徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

はなつばきの夢

2020-03-07 18:37:27 | 友人・知人
 会社時代からの友が旅立った。12年前に病に倒れ、以来長い闘病生活が続いていた。
 思い返せば、1995年の秋、会社で人事を担当していた僕のところへ彼が早期退職の相談に来たのが彼との縁の始まりだった。翌年、彼は会社を辞め玉名で念願の料亭を開店した。彼はまだ横浜に勤務していた頃から将来の起業を夢見て料理の腕を磨いていた。類まれな料理センスと田村魚菜先生に薫陶を受けた確かな腕が道を開いた。それから12年、経営的には大変な時期もあったと思うが、ご家族のバックアップとチームワークで着実にファンを増やし、料亭の経営も軌道に乗って来たある日、突然病魔が彼を襲った。志半ばで閉店せざるを得なくなったことは無念だったに違いない。しかし、彼が目指した家庭的な料亭のスタイルは、新しいビジネスモデルを提示してくれたと思う。料亭経営の12年間、そしてその後の闘病の12年間にあらためて敬意を表するとともに心から労いたいと思う。本当にお疲れさま。どうぞゆっくりお休みください。
 また、永きにわたり彼を支え、さらには看病につとめて来られた奥さまおよびお嬢さまがた、本当にお疲れさまでした。


料亭「はなつばき」を開店した頃

友の死から7年

2019-12-11 20:33:32 | 友人・知人
 今日の午後、わが家の北方2㌔ほどの打越あたりから煙が上がった。明らかに火事の煙だった。姉の家から近いので電話をしてみた。姉はまだ近くで火事が発生していることに気付いていなかった。しばらくして姉から電話があり、一人住まい老人の家が全焼したが、老人は逃げ出して辛くも無事だったという。
 僕はふと7年前、高校の同級生だったF君が自宅の火事で命を落としたことを思い出した。彼も一人住まいだった。他の同級生から連絡を受けたのは数日後だった。葬式は親族だけで済ませていたが、四十九日の法要に参列した。高校時代の想い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。彼は年齢は一つ上だった。だから同級生ではあるけれど、僕は兄貴のような気がして信頼していた。彼のやさしい笑顔が大好きだった。彼はチームのキャプテンとして僕らを引っ張ってくれた。インターハイの優勝まであと一歩というところまで行きながら、決勝で敗れ、彼を優勝チームのキャプテンにしてあげられなかったことを、今さらながら悔いた。煙もおさまりつつある空を眺めながら、そんなことを思い出していた。


昭和38年の済々黌水球チームメンバー

それはさておき…

2019-08-20 22:01:12 | 友人・知人
 昨日、同級生のF君が帰省しているので一緒にメシでも食わないか、と同じく同級生のH君から電話があったので、今日の昼、上通の入口に三人で落ち合い、市内でも割と人気の某店へ出かけた。F君と会うのはたしか5年ぶりくらいだ。会えばいつも高校や大学時代の水球にまつわる昔話に花が咲く。F君は大学を卒業後、ちょうど国体を控えていた和歌山県に招かれ教員となった。水球指導のかたわら、ガラが悪い生徒を抑える先生として勇名を馳せていたらしく、最終的には名物校長として教職を務め上げた。教職を引いた後も、わけあって親から離れて暮らさざるを得ない子供たちの養護学校の指導にも関わったらしい。そんな仕事で痛感したのは、今は親になる資格のない若者から生まれた不幸な子供があまりにも多いという現実だったそうだ。生徒たちにはとにかく幼い頃から自立を促す教育をしていたという。含蓄のある話ばかりでとても有意義なひと時を過ごした。
 それはさておき、店先に大きな看板が出ていた「シーフードパスタ」を注文したが、「これのどこが美味いんだろう?」と首をかしげるような代物。外食でパスタなどもう何年もないが、今はこの程度でも人気店になれるのだろうか。昔、城見町にあったイタリア料理店の美味さを懐かしく思い出した。


Nくんの訃報

2019-07-04 21:37:56 | 友人・知人
 昨夜、高校の後輩Nくんの訃報が届いた。病を得て長く、最近状態があまりよくないことは聞いていた。5級下なのでまだ70まえ。この長寿時代には早過ぎた感は否めない。
 彼は僕などは及びもつかない一流の水球選手だった。彼との思い出で忘れられないのは、彼が高校3年の時、済々黌水球部が長年続けていたインターハイの全国大会出場を逃した時のことだ。その前年はインターハイで優勝したが、3年生がごっそり卒業し、春先はさすがにチーム力が落ちていた。しかし、夏頃になると前年とは違うチームの形が整いつつあった。その軸となっていたのがフォワードのNくんと同級生のバックスMくんだった。当然、全国大会には行けるものと思っていた。ところが九州大会で3位以内に入れず、全国大会の出場権を逃したのである。彼らのショックは大きかった。それから、残るもう一つの目標、国体へ向けて猛練習を再開した。Nくんを始め、メンバーの目の色があきらかに変わっていた。連日、激しい練習が重ねられた。合宿も行い、チームは見違えるほど強化されていった。それでもチーム浮沈のカギを握っているのはNくんだった。彼には試合によって出来不出来の差が大きいという難点があった。そこで国体に向けた試合形式の練習では、コーチから、彼のマンマークには必ず僕が付くように指名された。その頃、僕は大学を出て熊本に帰ったばかりで、仕事の合間に暇さえあれば泳いでいたので、まだ幸い大学の現役時代と変わらない体力を有していた。しかし、夏休みが終わりに近づき、国体が迫って来た頃、彼の体力とスキルの上達は目ざましく、僕は対応しきれなくなっていた。国体では優勝もありうると確信したのはその頃である。そして、前年のインターハイと同じ福井で済々黌は優勝した。
 高校卒業後、彼は早稲田大学に進み活躍した。日本代表にも選ばれたが、日本水球がアジアの中で低迷する時期だったこともあり、オリンピックに出場することはかなわなかった。
 今日、お通夜でお棺の中に眠る彼の顔を見ながら、「僕も後を追うのに大して時間はかからんよ」と、いつも友人を見送る時と同じ言葉をつぶやいた。


福井国体(昭和43年)におけるNくん

Mさんの訃報

2019-05-28 21:46:43 | 友人・知人
 会社のOB会報がだいぶ前に届いていたのに開封せず、届いていることすら忘れていた。昨日、ふと思い出し、開封して、まず訃報欄を見た。そこになんとMさんの名前が。彼とは同世代で、長い間、同じ人事労務部門で働いた。彼は体育系の大学を卒業後、社員研修の一環として導入された社内体育の指導者として採用され、会社が急成長して大量に入社してくる若い社員の教育研修に活躍した。病気とは最も縁遠いと思っていたが、70歳を過ぎてからの病には勝てなかったようだ。今夜はありし日の彼を偲び、お互いに若かった頃の思い出に浸って過ごしたいと思う。


Mさんの出身地・彦根市の市花「花しょうぶ」

「規工川佑輔と歌を詠む人びと」展

2019-03-12 19:56:22 | 友人・知人
 教職のかたわら、歌人として、また少女詩人・海達公子研究の第一人者として永年活躍され、一昨年5月、惜しまれつつ他界された規工川佑輔先生の企画展が開かれます。
 晩年の10年間ほど、先生にご指導いただきましたが、毎年3月、荒尾市で開催される「海達公子まつり」へご一緒したことなどをなつかしく思い出します。

 ◆期 間 2019年3月16日~5月6日
 ◆会 場 玉名市立歴史博物館(熊本県玉名市岩崎117)
      Tel 0968-74-3989

※パンフレットをクリック → 拡大


西部第十六部隊と酒井先生

2019-03-11 20:09:32 | 友人・知人
 熊本城二の丸の西大手門への通路(現在閉鎖中)の脇に「歩兵第十三連隊の跡」記念碑がある。今日散歩のついでにしばらくながめていたら、ふと4年前に他界された酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医である。亡くなる数年前から、毎年、年賀状には必ず戦時中の熊本の「西部第十六部隊」にいた頃の思い出が書かれていた。よほど懐かしい想い出だったのだろう。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」が昭和12年の支那事変で出征した後、その補充部隊が集められ、この部隊が後に「西部第十六部隊」となった。
 先生は久留米のご出身だが横浜勤務が永く、亡くなるまで逗子市に住まわれた。今日は先生のお住まいにほど近い小坪漁港で歌い継がれている「小坪いかとり歌」でも聞きながら先生を偲びたい。


歩兵第十三連隊の跡



藤野さんのこと。

2019-02-02 20:41:11 | 友人・知人
 舞踊団花童が毎月1回、城彩苑わくわく座で公演を行なっていますが、これを観るため毎回、山口県山口市から新幹線でやって来られるのが花童ファンの藤野さんです。朝早くやって来て、午前と午後の公演を続けてご覧になると、慌ただしく帰って行かれます。在熊の花童ファンとしてありがたいことです。インターネット情報に誘われて初めて来られたのは2016年の9月のことでした。以来、ほとんど毎回来られて、今年はもう4年目になります。わくわく座のスタッフにもすっかり顔なじみで、毎回、司会の熊八さんから紹介されています。年末の花童公演の恒例となった「お楽しみ抽選会」ではなんと、幸運にも2年連続で当選し、花童グッズをもらって大喜びでした。一昨年の7月には熊日新聞に藤野さんのことが載ったこともあります。同世代として、藤野さんの熱心さには本当に頭が下がります。


「お楽しみ抽選会」で当選した藤野さん(2018.12.24)

今年の忘れられないブログ記事から(1)

2018-12-23 21:32:10 | 友人・知人
 今年の一番ショックだったこと。それは上村新様(元三さんのお父様、文乃さんのお祖父様)の訃報に接したことだ。1月8日、成人式を迎える上村文乃さんをお祝いするためお伺いした時に初めてお聞きしたので余計ショックだった。大晦日の晩、ご家族そろって食事をとられた後、静かに息を引きとられたという。なんという大往生だろうか。
 ご生前、僕はお名前を呼んだことがない。文乃さんのお祖父さんだから、いつも「おじいちゃん」と呼んでいた。新さんと初めてお会いしたのはたしか8年前の夏、古桶屋町の普賢寺で行われた城華まつりの時だった。そして翌年の熊本城本丸御殿で行われる「春の宴」からは、毎回のように隣同士に座ってお孫さんの文乃さんがいる「ザ・わらべ」の舞台を観たものだ。そして、ご自身の生い立ちのこと、ご家族のこと、ご趣味のことなどいろんな話を聞かせていただいた。芸事にも造詣が深く、いかにも趣味人といった粋な風情が魅力的だった。こんなお爺さんになりたいと思ったものだ。昨年、城彩苑でお会いした時、またいつか本丸御殿でご一緒しましょうねとお話ししたのが最後の会話となってしまった。享年90歳。合掌。

※2011年11月25日、本丸御殿の「秋夜の宴」。撮影している僕の右隣りに座る新さんが時々写っている

上村新さんのこと

2018-01-27 22:14:33 | 友人・知人
 今年に入って一番ショックだったこと。それは上村元三さんのお父様、上村新様の訃報に接したことだ。1月8日、成人式を迎える上村文乃さんをお祝いするためお伺いした時に初めてお聞きしたので余計ショックだった。大晦日の晩、ご家族そろって食事をとられた後、静かに息を引きとられたという。なんという大往生だろうか。
 ご生前、僕はお名前を呼んだことがない。文乃さんのお祖父さんだから、いつも「おじいちゃん」と呼んでいた。今日初めて「新さん」と呼ばせていただく。新さんと初めてお会いしたのはたしか8年前の夏、古桶屋町の普賢寺で行われた城華まつりの時だったと思う。そして翌年の熊本城本丸御殿で行われる「春の宴」からは、毎回のように隣同士に座ってお孫さんの文乃さんがいる「ザ・わらべ」の舞台を観たものだ。そして、ご自身の生い立ちのこと、ご家族のこと、ご趣味のことなどいろんな話を聞かせていただいた。芸事にも造詣が深く、いかにも趣味人といった粋な風情が魅力的だった。こんなお爺さんになりたいと思ったものだ。熊本地震で本丸御殿も使えなくなったが、昨年、城彩苑でお会いした時、またいつか本丸御殿でご一緒しましょうねとお話ししたのが最後の会話となってしまった。享年90歳。合掌。

2014年10月25日、本丸御殿の「秋夜の宴」の映像。最後に隣りに座る新さんが写っている。


今年いちばん残念だったこと

2017-12-28 18:04:27 | 友人・知人
 それは、5月に「評伝 海達公子」の著者 規工川佑輔先生が旅立たれたこと。10年ほど前からご厚誼を賜っていたが、先生のライフワークともいうべき海達公子の研究と顕彰にまつわるエピソードをお聞きするのが楽しみだった。そんな話のなかには、著書や研究論文等で発表された話もあれば、公にすることを差し控えておられた話も含まれていた。まだまだ話尽くしてはおられなかったと思うので、それがもう聞けないと思うと残念でならない。


 海達公子は、大正から昭和初期にかけて天才詩人と謳われた少女だが16歳で夭折した。その後、戦中戦後の激しい歴史の波に飲み込まれ、その存在は忘れられていた。規工川先生の生涯をかけた研究がなければ、今日のように広く知られることはなかっただろう。
 RKKテレビが熊本県内の小中学校教材として、郷土の伝統文化や先人たちの生き方を紹介する番組「熊本の心」でも先日、海達公子を取り上げていたが、規工川先生の研究がもとになっている。


「『めごいにゃあどん』ときつね」民話(天草市)Time 01:18~
「金色の海」海達公子(荒尾市)Time 05:03~
「版木は生きていた」鉄眼(宇城市)Time 11:27~
「クモの糸」大西嘉幸(熊本市)Time 18:36~

春野にはこべら踏むこともなし

2017-11-22 17:30:14 | 友人・知人
 今日1枚の喪中はがきが届いた。今年5月、87歳で他界された規工川佑輔先生の奥様からだった。はがきの最後に先生の遺作となった短歌が添えられていた。

 県道を渡れる脚を持たざれば春野にはこべら踏むこともなし

 先生の最晩年は身体がご不自由で、自らの足で歩くことはできなくなっていた。そんな身の上を、やや自虐的なニュアンスを込めて歌われたものと思う。先生のご自宅近くを県道長洲玉名線が走っているが、それを横切ると田園地帯が広がっている。おそらく少年時代はその畦道が遊び場だったのだろう。
 この歌を読みながら、僕はふと海達公子が幼い頃に詠んだ一つの詩を思い出した。それは「すみれ」と題する可愛らしい詩だった。

 あしもとのすみれ ふまんでよかつた

 海達公子を愛し、生涯をかけて顕彰し続けた規工川先生は、最後の最後まで公子のことを忘れることはなかったに違いない。上の歌を詠まれた時も、公子のこの詩が念頭にあったのかもしれない。


はこべ


すみれ

規工川佑輔先生の訃報

2017-05-26 19:58:19 | 友人・知人

 教育者、歌人そして海達公子の発掘者でもあった規工川佑輔先生が旅立たれた。病との闘い続きの最晩年だった。先生とのお付き合いが始まって10年になる。きっかけは僕が先生の著書「評伝 海達公子」を読んで感動し、いきなり電話をさせていただいたことに始まる。それまで先生から教えていただいたこともなければ、お会いしたことすらなかった。ただ、僕の母校熊大附中に、かつて勤務しておられたという接点があった。大いに話がはずみ、今度一度会おうという話になった。後日、玉名の某所でお会いし、海達公子の調査研究について、微に入り細を穿った話をお伺いした。それから、度々ご自宅を訪問させていただいたり、海達公子顕彰の催しにご一緒したりした。さらに公子の最後の生き証人である叔母様・岩本澄さんをご紹介いただき、岩本さん宅へも何度もお邪魔した。お聞きした話の中には、既に著書に書かれたものはもちろん、まだ書かれていないもの、あるいは書けないものも含まれていた。だが、先生はまだ話つくしてはおられないと思う。それを聞くことができないのが残念でならない。
 今頃きっと先生は、一昨年、先立たれた叔母様や、幼な子の時に会っている海達公子さんたちと再会を喜び合っておられるに違いない。享年87歳。合掌

月若さんの成人式

2017-01-09 17:25:32 | 友人・知人
 日本舞踊家・はつ喜月若(元花童くるみ)さんが成人式を迎えました。熊本市の式典に参加した後、熊本城二の丸広場でご家族揃っての記念撮影。お祖母様やご両親も、20年の時の流れの早さを感じながらも喜び一杯の表情を見せておられました。
 中村花誠先生に締めていただいたという「のし帯」が月若さんの美しさを一層際立たせていました。式典会場でも異彩を放っていたらしく、注目の的だったそうです。







▼花童卒業公演の月若さん

わらべ と 清原さん と M君と

2015-06-08 10:58:16 | 友人・知人


 昨日、鶴屋ホールで行われた「第43回全日本きもの着付選手権大会熊本大会」の舞台を眺めながら感慨に浸っていた。
 僕が初めて ザ・わらべ に出逢ったのが6年前の10月。その時の新鮮な感動がずっと残っていて、翌年に入り、どうしても公演スケジュールが知りたくなり、いろいろ調べているうちにたどり着いたのが上村元三商店。後日、訪問して以来、今日までお付き合いいただいている。
 初めて元三さんを訪ねて行った時、驚いたのが、なんと僕が一番親しかった水球部の後輩M君の家の真ん前だったこと。その時は、彼が病で先立ってからあまり時が経っていなかったので、ひょっとしたら彼がここに呼んだのではないかと不思議な縁を感じたものだ。そのM君と高校の同級生で親友だったのが清原憲一さん。RKKのアナウンサーとしての活躍ぶりは知っていたし、母黌のプールにも時々顔を出し、水球部の後輩たちによく差し入れをしてくれていたのも知っていた。そのわらべと清原さんが同じ舞台に立っている。思わず、元気な頃のM君の顔が浮かんできて、なにか熱いものがこみ上げてきた。
※右の写真はM君が亡くなる2年ほど前、一緒に飲んだ時のスナップ。後ろに立つのがM君。