父親が重い病気で入院する。
妻や娘たちは病院に駆けつける。
医師は余命数か月を言い渡す。
家族は毎日のように面会に行き、父親も楽しかった思い出などを語り退院したら。。。。と。
家族愛の映画だったと思う。
しかし父親の病は重くなる。窓際の木はすでに葉を散らし始めている。
ある日、その木の最後の1枚がはらはらと落ちる。
この最後の1枚の葉が落ちる映像で父親の死を表現する。
このような表現をモンタージュというらしい。
映画の表現としていろいろな技術があるそうですが、これは監督なりの心の表現であったりもしますが、心の中にあるものを父親は死んだではなくて映像として1枚の葉が散るシーンで描く。
文学や詩も行間を読むというものがありますが、直接的な言葉で伝えるのではなくて表現として伝えますね。ここで作者の心と読者の心が一致するわけです。わかり合えるわけです。
では、俳句はどうでしょうか?
正岡子規は俳句はスケッチだと言います。
俳句も心の表現なのですが、その表現は言葉や風景を使って作り上げるものではない。
どちらかと言えば、受け身に俳句はある。
自然の営みと人とのかかわり。当然に人は自然に働きかけるのですが、根本は自然化に対して受け身です。
自然の営みを感じ取り生活の営みに取り入れる。ここで季語という俳句独自の形式が生まれますね。それをスケッチする。なぜスケッチするかと言えばその風景から心に伝わるものがあるからでしょう。この伝わったものを言葉でスケッチをする。17文字で。
ここでは心の表現でもありますが、目の前にある事象の表現でもあり、それを通じて読む人にも同じ心を伝えていく。
読むほうも極端に言えば俳句の意味はわからなくてもいい。意味ではなくて17文字から伝わってくる感情なのかもしれない。そこには対自然があり季語により簡潔にその自然派のスケッチは伝わる。
目の前にある自然や人間の営みから何を受け取ったかの表現ですね。自分の心の感情をいろいろな道具を使って表現することではない。
妻や娘たちは病院に駆けつける。
医師は余命数か月を言い渡す。
家族は毎日のように面会に行き、父親も楽しかった思い出などを語り退院したら。。。。と。
家族愛の映画だったと思う。
しかし父親の病は重くなる。窓際の木はすでに葉を散らし始めている。
ある日、その木の最後の1枚がはらはらと落ちる。
この最後の1枚の葉が落ちる映像で父親の死を表現する。
このような表現をモンタージュというらしい。
映画の表現としていろいろな技術があるそうですが、これは監督なりの心の表現であったりもしますが、心の中にあるものを父親は死んだではなくて映像として1枚の葉が散るシーンで描く。
文学や詩も行間を読むというものがありますが、直接的な言葉で伝えるのではなくて表現として伝えますね。ここで作者の心と読者の心が一致するわけです。わかり合えるわけです。
では、俳句はどうでしょうか?
正岡子規は俳句はスケッチだと言います。
俳句も心の表現なのですが、その表現は言葉や風景を使って作り上げるものではない。
どちらかと言えば、受け身に俳句はある。
自然の営みと人とのかかわり。当然に人は自然に働きかけるのですが、根本は自然化に対して受け身です。
自然の営みを感じ取り生活の営みに取り入れる。ここで季語という俳句独自の形式が生まれますね。それをスケッチする。なぜスケッチするかと言えばその風景から心に伝わるものがあるからでしょう。この伝わったものを言葉でスケッチをする。17文字で。
ここでは心の表現でもありますが、目の前にある事象の表現でもあり、それを通じて読む人にも同じ心を伝えていく。
読むほうも極端に言えば俳句の意味はわからなくてもいい。意味ではなくて17文字から伝わってくる感情なのかもしれない。そこには対自然があり季語により簡潔にその自然派のスケッチは伝わる。
目の前にある自然や人間の営みから何を受け取ったかの表現ですね。自分の心の感情をいろいろな道具を使って表現することではない。
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