不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

La Battaglia di Anghiari

2007-01-30 02:20:12 | アート・文化

フィレンツェのヴェッキオ宮殿の500人広間(Sala di Cinquecento)に描かれたはずのレオナルド・ダ・ヴィンチの手による「Battaglia di Anghiari(アンギアーリの闘い)」。

1440年6月29日にニッコロ・フォルテブラッチョ(Niccolo Fortebraccio)率いるミラノ軍とミケロット・アッテンドーロ(Michelotto Attendolo)とジャンパオロ・オルシーニ(Giampaolo Orsini)率いるフィレンツェ軍が闘いフィレンツェが勝利を挙げたアンギアーリの闘い。
この戦いを描いたレオナルドの壁画はヴァザーリの「改革」により姿を消したとされていますが、ルーベンス(Rubens)やビアジョ・ディ・アントニオ(Biagio di Antonio)の模写により、その作品の存在自体は確認されています。
ルーベンスによるアンギアーリの闘いの模写がルーブル美術館に所蔵されているほか、ミケランジェロとレオナルドの競作といわれる2作それぞれの下絵や模写はいくつか残っています。
Anghiari_rubens

500人広間は長さ54メートル幅23メートル。
メディチ家を追放したサヴォナローラの命で1494年にクロナカ(Cronaca)によって完成。
コジモ一世(Cosimo I)の時代になり、この部屋を居住宮殿として使用するためにヴァザーリ(Vasari)に要請して拡張工事を開始。
1555年から1572年の改装時にレオナルドの「アンギアーリの戦い」は上描きされてしまったか、もしくは破損されてしまったとされています。

当時のフィレンツェの終身行政長官であったピエル・ソデリーニ(Pier Soderini)が、現在のヴェッキオ宮殿500人広間の大きな壁に隣りあわせでフィレンツェの勝利を称えるフレスコ画を描くようにルネッサンスの二人の巨匠ミケランジェロとレオナルドに依頼。
1503年4月にはじめて二人は絵画制作の直接対決に挑むことになります。壁の左側部分はミケランジェロの「カッシナの闘い(Battaglia di Cascina)」に、右側がレオナルドの「アンギアーリの闘い」に当てられ、それぞれ高さ7メートル幅17メートルの大作になる予定でした。

フレスコ画技法に慣れているミケランジェロには実に容易な仕事であったと思われますが、もともと筆が遅く、描きなおしを繰り返すレオナルドには、そもそもフレスコ画の技法は向いておらず、本人もフレスコ画で描くことに難色を示したと言われています。
彼の傑作といわれるミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」も完全なフレスコ画では描いていないほどで、この「アンギアーリの闘い」も結局フレスコ画法ではなく「焼付け画法(encausto)」を用いることを決めます。
この焼付け画法は色を定着させるために高熱を要するのですが、彼が立ち向かっていた大きさの壁画にこれを適用するには、かなりの近距離で火を焚く必要があり、実質的には不可能といわれました。
レオナルドはそれにチャレンジしますが、火力が強すぎる部分の塗料が溶け出してしまうなどの問題も生じています。度重なる失敗と問題にもかかわらず、実際はレオナルドは6人の弟子を使って1年間作業を続けており、作品はほぼ完成し、作品の上部はダメージが大きかったとはいうものの、数年間はヴェッキオ宮殿はこの絵画で飾られていたと考えられます。
よって多くの人がこの作品を鑑賞し、またルーベンスをはじめ多くの芸術家が模写をしていてもおかしくはありません。

ルネッサンスの巨匠の競作となるはずだった作品ですが、ミケランジェロは教皇に召喚されローマへ赴いているためこの仕事を遂行することはなく、その部分には後に違うフレスコ画が描かれていました。

レオナルドがこのフレスコ画を完成させた当時は、この巨大な部屋は殺風景で、コジモ一世の命で改装が始められて装飾されました。
天井は7メートル高くなり天井にはコジモ一世を称える絵画が嵌め込まれ、両サイドの壁もフィレンツェの支配力を示す主要な闘いを描いた巨大な絵画で埋め尽くされます。
この際にヴァザーリがレオナルドの絵画を損壊しているのかどうかという点ですが、ヴァザーリがレオナルドを非常に賞賛していることから考えても、彼が自らレオナルドの絵画を破損させている可能性は低いと考えられます。
おそらく、一旦白く覆うなど、何らかの手を使ってオリジナルを保存した状態で、その上に別の絵画を完成させていると考える専門家が多くなっています。

500人広間の西側の壁は当時4つの大きな窓が備えられていて、7×17の作品を描くにはスペースが足りなかったと考えられ、そうなると二つの窓があった東側の壁の向かって右側がレオナルドの作品に当てられたスペース。
そしてその部分に後世ヴァザーリが残した作品の中の兵士がもつ旗には論理的に意味のないフレーズが残されています。
そのフレーズとは「Cerca, Trova」。
専門家の中にはこれがレオナルドのオリジナルの作品のありかを示すキーワードになっていると考える人も少なくありません。

たびたびの資金難や書類の問題で中断されがちではありますが、現在もこの幻の絵画再発見調査は続けられており、最近の調査の結果ではかなり高い可能性で「上描き」されたといわれており、その絵画の場所も推定されているのですがまだ不確定。
現在の最新技術を駆使して幻の大作が確認されるのも、時間の問題かもしれません。

もしもヴァザーリが書き残した「Cerca, Trova」が幻の絵画のあることを示しているのだとすれば、そんなフレーズを残すチャンスとセンスに恵まれていた彼も賞賛したい気分。