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またもや。
理不尽なテロのために尊い人命が失われた。
幸せな日常を。何気ない日々を。未来を。可能性を.....奪う凶行。
いや。この場合は「狂行」と書くのが相応しい。
貧しさゆえに狂った人たち。無知ゆえに、狂信者となった人たちの愚行は、
「狂行」と呼ぶのが、最も相応しい。
この日本で育った我々には、宗教に妄信的になる人間の心理を、命すら投げ出す心理を、なかなか理解する事は出来ない。
けれど60年前まで。
日本人は、同じようにひとつのものを信じていた。そのために、命を投げ出していた。
テロか、戦争か。規模の違いはあれど、同じ愚行を犯したことに違いはない。
けれど、そこに何があったか。過去の人々がなぜそこまで妄信的になれたのか、もう一度改めて考えてみたい。そうすれば少しは、何かが見えてくる気がするから。
もし今。日本に戦争が起こったら、人々はひとつのものを信じられるだろうか。
命を投げ出す事が出来るだろうか。
答えはNOだと思う。
ひとつのものを信じるには、情報が溢れすぎ、人々が世界を知りすぎている。
今まで歴史の中で何があって、人々がどんな過ちを犯してきたのか、今の日本人はちゃんと、理論上はちゃんと知っているから。
ただ私は、戦争やテロがこの世からなくなるとは思っていない。
人間の中に、死への恐怖、病への恐怖、自分と違った者への恐怖がある以上は、戦いや差別はなくならないと考えているからだ。
自分を脅かすかもしれない者に、人は恐怖を感じるものだし、自分より優れた者をそばに置けば、自分の持つものを奪われるのではないかと、疑心暗鬼に陥る。
肌の色で、民族の違いで、宗教の違いで人が争うのは、そのせいだ。
しかし、もし、「自分と違う」人々の暮らしが基本は「自分達と同じ」であると皆が知るならば。
一個の人間として考えていることは似ていて、家族への愛情は皆同じなのだと知れば恐怖は軽減すると.....。そのための争いは少なくなってゆくと、同時に考える。
そして。それを知らしめることが出来るのは「教育」、それのみであると。
考える力を与えるのも「教育」、それのみであると。
無知というのは恐ろしいものだ。それゆえに命を落とすこともある。
もちろん、情報が規制され、知ることが出来ず、誤まった知識のみを詰め込まれる人も同様に。
テロリストは、「知らない」ことによって、自分の不遇を異教のせいにしたり、他国のせいにしたりする。
それは自分の利益、権力のために宗教を利用する人々によって、広く、根深く、社会的弱者の心に植えつけられた「教育」のせいでもあるが、もしその「教育」を、正しいものに変えられるとしたら.....。
もちろん、この「正しい」というものの解釈がもっとも難しいこともわかっているが、少なくとも、「人として正しい」ものに出来るとしたら。
今よりは。今よりもう少しは、争いも減るのではないかと。
現在も世界中にある、宗教的指導者が教鞭をとる、唯一神の名の下に人殺しをも容認する学校を「普通」の学校に出来たら、もう少しマシな世界にならないだろうか。国家を狂信させる学校を公正なものに出来たら。現在、アフリカで学校から誘拐されて、少年兵として純粋培養されている子供達を救い、広い知識を与える事が出来たら。
自分を変えようと努力したり、必死に働くよりは、とりあえず他人を恨む事のほうが簡単だ。少なくとも、努力したり知ろうとするよりは手っ取り早くて楽だ。
自分を「正義」と思えば、弱者の立場から聖戦士に変身することが出来るし、大きなことが出来そうな気もする。うまくいけば国家的英雄になれるかもしれないと、自分に対して言い訳も出来る。
けれど、簡単に見える道が本当は地獄で、その後も何ひとつ変わってゆかないことを、彼らは知らなければならないのだ。
そしてそれを彼らに知らせることが出来るのは、「教育」、それのみであると私は考える。
太平洋戦争に従軍した元帝国陸軍兵士は言った。
「貧しい自分の村を、何とかしたくて戦争へ行った。村の娘が売られてゆくのを見て」
けれど、彼らが戦争へ行ったことで、他国の娘達が死んだのも、犯されたのも真実で。しかし、何も知らなかった彼らの蛮行は、「知らなかった」ゆえ、とも言えるのではないかと.....。もちろんそれだけで言いきれることではなく、許されることでもないけれど、当時の日本人が何も「知らされなかった」のは、周知の事実である。ただあの時代、戦争には望もうが望むまいが行かなければならなかった、というのもまた事実であるから、「知る」作業はもっと前の時点で必要であったのだと、虚しく言うしかないが.....。
多くの、本当に多くの人が死んだから。
私達は皆、知らなければならない。理解する事は出来なくても、知ろうとしなければならない。
そして、知っている者は知らない者と、次の世代に知らせなければならない。
自分の知っている事を。知ろうと努力し得たものを。
恐怖に、本能に打ち勝つものは、公正な知識。教育だけなのだから。
相手を、他者を知ろうとする心だけなのだから。
たとえ.....理解は出来なくとも。
理不尽なテロのために尊い人命が失われた。
幸せな日常を。何気ない日々を。未来を。可能性を.....奪う凶行。
いや。この場合は「狂行」と書くのが相応しい。
貧しさゆえに狂った人たち。無知ゆえに、狂信者となった人たちの愚行は、
「狂行」と呼ぶのが、最も相応しい。
この日本で育った我々には、宗教に妄信的になる人間の心理を、命すら投げ出す心理を、なかなか理解する事は出来ない。
けれど60年前まで。
日本人は、同じようにひとつのものを信じていた。そのために、命を投げ出していた。
テロか、戦争か。規模の違いはあれど、同じ愚行を犯したことに違いはない。
けれど、そこに何があったか。過去の人々がなぜそこまで妄信的になれたのか、もう一度改めて考えてみたい。そうすれば少しは、何かが見えてくる気がするから。
もし今。日本に戦争が起こったら、人々はひとつのものを信じられるだろうか。
命を投げ出す事が出来るだろうか。
答えはNOだと思う。
ひとつのものを信じるには、情報が溢れすぎ、人々が世界を知りすぎている。
今まで歴史の中で何があって、人々がどんな過ちを犯してきたのか、今の日本人はちゃんと、理論上はちゃんと知っているから。
ただ私は、戦争やテロがこの世からなくなるとは思っていない。
人間の中に、死への恐怖、病への恐怖、自分と違った者への恐怖がある以上は、戦いや差別はなくならないと考えているからだ。
自分を脅かすかもしれない者に、人は恐怖を感じるものだし、自分より優れた者をそばに置けば、自分の持つものを奪われるのではないかと、疑心暗鬼に陥る。
肌の色で、民族の違いで、宗教の違いで人が争うのは、そのせいだ。
しかし、もし、「自分と違う」人々の暮らしが基本は「自分達と同じ」であると皆が知るならば。
一個の人間として考えていることは似ていて、家族への愛情は皆同じなのだと知れば恐怖は軽減すると.....。そのための争いは少なくなってゆくと、同時に考える。
そして。それを知らしめることが出来るのは「教育」、それのみであると。
考える力を与えるのも「教育」、それのみであると。
無知というのは恐ろしいものだ。それゆえに命を落とすこともある。
もちろん、情報が規制され、知ることが出来ず、誤まった知識のみを詰め込まれる人も同様に。
テロリストは、「知らない」ことによって、自分の不遇を異教のせいにしたり、他国のせいにしたりする。
それは自分の利益、権力のために宗教を利用する人々によって、広く、根深く、社会的弱者の心に植えつけられた「教育」のせいでもあるが、もしその「教育」を、正しいものに変えられるとしたら.....。
もちろん、この「正しい」というものの解釈がもっとも難しいこともわかっているが、少なくとも、「人として正しい」ものに出来るとしたら。
今よりは。今よりもう少しは、争いも減るのではないかと。
現在も世界中にある、宗教的指導者が教鞭をとる、唯一神の名の下に人殺しをも容認する学校を「普通」の学校に出来たら、もう少しマシな世界にならないだろうか。国家を狂信させる学校を公正なものに出来たら。現在、アフリカで学校から誘拐されて、少年兵として純粋培養されている子供達を救い、広い知識を与える事が出来たら。
自分を変えようと努力したり、必死に働くよりは、とりあえず他人を恨む事のほうが簡単だ。少なくとも、努力したり知ろうとするよりは手っ取り早くて楽だ。
自分を「正義」と思えば、弱者の立場から聖戦士に変身することが出来るし、大きなことが出来そうな気もする。うまくいけば国家的英雄になれるかもしれないと、自分に対して言い訳も出来る。
けれど、簡単に見える道が本当は地獄で、その後も何ひとつ変わってゆかないことを、彼らは知らなければならないのだ。
そしてそれを彼らに知らせることが出来るのは、「教育」、それのみであると私は考える。
太平洋戦争に従軍した元帝国陸軍兵士は言った。
「貧しい自分の村を、何とかしたくて戦争へ行った。村の娘が売られてゆくのを見て」
けれど、彼らが戦争へ行ったことで、他国の娘達が死んだのも、犯されたのも真実で。しかし、何も知らなかった彼らの蛮行は、「知らなかった」ゆえ、とも言えるのではないかと.....。もちろんそれだけで言いきれることではなく、許されることでもないけれど、当時の日本人が何も「知らされなかった」のは、周知の事実である。ただあの時代、戦争には望もうが望むまいが行かなければならなかった、というのもまた事実であるから、「知る」作業はもっと前の時点で必要であったのだと、虚しく言うしかないが.....。
多くの、本当に多くの人が死んだから。
私達は皆、知らなければならない。理解する事は出来なくても、知ろうとしなければならない。
そして、知っている者は知らない者と、次の世代に知らせなければならない。
自分の知っている事を。知ろうと努力し得たものを。
恐怖に、本能に打ち勝つものは、公正な知識。教育だけなのだから。
相手を、他者を知ろうとする心だけなのだから。
たとえ.....理解は出来なくとも。
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