大戦記念館の中の展示の一つで、台児荘の当時の地図です。この時台児荘は滕県と呼ばれていたようです。このように台児荘は濠と城壁に囲まれた都市ですた。日本軍が攻めてくることを予想して、住民を強制疎開させ、要塞化して中国軍が頑強に抵抗し、結局日本軍が撤退したようです。
地図では西側南北に津浦鉄路とありますが、天津から南京浦口まで南北に貫く幹線鉄道です。当時戦争不拡大方針の下、この鉄道より西には出ないという指令が出ていたようです。
話が鉄道にそれますが、中国の鉄道は南北に2本あり、1本は天津から南京に至るルートともう1本は北京から石家荘を経て武漢(漢口)に至るルートです。戦前は揚子江に橋はありませんでした。それで、戦後南京大橋と武漢大橋が造られました。いずれも鉄道併用橋でしたが、この2本のルートを南の鉄道に繋ぐ為だったのです。
因みに東西の鉄道は昔から1本しかなく、山東半島の南側の付け根にある連雲港から西に延び、徐州で天津-南京浦口線と交差し、鄭州で北京-漢口線と交差して、洛陽、西安、宝鶏へと延びます。宝鶏で2本に別れ、1本は成都へ、もう1本は新彊ウルムチへ行きます。
東西の鉄道が1本しかなかったのは、揚子江が南方の運輸ルートとして利用できたからだと思います。この2年位まえから上海→南京→合肥→漢口への高速鉄道が通じて東西鉄道がもう1本できてはいますが、これは乗客専用で、昔の貨物主体の鉄道とは意味合いが違います。
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因みに東西の鉄道は昔から1本しかなく、山東半島の南側の付け根にある連雲港から西に延び、徐州で天津-南京浦口線と交差し、鄭州で北京-漢口線と交差して、洛陽、西安、宝鶏へと延びます。宝鶏で2本に別れ、1本は成都へ、もう1本は新彊ウルムチへ行きます。
東西の鉄道が1本しかなかったのは、揚子江が南方の運輸ルートとして利用できたからだと思います。この2年位まえから上海→南京→合肥→漢口への高速鉄道が通じて東西鉄道がもう1本できてはいますが、これは乗客専用で、昔の貨物主体の鉄道とは意味合いが違います。
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今朝の上海は曇りです。予報は雲が多目の晴れ、最高気温は21度、最低は14度です。
今日も山東台児荘ですが、古城以外です。最初は台児荘大戦記念館です。
1938年3月、4月にかけてこの台児荘で日中両軍が激戦を交わし、日本軍の撤退をもって終わっています。中国軍も大きな犠牲を払いましたが、日本軍が撤退して終わったので、中国では日中戦争始まって以来の初めての対日勝利とされています。
1937年12月の南京占領以来、日本政府は戦争不拡大方針でしたが、山東済南・青島を占領した日本軍が目前の中国軍に戦いを挑みました。中国軍は徐州に大軍を集結しており、台児荘はその前線に当たりました。国民党政府はにここに日本軍を引きつけ、日本軍の武漢攻略をそらす狙いがあったとの説もあるようです。
台児荘の戦いは中国側にとり勝利ですが、その後の徐州会戦の先駆けともなり、徐州会戦では、徐州西側の開封まで日本軍に突破されています。しかし、日本軍もそれ以上西に拡大することが出来ずにいます。
台児荘は対日勝利第一号として、中国人なら誰も知っている地名です。それで台児荘にはこのような大戦記念館が建てられています。当時の国民党政府の正規軍が戦ったので、台湾でも知られているようです。台児荘古城の写真の中で、国民党の主席だった連戦が夫婦で来ているのを見かけました。連戦は祖先が大陸の外省人ですが、古城だけでは台児荘に来なかったでしょう。
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1937年12月の南京占領以来、日本政府は戦争不拡大方針でしたが、山東済南・青島を占領した日本軍が目前の中国軍に戦いを挑みました。中国軍は徐州に大軍を集結しており、台児荘はその前線に当たりました。国民党政府はにここに日本軍を引きつけ、日本軍の武漢攻略をそらす狙いがあったとの説もあるようです。
台児荘の戦いは中国側にとり勝利ですが、その後の徐州会戦の先駆けともなり、徐州会戦では、徐州西側の開封まで日本軍に突破されています。しかし、日本軍もそれ以上西に拡大することが出来ずにいます。
台児荘は対日勝利第一号として、中国人なら誰も知っている地名です。それで台児荘にはこのような大戦記念館が建てられています。当時の国民党政府の正規軍が戦ったので、台湾でも知られているようです。台児荘古城の写真の中で、国民党の主席だった連戦が夫婦で来ているのを見かけました。連戦は祖先が大陸の外省人ですが、古城だけでは台児荘に来なかったでしょう。
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