電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

最近、購入した本、読みかけの本など。

2009年08月16日 05時44分57秒 | 読書
最近、あまり書店に行く時間がありません。CDショップに立ち寄る機会もぐっと少なくなっています。ここしばらくは、数冊の文庫本や軽めの新書を購入した程度です。
(1)コーンウェル『遺留品』(集英社文庫)
(2)コーンウェル『真犯人』(集英社文庫)
(3)萩原延壽『賜暇 遠い崖~アーネスト・サトウ日記抄12』(朝日文庫)
(4)金聖響+玉木正利『ベートーヴェンの交響曲』(講談社現代新書)
(5)金聖響+玉木正利『ロマン派の交響曲~「未完成」から「悲愴」まで』(講談社現代新書)

今、読みかけの本は、金聖響+玉木正利『ロマン派の交響曲~「未完成」から「悲愴」まで』と、加藤祐三・川北稔著『世界の歴史25・アジアと欧米世界』(中央公論社)です。とくに後者はなかなか面白く、付箋や書き込みをしながら読んでおります。銀と鉄砲と関ヶ原。バッハの「コーヒー・カンタータ」のような、砂糖入りのコーヒーの普及に見る、砂糖と世界史。スペインがインカ帝国を滅ぼしたようなことが東アジアでは起こらなかった理由、鎖国の意義など。

昔は、盆と正月にはコンピュータ等のスキルアップにつとめていた(*)ものでしたが、今は盆礼などの対応に追われています。スキルアップは、農閑期の冬場など、もっと別の機会を探す必要がありそうです。

(*):盆と正月はスキルアップのチャンスだった~「電網郊外散歩道」より
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グローフェの組曲「グランド・キャニオン」を聴く

2009年08月15日 06時45分10秒 | -オーケストラ
当地の暑さも、お盆を過ぎると例年ぐっとしのぎやすくなるのですが、今朝はまた気味が悪いくらい涼しい夜明けでした。現在の室内温度は24度。台風一過で晴れたせいで、放射冷却が大きかったためでしょうか。

ファーディ・グローフェの組曲「グランド・キャニオン」を聴きました。
I 「日の出」
II 「赤い砂漠」
III 「山道を行く」
IV 「日没」
V 「豪雨」
第1曲、ティンパニの抑えた連打から始まる夜明けは、ピッコロやフルートのソロが光を表すのでしょうか、R.シュトラウスの描写ともまた違い、湿度が低く乾燥したアメリカ風。
第2曲、こんな砂漠を歩くのは、暑くてたいへんでしょう。同情します。
第3曲、「山道を行く」の、ロバにゆられて歩くのんびりした雰囲気は大好きで、わざと調子外れの音程で奏されるヴァイオリン・ソロも粋です。
第4曲、静かに太陽が没する風情でしょうか。雰囲気はよくわかります。
第5曲、チェロ独奏の後に続く弦楽は、いかにも嵐の黒雲や風の雰囲気(^o^)、まるでディズニーのアニメ映画を見ているみたい。うまいもんです。全曲中、最も演奏時間の長い曲です。
昔は、アーサー・フィードラー指揮ボストンポップス管弦楽団という楽しい定番もありましたが、このオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団による演奏も、たいへん楽しく、立派なものだと感じます。

併録のガーシュイン作品、「パリのアメリカ人」「ラプソディ・イン・ブルー」も、ジャズ寄りというよりはむしろシンフォニックなもので、こちらもたいそう楽しめます。ピアノはフィリップ・アントルモン。
FCCC-50158 という型番で、CBS-SONY の全集分売ものですので、録音データなどはありません。もっとも、マニアックに録音がどうの演奏がどうのと詮索するよりは、夏の午前を、涼しいうちにコーヒーとともに楽しむような音楽ですけれど。
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松田静子・本間安子他『海坂藩遥かなり~藤沢周平こころの故郷』を読む

2009年08月14日 06時10分55秒 | -藤沢周平
三修社から出ている、松田静子・本間安子他『藤沢周平こころの故郷~海坂藩遥かなり』を読みました。地元・鶴岡市を中心とする鶴岡藤沢周平文学愛好会の協力によって編集された、作品案内とモデルとなったゆかりの地を紀行する本です。モノクロながら写真もたいへん豊富で、小菅留治先生の教え子たちによる回想や、肉筆色紙などのゆかりの品も掲載されています。作家の人徳なのでしょうが、故人を敬愛する気持ちがよく現れた、気持ちの良い本になっています。



鶴岡市の「藤沢周平記念館」を訪れ、市内各所を探訪するには、格好のガイドブックとなることでしょう。来年春になるという(*)、記念館が完成したら、ぜひ鶴岡市を訪れ、見学してみたいものです。

(*):鶴岡の藤沢周平記念館、オープンは来年春に~山形新聞より

トップの写真は、ただいま成長中、我が家の果樹園のモモです。
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お盆用の青りんごとスモモを収穫する

2009年08月13日 06時55分19秒 | 週末農業・定年農業
我が家では、お盆に青りんごや昆布などを供えます。九月のりんご(つがる)が結構大きくなりました。リンゴの場合、出荷を前提とした本格的な栽培は、剪定も摘果もたいへんな手間がかかりますし、だいいち消毒の回数が半端ではありません。とてもじゃないが、週末農業で片手間にできる作業ではありません。そんなわけで、今年はリンゴの本格的な消毒はしておりませんで、サクランボと共通に適用できるものを、たまに散布する程度でした。当然のことながら虫食いリンゴとなっておりますが、なに、お盆にお供えするには、虫食いでないきれいなものが六~七個もあれば足ります。



ついでに、花粉樹として植えている、昔ながらのスモモも収穫しました。見た目はきれいですが、酸っぱいだけであまりおいしくないのです。でも、昔ながらのスモモの味なので、これが懐かしいという人もいます。我が家ではだれも手を出しませんので、近所の「スモモ大好き」氏に持っていき、喜ばれました。この酸っぱいやつに塩をつけて食べるのが大好きなのだそうです。



さて、きれいに飾って、お盆の準備も完了。寺にご先祖様を迎えにいき、近所の寺や近在の一族にお盆礼に回り、一日が終わります。明日は妻の実家と菩提寺に墓参に行く予定。平々凡々なお盆の風景です。でも、考えてみればこの役割もあと二十回くらいで、当方も平均寿命に達するのだなあと、実にお盆らしい感慨。
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残念!Jetstreamの替芯が売り切れでした

2009年08月12日 06時52分23秒 | 手帳文具書斎
定期検診に向かう老母を車で送り、ついでに行きつけの文具店に出かけました。当方の愛用するボールペン、三菱のジェットストリームの替え芯を確保するためです。
今回、予定して行ったのは、普通タイプ(SXR-7)の、0.7mmの黒と、多色ボールペン用(SXR-80-7)の、0.7mm の黒です。それぞれを、まとめて10本ずつ購入しようとの目論見でした。
ところが!!
たまたまタイミングが悪かったのか、いつも研究熱心で在庫切れなどめったにない文具店なのに、SXR-7 が3本だけ残っていただけで、多色ボールペン用の細身の0.7mmはぜんぜん在庫なし。うーむ。お盆前だからでしょうか、それとも?
これは多分、売れているのだと思います。替芯を確保しても手元に置きたい書き味だと考える人が、私以外にも、当地にけっこうな割合でいるということなのでしょう。
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吉村昭『白い航跡』下巻を読む

2009年08月11日 06時12分34秒 | -吉村昭
吉村昭著『白い航跡』(講談社文庫)下巻は、英国留学を終えた高木兼寛が帰国するところから始まります。

第7章、明治13年11月、5年ぶりに帰国した兼寛は、家族が身を寄せている妻の実家に戻ります。義父に続いて、故郷の母と、東京では娘を亡くし、不幸が続いた年月でしたが、英国での留学生活は、学位とフェローシップ免状を授与され、優れた業績をあげた充実した日々でもありました。彼は、海軍省医務局に帰国報告を済ませ、日本での仕事に着手します。海軍病院付属の軍医学校とは別に、イギリス流の医学を教える民間の機関、成医会講習所を作り、不遇のウィリスの講演会を開催するなどに取り組みながら、英国ではなぜ脚気病患者がいなかったのだろうと考えるのでした。
そこで兼寛が採用した手法が興味深いものです。まず、実態としての発生状況を統計から調査し、明治11年には海軍兵員の約3分の1が脚気患者であること、発病と季節との関係や配属部署との関連もないこと、などを知ります。そして、注目したのは、軍艦の行動記録と発病状況でした。とくに、航海中は続々と発症する脚気患者が、外国の港に寄港中は発生が止むことに注目し、停泊時には、上陸した際の洋食が発病を抑えたのではないか。ひるがえって脚気病は、和食に原因があるのではないか。この時点では、まだ和洋食の比較のレベルであって、やはり因果関係が米に焦点化されてはおりません。脚気専門の漢方医・遠田澄庵の「脚気ハ其原(因)、米ニ在リ」という説は、やはり卓見です。
京城事変により、海軍は脚気病によりほとんど戦闘行動不能状態にあることが明らかとなり、対策が急がれますが、本質に目を向けず、周辺事象にのみ原因を求めようとするのは、今も昔も変わらないというべきでしょうか。
第8章、海軍の脚気病の蔓延は著しく、戦闘行動など不可能な状況にあることを憂え、海軍省医務局長に昇格した高木兼寛は諸方に自説を訴えますが、海軍兵食制度の根幹にかかわるために、例によって「予算が。」
財政当局は首を縦に振りません。しかし、明治天皇に奏上する機会を得て、ついに遠洋航海に出航する予定の軍艦「筑波」において、脚気病予防試験が実施されることになります。筑波の試験航海の間、極度の緊張のため、ほとんどノイローゼ状態になっていたときに届いた「筑波」からの一通の電報に、彼は救われます。

「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

そしてそれは、海軍内から脚気病が一掃される端緒となったのでした。
また、この頃の兼寛は、看護婦教育所の設立に熱意を持って奔走しており、わが国初の看護教育のスタートと言えそうです。
第9章、米麦を混食するという改善により、海軍の脚気病患者は急減し、ついに死者はゼロになります。海軍全体が喜びにわき、兼寛は看護婦教習所の発足とともに満足感に浸りますが、東京大学医学部と陸軍軍医本部は、高木説は学理に基づかぬ妄説で、たまたま脚気病患者数の周期的変動で死者が減少したに過ぎないと攻撃します。ただし、同じ陸軍でも現場では違っていました。いくつかの部隊では、刑務所に脚気病の発生を見ないことをヒントに麦飯を支給し予防効果を上げていたのでしたが、陸軍中枢は麦飯推進者に対し報復人事を行います。この中心にあったのが、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳(ただのり)であり、これに学問的な装いで支えていたのが、ドイツ留学中の森林太郎(鴎外)でした。高木兼寛が英文で発表した論文が外国で高い評価を受けていても、ドイツ医学至上主義に凝り固まる国内ではいっこうに評価されない。兼寛は孤立感を抱きます。
第10章、兼寛の最大の論敵、森林太郎がドイツから帰国します。そして、その文章の力を持って、弱点を徹底的に攻撃されます。たしかに、まだビタミンが発見される以前ですから、麦飯が良いと実証的に明らかにしたものの、その因果関係が論理的に明らかにはなっていません。森林太郎はそこを突いてくるわけです。昭和になって水俣病の水銀説を攻撃した御用学者と同じ論理です。兼寛は海軍を辞任しますが、時代は日清戦争に突入、結果は犠牲者の数により、明らかとなりました。
■海軍では、脚気病による死者がわずかに1名であったのに対し、
■陸軍では、戦死者977名に対し病死者20,159名、脚気による死亡者3,944名
という状況でした。現場から上がる麦飯採用の稟議を無視して米食至上主義を貫いた陸軍兵站軍医部長は、そのころ鴎外というペンネームで文名が上がっていた、森林太郎でした。
第11章、海軍を退いた兼寛が、東京慈恵病院でおだやかな生活を送る頃、日露戦争が始まり、戦病者数はさらに悲惨な状況を呈します。日露戦争で出動した陸軍では、
■戦死者数約47,000名に対し、傷病者数は352,700名、うち脚気病患者は211,600名に達し、脚気による死者は27,800名
に及んだといいます。このとき、石黒軍医部長はすでに引退しており、後任の軍医部長には森林太郎が昇任しておりました。世論は、海軍の脚気病撲滅成功と比較して陸軍の惨状を問題視し、その責任を問います。高木兼寛に対し、誤れる説により世を惑わす学者と攻撃した森林太郎の責任は、脚気病死した陸軍兵士の家族から見れば、まさに万死に値するものでありましょう。
第12章、残念ながら、高木兼寛の晩年は、みそぎに凝るなどいささか神がかりで、だんだんおかしくなってきます。このあたりは、残念というよりはむしろお気の毒。晩節を汚さず生涯を全うするのは、なかなか難しいようです。

陛下の忠良なる軍隊に粗悪なる麦飯を食わせるとは何事か、と主張する陸軍中枢の論理に対して、明治天皇自身が脚気に悩み、愛娘を脚気病で失っており、麦飯を採用していたという皮肉。文豪・森鴎外の現実の姿は、なんともひどいものです。ドイツに女性を置き去りにした道義的責任などよりも、大量の戦病死者を続出させた張本人として、現代ならば厳しく法的責任を問われるところでしょう。高木兼寛の業績は、鈴木梅太郎のオリザニンの発見、そして世界中で各種ビタミンの発見へと導きます。
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平岩弓枝さんの剛腕

2009年08月10日 05時40分38秒 | -平岩弓技
『御宿かわせみ』シリーズの作者、平岩弓枝さんの作品を、前回の単身赴任の頃に読み始め、たまたま同じペースで読んでいたブログ仲間の方と感想を交換しあいながら、30巻も続く物語を読んでいました。ほかにも、田沼意次を優れた政治家として描いた作品など、異色の時代小説も面白く読みました。ところが、ある時期に、パタッと読まなくなってしまいましたが、その原因は、今になって考えるとたいへん示唆に富むものです。
たしか、『はやぶさ新八御用帳』のシリーズだったと思うのですが、登場人物の誰かの姉が気性の強い大女という想定でした。ところが、あまり活躍しないうちに、無惨にも惨殺されてしまうのでした。ちょいと美人で可愛い女性はずっと活躍するけれど、そうでない人はあっさり殺してしまうというのは、あんまり可哀想ではないか、と少々ムッとしたというか、義憤にかられたというか(^o^)/
最近、『新御宿かわせみ』シリーズを購入し、はじめのほうをぱらぱらとめくってみたところ、驚き呆れてしまいました。幕府の崩壊と明治維新のどさくさで、主人公だった東吾は行方不明、七重と小太郎と源右衛門が賊によって惨殺され、畝源三郎は探索中に暗殺されている、という想定です。
なんということでしょう。長く続くシリーズの結末に困った作者は、主要な登場人物を一気に殺してしまいました!うーむ。さすがは戦争を経験し、生死を越えた激動の経験をした世代です。女性作家だから優しく繊細とばかりは言えません。作品の想定も、実はやっぱり剛腕でした(^o^)/
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ブラームス「交響曲第4番」を聴く

2009年08月09日 06時07分01秒 | -オーケストラ
今回の広島旅行には、妻と一緒ですのでノートパソコンは持参せず、文庫本と携帯型CDプレイヤーを持参しました。色々と考えた末に選んだCDは、ブラームスの交響曲第4番の1曲だけ。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏です。

亡父が被爆した当時の悲惨で過酷な経験を、実際にはその一部なのでしょうが、広島で追体験してきましたけれども、平和記念資料館の展示の中で、思わず救われるような思いのエピソードも知ることができました。ろくな医薬品すらなかった当時の日本に、一万人分の患者の一ヶ月分をまかなえるほどに多量の医薬品や包帯等を集め、救援活動を行ったスイス人医師ジュノー博士(*)の想像力と行動力、人道主義には、思わず心打たれるものがあります。

広島への往復の車中、何度も繰り返して聴いたブラームスの4番の交響曲。まったく違和感がありませんでした。この曲には、よく諦念が指摘されますが、私には、(結婚は諦めたかもしれないけれども)、音楽の歴史と信念に基づく祈りと慰謝と希望とを感じずにはいられませんでした。1985年、ブラームス52歳の作品。むやみに楽観もしないが悲観もしない、そういう精神的な強さを、セル指揮クリーヴランド管の演奏は、決然と表しているように思います。

第1楽章、アレグロ・ノン・トロッポ、ホ短調、2分の2拍子。哀切な表情をたたえた音楽ではありますが、感情に流されることはありません。底流には、50代の中年男らしい、強い意志があります。
第2楽章、アンダンテ・モデラート、ホ長調、8分の6拍子。弦がピツィカートを刻む上に、木管が印象的な主題を奏でます。チェロがなんとも魅力的な旋律を歌い、弦楽パートが美しく絡みます。ティンパニに続く弦楽合奏の格調の高さは、なんともいえません。
第3楽章、アレグロ・ジョコーソ、ハ長調、4分の2拍子。決然とした、堂々たるスケルツォ楽章の始まりです。明快で活力のある表情の中に、力感が感じられます。この演奏では、ティンパニは迫力を持って大活躍しますが、トライアングルはこれ見よがしに鳴らしてはおりませんで、バランスの取れた、効果的なものとなっています。
第4楽章、アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート、ホ短調、4分の3拍子。冒頭の主題が何度も何度も多彩に繰り返し変奏される音楽です。バッハの、そしてバッハ以前の音楽を研究し、情熱と技法を注いだパッサカリアなのでしょう。感傷的な孤独感や虚無的な眼差しよりはむしろ力感あふれる強い意志を感じる、堂々たる演奏です。

このCDは、1966年10月28日に、クリーヴランドのセヴェランス・ホールで録音され、1984年にリミックスされたものです。CBS SONY 00DC 203~6 という型番の4枚組「ブラームス交響曲全集」中の一枚。ジョージ・セルという指揮者とクリーヴランド管弦楽団というオーケストラの、代表的な演奏の一つと思います。

参考までに、演奏データを記します。
■ジョージ・セル指揮クリーヴランド管
I=13'24" II=12'56" III=6'43" IV=10'37" total=43'40"
■ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響
I=12'55 II=11'46" III=6'26" IV=11'16" total=42'23"

(*):ジュノーさんって、だあれ?~広島県医師会のホームページより
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広島原爆ドームと資料館を見学し、亡父の体験を思う

2009年08月08日 06時15分47秒 | 散歩外出ドライブ
亡父の一周忌を機会に、広島原爆ドームと平和記念資料館を見学してきました。当方も被爆二世にあたるだけに、感慨は格別に強いものがあります。例年よりも数度ほど低めの気温とはいうものの、30度を超える蒸し暑さの中で、20代だった父が、破壊された都市を前にして連日不眠不休の救援活動に当たったことを思い、あらためて大きな衝撃を受けました。



父が広島市内に入った8月10日には、新型爆弾の正体は原子爆弾であることが判明(*)しておりましたが、無惨な姿の傷病者を救護し、遺体を運搬する兵士たちに、残留放射能の怖さや、放射性物質を含む灰の吸入の危険性などは知らされていなかったことでしょう。たまたま船舶通信隊に所属し、外地から原隊復帰してきたばかりの、東北の片田舎の農家の長男であった青年は、こうして入市被爆したわけです。

直接被爆した広島市民の悲惨で過酷な運命には、生前から父の話を聞いていた私でさえ、思わず目をそむけたくなるほどです。同行した妻などは、資料館の展示に思わず気持ちが悪くなり、しばらくしゃがみ込んで動けませんでした。ましてや、救援活動とはいうものの医薬品があるわけでもなし、皮膚がとけ、肉がはがれ落ち、ただ水を求める人々には手当てのしようがなく、実際には広島市内「ヒジヤマ」という場所(*2)での遺体の運搬が主な仕事だったという亡父には、涙もでないほどの衝撃だったことでしょう。当方の幼年時代にさえも、明け方などに、父がヒロシマの悪夢にうなされることがありました。今で言えば、典型的な心的外傷(PTSD)の症状でしょうか。



終戦(敗戦)後、除隊した父は、復員列車がどこに停車するのかも知らされず、破壊された仙台を通過し小牛田まで行ってから下車することができました。さらに仙台まで戻ってから仙山線経由で山形県に入り、真夏の道を何キロも歩いてようやく帰郷した父は、農業を守る父親と病気失明し全盲となっていた母親らの家族に迎えられます。
生還を喜んだものの、疲れやだるさが、被爆によるものであるとは当時は考えてもみなかったようで、40代に献血のため受けた血液検査で血液の異常を知らされ、原爆症を悟ったようです。赤血球数の少なさ、白血球数の異常。消化器系を中心に、合計八回もの手術を受け、最後は直腸ガンの再発で死去することとなりますが、近所の人たちも、本人の死去と葬儀に際して戦友会の方の弔辞を聞くまでは、たんに病弱で体力がないとしか考えていなかったようでした。

初めての広島旅行は、亡父の鎮魂と、被爆二世であることをあらためて自覚させられた旅でした。

(*):広島市への原子爆弾の投下~Wikipediaの記述
(*2):比治山陸軍墓地
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容量が大きいのは有難いが大きければ良いというものでもなさそうだ

2009年08月07日 22時48分14秒 | コンピュータ
先日、愛用のコンパクト・デジタルカメラ用のSDカードを新調しようと思い立ち、近くの量販店に出かけました。で、見つけたのが格安の4GBのSDカードで、特売980円でした。喜んで自宅に戻り、愛用のカシオExilim EX-Z30 に装着すると、「メディアに異常があります」とかなんとかエラーになります。はて?ときょとんとしてしまいましたが、突然ひらめきました。そういえば Windows98 では、2GB が上限だったような気がするぞ。

たぶん、対応するファイルシステムが、FAT(16) しか扱えないのだろう。4GB を一括して扱うには、愛用のこのカメラは古すぎるのかも、と考えたわけです。それなら、512MB とか 1GB のメディアなら大丈夫なのでは。

参考までに Google で検索してみたら、案の定、この機種では 1GB までしか動作確認が取れていないようです。しかたがないので、再び量販店に行き、パナソニックの 1GB のものを購入しました。なんと、4GB よりもお高い、1,435円 というお値段でしたが、こちらはしっかり動作し、旅行中の撮影も大丈夫そう。

その時代のハードにはその時代のメディアを。容量が大きいのは有難いが、大きければ良いというものでもなさそうです。

ところで、この 4GB のSDカード、いったい何に使ったら良いものか、ここが思案のしどころです(^o^)/
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学校の教室でお弁当を食べる習慣についての比較文化論?

2009年08月06日 05時43分08秒 | Weblog
先日、インドネシアから来ている人の話を聞く機会がありました。その中でびっくりしたことが一つあり、学校では教室でものを食べてはいけないのだそうです。日本では、生徒が教室でお弁当を食べているということに、とても驚いていました。むしろ、こちらの方がびっくり。

子どもの頃、教室は勉強の場であると同時に生活の場でもありました。ほぼ50年前の小学校時代には、厳冬期、教室の石炭ストーブには大きなヤカンにお湯が沸いており、各自が持参している湯呑で、給食とともに白湯や麦茶等がいただけるようになっていました。中学校には温飯器というのがあり、冷たくなったお弁当をストーブの熱で温めることができる仕組みになっておりました。教室でお弁当や給食を食べることが、ごく普通のことと思っていただけに、教室でものを食べていいのか、という発想にむしろ驚いたわけです。

ここからは、私の考えです。

(1) 日本の場合、教室での様々な習慣のルーツは、寺子屋にあるのではないか。寺子屋では、教室は勉強の場であると同時に生活の場でもあったのでは。
(2) インドネシアの場合、教室は先生のものであり、生徒は帰宅して食事するか、またはランチルームで食事をするという欧米流が、植民地時代の習慣として引き継がれたのではないか。
(3) 日本の場合、生徒が自分たちで掃除をするという習慣があり、食事の後の始末を先生が指導し点検するため、衛生的な問題は生じにくいのだろう。このような仕組みは、東アジアの仏教(儒教)圏にかなり共通性があるのかも。
(4) 欧米流の場合、生徒たちが自分で掃除するということはなく、掃除をすることは階層(階級)の低い人の仕事という位置づけになっているのでは。したがって、先生は主に授業をするだけで、掃除や生活習慣の指導などの仕事はないのだろう。

もしかすると、インドネシアだけでなく、インドなどにも共通の傾向があるのかもしれません。さて、当たっているのかどうか。うーむ、比較文化論ですなあ(^o^)/

写真は、再度の登場かと思いますが、いつかのお弁当。プラスチックのお弁当箱では、温飯器なんてのは使えませんね。今どき、アルミの弁当箱は流行らないのか。
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珍しく関西方面に旅行の予定です。

2009年08月05日 06時01分02秒 | Weblog
いつも山形ローカルで過ごし、仕事と畑とで、ほとんど遊ぶ暇もない生活ですが、珍しく関西方面に旅行することになりました。準備といっても格別なことは何もないのですが、例によって携行品一覧(*)でチェックをします。日程の大枠は当方の都合で決めましたが、細部は妻が具体化しました。ネットを駆使し、調べるにも便利な時代です。8月上旬、梅雨が明けてお天気だと良いのですが。

さて、持参する文庫本と音楽CDを選ぶ必要があります。案外、これが一番楽しい時間だったりして(^o^;)>poripori
また、ノートパソコンは持っていかない予定です。そんなわけで、ここ数日間は、goo ブログの予約投稿機能を用いて定時に「無人自動更新」いたします。コメントやトラックバックは、帰宅してからとなりますので、どうぞご容赦ください。

(*):出張や旅行のための携行品リストは便利だ~「電網郊外散歩道」より
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吉村昭『白い航跡』上巻を読む

2009年08月04日 05時37分26秒 | -吉村昭
就寝前に少しずつ読んできた吉村昭著『白い航跡』上巻(講談社文庫)を読了しました。たぶん、五度目か六度目くらいの再読です。何度読んでも面白く、その都度発見があり、飽きることがありません。

第1章、鳥羽伏見の戦いによって開始された幕末の内戦は、戊辰戦争として拡大され、新政府軍は奥羽全域を支配下に置くために、追討戦を展開します。本書の主人公・高木兼寛は、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍していた、20歳の青年でした。平潟に上陸し、会津若松での激しい戦闘を経験し、戦のむごさを身をもって体験すると同時に、銃創に対し漢方医の無力を痛感します。
第2章、戦が終わり、薩摩での師・石神良策を訪ね、英人医師ウィリスらの西洋医学の優越を痛感した兼寛は、父母の住む故郷に帰ります。
第3章、兼寛は、医師になりたいという希望を叶えてくれた大工の両親に孝養を尽くそうとするのですが、向学の念やみがたく、鹿児島に新設された開成所において英語を学びます。一方、中央では、英国医学ではなくドイツ医学を中心とすることが決定され、戊辰戦争で功績のあったウィリスの待遇が問題となります。そのような事情から、鹿児島に水準の高い医学校の開設が図られるのです。
第4章、開成所で英語の学習に明け暮れていた兼寛は、師・石神良策がウィリスを中心として鹿児島医学校兼病院を開くことを聞き、入学を希望します。幸いにも、従軍歴と英語力を認められ、入学を許可されて、ウィリスの下で頭角を現します。やがて、東京に出ていた石神から、海軍に来いとの誘いを受け、ウィリスにも相談の上、海軍に出仕することになります。それは、故郷と父母への別れでもありました。このあたり、しみじみとした情感にあふれた部分です。
第5章、海軍病院は、実証的なイギリス医学を範とし、東京帝大及び陸軍は、学理を中心とするドイツ医学を信奉しています。兼寛は海軍病院に勤務するかたわら、師の石神から英学者・瀬脇寿人の娘・富を紹介され、結婚します。生活は平穏で、一女幸を得たころ、兼寛は海軍における脚気病問題に注目するのでした。
第6章、海軍病院に軍医学校が併設され、英国人ウィリアム・アンダーソンが着任、ウィリスの下で英語と医学を修めていた兼寛はアンダーソンと親交を結び、その信頼を集めます。故郷の父親の死に驚き帰郷しますが、母は故郷に留まり暮らし続けることを希望します。これは正解ですね。老木を移植しても枯れるばかり。やはり根づいた土地が一番なのでしょう。やがて、石神の勧めとアンダーソンの推薦により、兼寛は英国に留学することになります。行く先は、アンダーソンの母校、セント・トーマス病院付属医学校です。義父の瀬脇寿人も喜び、妻も理解を示しますが、石神良策が倒れ、死去します。海を渡り、ロンドンに到着した兼寛は、生活を切り詰めながら勉学に励み、優秀な成績をおさめます。彼は、目にしたセント・トーマス病院の優れた仕組み、貧困者への医療費無料化や、看護婦養成などの価値を高く評価しますが、日本からの報せは薩摩での西南戦争の経緯であり、故郷の母の死去の報でした。さらに大久保利通の暗殺、義父の瀬脇寿人の死去と続きます。英国におけるフェローシップ免状の授与の栄光を土産に、兼寛は帰国のため船上の人となるのでした。

この物語は、著者が綿密な取材をもとに書き上げたものであり、医学修行における努力と栄光の半面の、家庭的な不幸が、作り事でないリアルな陰影を生み出しています。重厚な物語です。
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昼下がり、アホ猫の憂鬱。

2009年08月03日 05時31分32秒 | アホ猫やんちゃ猫
暑い暑い季節のはずが、今年はなんだか涼しくて、気温が30度を越える日など滅多にないくらいなのよ。こんなに涼しいと、アタシたちネコ族にはありがたいばかりだけど、作物にも影響が出そうなんだって。日照不足でブドウの花が咲かないとか、お米も不作になるのではとか、近所の人が心配していたわ。いつまでも雨ばかり降って、ほんとに変なお天気。



なんだか、考えちゃうわね。うちのご主人は、アタシたちのことを、クルミの脳みそで、とバカにするんだけど、やっぱりこう変なお天気が続くと、アタシたちの狩猟生活にも影響が大きいのよ。そうカエルばかり追いかけているわけにもいかないでしょ。



ねえ、ママ、そうでしょ。



そうねえ、そうともいえるわねぇ。



ママったら、そうともいえるなんて、のんびりしてるんだからっ!
やっぱり、異常気象なのかしら。きっとそうよ。これから一体どうなるのかしら。心配だわ。



おーい、アホ猫!そんなところで長くなってると、踏んづけるぞ!



んもう!うちの家族ったら、異常気象の心配もしないで、ほんとに能天気なんだからっ!
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山響モーツァルト交響曲全曲演奏会で、初期交響曲と戴冠式ミサ曲を聴く

2009年08月02日 10時33分37秒 | -オーケストラ
夏の音楽三昧、山響のモーツァルト交響曲全曲演奏会シリーズも3年目に入り、第7回目となった今回は、珍しい交響曲を二つと「戴冠式ミサ曲」というプログラムです。出先から妻と合流、二人で出かけました。実は、今年のモーツァルト定期三回分の会員券が、妻の誕生日の贈り物でした(^o^)/
会場入り口で座席指定券と引き換えて、山形テルサホール内へ。涼しくて気持ちがいいです。さっそく飯盛範親さんのプレ・コンサート・トークです。

1曲め、交響曲ヘ長調K.75 は、番号のない交響曲です。実はスケッチも見つかっていなくて、本物かどうか疑問もあるのですが、今日は本物のつもりで演奏したいと思います。1771年、モーツァルトが15歳で、イタリア旅行からザルツブルグに帰った直後にあたるのでしょうか、明るく清々しく、内容は濃い曲です。メヌエットが第2楽章に置かれているのが特色です。
2曲め、交響曲変ロ長調K.45b は、初めは偽作視されていましたが、パート譜が見つかり、本物であることが明らかになりました。モーツァルト12歳、ウィーンに行ったときに書いたものでしょうか。明るい曲ですが、ジュピター交響曲の出だしの音、フリーメイスン結社のテーマとも言われている「ドレファミ」がすでに使われているところが、興味深い曲です。
休憩後、戴冠式ミサ、ハ長調K.317 を演奏します。合唱は、山響アマデウスコア、今回のプログラムは、時間にしては短いですが、中身は濃いものです。戴冠式ミサのそれぞれの曲の意味は、(1)キリエ:ギリシャ語で「主よ」、(2)グローリア:ギリシャ語で「栄光が」、(3)クレド:ラテン語の動詞で「信じる」、(4)サンクトゥス:聖なるかな、(6)アニュス・デイ:神の子羊よ、というものです。それぞれの歌詞は、パンフレットに挿入した歌詞カードをごらんください、とのこと。おや、さすがの飯森さんも、うっかりベネディクトゥスを抜かしてしまいましたね。

そして楽団員の皆さんの登場です。いつもどなたが先に出てくるのか面白く見ているのですが、今回の一番先頭は、第2ヴァイオリンのトップのヤンネ館野さんでした。女性奏者の方々は、恒例のカラフルな衣装です。

1曲め、交響曲ヘ長調K.75。パンフレットでは、楽器編成について、Ob(2)、Hrn(2)、弦五部となっていますが、実際にはファゴットの高橋あけみさんも加わっています。第1楽章、ヘ長調、アレグロ、4分の3拍子。第2楽章:メヌエットとトリオ、ヘ長調、4分の3拍子。第3楽章:アンダンティーノ、変ロ長調、4分の2拍子。木管がひなびた美しいロングトーンを奏でます。第4楽章:アレグロ、ヘ長調、8分の3拍子。軽快なフィナーレ。ホルンが活躍します。

2曲め、交響曲変ロ長調、K.45b(K.Anh.214)。Anh(アンハング)というのは、偽作視されている作品につけられる番号のようですが、これはベルリンの図書館からパート譜が見つかり、めでたく Anh. が取れた作品ということになります。楽器編成は、Ob(2)、Hrn(2)、弦五部となっていますが、同様にファゴットの高橋あけみさんがはいります。ホルン(*)も、素人音楽愛好家には詳細不明ですが、ナチュラルホルンの(たぶんF管からB管に)楽器を取り替えて着座します。
第1楽章、いかにもモーツァルトの初期交響曲らしい、変ロ長調、4分の3拍子のアレグロです。短い楽章です。第2楽章、アンダンテ。オーボエとファゴットは出番がありますが、ホルンはお休みです。第3楽章はメヌエットとトリオ。ヴァイオリンの両翼配置の効果が面白い。第4楽章、アレグロ、変ロ長調、4分の2拍子。

ここで休憩が入り、ステージ上では合唱のメンバーのための台が設けられ、楽器配置もやや変わります。ヴァイオリンの両翼配置は変わりませんが、第1ヴァイオリンも第2ヴァイオリンも第5プルトまでの10人体制ではなく、第4プルトまでの、少々小ぶりの編成になっているもよう。しかも、第4プルトはステージ奥に折れ曲がる形で、第1ヴァイオリンの第4プルトがチェロの後ろに続くかっこうになり、さらにその後ろに3台のコントラバスと小型のオルガンが並ぶ、というふうになっています。特徴的なのはヴィオラがないことで、本来はヴィオラの位置に、トロンボーン3本とバロック・トランペットが2本、そしてその後方にバロックティンパニが配置されます。正面の指揮者の向こうには、4人の独唱者が立ち、その奥にはファゴット1本とオーボエ2本、ホルン2本が並びます。オーケストラと合唱団のメンバーが揃うと、視覚的にもなかなかの迫力です。

戴冠式ミサ曲の演奏が始まると、第1曲めの冒頭「キリエ」の出だしの「キ」の音の強さ(*2)に驚きます。ノン・ヴィヴラート奏法が音楽に実に良くマッチし、合唱の輝かしい感じを演出しています。うーん、作曲当時のオーケストラの編成の都合上、ヴィオラ・パートが省かれてしまったのは残念でしたが、クラリネットやヴィオラのない分の内声部の弱さを、オルガンなどが補っている形になっているのでしょうか。途中、見事なソロや合唱に聞き惚れてしまい、すっかりメモをする手が動きませんでしたが、「ベネディクトゥス」で四人の独唱者が立ち、ヴァイオリンとホルンとファゴット、それにコントラバスとオルガンとのアンサンブルが展開されるところなど、実にお見事の一言です。人の声の質からして、やはり盛大にヴィヴラートのかかった音よりも、バランスが自然で澄んだ感じがします。「アニュス・デイ」、はじめソプラノが立ち歌います。オーボエと女声との対比とハーモニー。四人の独唱者に合唱が加わり、バロック・ティンパニが強打される音色も格別に良いものです。

演奏が終わると、聴衆もほっと緊張がとけて、盛大な拍手。飯森さんは、四人のソリストを、そして合唱音楽監督の佐々木正利(岩手大学)氏と合唱指揮の渡辺修身(山形大学)氏をステージ中央で紹介し労を讃えます。テノールの宮下通氏がメンバーの一人として加わる合唱も、若々しくかつ質の高い、素晴らしい出来栄えだったと思います。
演奏した山響楽団員についても、まずオーボエの素晴らしさを称え、次いでティンパニ、ホルン、トロンボーンなど管楽器、オルガン、コントラバスとチェロの低弦パート、最後に両翼のヴァイオリンを讃えます。うーん、今回もいい演奏会でした。

翌8月1日には、同一プログラムで、人口約二万人の河北町での演奏会だとか。演奏会としては有名大曲をそろえたプログラムも良いけれど、こうした企画の演奏会が一定の聴衆を獲得し定着していることに、合唱の長い伝統を持ち、東北で最初にプロ・オーケストラが誕生したという歴史を持つ音楽県山形の喜びと誇りを感じます。

ただし、駐車場の帰りの混雑は相変わらずです。いつもは混雑を避けてファンの集いに参加し、ゆっくり会場を出るのですが、先夜は娘夫婦が転勤で東京勤務となったとのことで、泊まりにきておりました。演奏会の間に、若夫婦があちこち挨拶回りに出ておりましたので、急いで帰ろうとしたのですが、結局は大勢に影響がなかったようで(^o^;)>poripori

(*):ゆっくり起床~山響ホルン奏者クロヤギさんこと八木健史さんのブログより
(*2):山形弁では、例えば霧子さんの名前を呼ぶとき、k音が少々呑み込まれるように柔らかく発音します。でも、東京弁や関西弁では、子音kを明確に強く発音します。ご本人の好みによるでしょうが、土曜時代劇「陽炎の辻3」で一番割にあわない気の毒な役柄になっている霧子さんは、山形弁で柔らかく呼ばれるのが好みなのではないかと愚考する次第(^o^;)ですが、ここでは「主よ!」と呼びかける内容からして、子音をはっきりと強く発音する必要があるのは明らかです。
(*3):演奏会の後、自宅で娘夫婦と一緒にビールで乾杯。翌朝はまた主催するイベントに出かけ、夜は地域行事でビアガーデン。結局、記事を書くのも本日になりました(^o^)/
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