徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本復興支援映画 「うつくしいひと」

2016-05-31 20:33:57 | 映画
 まるで熊本復興のためにつくられたかのような映画「うつくしいひと」。日本各地でチャリティ上映会などが行われ、どこも盛況のようでありがたい。行定勲監督も熊本地震が発生するまで、こうなるとは思ってもみなかっただろう。ひょっとしたら、そういう宿命のもとに生まれた映画なのかもしれない。
 6月2日からニューヨークで行われる「日本」をテーマにした映画祭「第5回ニューヨーク・ジャパン・シネ・フェスト」においても上映されるそうで、映画祭のHPにはつぎのようなざっくりとした説明が掲載されていた。

A Beautiful Person
Dir. Isao Yukisada. 2016. Japan. 40 min.
A story about a filmmaker who came to a small town in Kumamoto for a location scout and a young woman he met at a small bookstore there.


夏目漱石内坪井旧居の玄関前で(石田えりと橋本愛)


熊本城で(橋本愛と姜尚中)

栃木温泉の再生を!

2016-05-30 21:26:38 | 熊本
 熊本地震で発生した大規模な土砂崩れにより阿蘇大橋が崩落した。先日、国会の予算委員会を見ていたら、今後も土砂崩れの危険性は続くため、国道57号線を北寄りに迂回させる可能性も検討されているようだ。となると阿蘇大橋はどうなるのだろう。そして立野ダムの建設計画は?
 今から40数年前、立野ダム建設計画のために僕らは冬の練習場を失った。熊本市内には温水プールもほとんど無かった時代、冬場の基礎体力、基礎泳力を養う場となっていたのが、当時長陽村の栃木温泉・小山旅館である。南阿蘇の白川渓谷に開かれた栃木温泉は、対岸に国の天然記念物「北向山原始林」を望む大自然に囲まれたひなびた温泉だった。源泉が発見されたのは江戸時代前期というから相当古い。その豊富な湯量により古くから湯治場として栄えた。その栃木温泉の中でも老舗の小山旅館には25mの温泉プールがあった。ここが済々黌水球部の冬場の鍛錬場となっていたのである。ここで培った基礎体力が夏場の厳しい練習に耐えるベースとなったことは間違いない。
 しかし、その栃木温泉も立野ダムの底に埋没するとの話が持ち上がり、各旅館も上の方へ移動した。またこれに伴い「鮎返りの滝」へ降りる道も閉鎖され、プールも使えなくなってしまった。しかし、いまだにダムは建設されていない。もしダム計画が中止になったら、なんとしても栃木温泉を再生してほしいものだ。南阿蘇の観光振興のためにも。

花しょうぶが咲く頃

2016-05-29 21:04:18 | イベント
 玉名市の高瀬裏川で初夏恒例の「花しょうぶまつり」が始まった。まだ三分咲き程度らしいが、今度の週末あたりは見ごろになるだろう。(写真は3年前の風景)
 高瀬裏川というのは、今の玉名市中心部が肥後高瀬藩だった頃、菊池川流域の米を舟運で運んだ運河で、河岸には蔵が軒を連ねていた。今も往時の風情を感じる町屋が残っている。僕は1971年年初から数か月、この町屋の一軒を工場建設要員の定宿としていた懐かしい街でもある。
 花しょうぶと言えば、あやめまつりで有名な茨城県の潮来あやめとは、実は花しょうぶのこと。まつりで踊られる潮来音頭・潮来甚句も全国的に有名だ。その潮来甚句は、江戸時代、北前船や東廻り廻船で宮城県の塩釜港に伝わった「牛深ハイヤ節」が「塩釜甚句」となり、さらに舟に乗って銚子から利根川をさかのぼり、潮来に伝わったといわれる。
 毎年、花しょうぶの季節になるとそんなことなどを思い出す。





水前寺成趣園の復興を!

2016-05-28 20:13:03 | 熊本
 熊本城が当分の間、ごく限られた範囲での観光しか望めないなか、かつて熊本随一の観光名所だった水前寺成趣園になんとか期待したいものですが、その水前寺成趣園も大鳥居や石灯籠が倒壊したり、池の湧水が止まり干上がる等の地震の被害が出ました。しかし、池の水は少しずつ水位が回復しているようです。
 5月16日から5月末日までは無料開園(8:30~17:00)中です。6月1日(水)からは通常の開園となりますが、ぜひ多くの皆様に訪れていただき、復興に力を貸していただきますようお願いいたします。

▼被災前の水前寺成趣園






▼園内には昭和44年まで動物園もあり多くの観光客で賑わっていました



▼歴史豊かな水前寺成趣園



▼いやさかを祈る

風前のともし火 ~ 雁木坂の石垣 ~

2016-05-27 18:56:01 | 熊本
 わが家の近くの好きな風景のひとつ、雁木坂(がんぎざか)が危ない。この坂は坂に沿って積み上げられた石垣が見どころだったのだが、熊本地震で崩れかけている。現在、ブルーシートがかけられていて、どんな状態なのか確認できないが、おそらく前のような石垣には戻らないだろう。
 この坂は歴史のある坂で、石の標柱には次のように記されている。

 雁木坂は内坪井から中坂を通って本妙寺へ通じる唯一の参道であった。坂は石段で作られ梯子坂ともいう。頓写会の夜は雁木坂も軋む程賑ったという。

 また、熊本市発行の「城下町みてある記」には次のように紹介されている。

 雁木坂とは、急な坂に横木を雁木(階段)のように埋め込んだので付いた名前です。中坂から京町を横切ると雁木坂になり、そのまま水田の中の本妙寺参道となり、参詣人で賑わったといいます。

 この坂は多くの歴史的な人物も通っているが、なかでも幕末の思想家・吉田松陰は、志を同じくする宮部鼎蔵を内坪井の居宅に訪ねた時、弟敏三郎の病気平癒を願い、加藤清正を祀った本妙寺浄池廟に二度参詣した際、この坂を通っている。

▼熊本地震前の雁木坂



▼熊本地震後の雁木坂


▼本妙寺浄池廟



▼雁木坂の所在地

嗚呼 東十八間櫓!  ~在りし日の威容~

2016-05-26 19:48:22 | 熊本
 今回の熊本地震で倒壊した重文のうち、最も愛着が深かった東十八間櫓。思えば僕が幼稚園に通い始めた5歳の頃から慣れ親しんだ櫓だ。
 これはその東十八間櫓の在りし日の記録である。


高橋公園から望む


南側から


西側から



不開門側から


東十八間櫓の窓から下の熊本大神宮を望む(地震で倒壊した時押し潰す)


突き抜けて大切なのは数学!

2016-05-25 17:16:47 | テレビ
 先日放送されたTBS系列の「林先生が驚く初耳学!」で、林先生が、国数理社英の学科のうち、「突き抜けて大切なのは数学」という発言があった。なぜ数学がということについて林先生は確率論を例に挙げ、仕事のできる人は数学的な判断ができるというような話をしていた。
 「突き抜けて大切」かどうかは別にして、僕も学生時代は数学が大の苦手で、高校の時などは数学が赤点続きで、危うく留年しそうになったほどだ。ところが就職して担当する仕事のレベルが上がるにつれ、現状を分析したり、将来を予測したり、因果関係を解析したりすることが多くなり、当然のことながら統計学を勉強せざるを得ない羽目となった。学生の時にもっと数学を勉強しておけばよかったと何度悔やんだことか。会社で発言をする場合も、先輩からは「データでものを言え」と厳しく指導されたものだ。
 今日の音楽ですら、古代ギリシャの数学者ピタゴラスの「ピタゴラス音律」が基礎になっているといわれるほど、この世の中のいろんなことのバックには数学がある。進化し続けるデジタル社会の中で、数学の重要性は益々高まって行くのだろうか。

小説「草枕」の情景を描いてみませんか

2016-05-24 20:45:20 | 文芸
 漱石の「草枕」の冒頭にこんな一節がある。

― しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう ―

 これは、漱石が能に造詣が深かったからだけでなく、この作品を執筆しながら漱石の中では、その場面場面の絵コンテのようなものが明確に描かれていたことの証しではないだろうか。
 そんなこともあってか、「草枕」で描かれた情景を絵で表現しようという試みが多いようだ。大正時代末期には松岡映丘らによって描かれた「草枕絵巻」などがよく知られている。
 玉名市草枕交流館では、平成7年から隔年毎に「草枕美術展」として「草枕絵」を募集してきたが、この記念年を最終回として作品を募集している。締め切りまでまだ半年あるので自信のある方は応募してみられたらいかがだろうか。 




熊本城 古いえにし

2016-05-23 21:08:40 | 熊本
 豊臣秀吉を祭る名古屋市の豊国神社が、熊本地震で被災した加藤神社を、慶長伏見地震の時の縁で支援するという話が新聞で紹介されていた。通称「地震加藤」として知られる歌舞伎や落語の演目ともなった話は次のようなあらすじ。

 1596年9月5日、京を襲った慶長伏見地震では、秀吉の居城・伏見城が崩落し、城内の数百人が圧死。市中には4万5千人の死者が出たと伝わる。文禄の役小西行長石田三成と戦功を競っていた加藤清正は、小西らの讒言で秀吉の怒りを買い蟄居閉門中だったが、一番先に秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、動けない秀吉を背負って脱出させ、閉門を解かれるという話。

 熊本地震の直前、NHKの「ブラタモリ」では、熊本城など熊本を訪ねたが、地震後の5月7日には、なんと京都の伏見城が紹介された。これも不思議な縁を感じる。



力強く再始動! 舞踊団花童

2016-05-22 19:28:10 | 音楽芸能
 熊本地震発生以来、活動を休止していた舞踊団花童(はなわらべ)が、今日、桜の馬場 城彩苑で行われた「がんばろう!くまもと 城彩苑ひょっとこ祭り」に元気な姿を見せた。「やっさ踊り」「阿波踊り」「ハイヤ踊り」「三百六十五歩のマーチ」など、元気溢れるステージを披露、多くの見物客を喜ばせた。









阿蘇神社 と 能「高砂」

2016-05-21 19:27:47 | 熊本

4月17日 熊日新聞より


 熊本地震の本震が襲った翌日の朝、熊日新聞で衝撃的な写真を目にしました。重要文化財である阿蘇神社の楼門が無残に倒壊している写真です。阿蘇神社は熊本城とともに、熊本の歴史文化を象徴する建造物であり、世界に誇る大阿蘇のシンボルでもあるからです。
 今年こそ久しぶりに阿蘇神社に参拝しようと思っていた矢先でしたので残念でなりません。
 ただ、専門家によれば復元は可能だということですので、何年先になるかわかりませんが、復元された暁には必ず参拝に行きたいと思っています。

●阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)
 阿蘇市一の宮町にある阿蘇神社は、阿蘇開拓の神様である健磐龍命(たけいわたつのみこと)をはじめ12神を祭る熊本でも由緒ある神社で、県内外に400もの分社、末社を持っています。
 ところで、ご存じでしたか?有名な世阿弥(ぜあみ)の代表作ともいえる能「高砂(たかさご)」の主人公は、阿蘇神社26代宮司・阿蘇友成
 醍醐天皇の時代に友成が京に上る途中、播磨国(兵庫県)の高砂の浦で老夫婦に出会います。友成は、この老夫婦に、「高砂にある松と対岸の摂津国(大阪)住吉にある松は、離れているのに、なぜ相生(あいおい)の松と呼ばれているのか」と尋ねます。老夫婦は「自分は住吉の松の精、妻は高砂の松の精である。離れたところにある松でさえ相生の松と呼ばれるように、人は夫婦であれば、離れていても心通い合うものだ。」と教え、沖へ去る、というのが高砂のお話。
 阿蘇神社の境内にある「高砂の松」は、友成が持ち帰った高砂の松の実を植え、育てたものといわれ、現在も、縁結びの願をかけに多くの人が訪れています。(週刊メールマガジン「気になる!くまもと」より)


倒壊前の阿蘇神社楼門


阿蘇神社境内の「高砂の松」

※阿蘇神社の写真は熊本素材写真アーカイブス「キロクマ!」さんより


能「高砂」(平成27年 藤崎八旛宮例大祭 御能奉納より)

熊本市民会館にまつわるお話

2016-05-20 19:12:44 | 
 熊本市民会館まで歩いて行ってみた。ここも熊本地震で甚大な被害を被り、復旧には丸1年かかるという。予定されていたコンサートなどのイベントは全部中止または延期になった。他では熊本県立劇場も被災しており、会場変更も難しいようだ。今年からホールのネーミングライツを取得したシアーズホームもついてないと嘆いていることだろう。


今日の熊本市民会館


熊本市民会館の前身、熊本市公会堂


 僕が歌手の公演を初めてナマで見たのは、熊本市民会館の前身、熊本市公会堂で昭和27年、6歳の時である。祖母に連れられて行った公会堂は超満員。それもそのはず、独特の唱法で当時大人気だった若手歌手・菅原都々子さんの公演だった。その前年に行われた第1回NHK紅白歌合戦ではトップバッターを務めていて祖母の贔屓の歌手だったので、幼い僕も名前は知っていた。その公演で歌った中の代表曲が下の「連絡船の唄」である。



≪おまけの話題≫
 下の映像は僕が投稿したザ・わらべおよびこわらべ関係の動画の中で、最も再生回数の多い「お座敷小唄/芸者ワルツ」である。上の話題とは何の関係もなさそうだが、実は「お座敷小唄」の作曲者が菅原都々子さんの実父・陸奥明さん、そして「芸者ワルツ」の作曲者が菅原都々子さんの養父だった古賀政男さんというわけ。
 ちなみに、このブログの5月11日の記事に掲載した「阿蘇の恋歌」も陸奥明さんの作曲である。


両陛下 被災地へ!

2016-05-19 20:00:20 | ニュース
 天皇、皇后両陛下は今日午後、熊本地震の被災者を見舞うため、特別機で来熊された。
 両陛下は、自衛隊のヘリコプターで上空から被災地を視察した後、南阿蘇村と益城町で避難所を訪ね、被災者を見舞われた。


避難所で女の子から歓迎の花束をお受けになる天皇陛下



日帰りの強行日程でお二人ともお疲れになったことだろう


2013年10月、「全国豊かな海づくり大会」にご臨席のため来熊された時、提灯奉迎の列が続いた熊本城の不開門や北および東十八間櫓も崩壊してしまった。

肥後銘菓を買いに・・・

2016-05-18 19:10:11 | ファミリー
 明日は父の十七回忌にあたる日。まだ余震も続いているので、ことあらためて席は設けず、月命日と同様、お坊さんを呼んで読経をしていただくだけにとどめることにした。茶菓子は肥後銘菓の一つ「しおがま」がよかろうと、魚屋町の老舗菓舗「松陽軒」まで買いに出かけた。熊本城内が通行できないので、やむなく上熊本駅前から電車通りを通って行ったが、段山までは渋滞が続く。松陽軒に着くまで普段の倍以上の時間がかかった。帰りは辛島町の方から市役所前を通り、厩橋を渡って帰って来たが、こちらは比較的スムーズに走れた。通行止めの解消が待たれる。

穴太衆のふるさと

2016-05-17 19:19:08 | 歴史
 震災発生以来、どうも思考回路が熊本や地震のことから抜け出せないので、今日はあえて熊本から離れてみた。ただし、発想したのは一昨日、熊本城石垣で話題にした石工集団・穴太衆である。

 まずは、今から23年ほど前、僕が滋賀県彦根市に勤務していた頃のある日の想い出から。

――守山から琵琶湖大橋を渡ると堅田の町に入る。西近江路を少し南下したところに堅田高校があった。進路指導の先生にご挨拶を済ませると再び西近江路を南下。かつて歓楽街として名をはせた雄琴温泉を通り過ぎ、やがて坂本の町に入る。ここは比叡山麓の門前町。次に訪問する比叡山高校へ向かう前に、とあるお土産物店で一服することにした。――

 この坂本が実は穴太衆のふるさとなのである。穴太という地区も残っているが、そこは6世紀頃に大陸からやって来た渡来人の集落があったそうで、穴太衆も渡来人の血を引く人たちだったのかもしれない。ひょっとしたら、聖徳太子の側近として活躍し、能楽の祖ともいわれる秦河勝と同時期にやって来た人たちかもしれない。坂本の町の寺院など至るところに穴太積みと呼ばれる石積みが見られるが、穴太衆は延暦寺の建設にも与って力があったといわれている。その延暦寺を1571年に焼き討ちにしたのが織田信長。その後、信長の命により延暦寺の抑えとして坂本城を建てたのが明智光秀である。後の細川ガラシャも坂本城で幼少期を過している。
 余談になるが、5、6年前、BS放送で女優の真野響子さんが、白洲正子の随筆「近江山河抄」を追体験するというような番組があった。その番組の中で真野さんが自らの出自を「渡来人の後裔」であり、琵琶湖西岸に祖先の地があると語っていたが、たしかに琵琶湖大橋を渡った堅田の町に真野という地区があった。


琵琶湖から比叡山を望む