大岡川の桜はもうすぐ満開。
素人がこんなことを言うのも何だけれど。
今どきの歌がダメだ。
歌詞が直接的か説明くさく、
『キレイ、キレイ』。
ありがとう、とか、頑張れ、とか、
そりゃ言われればそうなのだけれども、
行間、とか、響き、とか、
もう少しなんかあるんじゃないかと。
極端なことをいえば、ニュアンスさえ『グッと』伝わるなら、
言葉の構成なんか『どうでもいい』。
好みはそれぞれだから、
それがいいという人にはいいのだろうけど…。
私はちょい苦手。
人の心はもっと後ろ暗く、
秘密めいて、
だからそっと、忍びこんでくるのがいい、と。
子供の頃。
母は私に一冊の本を与えた。
なぜか、それは石川啄木の伝記だったけれど。
中には彼の詠んだ歌が散りばめられて、
どういうわけか、私は夢中でそれを諳んじた。
たぶんその響きが。
私は好きだったのだと思うが、
中にどうしても好きになれないものがあって、
それが『一握の砂』だった。
「真面目くさってつまらない」
それが、小学校にあがったかあがらないかの、
働くことの意味も苦労も知らない子供の感想だったのだが。
反して、その響きの美しさから、
意味もわからず大好きだった歌が二篇。
盛岡の 中学校のバルコンの
手すりにも一度 我をよらしめ
(盛岡の中学校の露台の 欄干に最一度我を倚らしめ)
ふるさとの 訛りなつかし停車場の
人ごみの中に そを聞きにゆく
意味とか、簡単か難しいかではなく、
単純に、流れる響きで子供の心を捉えた二篇。
口に出して、何度も何度も周りに聞かせ、
ついには父か母に、
「しつこい!やめなさい!」
と、叱られたのを思い出す。
…美しい響き。
言葉の響き。
流れるように滑りこむ、
言葉が好きだ。
そういえば昔、何かのTVで見たのだが、
『浜辺の歌』を英語に訳すのは、
とても大変なのだということだった。
あした浜辺をさまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
なんでも、『浜辺』という言葉にぴったりくる訳を、
見つけることから、なかなか大変なのだそうで。
どの国の言葉にも、きっと、
そんな言葉があるのだろう。