ふせちゃんのブログ

布施隆宏 公式ブログ。 鉄道写真 風景写真 ジオラマ制作など 趣味の世界を紹介します。

青 春 履 歴 簿

2012-03-31 23:54:06 | 伝えたいもの

< 2006年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、再掲載しています >


             フォトエッセイ  青春履歴簿

        
足尾線に賭けた青春
 20代の初め、私は雪の上越線で 同い年くらいのアマチュアカメラマンに会った。 私と彼は、谷川岳を背景に 特急電車を写すため、三脚を並べていた。
 「 お正月の雪晴れの日に “ サロンエクスプレス東京 ( 当時の鉄道ファン憧れの的 ・ 団体専用 欧風列車 ) ” を写せたよ 」 と、ちょっと自慢げに彼。
 「 ふーん。 その日は友達の家で、新年会やってたなぁー 」 と、おどけた私。
 すると、「 そんな事やってるから、せっかくのチャンスを逸すんだ! 」 思いがけず 強い口調で 彼は言った。
 何も、見ず知らずの奴になんか 怒られる筋合いは無い。 大きなお世話だーって思ったけど、心のどこかで、彼の言葉に うなずいていた。

 ただの趣味で始めた写真ではないはず。 人よりいい写真を撮ろうと思ったら、いい加減な気持ちでいてはいけない。 私は彼の一言によって、それまでの曖昧な気持ちを切り捨てることができた。 そして、写真にのめり込むことで、一つの事に夢中になる楽しさ、心地良さを 知ることが出来たのだ。



田舎の ばあちゃんにだって
 私が写真を始めたきっかけは、米山淳一 さんの写真集 「 上越線 」 ( 河出書房新社 ) に 魅了されたことに始まる。 私が社会人になった年に 上越新幹線が華々しく開業した。 米山さんはその開業に合わせ、国鉄上越線の写真集を出版されたのだ。
 厳冬の豪雪地を 雪煙りを上げて駆け抜ける特急電車。 凍てつく夜の駅構内。 ときには、草花の咲き乱れる のどかな田園風景。 私は その写真の一つひとつに輝きを感じ、鉄道の風景写真にひかれていった。

 そんな折、通勤途中の車のラジオで、「 どこかの港町に住むおばあちゃんが、漁港や市場の情景をコンパクトカメラで写し、写真集にまとめたところ、素人の方の写真集にしては 大変好評だった 」 というエピソードを紹介していた。
 この話しを聞いた瞬間、私の目の前にあるすべてのものが 一瞬にして光輝いて見えた気がした。

 社会人になって半年、「 このまま何のとりえも無い ただの年寄りになって、一生を終えてしまうのだろうか。 仕事以外のことで、何か夢中になれることをしてみたい。 歴史のほんの片隅にでも、名前が残るような事をしてみたい 」。 そんなふうに思っていた私は、「 よし、俺も写真集を出そう! 」 そう 決意したのだった。

 そうして、21歳にして初めて、“ 一眼レフカメラ ” というものを手にした。 それこそ、フイルムの入れ方すら 分からないのに。



運命の 出会い
 全国的に “ お座敷列車 ” が流行し、私も 地元の国鉄上越線や 信越本線に出掛け、特急電車や お座敷列車を写していた。
 この頃から 鉄道雑誌に、イベント列車の運転予定表が 掲載されるようになった。 それらを参考に、日記を兼ねた予定表は、一ヶ月も前から 細かい文字で埋め尽くされた。
 沿線の撮影ポイントは 常に数人のアマチュアカメラマンが集い、人気列車の運転日には 数百人の鉄道ファンが詰めかける。 カメラのポジションをめぐって ケンカ沙汰にもなりかねない。
 そんな光景を目の当たりにして、「 人と同じ被写体を撮っていては 写真集にはなりにくいな。 まして自分の技術では、鉄道雑誌のカラーグラビアには 到底かないそうも無い 」と思った。

 そこで、気分を変えて “ 国鉄 足尾線 ( 現在 : わたらせ渓谷鉄道 ) ” を歩いてみた。 足尾線はもともと銅山鉄道だったので、沿線は観光地化も 宅地化も進んでおらず、自然の多く残る鉄道だった。
 非電化区間なので 邪魔な電柱や架線が無く、また、2~3輌の短い列車は 風景をからめての構図が大変まとまり易く、絵になった。 何より、競争するカメラマンがいないのが嬉しかった。

 私が “ 足尾線 ” という 素晴らしいフィールドに出会えた この年、奇しくも この足尾線は “ 赤字ローカル線 廃止対象路線 ” に選定された。 そして、沿線住民による壮絶な 存続運動が開始されたのだった。



不謹慎
 国鉄の掲げた “ 赤字線廃止基準 ” の中に、「 一時間あたり千人の利用客がある場合、鉄道廃止の協議を 一時、停止する 」 という項目があり、それをクリアさせるため、さまざまな動きがあった。
 対象となるのは 早朝の上り一番、二番列車。 沿線の人たちに 鉄道の利用を呼びかけるのは もちろんのこと、沿線の企業や学校に対し、始業時間を 列車の時間に合わせてもらえるよう 要請したり、列車を利用する人に 補助金を出すという内容。
 そして、老人会の方々を動員させ、協議対象の列車にサクラ乗車させていた。 その運賃は自治体が払っていたが、自腹で参加された人も多かった。

 異常なまでに加熱した 「 足尾線の存続運動 」 は、行く先も分からない 不安の中で展開されていった。
 偶然にも そんな時代に直面した私は、誠に不謹慎ながら 鉄道の廃止を密かに望んでいた。 「 鉄道の廃止と時期を合わせて 写真集を出せば、そこそこ売れるのではないか? 」 と、期待したしたからである。

 ある日、高校時代の友人から 結婚式の招待状が届いた。 ときに、紅葉の撮影シーズンだったため、迷いも無く 欠席の通知を出しておいた。 友情だとか、恋だとか、家族の絆だとか いうものよりも、大切なものがあると信じていたから。
 すると数日後、ほかの友達から電話があり、「 おまえとは もう絶交だ! 」 と、怒鳴られた。
 それが元で、数少ない高校時代の友人と 絶交できた。 自由になれた気がした。



不安だったから
 初めのうちは、一年もあれば 足尾線の四季の写真を写せてしまうと、タカをくくっていた。 けれど 撮影技術が未熟なことや、列車本数の少ない事で、撮影は はかどらないでいた。
 写真集として認められるレベルの撮影ができないまま 足尾線が廃止されてしまったら困るし、いつまで撮影を続けたらいいのかも分からない。 また、自分と同じように 足尾線を専門に写している強力なライバルが どこかに居るのではないだろうかと、そんな不安がどんどん募っていった。
 けれど、不安が大きかった分、足尾線の撮影に熱が入ったのだと思う。


目指していたもの
 1/25000 の地形図に、歩いて探した撮影ポイントを記入していく。 それに分度器を当てて、風景が一番きれいに見える 半逆光の時間帯を割り出す。 そして、その時間に通過する列車を調べる。
 移動時間を考慮し、数ヵ所の撮影ポイントを効率良く回れるよう、毎回の行程表を作った。 晴れの日用と曇り・雨の日用の行程表を用意することで、天気の急変にも対応した。

 写真の参考書として使ったのは 鉄道写真雑誌ではなく、風景写真のガイドブックだった。 この頃の鉄道雑誌は 「 順光で写すことが大事 」 とされ、風景写真雑誌では逆に 「 逆光で写すことに価値がある 」 とされていた。
 たとえ逆光で列車が黒くつぶれても、風景が輝いた瞬間を写したい。 私が目指していたのは 「 鉄道写真 」 ではなく、「 鉄道のある風景写真 」 だった。

 足尾線には これと言って有名な撮影地があるわけではない。 けれど、どこにでもある 何の変哲もない風景が、見違えるほど美しく見える瞬間がある。
 誰も見向きもしないような景色を どこまで魅力的に写せるかが大切だと思った。



「 採用不可 」
 国鉄が分割・民営化された年、私は本屋さんで、群馬県内の山歩きコースを紹介したガイドブックを見つけた。 そして、足尾線撮影の合間に 「 西上州 ( 群馬県南西部 ) 」 の山の写真を撮り始めた。
 西上州の山は、標高があまり高くない割りには 見応えのある岩山が多く、次のフィールドは 西上州 だと直感した。 本格的な風景写真を撮ることで、足尾線撮影のレベルアップも目的だった。

 国鉄が民営化されたことで 足尾線の存続はさらに危ぶまれ、銅山の貨物輸送は 鉄道からトラック輸送に切り替えられた。
 自治体や住民の不安はピークを迎え、地元の新聞には連日のように 関連記事が書きつづられた。 廃止か、存続か。 バス転換か、第三セクターか・・・。
 
 そして私の心の中も、落ち着くことができなかった。 足尾線の写真集を作りたいという旨の手紙を沿え、数社の出版社に写真を送ったのだが、そのうち、回答が来たのは一社だけだった。 「 採用不可 」 と・・・。



あきらめてしまったら
 そんな折り、私にとって 忘れられない一日がある。
 足尾線撮影3年目の、 ある 3月の 雪の日。 私は仕事の途中、車の中で FMラジオを聞いていた。 ある番組のアシスタントを務める女性が、この日限りで仕事を辞めることになっていた。 彼女は短大に在学中で、そのかたわら ラジオの仕事をしていたが、学校を卒業するのに伴って、番組を降りることになった。

 彼女の夢は アナウンサーになることで、各地のオーディションを受けているところだと言う。 その後の進路も決まっていない、不安の中での お別れだった。
 別れの挨拶の中で、リスナーに向かって 「 夢は 絶対に捨てるな! 自分から夢をあきらめてしまったら、叶うものも かなわなくなる! 私も 夢をあきらめないから、みんなも 夢を捨てないで! 」。 いつになく 強い口調で、そう言っていたのが印象的だった。

 翌、日曜日。 午前2時半に家を出発。 車で足尾駅に向かった。 前日からの雪は 日の出前に止み、天気は急速に回復した。
 自動車のライトを照らして、構内のモーターカーを Nゲージのように写したり、停車中の一番列車を 雪明かりの夜景で写したり。 足尾町を一望出来るバイパスでは、朝日に輝く町並みと列車を撮影。 小中付近では、いままでどうにも様にならなかった川原の風景を、パノラマ的にまとめることができた。

 雪は昼前にほとんど解けてしまったが、半日で多くの写真をものにすることが出来た。 後にも先にも、足尾線の撮影で これほどはかどったのは この日だけだったが、それまでの沈滞ムードを吹き飛ばし、その後の撮影にも 弾みがついた思いだった。

 彼女はその後、某テレビ局に 入社することが出来ました。


初夏の まぶしい日差しを浴びて
 この頃の自分に言い聞かせていた言葉。 「 たとえ無駄だと思うことでも 途中で投げ出さずに続けていれば、いつか 価値のあるものになる 」 というもの。
 今まで 写し続けてきた写真たちを、いつか 日の目を見せてあげたいと、そんな気持ちで いっぱいだった。

  草つゆで パンツまで濡らして駆け回ってた 夏草の丘・・・

  通り過ぎる列車の風圧に巻き上げられて、逆光で オレンジ色に輝いてた落葉たち・・・

 そんな シーンの 一つ一つを、ただの思い出で終わらせるわけには いかなかった。

 平成元年、春。 足尾線は 「 わたらせ渓谷鉄道 」 として、第三セクターの鉄道に生まれ変わった。 沿線住民による熱心な存続運動が 実を結んだのだ。
 そして私も、この新緑の季節で 足かけ5年の 足尾線撮影を 終わらせることにした。 必ずしも納得のいく撮影ができたとは言い切れないが、全力を出しきったという気持ちはある。

 その帰り道、線路沿いの国道を 車を走らせていると、なぜだか急に 涙が溢れてきた。
 初夏の まぶしい日差しを浴びて 新緑が輝いている。
 足尾線を撮影するために さんざ かよった道。 見通しのいい直線道路で、私は車を運転しながら 大声で吠えた。 目の奥がヤケドするのではないかと思うくらい 熱い熱い涙が、これでもかというくらいに 溢れ出た。
 夢も 恋も、何もかもすべてが この新緑の季節からスタートするのだと、私は 信じて疑わなかった。



見えなくていいもの
 そうして 写した 足尾線の写真を “ 山と渓谷社 ” に 飛び込みで持ち込み、マイブックスの 阿部正恒 編集長に出会った。 そして 翌年、写真集 「 わたらせ渓谷鉄道 」 を 自費出版することができた。
 その後、私の身辺は 少々賑やかになった。 本屋さんに 写真集を持ち込んで 置いてもらえる様 お願いして回ったり、写真雑誌などの 新刊本紹介の欄に載せてもらうように 手紙を出したりする日々が続いた。 そして、地元新聞の取材や 読者からの手紙が届き、今まで 経験しなかったことが相次いだ。

 けれど、何か違う。 外見では ちょっとは華やかになったが、内面的な部分で 何も変わっていない気がしたのだ。
 あの 初夏の日の 熱い想いを、あのまま 置き去りにしてしまったような・・・。

 私は 写真集を出す2年前に、四輪駆動のワゴン車に乗り換えていた。 西上州の 山の写真に取り組むためである。
 車には寝袋と防寒着、水タンクとガスコンロなどが積んである。 これで2~3日寝泊りしながら、山歩きや星空の撮影を楽しむことが出来るのである。
 けれど、写真に没頭できなくなっていた。
 どうやら、見えなくてもいいものが 見えるようになってしまったから らしい。 と言うより、今まで目をそらしていたものが、それでは済まない歳になったのだ。 家族のこと、仕事のこと、将来の事など、もっと 真剣に考えなければならないものがあったのだ。

 人と同じことをしていたら、人と同じか、それ以下の幸せしか手に入らない。 夢を追うことが幸せに続く道だと思って 始めた写真だった。 ところが、目の前にあったはずの幾つもの幸せを失っていることに気が付いた。
 いったい何のための 夢だったのだろう。 自分ひとりがとり残されたような、ひどい疎外感に襲われた。



仕事も遊びも、楽しくなければ 人生じゃない
 西上州の山の撮影を始めた頃から スクラップノート ( 雑記帳 ) を書き始めた。 思いついた文章を書き留めたり、心に残った本の一節や 歌の歌詞、新聞の切り抜きも貼っておいた。 幼い頃の思い出、学生時代に好きだった女の子のこと、そして 書きなぐりの心理描写などが つづられている。
 スクラップノートを書くことで 心の整理を付け、自分の本当の気持ちを見つける事で、少しづつ 自分に自信を持ち、勇気を出せる気がしていた。

 その中で “ 座右の銘 ” を作るのがマイブームになった。

  ・ 『 挫折して ダメだと思って諦めるか、逆に バネにしてがんばるか 』

  ・ 『 目標さえはっきりしていれば、方法なんていくらでもある 』

  ・ 『 流されず、状況判断と 先制攻撃 』

  ・ 『 たとえカラ元気でも、続けていれば元気になる 』

 毎年 新しい座右の銘をにすることで、自分の弱いところを直そうと思った。 そして、最終的な目標は 『 仕事も 遊びも、楽しくなければ 人生じゃない! 』
 これは、私を理解してくれる知人の一人からいただいた言葉であるが、達成するのは容易ではないと思う。

 私は 風景写真でプロのカメラマンになりたいと思ったことはない。 会社に勤めて お給料をいただき、生活の基盤を作る。 その上で、週末にカメラを持って出掛ける。 それが私のライフスタイルに一番合っていると思う。

 西上州の撮影を始めて10年が過ぎ、いくらか味のありそうな写真も増えてきた。 写真のレベルや 金銭的な問題はあるが、いつの日か必ず、「 西上州の山 」 の写真集を出してみせる。 しかもそれは 単なる写真集ではなく、読んだ人が元気になるような、心の若い人たちへの 応援歌でありたいと考えている。
 そして その趣旨に対する活動こそが、私の生涯の仕事ではないかと ・・・。


                   フォトエッセイ  「 青春履歴簿 」  ― 終 ―


< 無断転載を 固くお断りします >


 掲載誌 : [ 森のクラス会 vol.3 ( 樹の森出版 ) 2002 SPRING より ]




エピローグ
 今から10年ほど前、樹の森出版の発行する季刊誌 「 森のクラス会 」 より、わたらせ渓谷鉄道への取材の依頼がありました。 その記事の資料として 寄稿した文章を、今回 ブログに掲載してみました。

 樹の森出版の代表を務める 阿部正恒氏は、山と渓谷社 に勤めていらした時に、写真集 「 わたらせ渓谷鉄道 」 を担当して下さった編集長です。

 阿部氏にお会いするのは 「 わたらせ・・・ 」 の出版以来でしたから、十数年振りの再会になりました。 その日、会食を取りながら思い出話しをしていました。 そして、十数年前の私の印象を 阿部氏はこう語ってくれました。

 「 あの頃の君は 鋭い刃物の やいばのようだった。 コレと決めたら一歩も譲らず、真っ直ぐに突き進む。 そんな人だった 」 と。
 この言葉は私にとって、とても意外なものでした。 それまで私は、「 優柔不断なヤツ 」 と言われることが多かったものですから・・・。
 それだけ、この 写真集に対する 想い入れが強かったということなのでしょうか・・・。

「 森のクラス会 」 に “ 青春履歴簿 ” の文章を寄稿した頃はまだ、西上州の山の撮影の真っ最中でした。 その後、写真集 「 西上州の山 」 ( 上毛新聞社 刊 )、DVD 「 わてつ 四季の旅 」 ( 有限会社 ナニモ ) の発行を経て、現在に至ります。


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フォトエッセイ 「 喜んでくれる人がいるからね 」

2012-03-27 06:33:20 | 伝えたいもの

< 2008年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、最掲載しています >



             フォトエッセイ  写真家の見た風景
          ― 第十七話 ―  「 喜んでくれる人がいるからね 」


 あるとき私は、わたらせ渓谷鉄道沿線のお宅に お邪魔していました。 雑誌 「 森のクラス会 」 ( 樹の森出版 ) の取材のお手伝いを頼まれ、ボランティアで同鉄道を支えている方々の所へ インタビューに出掛けることになりました。

< 鈴木さま >  雪は踏まれて固まると危ないので、朝早く起きて雪かきをしています。 私がもともと足が悪いので、踏み固められた雪の上を歩くのが嫌なので、できる所は全部雪かきをします。
 ボランティアで雪かきとか夏の草取りとかをしていますが、みんな見ていて自分の出来ることを手伝ってくれます。 いろんな人に声をかけてもらえて、この仕事は本当に楽しいです。

< 町田さま >  人間を運ぶだけだったらバスとかの方が便利ですけど、ささやかな事かも知れませんが、鉄道を使うほうが環境にやさしいと思います。
 車だと、どうしてもせわしくなり、まわりをゆっくり見る余裕がなくなります。 人とのつながりは車よりも鉄道のほうが多いので、これからも沿線に花を植えて、みんなで楽しめる沿線にしていきたいと思います。




< 星野さま >  駅を立て替える事ができました。 有志で駅の清掃を行っています。 今でこそ自動車の普及で 鉄道の乗車率は低くなっていますが、これからの高齢者社会では、ますます必要性は高まると思います。

< 細野さま >  自宅の前に駅が出来て、なんだか自分の庭をきれいにするような気持ちで 自然に始めました。 冬は三色スミレ、夏はサルビア、マリーゴールドなど。 夏は月に一回から二回 下草刈りをしなければいけないのですが、駅を花でいっぱいにしていることを 近所の方がみんな分かってくれて手伝ってくれます。
 体力がなくなって 遠くまで行けなくなったお年寄りが 「 この駅に寄るだけでお花見ができるよ 」 って言ってくれたことが 本当にうれしかったです。

             掲載誌 : 森のクラス会 Vol.3 樹の森出版 >




 無人駅のはずなのに 駅舎はいつも清潔に保たれ、待合室には手作りの座布団が並んでいる。 今ではどこのローカル線でも見かける光景ですが、ここ、わたらせ渓谷鉄道では、国鉄 足尾線の時代から 沿線の方々によるボランティア活動が 行なわれていました。
 「 喜んでくれる人がいるからね 」。 あっけらかんと言い放つ笑顔は とても生き生きしていて、利益だの損得だのを度外視した 純粋な表情を見せていました。

 私がずっと 写し続けてきたこの鉄道が、実はとても温かな人たちによって支えられていることを知り、改めて胸が熱くなる想いでした。

 ありがとうございました。

            ― 第十七話 ―  「 喜んでくれる人がいるからね 」  ― 終 ―


< 無断転載を 固くお断りします >



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フォトエッセイ ガラスの森

2012-03-17 15:36:45 | 伝えたいもの

     < 2008年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、最掲載しています >



   妙義山 ・ 第二見晴しより 金鶏山  日没まぎわ、蒼い風景に霧がまとわり付く。
   < 35mm F5.6 - 8 1/125sec >



             フォトエッセイ  写真家の見た風景
               ― 第十五話 ―  ガラスの森

 ● 乾雪 ・・・ 北国の雪はパサパサに乾いた乾雪 (パウダースノー)。 樹木の枝に着いた雪は、少しの風でも吹き飛んでしまう。 だから、厳冬期の北海道などの雪景色には、樹氷はあまり見られない。

 ● 樹氷 ・・・ 関東地方の雪は雨で始まる。 やがて気温が下がり、湿った雪になる。 湿った雪は木の枝に付着しやすく、夜間の冷え込みで凍りつき、樹氷になる。

 ● 霧氷 ・・・ 木の枝の上側に積もる雪に対し、枝の裏側や幹までも白く染めるのが霧氷。 空気中に漂う霧が樹木などに付着して凍った状態。 けれどその命は短く、太陽が昇るにつれ 「 シュワ シュワ シュワ 」 と、音ともつかない音をたてて 氷の魔法が融け、元の枯れ木立ちに戻っていく。



1日目.
 あるとき私は、妙義山・中間道を歩いていました。 妙義神社から白雲山の山腹を巻き、石門群へと続く自然遊歩道です。 遊歩道とは言え、倒木や落石のある、起伏の多い道が続きます。
 未明から関東地方に降り出した雨は、山間部では雪になっていました。 ふんわりと綿帽子をかぶった妙義神社を訪ねてから、見晴し台を目指します。 表妙義の山々を見渡せる絶好の場所なのです。
 雪は午後になって止みましたが、上空の雲は取れません。 夕方になって霧が出始め、金鶏 (きんけい) 山に雲海が広がりました。 「 もし、雲の切れ間から夕焼けが差し込んで、全体を赤く染めてくれたなら・・・ 」。 そんな淡い願いもかなわず、少し残念な気持ちで山を降りる事にしました。
 「 明日、この雲海と朝日を写せたらいいな 」 など、期待しながら・・・。




   『 ガラスの森 』  夜明けの金鶏山
   < 35mm F4 1/125sec PLフィルター >

   写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋


2日目.
 午前4時半。 懐中電灯に照らし出された遊歩道は ガチガチに凍り付いて、ガラスの破片のように鋭く光っています。 靴の裏が裂けてしまいそうで、しかも、転んだら痛そうです。
 そして まったくの予想外。 昨日 出ていた雲海は夜の冷え込みで凍りつき、一面の霧氷状態になっていました!
 東の空が明るくなり始めると、表妙義の山々は濃いブルーから ムラサキ色へと変化していきます。 やがて、金鶏山の北壁に日が差し出すと、ガラス細工の森が黄金色に輝きました。

 「 すべてはこの瞬間のため 」。 私は凍える指先でカメラを構え、無心でシャッターを切り続けます。 レンズを替え、露出を換え、構図を変えて、悔いの残らない撮影を心掛けます。 
 ふいに、金洞山の上空に、満月過ぎの月が目に入りました。 なぜだか、ウソをついた時のような後ろめたい気持ちが心をよぎります。 月は何もかもを見透かしているようで、「 しまった、見つかっちゃった 」 という気持ち。
 「 今日、精一杯生きているか? 」 と、心に問いかけてみました。 と言うか、今日、月曜日は午後から出社しました・・・。




   『 残 月 』  妙義山 ・ 第二見晴しより 金洞山
   < 24mm F5.6 1/125sec >

 日中に見える月のことを、「 嘘をついたような月 」 と表現したのは、俳人、尾崎放哉 ( ほうさい )。 夜に取り残されたうつろな月が、金洞 ( こんどう ) 山の背後に見えて
いた。

                     ― 第十五話 ―  ガラスの森  ― 終 ―


< 無断転載を 固くお断りします >


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フォトエッセイ 会津弁の丁寧語

2012-03-12 22:00:00 | 伝えたいもの

 『 序 章 』  美しい風景に出会ったとき、作曲家はその風景にメロディを想い浮かべ
るという。
 只見線沿線はこれから4か月の間、きびしい雪の季節を迎える。 なまり色の雲。 八海山周辺はすでに雪模様。 次に雪が降る時には、間違いなく里にも落ちてくる。
 こんな重苦しい風景に、人はどんなメロディを想い浮かべるのだろう。
   < OM-3 80-210mm F4 1/250sec ハーフNDフィルター RD100 >



             フォトエッセイ  写真家の見た風景
               ― 第十四話 ―  会津弁の丁寧語

 あるとき 私たちは、JR只見線に乗っていました。 JRが販売している割引切符 「 土日きっぷ 」 を利用しての、冬の旅です。
 福島県の郡山から 磐越西線に乗って会津若松へ。 そして、只見線に乗って 新潟県の小出へと抜ける、ローカル線を乗り継ぐ旅になります。
 この旅の、計画段階での友人とのメールのやりとりには、「 雪見列車 」 という言葉が飛び交っていました。
 「 雪見列車 」 という名の臨時列車が走っている訳ではないのです。
 豪雪地帯をゆくローカル線。 暖房の効いた車内でお弁当を広げ、ほろ酔い気分でまったりと過ごす。 吹雪の中をひた走る列車の姿を心に想い描いて、私たちは 「 雪見列車 」 と呼んでいたのでした。

 以前、新潟に在住する方に電話をかける機会がありました。 その人は電話を取るたび、「 ハイ、○○でしたー。」 と、語尾を過去形にして 声を返していました。
 変わった電話の取り方だなぁと、ずっと不思議に思っていました。 そして、その後 分かった事ですが、会津 ・ 越後地方の人の丁寧語は、過去形になることを知りました。
 相手に敬意を払い、言葉使いを丁寧にしようとすると、なぜか 過去形になるの でした




 『 静 寂 』  雪は、音を吸収する働きがある。 列車が接近していても、背後に野生動物がいたとしても、その存在に気付けない。 「 静寂 」 という名の騒音に心をかき乱されて、鼓動の高鳴りは治まることが無かった。
 都会の鉄道は1cmでも雪が降れば、運転を取り止めてしまう。 只見線は10cm以上の雪が積もっても、時刻表通り、ピッタリに運転されている。 強引な気もするが、一度止めたら それまでだし・・・。

   < OM-4Ti 85mm F2.8-4 1/250sec RD100 >


 旅行中、私たちはある異変に気が付きました。 山間部に入っても、陽が当たっているのです。 会津 ・ 越後地方の冬は、ひたすら雪が降り続く。 青空がのぞくのは一ヶ月に一度くらいのもの。
 吹雪の中の列車を期待して出掛けたわけですが、どうやら、その一ヶ月に一度の晴天日を、ミゴトに引き当ててしまった様です。
 予想外の展開に戸惑いながらも、結果的には、期待以上の景観に出会うことができました。
 夕日に向かってひた走る列車の車窓から、私たちは、オレンジ色に染まっていく雪原のその果てを、声も無くただじっと、見つめているの でした




 『 慈 雪 』  越後の冬は ひたすら雪が降り続く。 それが当り前だと思ってた。 気が付くと、灰色の空は青空に変わっていた。 2月中旬、午後になっても陽が山々を照らしているのが、なんだか妙に嬉しかった。
   < OM-3 110mm F5.6 1/500sec RD100 >

                    ― 第十四話 ―  会津弁の丁寧語  ― 終 ―


< 無断転載を 固くお断りします >



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フォトエッセイ 心も踊る 魅惑の宵

2012-02-23 01:34:42 | 伝えたいもの

    < 2007年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、最掲載しています >

     

              ダンスパーティーの会場になった、ホテル ヘリテイジ。
              屋外のイベントもできる広い庭が 高級感を表しています。



          フォトエッセイ  写真家の見た風景
            ― 第十三話 ―  心も踊る 魅惑の宵

 あるとき私はダンスパーティー会場にいました。 ワクワク、ドキドキ。 初めての体験です! ・・・ って、私がダンスを踊るわけではありませんでしたー。
 私は行きつけの写真店の店主に誘われ、ダンスパーティーの撮影の お手伝いに行くことになりました。 ダンススクールのPRを兼ねた写真集を製作する依頼が入ったとの事で、面白そうだったので、参加させてもらいました。

 リハーサル現場の張り詰めた空気は、凛とした夜明けの空気と似ているものがありました。 リハーサル中は関係者以外、立入り禁止。 写真撮影も禁止されています。 主催者側から依頼を受けていた私たち3人だけが撮影しているので、なんだか、プロのカメラマンにでもなった気分です。
 社交ダンスの知識も経験も無い私たちは、「 どこがシャッターチャンスなのか? 」 「 次にどんなポーズになるのか? 」 まったく分からない状態です。
 2回のリハーサルでも要領を得られず、「 とりあえず、いっぱい写しとけばいいや 」 が、3人の合い言葉になりました。


   リハも全力で行く!
                        オープニングを飾った二人。 休憩に入っても、
                        最後まで練習していたのが この二人です。
                        大人たちの踊る姿を 真剣なまなざしで見つめ
                        ていたのが、とても印象的でした。





                    ダンススクールの先生方の デモンストレーションの
                    あい間に、観客のためのダンスタイムがあります。
                    けれど先生方には、休む暇などありません。 大切
                    な生徒たちの 相手をしなければなりませんから。



 ステージを囲んで、観客のテーブルと椅子が並びます。 観客の姿とダンサーが重ならないよう、低い位置から見上げて写すのがいい様です。 ダンサーの足も、長く写せるはずです。
 天井には、オレンジ色のやわらかな照明が並んでいます。 これを背景に、ムードある写真が撮れそうです。
 ストロボの光はあまり強くせず、部屋の明かりを利用した、雰囲気重視の写真にしたいところです。 が、
 1. 写真集の購入を予約している生徒を中心に写すこと。
 2・ 先生よりも生徒を、そして、誰が写っているのかがハッキリ分かること。
という条件が出てしまいました。
 どれだけ綺麗な写真を写しても、売れなければ仕方がない。 商業写真の宿命を思い知らされます。
 三脚を一番低く立て、手ぶれを防止します。 三脚を抱きかかえるようにして座り、カメラを180°旋回させる練習をします。 かなりみっとも無い姿だと、自分でも分かっています。 すぐに足もしびれてきました。 けれど、それが最善の写し方だと、覚悟します。


               

                          ダンスタイムはバンドの生演奏です。
                          「 ダンスをやってて良かった!! 」
                          そんな声が聞こえてきそうな、こころ
                          も踊る 至福のひとときです。





                  ステージ脇でカメラを構えていると、迫力ある写真
                  を撮らせようと、最接近してきます。
                  カメラをいつ蹴飛ばされるかも分からず、ヒヤヒヤ
                  ものです。 前髪で風圧を感じていました。



             

                  本番直前まで、持てる技術の最大限に挑戦するプロ
                  意識。 社交ダンスという枠組みを超えた 大胆な振り
                  付けに、300人の観衆が魅了されました。



 せっかく写真屋さんにダンスパーティーの撮影に誘ってもらった訳ですが、「 動くものを写すのに、静止画では表現しきれない!」 という事を痛感させられる結果になりました。
 半年後、私はカメラをビデオカメラに持ち替えて、フィールドに立つことになるのでした。

                     ― 第十三話 ―  心も踊る 魅惑の宵  ― 終 ―


                < 無断転載を 固くお断りします >


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フォトエッセイ 雲海を見に行く ♪

2012-02-17 22:43:36 | 伝えたいもの

    < 2007年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、再掲載しています >



 御荷鉾スーパー林道より 雲海の二子山
 < OM-3 80mm F11 1/60sec  RDP >

 写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋


フォトエッセイ  写真家の見た風景

― 第八話 ―  雲海を見に行く ♪

シーン1.
 あるとき私たちは、前橋花火大会の会場にいました。
 午後の降水確率は70%。 生中継予定のFM群馬に 「 花火決行 」 の確認を取って、いざ利根川周辺へ。
 今回は友人の ワゴン車の中での宴会です。 開け放たれたルーフから、打ち上げ花火を眺めます。 駐車スペースを何とか確保し、花火が始まると同時に 宴が始まりました。
 そのうちに、ルーフから雨が吹き込み、食料を濡らし始めました。 花火を打ち上げるペースが早くなり、数を減らして、予定より30分も早く 終了してしまいました。
 宴会は今が真っただ中で、さらに1時間ほど続きました。 誰も居なくなった駐車場に、ウチの車だけがポツンと残っています。
 さて、そろそろ帰ろうかという頃、誰もが 「 このまま帰るのは惜しいな 」 という気分になっていました。
 ふと、私が 「 雨の降った次の日は、雲海になり易いんだよ 」 と言ってみると、全員一致で 山に行くことになりました。 しかも、「 そのあと、温泉に行こう 」 と付け加えれば、みんな 大はしゃぎです。

 目指したのは、上野村の御荷鉾 ( みかぼ ) スーパー林道。
 メンバーは、私と友人夫婦と、その子供の 小学生と幼児の、合計5人。 途中のコンビニで 翌日の食料と花火を買い込み、現地に着いたのは 午前0時を回っていました。
 5m先も見えない濃霧の中での花火大会。 私たちは、幻想的と言うには 度を超した風景の中を、花火を持って 駆け回っていました。
 本当は、分かっていたのです。 雲海を見られる確立は1割程度。 このまま霧が晴れなければ、「 残念だったねー 」 で、笑ってごまかすつもりだったのです。
 それでもちょっと責任を感じ、まだ暗いうちに車を降りて、雲海のかけらを見つけるため、林道を歩き回りました。
 あたりが白みかける頃、遠い山並みに雲がたなびいているのが見えました。
 「 一面の雲海 」 という訳にはいきませんでしたが、初めてこの風景に出会った彼らにとっては、印象に残るものになったようです。
 でもって また、こういう時に限って、カメラを持って来ていないものなのですが・・・。




 御荷鉾スーパー林道より 樹氷の ラインダンス
 < OM-3 70mm F5.6 1/250sec  RDP >

 写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋

シーン2.
 11月下旬。 私は、御荷鉾スーパー林道へと 車を走らせていました。 前日の雨は夜半過ぎにあがり、空には星がまたたいています。
 山道に入り、東の空が少し明るくなった頃、私はある異変に気が付きました。 山の稜線付近が、霧がかかったように 白く見えています。 「 この分だと霧で何も見えないな 」。 そう思いながらも さらに進むと、標高1000mあたりから 積雪になっていました。 どうやら、霧のように見えていたのは、白く染まった樹氷だったようです。

 郡界尾根のトンネルを抜け、御荷鉾林道に入ります。 日の出には 間に合わなかったものの、日差しを浴びて 中腹から水蒸気が 高く舞い昇っていくのが見えます。
 小さな尾根を回り込むと、一面の雲海が開けました。 雪をまとったカラ松の林。 その木々の間から のぞく秩父の山々。 そして、車道のすぐ下から遠い山並みまでを、白くまぶしい 雲の海が広がっています。
 標高1000~1400mを走る、全長70kmの 御荷鉾スーパー林道。 私は、車道まで打ち寄せる 雲海の水しぶきをくぐり抜け、いちばん南に突き出た 岬を目指しました。
 太陽が高度を上げるに従って、山肌に陽が差し始めます。 雪化粧した稜線に スポットライトが当たると、樹氷の森が ラインダンスを踊っているように、輝いて見えました。
 南の方角に両神山。 その左には、雲からチョコンと顔を出した 二子山の姿が。 双耳峰 ( 西岳、東岳 ) の二子山は、雲の増減によって 大きくなったり小さくなったりを 繰り返しています。
 11月の雪は すぐに溶けてしまいましたが、普段なら日の出から1時間もすれば 消えてしまう雲海が、今日は正午過ぎまで見えていました。 山の風景写真は 十数年撮っていますが、これだけはっきりとした 雲海を見ることが出来たのは、後にも先にも、この日だけでした。
 「 たとえ無駄だと思うことでも、諦めずに続けていれば、いつか価値のあるものになる ( 持論 ) 」。 その言葉を信じて、毎週末、夜明け前から始めている 写真活動。 たまには、報われる事もあるのです。。。




 御荷鉾スーパー林道より 両神山の雲海
 < OM-3 50mm F11 1/250sec  RDP >

 写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋


― 第八話 ―  雲海を見に行く♪  ― 終 ―

< 無断転載を 固くお断りします >


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フォトエッセイ 職務質問編

2012-02-12 17:48:11 | 伝えたいもの

    < 2007年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、最掲載しています >


          フォトエッセイ  写真家の見た風景
            ― 第三話 ―  写真の裏側 ・ 職務質問編

シーン1.
 社会人になって間もない頃のことです。 あるとき私は、群馬県 水上町にいました。 アマチュア無線好きの友人の車に乗せてもらい、国鉄上越線の写真を 撮りに行きました。
 「 今日はずいぶん お巡りさんが多いなあ 」。 国道17号線や鉄道沿線の所々に、警官の姿がありました。
 「 何かあったのかなあ? 」 ということで、無線機で警察無線を聞いていました。 この時代の無線機は、警察無線も受信できていたのです。
 季節は夏。 時に、群馬県で国体が開かれている最中でした。 水上町でカヌーの競技があり、皇太子 ( 現在の天皇、皇后 ) が訪れる事になっていたようです。 世間に無関心だった私たちは そんな状況などまったく知らず、線路脇に車を停め、警察無線を聴きながら 線路内を徘徊していました。

 すぐに数人の警官に取り囲まれました。 とりあえず事情を話すと、すぐに立ち去るように言われました。
 友人は冷静に 「 あの胸のバッヂは 群馬県警の者ではないなー 」 など 言ってましたが、私は 頭の中が真っ白になっていました。
 思えばこれが、私の 職務質問歴の始まりでした。




   新潟交通 燕市郊外より  < 新潟交通は 1999年4月に廃止されています >
         < OM-3 80mm F8 1/250sec ブラウンフィルター RD100 >

シーン2.
 あるとき私は、新潟県にいました。 新潟市と燕 ( つばめ ) 市を結ぶ 新潟交通の電車を写すためです。
 燕市郊外の 畑の中に高等学校があり、すぐ近くに線路がありました。 昼過ぎから夕方にかけての長時間、私は学校のブロック塀の横に ワゴン車を停めていました。

 あたりが薄暗くなり、部活の終った生徒が帰り始めたころ、一台のパトカーがやって来ました。 どうやら、学校が通報したようです。
 一人の警官が車から降りて来て、免許証の提示を求めてきました。 免許証をパトカーに持って行き、もう一人の警官に渡します。 無線で警察署に連絡をとり、免許証の照合をします。 同時に車のナンバーも照合し、盗難車かどうかも調べているはずです。
 この作業に3分くらいかかります。 その間にさっきの警官が寄って来て、話しかけてきます。 どこから来たのか? 何をしているのか? など、簡単な質問をして 時間をつぶします。
 話しをしながら車の中をのぞき込んでくるので、私はわざと窓を半分しか開けません。 すると、窓に顔をこすり付けるようにして、車の中の様子を見ようとします。 つい、笑いたくなります。
 そのうちに免許の確認が終わり、帰っていきます。 立ち去るお巡りさんに対し、「 ごくろうさま 」 と、事務的な言葉使いでお見送りしました。




                             新潟交通 燕市郊外より
         < OM-3 80mm F11 1/250sec ブラウンフィルター RD100 >

シーン3.
 あるとき私は、真夜中の妙義道路にいました。 星空の写真を写すためです。
 妙義道路は暴走族対策のため、夜間通行止めになっていた時期があります。 根性無しの暴走族は このバリケードを見て、スゴスゴと帰って行きます。 私は暴走族ではないので、バリケードをちょっとだけずらして、その先の風景を見に行きます。

 冬の夜空はオリオン座やスバル、おお犬座などが一晩中輝いています。 妙義山の奇岩をシルエットにし、この星空を写すのです。 近くの神社の関係者以外、誰も来ないはずなので、道路沿いから 心おきなく撮影を楽しめるのです。
 すると、下仁田 ( しもにた ) 警察のパトカーが巡回にやって来ました。
 「 進入禁止と 書いてあったはずですよ! 」 と言うので、「 暴走族ではないので入りました 」 と答えました。 すると ため息を一つついて、「 次回からは警察署に立ち寄って、手続きをとって下さい 」 と言って、帰っていきました。
 その後、幾度となくこの場所を訪れていますが、下仁田警察に合うことはありませんでした。




                             新潟交通 燕市郊外より
          < OM-4Ti 40mm F8-11 1/250sec PLフィルター RD100 >

シーン4.
 あるとき私は、妙義荒船スーパー林道にいました。 国道254号から 軽井沢町に抜ける道路です。
 近年、インターネットで知り合った同士が 林道で集団自殺する事件が相次ぎました。 群馬県内でも数件起きています。 それ以来、林道関係者や警察が、林道を巡回するようになりました。
 星空や朝焼けの写真を撮りに出掛け、車の中で仮眠をとっていると、死んでると思われ、窓をはげしく叩かれ、起こされることもあります。

 林道から神津牧場への字路が、妙義山の日の出の撮影ポイントです。
 もうすぐ夜明け。 国道から林道に入り、字路に差しかかった所に パトカーが停まっていました。
 お巡りさん二人が車から降りて、妙義山から昇る朝日を眺めながら 深呼吸していました。 どうやら 夜勤明けのようです。 思えば 大変なお仕事です。
 私は、邪魔しない様に そーっと通り過ぎようとしましたが、気付かれてしまいました。 二人はそそくさと車に乗り込んでしまいました。 なんだか悪いことをしちゃった感じです。
 私は、パトカーを横目に見ながら 「 お疲れさまです~ぅ 」 と、心の中でつぶやきました。

                  ― 第三話 ―  写真の裏側 ・ 職務質問編  ― 終 ―


                < 無断転載を 固くお断りします >


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フォトエッセイ 満月の夜になると

2012-02-05 03:55:53 | 伝えたいもの

    < 2007年に掲載の フォトエッセイを 加筆・修正し、最掲載しています >



    群馬県 二度上 ( にどのぼり ) 峠より 角落 ( つのおち ) 山と 北関東の夜景
        < OM-3 風景 : 50mm F1.4 10sec ,
                月 : 300mm F5.6 1/500sec ( 二重露出 ) >

                     写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋


          フォトエッセイ  写真家の見た風景
            ― 第一話 ―  満月の夜になると

 犯罪大国アメリカでは、凶悪事件や事故が多発するのが 満月の夜である。
 そのため、警察の取り締まりは普段よりも厳しくなる。 それは何も、海外に
限った事では無い。
 この日本でも 満月の夜になると、アヤシイ人が 現れちゃうことがある ・・・


 数年前の9月の、ある満月の夜のことである。 休日を利用し、私はカメラを持って軽井沢方面に出掛けた。 午前3時、松井田町 ( 現 安中市 ) の国道18号線沿いのコンビニに、食料を買い込むため立ち寄った。
 ドアを開け、座席のゴミを片付けていると、ふと 背後に怪しい人の気配が ・・・!
 振り向くと、薄暗い駐車場の陰から突然、20歳前後の男が、死相感を漂わせて現れた。
 しまった! 逃げ場が無い! 物取りか? 変質者か? 凶器は?
 男は、意を決して 私に言った。
 「 失恋しました! 車に乗せてください!」 と。

 彼はヤケになって、前橋市内のアパートから 自転車に乗って出てきたらしい。 碓氷バイパスの手前で、トラックの交通量の多さに怖くなり、軽井沢まで乗せて欲しいと言う。
 車の中で彼の失恋話を聞き、私はずっと笑いっぱなしだった。
 彼は群馬県の大学にかよい、夏休みを使って自動車の免許を取るため、実家の福井県に帰っていたとのこと。 そして 夏休みが終わり、群馬に戻ってみると、彼女は別の男と付き合っていたと言う。  



      矢ヶ崎山より 軽井沢町 と 浅間山
          < OM-4Ti 24mm F11 1/60sec PLフィルター RD100 >

                     写真集 西上州の山 ( 上毛新聞社 刊 ) より抜粋


 風景写真を撮る都合があるので、直接は 軽井沢の街には行けない事を伝え、和実 ( わみ ) 峠方面へと向かった。
 私たちは 軽井沢インターチェンジにほど近い、高岩山を望む橋の上で朝日を待った。 上着が無いとかなり寒い朝だった。
 「 ぼく、日の出を見るの、生まれて初めてですよ 」 と、彼。
 「 ・・・ ( 人生初?) 」 と、私。

 撮影ポイントをもう一か所。
 別荘地を抜け、林道から 浅間山を見渡せる場所に向かった。 朝霧の雲海を期待していたのだが、この日は出ていなかった。
 眼下に、軽井沢の街並み。 その背後には浅間山の姿。 私には見慣れた風景だが、彼には新鮮に見えていたようだった。
 故郷でも、思い出していたのだろうか ・・・。

 帰り道、再び別荘地を走った。 アスファルトの所々に デコボコが作ってあって、乗り心地が良くなかった。
 「 このデコボコって、なんであるんですかねえ? 」 と、彼。
 少し間を置いて、「 嫌がらせじゃないの~ぉ 」 と、私。
 このセリフが想像以上にウケて、彼は笑い転げた。 たぶん今日、彼がはじめて見せた笑顔だった。
 「 あっ、コイツ笑うんだぁ ・・・ 」。
 良く見れば、笑顔の似合う男の子だった。

 午前7時。 私たちは軽井沢の駅前でお別れをした。
 彼はこれから 草津へ向かうのだと言う。 道路地図も無く、土地感もまったく無く ・・・。
 このまま彼を放り出してしまっていいものかと不安だった。 まあ、子供でもないし、あとは自分の力で何とかしてもらおうと思った。
 駅前の街路樹に朝の光が差し込んで、木漏れ日がキラキラとまぶしく見える。
 一瞬、彼の後ろ姿に、あの頃の自分の姿が 重なった気がした。
 彼に出会えて、忘れかけていた記憶が ふと 蘇えった様な、ちょっぴり照れくさいような、さわやかな気分になった。 

 「 ありがとう。 そして 願晴れ ・・・ 」。

                     ― 第一話 ―  満月の夜になると  ― 終 ―


                < 無断転載を 固くお断りします >


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フォトエッセイ 第22話

2008-11-19 00:10:43 | 伝えたいもの
             一人になるため山に行く! 


 休日に 私が発する言葉は 1つか2つ。
 「 おにぎり あたためて下さい 」 と、「 レギュラー 満タン 」。
夜明け前、おにぎりをかじりながらクルマを運転し、林道へと分け入って行く。 昼食のサンドイッチとペットボトルを持って登山道へ。
 社会のわずらわしさを避け、一人になるため山に行く。 言い替えれば、「 プチ現実逃避 」。

         
  国道254号の コンビニの駐車場から見上げた じじ岩 (中央) と ばば岩 (右)
                       300mm,F8,15min,C4フィルター,1月上旬


 こんなに良く晴れた秋の日、御堂 (みどう) 山に登った人は、わたし以外に誰もいない。
 「 もったいないなー。 紅葉、こんなに綺麗なのに・・・ 」。 そう思いながらも、実はそれを期待していたはず。
 私が西上州の山域をフィールドに選んだ理由の一つは、登山者が多くないという事。 写真を撮り尽くされていないので、ライバルが少ないと考えたから。 そして、人の目を気にせず、心のままに行動できるのが 何より嬉しかった。
 「 写真を撮る 」 という大義名分を傘に着て、人との接触を避け、自分の世界に逃げ込んでいく。 そして、その行動を正当化しようとして、写真集を出そうとか考えてしまったりして・・・。
 百万年もの歳月をかけてかたち造られる自然。 その頂に立ち、峰々を見渡すとき、大きな大きな自然、そしてその中の、ちっぽけな自分に気が付く。
 ちっぽけな自分の悩み事なんて、さらにちっぽけに思えてくる。
 険しい岩場を歩きながら考えごとなんてしていたら、谷底に転落してしまう。 日常のことなんか、雲のはるか下に押しやって、風景とたわむれている自分がいる。


じじ岩は いかにも石のように固い、頑固爺さんという印象。 ばば岩は、近所に一人くらいは必ず居そうな、口うるさい婆さんという感じ。 でも、居てくれるとありがたい存在だったりもする (?)。
                        24mm,F5.6,1/60sec,PLフィルター,11月上旬


 初めて社会に出たころ、自分の非力さを強く感じていた。 学校は勉強を教える前に、生命力を養う場であったら良かったのに・・・。 学校で学んだことなど、何も役に立っていない。 社会で生きていくための処世術の1つでも教えてくれたなら、どんなに役立っていたろうか。
 そうやって、学校の先生や周りの大人たちのせいにばかりしている自分がまた、情けなかった。
 「 真夜中の街を、大声を上げて走り出したい! 」 そんな衝動にかられる事も度々あった。 きっと誰でも、そんな時期を過した経験があるのだと思う。
そんな頃、本屋さんに2~3時間入り浸ることが多くなった。 さまざまな本を読んでみた。 心理学、教育書、小説、短歌。
 「 何か 」 を探していた時代だった。
 小説 『 青春の門 』 (五木寛之著) の中に、主人公の義母が息子に語った言葉がある。
 「 人間、吹っ切れにゃぁ生きて行けん! 」。
 引っ込み思案でいるより、開き直って、挑戦してみる。 案外、やってみると大したこと無かったりするものだし、成長した自分に出会えたりもする。
 「 難しく考える必要はない 」 と、思うようになると、気持ちも楽になっていった。



 この日、じじ岩 ばば岩は、わたしに何も語ってはくれなかった。 夕陽に向かって立ち、その眩しさを 黙って見つめているようだった。
 本当は、答えはすべて出揃っていて、あと自分に必要だったのは 「 勇気 」 なのかも知れない。
 そばに誰かがいてくれて、背中をポンって押してくれたなら、元気で歩いていけるものなのだろう。
 私は今、あざやかな紅葉に包まれて、澄んだ青空の下を一人で歩いている。


 [ 補足 : 学校で学んだ知識は、視野を広げ、人生を豊かにするために役立っていたのだと、今さらにして理解しています。]

                   フォトエッセイ 第22話 ― 一人になるため山に行く!―

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フォトエッセイ 第21話

2008-10-13 00:34:00 | 伝えたいもの

   丘の上の海坊主 ( 二子山 )


             雲海から顔を出す海坊主の二子山。 御荷鉾 ( みかぼ ) スーパー林道より。

 早くしないと雨が止んじゃうよ。 濡れた小枝を傘で除けながら、ぬかるんだ登山道を進んで行く。
 今日の天気は雨のち晴れ。
 東岳に登り、天気の回復を待って西岳の雲海を写す。 そう期待通りにいくかどうかは分からなけど、可能性があるのなら挑戦してみたい。 そう思って、早朝の二子山にやって来た。
 風景写真で大切なのは、「 希望的観測 」。
 テレビの天気予報を見ながら、「 こういう天気になったらいいなぁ 」と、自分の都合のいいように予測する。 するといろいろなイメージが頭に浮かんで、わくわくした気持ちで撮影に出掛けることが出来るのだ。
 本当は、雲海の写真を写せる確率は1割程度。 忘れん坊の性格だから、何度失敗しても、一週間たつとすっかり忘れてしまい、週末のたびに新鮮な気持ちで出掛けることができるのだ。


                        霧の間から顔をのぞかせる西岳。

 南風が、勢いよく霧を吹き飛ばしていく。 その切れぎれのすき間から、西岳が姿を見せた。 いままで空だと思っていた所に、頭を高く持ち上げた西岳の海坊主。
 けれど、シャッターを押す手の動きよりも、霧の流れの方が素早くて、タイミングがまったく合わないでいる。 気がつけば霧はきれいに晴れていた。
 草露で濡れたズボンは夕方になってもゴワゴワで、泥で汚れてドロドロで、でも、気の利いた写真は撮れていない。
 まあ、こんなもんか・・・。 気の抜けたコーラを飲みほした。


   西岳縦走コース。 山頂だと思って登った先にもう一つピークが。 良く見ると、その先にもピークが続く。

 二子山は 西岳と東岳から成る双耳峰。
 西岳は稜線上にいくつものピークが続き、どれが本当の山頂なのか分からない。 山頂だと思って登ってみると、その先にまた山頂が現れる。 それを幾つか繰り返すことになる。 で、結局どれが山頂だったのか分からない ( 笑 )。
 二子山の登山ルートの中で一番の醍醐味は、西岳の直登コースである。 上級者向けということで、一般の登山道との分岐点に標識は無い。
 ただし、私はこの直登コースは一度も登っていない。 登ってはいないけど、何度か下っている。
 写真を撮る都合があるので、西側から入山し、午前中は西から東側を写し、午後は東から西側を写す。 つまり、直登コースを登るチャンスがないのである。
 ほぼ垂直の石灰岩の岩壁は、標高1000m級の山とは思えない迫力がある。 紅葉にも新緑にも似合う山なので、私には特別の存在だったりする。
 いつまでこの山に登れるのだろう。 下山のとき、いつもそう考えている。

            
     十月下旬、 晴れた日の二子山は多くのハイカーで賑わう。 気の抜けない岩場歩きが楽しい。


                  < 写真および文章の無断転載を 固くお断りします >

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