昨日書いた「俳句と自由」の続きです。
「俳句と自由」では俳句が持つ規制の中におて自由は存在するという事を書いた。同時に17文字だから誰でも簡単に書ける詩だといったものを違いとも書きました。
俳句は「十七文字の定型有季」という規制の中において自由でなければならない。
では なぜ「十七文字の定型有季」という窮屈な俳句の世界に無限の自由が存在するか。窮屈さの中の自由という面では、「俳句の窮屈さ」と「季語の窮屈さ」の中で少しふれました。しかしもう少し福田さんの有馬さんへの批判を見てみることにします。
福田さんは次のように書いています。
「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
ただ自然の美しさなどをスケッチするだけに俳句を閉じ込めてはならないというようにとらえられます。
一方で福田さんの俳句感は、
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
「何かを是非「俳句」と呼んでみたくて仕方がないという妙な執心によって、そのつどかろうじて「俳句」と呼ばれるのではなかったか。」
と。俳句は自然の美しさだけではなくて人の心の表現だというようにとらえられます。
以上の整理は待ったまったくこの僕の主観ですが、俳句を自然の美しさを17文字でスケッチするという「自然詩」とすることも間違いですし、人の心を17文字で表現して詩にすれば俳句と呼んでもよいのではないかというのもまた間違いでしょう。
有馬さんの主張と福田さんの主張が混然と一体化した世界が俳句となります。月の美しさ。月の美しさは季語としてもたくさんあります。同時に同じ月を見ても見る人ごとにその月の姿のとらえ方が違うでしょう。恋人とデートの時に見る月と恋人と別れた後に見る月は違います。ですから俳句はその月そのものをスケッチするのではなくて、見ている人の心を同時にスケッチをしているのです。また楽しい気持ちの時には月でなくて花を見て句を詠むかもしれません。悲しいとき星を見て句にするかもしれません。今の気持ちを自然の中の何に写しているかも人それぞれです。
ですから「十七文字の定型有季」自然と人の営みや心の現れと混然と一体化する中で無限の表現的自由さを持つことができるのです。この上に立って俳句は自然詩と言えます。
ではなぜ「有季」か?次はここを考えたいと思います。
「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」につづく
「俳句と自由」では俳句が持つ規制の中におて自由は存在するという事を書いた。同時に17文字だから誰でも簡単に書ける詩だといったものを違いとも書きました。
俳句は「十七文字の定型有季」という規制の中において自由でなければならない。
では なぜ「十七文字の定型有季」という窮屈な俳句の世界に無限の自由が存在するか。窮屈さの中の自由という面では、「俳句の窮屈さ」と「季語の窮屈さ」の中で少しふれました。しかしもう少し福田さんの有馬さんへの批判を見てみることにします。
福田さんは次のように書いています。
「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
ただ自然の美しさなどをスケッチするだけに俳句を閉じ込めてはならないというようにとらえられます。
一方で福田さんの俳句感は、
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
「何かを是非「俳句」と呼んでみたくて仕方がないという妙な執心によって、そのつどかろうじて「俳句」と呼ばれるのではなかったか。」
と。俳句は自然の美しさだけではなくて人の心の表現だというようにとらえられます。
以上の整理は
有馬さんの主張と福田さんの主張が混然と一体化した世界が俳句となります。月の美しさ。月の美しさは季語としてもたくさんあります。同時に同じ月を見ても見る人ごとにその月の姿のとらえ方が違うでしょう。恋人とデートの時に見る月と恋人と別れた後に見る月は違います。ですから俳句はその月そのものをスケッチするのではなくて、見ている人の心を同時にスケッチをしているのです。また楽しい気持ちの時には月でなくて花を見て句を詠むかもしれません。悲しいとき星を見て句にするかもしれません。今の気持ちを自然の中の何に写しているかも人それぞれです。
ですから「十七文字の定型有季」自然と人の営みや心の現れと混然と一体化する中で無限の表現的自由さを持つことができるのです。この上に立って俳句は自然詩と言えます。
ではなぜ「有季」か?次はここを考えたいと思います。
「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」につづく
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