江戸時代、水橋川(今は白岩川に改修された)上流の米作地帯で生産された年貢米は舟便で、河口近くの米倉(1668年に水橋御蔵を設置)まで運び込まれ、ここで扶持米として武士に支給されていました。
ところが飢饉のとき(天明か天保)、餓死寸前の民衆の惨状を見た米商人の眼目屋(サッカヤ)與左ェ門は、蔵を管理していた蔵宿主・藤島屋市郎ェ門の給人蔵を開け、藩の許可なく民衆に分けてしまいました。その結果、藩からの咎を受け與左ェ門は生き埋めの刑に処せられたと言います。
この事実を知り感銘した住人たちが「伝蔵地蔵尊」を安置し、毎年8月25日この「伝蔵地蔵」の祭を行っています。白岩川に面した水神社の前に祠とは見えないような祠の中に納められています。「我が身を捨てて」とは思ってもできないことですが・・・、胸を打ちます。
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