。
しかし、その句がどのような意味を持つのかがよくわからない。難しい漢字は読めないしその意味となるとなおわからん。
子規は書きます。
「天然を研究して深きものが熟慮したる句を示すとも、諸学の人はその句の美を感ぜざるべし。けだし彼は天然の上にかかる美の分子あることを知らざればなり。」
(66ページ)
優れた句を読み、その表現される世界を感じ取れないという事は、結局は優れた句は素人には作れないという事なのかもしれない。
子規は例句をあげながらその句は何を歌っているのかを書いている。たしかに子規の書く解釈を読むとその句の意味することがよくわかる。
たくさんの句を詠む事、読む事は、一緒だという事でしょうね。それには、さまざまな事物に心向けて勉強しなければならないということでしょうし、感じ取る心が必要なのでしょうね。
たった17文字ですが、それを文学に高めようとした子規ですが、初心者には優しさがありますが、17文字とはいえ奥深いものだぞと教えているのでしょうね。
でも、俳句の中の言葉は、その時代により現代人では理解できない時代性がある。現代人からすれば明治も遠い時代です。それ以上に明治の前ははるか遠くに過ぎた時代。現代語にも今の時代としての心に響く言葉があるはず。でも、子規の時代から離れた奇抜さだけの句は。。。。
今の時代の言葉で花鳥風月を。。。。それには、決まりという制約を受けながらもそこに真の自由のおもしろさがあるのかもしれない。
「俳諧大要」読了。
その他のものは後日時間があったら読み返したいと思います。
2018年追記:またそのうち読んでみたいと思います。
時々子規の「俳諧大要」をペラペラ開きながら読み、そのつど感想をブログ内に「俳句考」として書いてきました。
まとまらないし解釈が妥当かは自信がないので巣が、「感想」としてと同時に「俳句ってなんだろ?」と考えながらの感想です。
これまで書いてきた感想の転載ですから箇条書き風になっています。
俳句のことを考えながら正岡子規でもと本棚を探していたら、「俳諧大要」という本が目についた。
もう15年以上昔に読んだ本です。
俳句とは?といったものを初心者に解説した本であり、同時に過去の俳句を紹介をして子規の味わい方のようなものの解説があります。
近代の俳句も子規から始まるとはいえ、子規亡き後は弟子たちの間にもいろいろな考え方も出て来て、今はさまざまな枝葉のような発展があるのだろうと思いますが、子規がどのように書いているかをあらためて読むのもおもしろいと思います。
俳句を文学(詩)に高めるための力強い文体に圧倒されます。
今読んでいる本に平行しながらぺらっと読み返したいと思います。
芭蕉の「古池や。。。。」の句を静寂とか解釈すが、芭蕉はただ、かえるが池にボチャンと飛び込んだというのを詠んだのだと。
漱石と子規とのあいだに、俳句はスケッチだという言葉がたしか出ていたと思うのですが、その自然などを見つめる目が大切ということだろうか?
「俳諧大要」は、初心者に向けて書かれていますが、初心者はまずこのスケッチをたくさんしろということかもしれない。
俳句には17文字とか季語を入れるとかいくつかの決まりがあるわけですが、子規は初心者に対してすごく寛大であり、字数。。。。18文字でもいいんじゃない。「雑」季語が要れられないならそれも。。。とか、まずは見つめる目を養うということを教えているのかもしれません。
かえって俳句のお師匠さんを気取る方への批判も。
決まりごとに縛られるより自由に目を肥やす。それがだんだんと決まりごとを守れるような俳句に進歩していきますよ♪。。。そんな子規の笑顔が見えるような著書です。
オリジナリティーな自由な心の中から出てくる言葉。。。。
東京は天気がはっきりせず薄ら寒さも感じます。
5月や10月、一年間のあいだに過ごしやすい季節というのは2ヶ月ほどかもしれません。まぁ、夏は好きですが。。。。
でも、過ごしやすいというのは人間から感じる自然です。もしかしたら人間だけではなくてすべての生物にもいえるのかもしれません。自然は、生物に対して厳しさを持つというのが基本かもしれません。生物は自然に順応することで生き延びている。
そうならば、一生物である僕も順応するしかない。もちろん順応しているから生きているわけですが、気持ちの中にある「嫌な季節・天気」というものにも心として順応しなくてはいけないのかなということです。
まぁ、嫌なものは嫌なのですが、自然を見つめる事でどうにか順応できるのではないかと思います。幸いに日本にはきれいな自然の移りゆきがありますし、それを心で感じ取ろうとする俳句というものがある。ううう。。。。ん、俳句かぁ・・・・
前回の俳句考1では、俳句はスケッチのようにそのままを詠むということかと書きましたが、俳句はこのように四季の自然を用いる事が基本で、その意味においてのスケッチといえるかもしれない。
しかし子規は、俳句に表現されるものは自然の景物に限るものではないと。「季以外の雑財」を取り入れて読むべきだと。そしてこの両者が並ぶ事により句の狭さがなくなると。
では、この「雑題」が何かを考えると、四季の自然以外ということから人の営みということだろう。それは農耕をはじめに四季折々の習慣などかもしれない。
自然に対する人間(人工)は、なんとなく見方によっては対立的にも見ることができるが、子規はこの両方がないと駄目だと。それは言うに及ばず人の感情が入るということではないか?
この意味においての人間の姿のスケッチでもあるということではないか?
ここに俳句の複雑さと面白みがあるのだろう。
子規は、このような意味での俳句を(人間の感情が入るにしても?)難しく詠めば高尚な句であると勘違いをしてはならないといっているようである。そうではなく「平凡なる句はなかなかに貴し」という。
その意味では
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
という有名な句は、スケッチ的でありわかりやすく平凡さもある。
しかし子規は書く
「このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり」と。。。。。
人の行いが現れているし、朝顔という自然の貴さも出ているが、これは俳句とは呼べないとも。厳しいですなぁ。。。。
もっと自然な形の中に心を表せということでしょうか?。。。。うううう
難しいですなぁ。。。。
第6章では、就学第二期に入ります。
「利根のある学生俳句をものすること5千首」
このぐらい詠めれば第二期に入れと。
利根。。。賢く機転が利くというような意味だそうです。「学生」については先のほうにも出てきましたが難しいです。
普通の人でも少しは学問のある者でも1万首詠めば第二期に入ってもよいだろうと。
この少しは学問がある者というのが難しいですなぁ。
明治の時代のインテリは、漢文や古事に詳しくといった教養を連想しますし、さらさらと毛筆で達筆な手紙をきちんと書けるとか。俳句にもこのような教養が出てくるようです。現代でも俳句の世界ではこの教養のあるないに俳句の深みが決まってくるのでしょうか?
仮にこれを伝統的な俳句とするならば、現代的インテリジェンスや教養、あるいは現代人の持つ機転のある頭のやわらかさから来る俳句もあるはずですね。季語も変化してきているようです。明治の子規の句も現代俳句、今の俳人の句も現代俳句なのでしょう。。。。
まぁ、どちらにしてもよりすぐれた頭脳や少しは学問のある普通の人でもない僕としてはたじろぎますなぁ。。。。
しかし、ここで書いている子規の言葉は、最後の第三期に上り詰める志、プロとはいわないまでも俳句雑誌などで名が通るような、俳人になることを目的にしているのかもしれません。これに対して学問はないが少しでも俳句を楽しみたいといういわば素人がいてもいいわけです。「俳諧大要」で言えば修学第1期にとどまる素人が大勢いることもまた俳句の世界を広げるわけです。でも、ただの大衆受けをするようなだけの俳句の世界ができてもとは思うが。。。
うん。。。1匹狼の自己満足?
こういう俳句もあっていいのかも(笑)
でも、学問はないから大層なことは書けないが、それでも正直に素直に書くこと。俳句でも読書感想文でも。
新聞の俳句欄を時々開いて入選した句を読ませてもらいます。
しかし、その句がどのような意味を持つのかがよくわからない。難しい漢字は読めないしその意味となるとなおわからん。
子規は書きます。
「天然を研究して深きものが熟慮したる句を示すとも、諸学の人はその句の美を感ぜざるべし。けだし彼は天然の上にかかる美の分子あることを知らざればなり。」
(66ページ)
優れた句を読み、その表現される世界を感じ取れないという事は、結局は優れた句は素人には作れないという事なのかもしれない。
子規は例句をあげながらその句は何を歌っているのかを書いている。たしかに子規の書く解釈を読むとその句の意味することがよくわかる。
たくさんの句を詠む事、読む事は、一緒だという事でしょうね。それには、さまざまな事物に心向けて勉強しなければならないということでしょうし、感じ取る心が必要なのでしょうね。
たった17文字ですが、それを文学に高めようとした子規ですが、初心者には優しさがありますが、17文字とはいえ奥深いものだぞと教えているのでしょうね。
でも、俳句の中の言葉は、その時代により現代人では理解できない時代性がある。現代人からすれば明治も遠い時代です。それ以上に明治の前ははるか遠くに過ぎた時代。現代語にも今の時代としての心に響く言葉があるはず。でも、子規の時代から離れた奇抜さだけの句は。。。。
今の時代の言葉で花鳥風月を。。。。それには、決まりという制約を受けながらもそこに真の自由のおもしろさがあるのかもしれない。
「俳諧大要」読了。
その他のものは後日時間があったら読み返したいと思います。
2018年追記:またそのうち読んでみたいと思います。
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