いよいよ、人事委員会口頭審理が、8月6日午後3時、咲州庁舎(旧WTCビル)で始ります。当該の山田肇さんの「口頭審理―4つの争点」を掲載します。どうか、多くの方々の傍聴をお願いします。
なお、山田肇さんを支える会のブログ 「ブラックボードに義」もご覧ください。
人事委員会口頭審理・・・4つの争点について
4月12日付で人事委員会から示された争点整理
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(元)高槻市立南平台小学校教員 山田 肇
1.本件懲戒処分の前提となった事実に誤認はなかったか。 2.本件懲戒処分の前提となった職務命令は、憲法及び法令に違反する違法・不当な命令ではなかったか。 3.本件懲戒処分の前提となった高槻市教育委員会の内申に重大明白な瑕疵がなかったか。 4.本件再任用合格決定の取消しに裁量権の逸脱・濫用がなかったか。
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1.事実の誤認
①府教委の事情聴取について
府教委が事情聴取として指定してきた日時は、3月23日(金)の午前9時
30分からであった。その日のその時刻は、終業式の日、こどもたちにあゆみを渡す日、「児童の教育」にとって1年間のまとめを行う最重要の日だった。さらには、定年退職をひかえた身にとっては、最後の授業の日となるやもしれぬ日だった。実際、そうなってしまった。
それで、「その日時では行けません」と言った。そしたら、校長が理由を書けと言ったので、「子ども達の授業があり、終業式でもあるので行けませんし、行きません。」と書いた。
それを『答弁書』は、「処分者による事情聴取に出席することを拒否し、出席しなかった」などと書く。出席できない日時を指定して、「拒否」したなどという悪意に満ちた書き方をする。
終業式の日の「児童の教育をつかさどる」(学校教育法第37条⑪)勤務を放擲して事情聴取に出席せよとは、とても「全体の奉仕者」たる大阪府教委の言辞とは思えない。それとも、「児童の教育」より事情聴取の方が大事と大阪府教委は考えるのか?
『答弁書』は、私の代行として教頭が希望の杜に行くという措置をとると言ったから、希望の杜施設内学級の「児童の教育に支障が生じるおそれはなかったことが認められる」と書く。
『希望の杜』施設内学級では、6年生6名が3月19日に卒業していたとはいえ、3月23日、私は3年生3名、1年生1名を担当していた。どの児童も虐待やネグレクトで大人や人間に対する不信感が強く、日々の対応や学習に悩みながら、教育を行ってきた。その児童に「最後の授業」をし、自らが書いた所見(子ども一人一人への心からのメッセージ)を含む『あゆみ』を自らの手で渡したいと考えるのは、教師として当然です。そして、教頭が代行に入るとしても、1時間目国語、2時間目算数の授業は、『希望の杜』施設内学級の他の教師、3人の誰かに見てもらわなければならない。3人の教師に大変な負担をかけ、また、子どもたちにもしわ寄せがいく。「他の教員が代行して行うことが可能で」あるとは、簡単に言えない。
事情聴取をされる理由はないが、高槻市教委の事情聴取に2回も応じた。私は、逃げも隠れもせず、「拒否」もせず、卒業式での『君が代』不起立の正当性を堂々と語ってきた。府教委が事情聴取をしたければ、3月23日の午後に来るように言えば、それで済んだことです。
ところが、なんと、府教委は『答弁書』で、次のように書く。
「処分者は、同月23日(金)は、申立人のほか、午前11時から1名、午後1時から1名の各教職員に対する事情聴取を予定していたため、同日において申立人に対する事情聴取の時刻を変更することは困難であり・・・変更することは不可能であった。」
そんなん、処分者=府教委の事情じゃないの!処分者が一方的に指定してきた「3月23日午前9時30分からという日時」を、私が「その日時では行けません。」と断ったからと言って、「自らの意思で」「拒否した」というのは、それこそ、失当も失当、大“失当”じゃないですか!
②ありもしなかった3月12日(月)、13日(火)の校長の「個別指導」と教頭の「メモ」を虚偽記載
3月12日(月)13日(火)の個別指導はなかったのに「指導した」と書く。事実は、次の通り。
3月12日(月)に先立つ3月9日(金)13時頃、校長室に呼ばれたので行ったところ、卒業式の「国歌斉唱」で起立斉唱してほしいという話であった。『日の丸』『君が代』とは何なのかと私の考えを話し始めたが、聞いていると思えず、これは「指導した」という校長のアリバイ作りかと感じ校長室を出ようとすると、校長は「また、月曜日ね。」と言っていた。
土日をはさんで、12日(月)も13時頃になると、「校長室に来てくれ。」と言われたが、教材準備もあり、また、この時点では校長が「職務命令」を出すなどと露ほども考えておらず、9日(金)の校長の「また、月曜日ね。」という言葉から、「指導したけれど、だめであった」というアリバイ作りを毎日するのかと、考えていた。「希望の杜」から12時40分過ぎに学校に帰り、給食を食べた後の13時頃は、毎日、貴重な教材準備の時間であり、その時間を割いて、校長のアリバイ作りに協力する気もないので行かなかった。翌13日(火)は、校長から「校長室に来てくれ。」という話すらなかった。以上が、事実のすべてである。
ありもしなかった虚偽の3月12日(月)、13日(火)の「個別指導」を『答弁書』に記載し、「個別指導を繰り返し粘り強く指導をしてきました。最後の手立てとし職務命令を出さざるを得ません」(乙第3号証3ページ)とするための事実を曲げた記載に、強く抗議する。
さらに、『再答弁書』において、新たな「事実」の偽造を行ってきたことに、怒りを禁じえない。それは、「南平台小学校の当時の教頭も、永井校長が、申立人に対する上記の指導経過について、その都度メモをしていたことを確認している。」と書いている。これは事実と全く相反する、新たな「事実」の偽造である。
というのは、3月9日(金)13時頃、校長室には、教頭は同席していなかったので、「メモ」などあるはずはない。また、3月12日(月)、13日(火)の「個別指導」は、事実としてなかったがゆえに、「教頭の同席」も「メモ」もあるはずがない。
さらに、3月15日(木)13時頃、校長に判をもらう書類があり、呼ばれると校長室に行ったが、2~3分で校長室を出た。3月15日校長室に行ったことも「指導」に入れているが、この時も、「教頭の同席」はなく、それゆえ、教頭の「メモ」もあるはずがない。
3月16日(金)13時頃、校長室の時からである、教頭が「同席」したのは。
それまでは、一度として、「教頭の同席」などなかった。
2.『君が代』起立斉唱の職務命令は、憲法19条『思想・良心の自由』に違反
①何が「非行」ぞ!「非行」をなしたのは、校長-教育委員会だ
『答弁書』は、「戒告処分」について、「校長の職務命令に違反し、国歌斉唱時に起立して斉唱しなかった・・地公法第32条の上司の職務上の命令に従う義務に違反する・・このことは・・・その職の信用を著しく失墜し、また全体の奉仕者たるにふさわしくない非行」と書く。
「学校教育に携わる教育公務員」として何にもとづいて、子ども達の前に立つべきか?
それは、教育基本法にいう「真理と正義」の立場です。「真理と正義」の立場から見れば、『日の丸』は、つねに日本の侵略戦争とともにひるがえり、また、『君が代』は教育勅語、御真影=天皇の写真とともに、天皇制国家をたたえる儀式=四大節で子ども達に歌わせ、子ども達を天皇の『忠良なる臣民』にしたてる歌だった。校長―教育委員会がこれに目をふさぎ、「法律に従うのが教育公務員だ。」と100回言おうが、くつがえすことのできない歴史的事実です。
侵略と戦争に血ぬられた『日の丸』と『君が代』が今なおあり、卒業式・入学式に職務命令まで出して教育委員会・校長が強制することこそ「非行」であり、侵略と戦争というまちがった歴史を反省しないこの府教委の愚行こそ、教育の「信用を著しく失墜させる」行為である。
かつて、西ドイツの大統領ヴァイツゼッカーは、「過去に目を閉ざす者は現在に盲目となる。」と演説した。過去の歴史から学ばないと、未来はない。また、また、ルイ・アラゴンは、「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」と詩に書いた。教師が歴史の真実を「誠実に胸にきざ」まないと、子どもたちに「希望を語ること」はできない。
②議論の“出発点”は、『日の丸』『君が代』を歴史的にどう考えるのか
『答弁書』は書く。「申立人は、『日の丸』『君が代』については、戦前の学校教育において、
侵略戦争の旗印、天皇制の存続を願ったものとして使われてきたことから、『日の丸』『君が代』
を卒業式に持ち込むことは間違っていると主張しているが、間違った主張である。」
いずれが「間違った主張」か!と声を大にして言いたい。
『答弁書』は、『日の丸』『君が代』は、「侵略戦争の旗印、天皇制の存続を願ったもの」ではないと書くのかと思ったら、そうは書かず、「国旗及び国歌」は「学習指導要領に規定されている」。「国旗及び国歌に関する法律」で定めている。「大阪府国旗・国歌起立斉唱条例」がある。こう、来る。そして、「以上のことから、『日の丸』『君が代』を卒業式に持ち込むことは間違っているとの申立人の主張は失当である。」と書く。いずれが、「失当」か!
『日の丸』『君が代』を歴史的にどう考えるのか、それを卒業式・入学式に持ちこむことをどう考えるのか、ここに、議論の“出発点”があるにも関わらず、『答弁書』は、『日の丸』『君が代』とは何なのか、どう考えるのかは書かない。それで、《処分者に問う》として、次の4点について、処分者=府教委の見解と歴史認識の釈明を、『反論書』で求めた。
①明治の大日本帝国憲法から日清・日露の戦争へ、朝鮮の植民地化『韓国併 合』、そして満州事変に始まり15年戦争へといたる歴史について ②戦前・戦争中の学校教育、すなわち天皇制教育に関して ③その天皇制教育の中で、『日の丸』『君が代』が果たした役割について ④教え子を戦場に送り出した教育と教師の戦争責任について |
この求釈明に対して、『再答弁書』は何と書いてきたか?
「処分者が、申立人が釈明を求める①ないし④の歴史認識、歴史観等について釈明する必要性は認められない。そもそも本件不服申立手続きは、本件処分の適法性・相当性について審査することが目的であり、処分者の歴史認識、歴史観等について判断する必要性は全くない。」
この主張こそ、「明らかに失当である。」。「処分者の歴史認識、歴史観等について(の)判断」がないのに、なんで「本件処分の適法性・相当性」が言えるのか!
なぜなら、私は、日本が天皇制国家の下、朝鮮・中国・アジアに侵略戦争をやったのは間違いだったという歴史認識をもって、また、教え子を戦場に送り出した教育と教師の戦争責任を自覚した、戦後の先輩教師の反省と決意を受けつぐべきだと考え、卒業式・入学式で『君が代』が鳴ると、静かに座ってきたし、職務命令が出ようが、それは出来ないと座ったからである。
だが、処分者=府教委は、歴史認識、歴史観等について、黙して語らない。
③教育と教師の戦争責任、「教え子を戦場に送るな」というかたい決意
戦前・戦争中の教師は、『少国民の錬成』と称して、「天皇のために死ぬ」忠君愛国の教育を誠心誠意行った。そして、教え子を「皇軍兵士」として侵略戦争の戦場に送り出し、また、遠く離れた満州の荒野に『満蒙開拓青少年義勇軍』として送り出した。
「ひたすら忠実に国の命令に従うことを至上」(『戦中教育の裏窓』山中恒氏のことば)としてきた戦前・戦争中の教師は、その「教育」の結果、未来ある子ども達を数多死なせてしまった。これは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という教育勅語の天皇制教育を率先して行った教師の犯罪と言えるのではないか。
戦死せる教え子よ/逝(ゆ)いて還(かえ)らぬ教え子よ/私の手は血まみれだ!
君を縊(くび)ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において・・・
(高知の中学教員、竹本源治氏 「還らぬ教え子よ」 1952年1月)
「教え子を戦場に送り出した」この反省から戦後の教育は出発し、戦後の教師は「教え子を戦場に送るな」というかたい決意からスタートした。だが、子どもたちを侵略戦争の戦場に送り出した大本の天皇制は生き残り、また、その道具立てであった『日の丸』『君が代』は捨て去られなかっただけでなく、1950年代から政府・文部省によって「学校を通じて子どもたちに教えるのが最も効果的」と卒・入学式に持ちこまれてきた。天皇は戦争責任をとらず、教師も未だ戦争責任を果たしたとは言えない。その責任を戦争中や戦後すぐの先輩教師に負わせても何も解決しない。いまだ『日の丸』『君が代』があり、学校現場に持ちこまれていることは、私たち現在の教師の責任だと考えてきた。
『ボクラ少国民』などを書いた山中恒氏は、誠心誠意、少国民の錬成にうちこんだ戦争中の教師に対して、「ひたすら忠実に国の命令に従うことを至上とするのは、奴隷の思想である」と書く。私も、そう考える。おかしいと思いつつ「職務命令」だからと、その命令に従って『君が代』で起立斉唱することは、「奴隷の思想」である。子どもたちに「いい、悪いをしっかり自分で考えて発言したり行動したりするように。」と言ってきたのに、教師が、「奴隷の思想」では恥ずかしい。そう考え、「職務命令」が出たが、私は『君が代』と同時に、静かに座った。
④最高裁は、未だ『良心の自由』については、何ら判断を下していない
『君が代』と同時に静かに着席することは、宮川光治裁判官が言われたように、「思想及び良心の核心の表出である。」『君が代』を立って歌えという職務命令は、『思想の自由』を侵すもので、キリシタン弾圧の『絵踏み』であり、治安維持法的な「思想弾圧」そのもの。
だが、『答弁書』は、「最高裁は、『思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえない』と判示している。」と書く。
しかし、最高裁は、未だ『良心の自由』については、何ら判断を下していない。『君が代』不起立は、『思想の自由』の問題であるが、『良心の自由』の問題でもある。『思想・良心の自由』は密接不可分ながら、『思想の自由』『良心の自由』と、それぞれ独立した基本的人権であり、自由権である。(早稲田大学社会科学部教授の西原博史氏論文・『世界』2012年5月号参照。)
⑤子どもたちの前に立つ教師としての『良心の自由』(『義務』)
教師にとっての『良心』、それは、きわめて明瞭なこと。正しいことを行い、まちがったことは反省して行いを改めるということ。それが、子ども達に言ってきたこと。それを自分も行う。これが、教師として、人間としての『良心』であり、『良心の自由』また『義務』である。
広島への修学旅行でお世話になった、被爆者の植野浩さんのことばは、子ども達へのメッセージであるとともに、教師としての『良心』を形作ることばでもある。
「本当の平和をつくり守っていくためには、自分たちの回りや世の中の動きなどを、真実の目でしっかり見きわめる力をつけることが大切です。学校での国語や算数や理科や音楽など教科の勉強は、人間としての考える力を養う基礎になり、本物とうそもの、善と悪、正義と不正義などをきちんと見分ける力になります。」
(1994年3月卒業式に送っていただいた卒業生へのメッセージ)
子どもたちが、「本物とうそもの、善と悪、正義と不正義などをきちんと見分け」られるようになってほしいと願って、「人間としての考える力を養う基礎」として、学校での国語や算数等の授業を、毎日、教師として行ってきた。その教師自身が、「本物とうそもの、善と悪、正義と不正義などをきちんと見分け」られなくて、どうするか。
そして、私は、子どもたちに「いい、悪いをしっかり自分で考えて発言したり行動したりするように。」と言ってきた。そのように子どもたちに言ってきた私が、「法律に従うのが教育公務員」だと校長―教育委員会に何百回言われても、『日の丸』『君が代』とは何なのか?を考えず、職務命令だからと、その命令に従うわけにはいかない。アイヒマンの道は拒否する。
ユダヤ人虐殺の責任者=ナチス・ドイツのアイヒマンのように「私は命令に従っただけだ。」と言うことは、人間として、教師として絶対できない。『日の丸』『君が代』が「真理と正義」に立ったものかどうかを考えて行動するのは、教師としての『良心の自由』(『義務』)である。
⑥『教え子を戦場に送らない』は、教師としての『良心の自由』『良心の義務』
戦前・戦争中の先輩教師たちは、ひたすら「天皇の兵士」とする教育を子どもたちに行い、教え子を侵略戦争の戦場や満蒙開拓青少年義勇軍や軍需工場に送り出した。
その教育が何をもたらしたか。誠心誠意の「教育」の結果、数多の子どもたちを死なせてしまった、殺してしまった。その子どもたちは、もはや還ってこない。教育勅語にもとづいて『天皇制教育』を率先して行った教師の犯罪と言える。子ども達を人間としての成長に導くべきはずの教師が、「人の子の師の名において」教え子を侵略戦争の戦場に送りだしてしまった。
こんなことは、絶対にするべきでなかった。この痛切な思いから、戦後の教育は出発した。この思いを、戦後、何年たとうと、日本の教師であるかぎり、教育の根本にすえるべきだ。『教え子を戦場に送らない』という決意にもとづく行動は、教師としての最大の『良心』である。
そして、『日の丸』と『君が代』は、天皇制教育をささえる大きな道具であり、柱であったことから考えると、その『日の丸』と『君が代』が卒業式・入学式に強制的にもちこまれることに反対の意思を表明し、ささやかに着席するという行為は、教師としての『良心の自由』にもとづいた、きわめて正当かつ教師としての『良心の義務』といえる行動である。
この教師としての『良心の自由』を憲法19条は保障している。
それゆえ、『君が代』を立って歌えという職務命令、また、戒告処分は、憲法
第19条の『良心の自由』からいって違憲・違法なものであることは明白である。
⑦学校労働者ネットワーク組合員4名にのみ出した職務命令は、憲法と地公法に違反
高槻市教委は、今まで学校現場に「職務命令はなじまない。」と言ってきた。それにもかかわらず、今回、高槻市教委は、私の属する学校労働者ネットワーク・高槻の4名の組合員だけに、高槻市始まって以来、初めて『職務命令』を出してきた。
『再答弁書』は、「当該4名の教職員は、最終的に不起立の意思表示を行うか、何らの意思表示もしなかったため、やむなく当該4名に対し各所属校の校長が職務命令を発出したものである。」と書く。
しかし、これは、選別的な組合つぶしの意図をもった『職務命令』である。この職務命令は、「職員は、職員団体の構成員であること・・・をもって不利益な取り扱いを受けることはない。」と規定した地方公務員法第56条に違反し、また、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」とした憲法第28条に違反することは明白である。
しかも、『再答弁書』は、「各校に対し、不起立の可能性のある者に対して意思確認を行うよう指示」まで出したと書く。何人も、自らの『思想・良心』を表明する権利を有するし、また、表明しない自由も有する。そして、卒業式での『君が代』不起立は、教職員にとって、「思想及び良心の核心の表出である。」(宮川光治裁判官補足意見)
それを、校長が「あなたは、不起立するのか、起立するのか」と「意思確認」を行う。それは、「思想調査」であり、憲法第19条『思想・良心の自由』に違反する行為である。
さらに、私をふくめ、「指導」と称して、校長を使って「不起立」という「思想及び良心の核心の表出」に対して考え方を変えろ、起立して斉唱せよと転向をせまる行為を行った。これも、「指導」に名を借りて『思想・良心の自由』を侵すものである。さらに、「指導」という名で転向強要できないとみるや、教育の場に必要な対話をかなぐりすて、職務命令によって「起立・斉唱」を強制した。それゆえ、この職務命令は、憲法第19条『思想・良心の自由』と第28条『労働基本権』からいって、二重に、違憲・違法なものであることは明白である。
3.高槻市教育委員会の内申に重大明白な瑕疵がある
①高槻市の教育委員会議で、処分が承認されておらず、府教委への「内申」は無効
大阪府教育委員会は、私に対して「戒告処分」を通知したが、しかし、この処分は手続き上の要件を満たしておらず、無効である。
地方教育行政の組織及び運営に関する法律(「地教行法」)の第38条第1項に、「都道府県教育委員会は、市町村教育委員会の内申をまつて、県費負担教職員の任免その他の進退を行うものとする。」と規定している。
そして、その規定を受けて、高槻市の「教育長の事務委任等に関する規則」第2条には、「委員会は、次に掲げる事項を除き、その権限に属する事務を教育長に委任する。」と規定している。
その「教育長に委任する」ことから除いている「次に掲げる事項」とは何か?
①「教育委員会及び教育委員会の所管に属する学校その他の教育機関の職員の任免その他人事に関すること」②「委員会事務局及び学校その他の教育機関の職員の懲戒処分に関すること」・・・この2つ。
私の戒告処分は、「職員の懲戒処分に関すること」だから、高槻市の「教育長に委任する」ことはできず、高槻市の5人の教育委員会議において、処分が議題にかけられ承認され、その「内申をまつて」大阪府教育委員会は、本件処分を下すことができるということ。
ところが、HPでも公表されている、平成24年高槻市教育委員会定例会会議録には、3月19日の第5回会議はもちろん、4月13日の第6回会議、5月23日の第7回会議においても、私の処分が議題として取りあげられておらず、また、当然ながら、私の処分の承認は一切なされていない。
よって、本件処分は、手続き上、重大な瑕疵があり、「地教行法」第38条第1項に違反し、また、高槻市の「教育長の事務委任等に関する規則」にも違反しており、当然、無効である。
そして、愛知県人事委員会の処分取消の「決定」=「判例」もある。
愛知県人事委員会の平成10年不第1号事案においては、愛知県人事委員会は、春日井市教委が、「同条第5号で市教委教育長への委任から除外されている内申を市教委教育長の決裁によって行った本件処分の内申には地教行法第38条第1項に違反する重大かつ明白な瑕疵があるものと認められる。
したがって、前述のとおり地教行法第38条第1項の内申は教職員の任命権行使のための手続要件であることを踏まえると、本件処分は地教行法第38条第1項に違反するものと認められる。」と判示し、「処分者が平成10年3月24日付けで不服申立人に対して行った戒告処分は、これを取り消す。」との決定を下した。こういう「決定」「判例」が、厳として存在する。
②教育長は「法令の根拠」もなく、勝手に教職員を「専決」で「処分」できるという暴論
高槻市教育委員会議の内申がなかったことについて、9月27日付け『再答弁書』では、「平成24年3月26日付けで高槻市教委から提出された本件内申は」「高槻市教委教育長の専決による決裁を経て決定された」「従来から教育長が専決により処理」「専決については法令の根拠は必要としない」これは、「適法」と書いてきた。そんなことがあり?
校長や教育委員会は、「法律に従うのが教育公務員だ」と何百回くり返した。だが、この法律、「地教行法」は無視するのか?「専決については法令の根拠は必要としない」と言う。
ところで、府教委が苦し紛れに出してきた「専決」。これは、何を意味しているか?
教育長は「法令の根拠」もなく、「戒告」でも「免職」でも勝手に教職員を「専決」で「処分」していいんだという。そして、「法令の根拠」は、いらん!教育長の独裁的な専横が許される?
「教育長が教育委員会の名を用いるなら、教育長は何をしてもよいのか。」「地教行法26条2項は、同項記載の各事務について、『合議制の教育委員会が自ら責任を持って事務を管理し、執行』することを求めている。」「処分者の主張は、暴論。」だと、2月4日付提出の
4号事案(戒告処分)に関する『再々反論書』に書いていただいた。
4.再任用合格決定の取消しは、裁量権の逸脱・濫用
①『任意』の『職務命令遵守意向確認書』を未提出と、再任用合格を取消したのは不当
第5号事案「再任用合格取消」について、府教委は『答弁書』で、次のように書く。
「処分者が、今後職務命令に従う意向があるかどうかを確認するために求めた職務命令遵守意向確認書を提出しなかった。」だから、「上司の職務命令や組織の規範に従う意識が希薄であり、学校教育に携わる教育公務員としての適格性が欠如しており、勤務実績が良好でないと判断して、再任用教職員の採用選考等に関する要綱第5条及び第7条の規定により、再任用合格を取消し、平成24年3月29日付けで申立人に通知した。」
『戒告』処分の通告の後、示されたA4 の紙には、「今後、卒業式、入学式の国歌斉唱等を含む職務命令に従います」とだけ書かれていたが、そのA4の紙に、「職務命令遵守意向確認書」というタイトルがいつの間にかつけられていた。後から勝手に名前をつけていいのか?
『答弁書』は、「『これは強制ではありませんので、ご自身の意思で所属、職、氏名をご記入ください。必要があれば記載内容を修正していただいてもかまいません。』と説明」した、また、「法令で義務づけられたものではない」「提出を職務命令として命じたことはない」「任意である。」と書く。
「これは強制ではありません」「任意である。」としたものが、なにゆえ、提出しなかったことを理由として、「今後も同旨の職務命令を遵守する意思がないと判断」する材料となるのか?そもそも、「任意である。」ということは、提出するか提出しないかは、私の自由である。それゆえ、「任意である」A4の紙片を提出しないことをもって、再任用合格を取り消す理由にあげるのは、失当である。
②「適格性」や「勤務実績」を判断するものは、私の教育活動ではなく、職務命令に従って『君が代』を起立斉唱することか?
「学校教育に携わる教育公務員としての適格性」や「勤務実績」を判断するものは、何か?
それは、私が行ってきた37年間の「勤務実績」であり、とりわけ12年間の南平台小学校での勤務及び7年間の『希望の杜』施設内学級での教育活動ではないのか。
私は、3月30日に人事委員会に提出した『再任用取消しに対する不服申立理由書』の「理由」に、「2月16日に、再任用の合格通知を受け、また、校長より、業績・能力・総合評価ともSの評価を受けているにもかかわらず、再任用合格取消の通知に『勤務実績は良好でない』と書かれている理由は、理由として不適である。」書いた。
それに対して、『答弁書』は、「『3月26日、校長より今年度の評価・育成シートの評価を受ける。業績・能力・総合評価ともS』の主張は不知」と書く。
そして、ただただ、卒業式での『君が代』不起立と「職務命令遵守意向確認書」の未提出等をもって、「適格性が欠如しており、勤務実績が良好でないと判断」する。これは、学校教育法第37条⑪の規定に反するものである。また、再任用合格決定を取消したのは、憲法19条の思想・良心の自由を踏みにじり、府教委の裁量権の逸脱・濫用である
③『希望の杜』施設内学級に、計7年間勤務
私の「勤務実績が良好」であったかどうかは、私が教えた子どもたちや
保護者、また、同僚教職員が判断し評価してくれたらいいことだが、37年間の教員生活のうち、最後の学校となった南平台小学校での勤務を書く。
私は、南平台小学校に12年間勤務した。4年生、6年生、2年生の担任をした後、『希望の杜』施設内学級に3年間いた。そして、また、本校に帰り、6年生の担任、児童・生徒支援加配をした後、『希望の杜』施設内学級に4年間勤務して、2012年3月を迎えた。
合計7年間、教育活動に携わってきた『希望の杜』という施設は、情緒障害児短期治療施設の一つであり、大阪府下に3カ所、大阪市内に2カ所、全国に32カ所しかない施設です。
他の養護施設とちがって、セラピーの時間が週1回設けられており、いわゆる心のケアを大切にしている施設です。情緒障害児短期治療施設(情短施設)の一つである『希望の杜』には、親に虐待されたり、ネグレクトにあったりした子どもたちが入所してくる。
その『希望の杜』から施設内学級に通学してくる子どもたちは、わずか6歳から12歳とはいえ、今まで親や継父、継母等に暴力をふるわれ虐げられ疎外されてきたゆえに、大人に対する不信感が大きい。
また、食べること、安心して生活することすら保障されず、愛情もかけられずに、生きてこざるをえなかった子どもがほとんどです。それゆえ、学習する習慣がついていない子どもたちが多く、また、学ぶことの楽しさや学習する喜びから疎外されてきた子どもたちです。
だからこそ、一番教育が必要な子どもたちであると考え、子どもたちとの信頼関係を築くことを第一に、子どもたちに学力をつけさせようと、日々、“格闘”とも言える教育活動を行ってきた。(自分で言うのは、おこがましいですが。)
それは、『学校を作る』という教育活動でもあった。
今までさまざまな境遇と環境のもとで、学ぶこと、まっすぐ成長していくことを疎外されてきた子どもたちが、学ぶことの喜びを取り戻し、少しずつ成長していっていることを自分で確かめ、子どもたちが学び成長する場をつくろうと、
①基本的な学習の習慣をつくる・・・毎日、机にすわり落ち着いて自分の課題に取り組む。
②読み・書き・計算の基本的な力をつける。
③やればできることの喜びと自信の獲得・・・その子にあった課題を個別指導し、今、できないことが、少しずつやれば着実にできていく喜びを、あるいは、ゆったりとでも、やりつづければ必ずできていく喜びを実感できるようにしていく。そして、生きていくうえで、人間として「あたりまえのこと」を身につける。また、みんなで一つのことに取り組む。これらを目標としてやってきた。
しかしながら、その施設内学級では、教師の指示がすっと入るものではなく、机に座らず、教室から出て行く等の行動も日々あり、また、教師に対する反発・暴言・暴力も多くあった。そういう行動に対応しながら、粘り強く、そして、それらの行為に教師が妥協せず、間違っていることは注意して、子どもたちとの信頼関係をつくりながらの教育活動だった。
子どもたちは、18才を過ぎると施設を出ていかなければならないので、小学校段階でどこまでできるか分からないが、自立するための学力や生きていく力をつけてほしいと願っての教育活動でもあった。子どもたちの力になれているかと、日々、自問自答しながら、『希望の杜』の施設の職員の方々と連携しながら、教育活動に携わってきた。そして、あと1~2年、『希望の杜』で子どもたちに関わりたいと再任用を申し込み、2月16日に合格通知を受けていた。
その希望の杜施設内学級での「勤務」についてはもちろん、「勤務実績」についても、『答弁書』は、一切ふれていない。教師の教育活動を見ずして、府教委は何を見て、何を評価したか?
『君が代』で座ったこと。そして、「職務命令違反」府教委の「事情聴取」を「拒否した」「職務命令遵守意向確認書」等を「提出しなかった」こと。これで、「勤務実績は良好でない」と決めて、再任用合格を取り消した。すべては、『君が代』の50秒で決める。そして、その後、転向するかどうかで決めるんだと、これが驚くべき、恐るべき府教委のやり方です。
④「再任用合格取消し」は、府教委の裁量権の逸脱・濫用。最高裁判例に違反。
最高裁は2012年1月16日、「戒告を越えてより重い減給以上の処分をするには慎重な配慮が必要だ。」と述べて、「停職1ヶ月」の処分という「都教委の判断は裁量の範囲を超える。」と判示した。
そして、宮川光治裁判官は、次のように述べた。「不起立行為は信念に起因するもので、いわゆる非行・違反行為とは次元を異にする。原告らの歴史観は独自のものではなく、一定の広がり・共感がある。学説などでは起立・斉唱を職務命令で強制することは憲法19条に違反するという見解が大多数だ。」また、「戒告であっても懲戒処分は重きに過ぎる。」
ところが、「再任用合格取消し」という通知は、最高裁が取り消した「停職1ヶ月」の処分をはるかに越えて、最大・最高の重い処分である。なぜなら、「再任用合格取消し」は、私の教育活動を断ち切る免職そのものであった。
最高裁が、「慎重な配慮が必要だ。」としたにもかかわらず、「停職」よりはるかに重い最大の「不利益」である免職を意味する再任用合格取消は、上記の最高裁判例に違反することは明白である。しかも、2月16日に再任用合格決定の通知を出しながら、卒業式での『君が代』不起立の一点のみをもって、「再任用合格取消し」をなしたということは、上記の最高裁判例を踏みにじって、大きく「その裁量権を逸脱濫用した」ものであることは明白である。
7月26日、山田さんを支える会で高作正博さんの講演をうかがいました。高作正博さんから当日のレジュメをいただきましたので掲載します。なお、ピンク部分の記載については、私の聞き書きであることをご了承ください。
国家の「暴力」と市民の「非暴力」―市民的不服従の権利と「改憲論」
高作正博(関西大学法学部)
2013年7月26日(金)
序――3年後の日本社会
(1)自民党の改憲論が孕む「暴力性」
①立憲主義を否定する改憲論→個人を保護する憲法から義務づける憲法へ
②基本的人権を否定する改憲論→国家・公益のために制限される人権
③平和主義を否定する改憲論→軍事力の選択肢の解禁
自民党改憲案では、本来個人の人権・自由を保護するため国家を制約するはずの憲法が国民を義務づけるものになる。現政権は集団的自衛権については改憲をせずして解禁しようとしている。3年間国政選挙はなく、そういう意味で非常に暗い時代であると言えるが、私たちは憲法とは何か、その本質を言い続ける必要がある。
(2)日本社会における「異論」の否定
①自衛隊情報保全隊による市民監視→国家による「異論」の監視・情報収集
②いわゆる「スラップ訴訟」の現状→国家による「異論」排除の訴え
③自民党によるTBS取材拒否→国家による「異論」への恫喝
経産省前脱原発テント座り込みは敷地に対する占有権の侵害として訴えられた。沖縄高江座り込み訴訟は道路使用禁止で訴えられた。国家が司法に訴えて、国家を批判する勢力を排除しようとする。これらは一つひとつの単体の問題として考えるのではなく、全体として日本社会にどのような影響を与えているか。それは次の「共生」の否定にもつながっている。
※スラップ訴訟…威圧訴訟、恫喝訴訟。公の場での発言や政府・自治体などの対応を求めて行動を起こした権力を持たない比較弱者・一個人に対して、大企業や政府などの優越者が恫喝・発言封じなどの威圧的、恫喝的あるいは報復的な目的で起こす訴訟を言う。
(3)日本社会における「共生」の否定
①他国民・他民族に対する排外主義→ヘイト・スピーチの横行
②繰り返される「非国民」の罵声→思想・立場の異なる者の排除
③「引き下げ民主主義」の広がり→公務員、生保受給者、奨学金受給学生等
一つひとつ単体で出て来ているのではなく、全体として考える必要がある。住民運動に対する批判であったり、特権視し批判の対象にしようとする。
1 自民党の改憲論の問題性
(1)立憲主義の放棄――国民を義務づける憲法へ
①国旗・国歌の尊重義務
・「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。」(「草案」3条1項)
・「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」(「草案」3条2項)
・「国旗及び国歌を国民が尊重すべきであることは当然のこと」(「Q&A」8頁)
自民党Q&Aでは、「当然のこと」というのみで、なぜそれが当然なのかは言わない。本当は、なぜ「当然」なのか説明が要るはすである。
②憲法尊重義務
・「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」(「草案」102条1項)
・「国民も憲法を尊重すべきことは当然である」(「Q&A」35頁)
現行の憲法では、第99条で公務員に擁護義務を課しているが、改憲案では、全国民に義務を課す。ここでも自民党Q&Aでは「当然である」と縛る。
(2)基本的人権の保障――人権を否定する国家へ
①人権思想の否定――人権=エゴイズムという理解の誤り
・「西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるもの‥‥は改める必要があると考えました」(「Q&A」14頁)
②「全て国民は、人として尊重される」(「草案」13条)――「個人の尊重」の変更
・「個人の自律」の尊重から「空気読む人」「秩序を守る人」の尊重へ
③人権の限界=「公益及び公の秩序」(「草案」12条、13条、21条等)
・「従来の『公共の福祉』という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくい」。草案により「人権が大きく制約されるものではありません」(「Q&A」14、15頁)
④「家族は、互いに助け合わなければならない」(「草案」24条1項)
・「家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています」(「Q&A」16頁)
「人権」を「エゴイズム」だと言う誤った前提のもとに考えられている。自民党は60年代から「人権」を否定する考え方がある。こう言った自民党の考え方に対する反論としては、自分だけがよければいいと言う考え方はエゴイズムであるが、思想・良心について自分の自由だけではなく、すべての個人の自由を尊ぼうというのが人権の考え方であると説明するのがよい。
「個人」から「人」へ。「秩序を守る人」というのはつまり国家に盾を突かない人と言うことになる。たんい道徳的な問題であれば条文に入れる必要はないわけだが、こういった条文を入れることによって社会保障は影響を受ける。育児、介護、生活保護も家族間の扶助義務が叫ばれるようになる。
(3)思想・良心を超える「公益」の承認
①思想・良心の自由の制限
・「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」(現行憲法19条)
・「思想及び良心の自由は、保障する。」(「草案」19条)
・絶対的保障から「公益及び公の秩序」による制限へ
②起立・斉唱義務の正当化としての「公益」
・「国旗・国歌」の義務・「憲法尊重義務」=「公益」の優位
③軍事的「公益」の優位と「良心的兵役拒否」の否定
・「国防軍を保持する」「国防軍に審判所を置く」(「草案」9条の2)
・「軍隊を保有することは、現代の世界では常識です」(「Q&A」10頁)
・「軍人等が職務の遂行上犯罪を犯したり、軍の秘密を漏洩したときの処罰について、通常の裁判所ではなく、国防軍に置かれる軍事審判所で裁かれる」。「審判所とは、いわゆる軍法会議のこと」(「Q&A」12頁)。
・「『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし行きたくないなと思う人がいないという保証はどこにもない。だからそれに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国は死刑」(自民党の石破茂幹事長)。
そもそも現行の第19条は絶対的保障であり、例外や制限はない。ところが自民党改憲案では、他の人権と同じく「保障する」という言い方をすることによって相対的権利として扱おうとする。つまり公益や公の秩序に反する「思想・良心の自由」は認められないということになる。
また、現役の幹事長がそれを言っていることに驚く。事審判所が作られると、裁判官をはじめ全ては軍人。非公開で行う。良心的兵役の拒否も認めない。かつて軍隊を持った「ふつうの国」へと言う人がいたが、これでは「ふつう」をはるかに超えた強大な軍事国家ができあがる。
2 市民的不服従の権利の可能性
(1)不起立・不斉唱と思想・良心との関係
①判例の見解
A 「日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人、在日中国人の生徒に対し、『日の丸』や『君が代』を卒業式に組み入れて強制することは、教師としての良心が許さないという考え」 → 不起立・不斉唱の理由
B 「『日の丸』や『君が代』が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観」 → 思想・良心の自由
C AはBから「生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」
②「ルール」「人権」区別論(無関係論)は既に崩壊
最高裁は、不起立・不斉唱について、既に「思想・良心の自由」に関する問題だと認定している。今後の裁判でどれだけ実体的なものを作っていくことができるかである。
(2)思想・良心の自由の「制約」
①判例の見解
・本件職務命令は、「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」ではない。
-「『日の丸』の掲揚」「『君が代』の斉唱」が広く行われていたのは周知の事実
-「起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て」「慣例上の儀礼的な所作」
-「そのような所作として外部からも認識される」
-起立斉唱行為は、性質上、歴史観・世界観の否定と不可分に結び付かない
・本件職務命令は、「個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するもの」ではない。
-起立斉唱行為は、「特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難」
-「本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない」
・本件職務命令は、「思想及び良心の自由についての間接的な制約となる」。
-起立斉唱行為は、「日常担当する教科等や日常従事する事務の内容」ではない
-「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」
-「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められる」
②大阪の事案の特殊性
・全国的には「一般的」「客観的」に思想・良心の否定ではないとしても‥‥
・大阪では? 教員の思想・良心を否定するための条例制定・処分!
・エホバの証人剣道受講拒否事件の事実
「兵庫県教育委員会は1983年6月各県立高校宛に『格技の履修を拒否する生徒の指導について』と題する通達をマル秘扱いで出しており、信教上の理由での格技の履修拒否を認めないように指導している。(1986年3月2日付朝日新聞夕刊)。加えて同問題について兵庫県の県立高校長協会は1984年6月、格技の履修を拒否する生徒は体育の履修・修得は認められず、進級等にも影響が出る旨の統一見解を出した。(1984年6月12日付神戸新聞)。これらの暴挙は日本で唯一と思われ、文部省さえ『全く宗教上の理由を無視するわけにもいかない。人間関係を尊重して各校で解決しているはず』と柔軟性を求めている。兵庫県の各高校はその時々で対応の厳しさが異なっている。格技履修拒否者に進級を認める高専・高校も少数あるようだが、兵庫県の多くの公立高校・高専においては、格技履修拒否者は進級するのが難しかったり、自主退学を強いられたりしている。 格技を拒否しても進級が可能であると入学時に断定できる兵庫県内の公立高校・高専はほとんどないのが実情であるから、申立人が神戸高専に敢えて入学してきたとしても非難される余地は全くないのである。」(神戸地裁平成4年6月12日決定における申立) |
内面と外面とは違うと言うのが最高裁の論理。つまり、ヒトラーに万歳せよ(外部的行為)と言うことと、ヒトラーに心酔せよ(内心)とは異なる、と言っていることと同じ。裁判でどうやって、その最高裁の論理を崩していくことができるかだ。大阪では条例までつくって処分しているが、その大阪の特殊性を裁判で強調していくことは一つのポイントになるのではないか。例としてあげた判例は、兵庫県の特殊性をあげ最高裁で勝訴した事例である。
(3)判例変更への期待
①衆議院定数不均衡訴訟(1:2.30を違憲状態。最高裁平成23年3月23日大法廷判決)
・1:2.31を合憲(最高裁平成11年11月10日大法廷判決)
・1:2.4を合憲(最高裁平成13年12月18日判決)
・1:2.06を合憲(最高裁平成19年6月13日大法廷判決)
②参議院定数不均衡訴訟(1:5,00を違憲状態。最高裁平成24年10月17日大法廷判決)
③公務員の政治活動の自由
・猿払事件判決(最高裁昭和49年11月6日大法廷判決)
-職務上の行為と職務外の行為の区別、勤務時間内の行為と勤務時間外の行為との区別、職員の担当する職務の相違等に関わらず一律禁止・処罰も合憲
・社会保険庁職員事件判決(最高裁平成24年12月7日判決)
-管理職的地位ではない、職務内容や権限に裁量なし、職務と無関係に配布、公務員による行為と認識しうる態様ではない
④非嫡出子の相続分差別
・合憲判断(最高裁平成7年7月5日大法廷決定)
・しかし、判例変更の見込み
最高裁における判例変更の判例をいくつか紹介したが、大阪の「君が代」不起立処分についても、先ほど述べた大阪の特殊性をどこまで訴えていくことができるかが直近の課題となるであろう。そのうえに、国民の理解が得られれれば、判例変更も望むことはできる。
結び――もう一つの日本社会は可能か?
(1)問題の広がり;「日の丸」「君が代」とそれ以外の象徴、強制と非強制
①「日の丸」「君が代」の「強制」が問題 → 判例の理解
②「日の丸」「君が代」の「非強制」も問題 → 不起立・不斉唱の理由
③「日の丸」「君が代」以外の「強制」も問題 → 「象徴的言論」の問題
④「日の丸」「君が代」以外の「非強制」も問題 → 「政府言論」の問題
「国旗敬礼が発語の一形式であることは疑いない。Symbolismは、観念を伝達するに当たっての、原始的ではあるが効果的な一方法である。体系、観念、制度あるいは人格を象徴するために、紋章ないし旗を使用することは、精神から精神への近道(a short cut)である。」(Board of Education v. Barnette,319 U.S.624(1943)。蟻川恒正『憲法的思惟』(創文社、1994)32頁より引用。) |
「公立学校での政府の教化政策」が問題であり、「敬礼の強制という、行事の『特定のテクニック』のみ」が問題なのではない。「つねに囚われ、未成熟な聴衆を相手に、しかも教育の名の下にメッセージを送ることのできる公立学校は、government speechにとって、またとない環境を整備するものと云ってよい。その理想的環境性を構成する諸因子の中で、わけても緊要とされるのが、学校における生徒のcaptive audience(囚われの聴衆)性である。」(蟻川・前掲36頁) |
(2)〈親の自由と公立学校の対抗〉
①公立学校の役割 → 価値の植え込み(上記④の問題性)
②「親の自由」による対抗
・Meyer v. Nebraska,262 U.S.390(1923)
-反ドイツ感情がドイツ語の授業の禁止立法として定着。
-法律に反しドイツ語授業を行った教師の起訴事件。
-「アメリカ市民性を植え込む」目的、しかし、「親の自由」の観点から違憲判決。
・Pierce v. Society of Sisters,268 U.S.510(1925)
-8歳から16歳までの子どもの公立学校への就学を強制する州法。
-「親の自由」の観点から、違憲無効。
・Wisconsin v. Yoder,406 U.S.205(1972)
-16歳までの義務教育を定める州法。
-アーミッシュの信者が、子どもに第9学年以上の学校教育を受けさせることを拒否、起訴事件。
-「親の自由」の観点から、14歳をこえるアーミッシュへの子どもの公立学区への就学を免除。
最後に、「日の丸」「君が代」の強制が問題であるという、現在の訴えとは、別の角度から、この問題を考えてみたい。最初の囲み記事はバーネット事件の判決文から、これは③の例としてあげている。ここではシンボル(象徴)が精神的に与える影響を問題としている。ならば、徴兵カードを焼くという行為も象徴的言論つまり表現行為として認められることになる。国旗を焼くというのも表現の自由と言える。二つ目の囲み記事は④の例としてあげたが、そもそも、公立学校における生徒がどのような立場に置かれているかを述べたものである。これについては現在議論している。あと、親の子どもに対する教育権は認められた判例をあがたが、「君が代」の強制の問についても一律に義務付けるのは親の立場から教育権の侵害と訴える事例が出て来てもいいのではと考える。
―感想―
自民党改憲草案の問題性については、これまでもいろんな人から話を聞いてきたが、改めて、あれは国家の暴力性を肯定するものだと感じた。改憲に向けて、あらゆる場面でそれを先取りするかのような「国家の暴力性」は表れている。「君が代」強制もその一つだ。北九州「こころ裁判」を皮切りにいくつもの訴訟が起こった。市民としての教員としての不服従の権利を司法に問う裁判であった。最高裁小法廷では、「君が代」起立斉唱の職務命令は合憲としながらも、徐々にではあるが、その態度を変えている。さらに司法に訴えることを通して、憲法19条「思想・良心の自由」とは、制約や比較衡量によって保障されるものではなく、絶対的保障であることを大法廷の場で確認させたい。そして、それが自民党改憲すなわち壊憲を阻止することにもつながっていくはずだ。市民的不服従が今ほど求められるときはないのではないかと思われるほどである。