徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

勘三郎は、死なない。

2013-11-30 21:04:33 | 映画
 「映画 中村勘三郎」の全国公開に先立ち、今日、山鹿の八千代座で特別上映会が行われた。これは、芝居小屋をこよなく愛し、芝居小屋復興を願った勘三郎さんの遺志を継ぐため、全国各地の芝居小屋12座で先行上映が行われたもの。八千代座子供カブキ教室による「口上」と「仮名手本忠臣蔵 松の廊下」や舞踊団花童の日本舞踊が行われた後、「映画 中村勘三郎」が上映された。いっぱいに埋まった観客席は泣いたり笑ったり、はたまた初めて目にする映像に驚いたりで大きな感動につつまれた。映像の中には、かつて八千代座で行われた勘三郎襲名披露公演の模様なども写し出され、懐かしさもひとしおの観客も多かったようだ。映画が終わると観客席から大きな拍手が起こった。稀代の天才役者は死してなお、多くのファンの心をとらえて放さないようだ。
 なお、「映画 中村勘三郎」の上映は明日(12/1)も、10:00、13:00、16:00の3回行われる。



異母姉

2013-11-29 17:14:12 | ファミリー
 母には一人の異母姉がいた。母がその人の存在を知ったのは高等女学校に上がってからだという。祖父が若い頃、一度結婚に失敗し、子供までもうけていたことに母は少なからぬショックを受けたらしい。僕にとっては伯母にあたるその人がどういう家庭でどんな風に育ったのか母は今でもよく知らないという。その人が母を突然訪ねて来たのは、お互いに嫁いだ後のことである。その人は自分の異母妹や異母弟のことをずっと気にかけていたらしい。戦後間もない、食べる物もろくにない頃、その人はわが家を突然訪ねて来た。母はその人を家に入れなかった。それは姑(僕の祖母)が士族の家に育った厳格な人だったこともあるだろう。しかし、そのことは伯母にとって終生心の傷として残っていたという。実は伯母の嫁ぎ先は裕福な家だった。食うや食わずの生活をしているであろう妹を心配し、少しでも援助してやりたいとの思いからやって来たのだった。伯母の家は二本木で遊郭を経営していた。母と伯母とのわだかまりが氷解した後、何度か二本木を訪ねて行った。行く度に当時はなかなか食べられないようなご馳走でもてなされ、衣類などの提供を受けた。まだ幼かった僕も遊郭の座敷にちょこんと座って待っていたことを憶えている。現金なもので、厳格だった僕の祖母も何の抵抗もなく二本木について行くようになった。昭和33年の売春防止法施行後、伯母の家は解体業などに商売替えをし成功した。その後も伯母を訪問する度に母が手ぶらで帰ることはなかった。伯母が病に倒れてから母はよく見舞いに行った。伯母はしゃべれなくなっていたが、母の顔を見ると涙を流して喜んだ。その伯母も昨年亡くなり、今は古町のある寺の一角に眠っている。

二本木に最後まで残っていた遊郭 旧日本亭(上村元三さんのブログからお借りしました)

花魁の放生會(おいらんのほうじょうえ)

2013-11-28 19:07:01 | テレビ
 昨夜のNHK「歴史秘話ヒストリア」は名作選として、今年1月に放送された「花魁(おいらん)の真実~江戸・吉原遊郭の光と影」の再放送だった。遊女たちの生きる希望は、年季明けするか、良い旦那に身請けしてもらい吉原を出ることだった、というナレーションを聞きながら、ふとある話を思い出した。それは、大正4年(1915)発行の「鳥の目だま」(鵜崎鷺城 著)というノンフィクションに書かれていた「花魁の放生會」というエピソードだ。




 この高木敏雄なる人物、昨年、津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」で紹介されたことがあるが、現在の熊本県菊池市の出身で、ドイツ語教授、神話学者、民俗学者などマルチな才能を発揮した。夏目漱石が五高に赴任した年に五高を卒業し、東大を卒業して母校の五高にドイツ語教授として赴任した年に漱石が五高を去っている。その後、東京高等師範学校教授などを歴任。民俗学分野では柳田國男と共同で雑誌を創刊したりしている。一風変わった性格ゆえか同じ職場に長く続かなかったという。熊本県近代文化功労者の一人。

漱石先生も自転車でひと苦労!

2013-11-27 20:34:31 | 音楽芸能
 夏目漱石は熊本を去った後、ロンドンへ留学する。その留学中の明治35年(1902)に初めて体験した自転車について、後に「自転車日記」というエッセイを書いている。下宿の婆さんから、なかば強制的に自転車を練習させられ悪戦苦闘するが、後には結構遠出もできるようになったらしい。しかし、漱石は帰国後、いっさい自転車には乗らなかったという。
 当時のヨーロッパでは自転車が大流行していた。日本でも明治のなかばには国産車も作られ、輸入も行なわれていたが、まだまだ自転車は一般庶民には手の届かない富裕層の遊び道具でしかなかった。そこで自転車の時間貸しという商売が生まれ、借料は高価だったにもかかわらず大流行した。明治40年代に入り、こんなハイカラ風俗を皮肉って演歌師・神長瞭月(かみながりようげつ)がバイオリン演歌「ハイカラ節」として歌ったところこれが大ヒット。熊本にも伝わり、お座敷唄の「熊本自転車節」となった。

◆ハイカラ節

♪ゴールド眼鏡のハイカラは
 都の西の目白台 女子大学の女学生
 片手にバイロン ゲーテの詩 口には唱える自然主義
 早稲田の稲穂がサーラサラ 魔風恋風そよそよと

♪チチリンリンと出てくるは 自転車乗りの時間借り
 曲乗り上手と生意気に 両手放した洒落男
 あっちへ行っちゃあぶないよ こっちへ行っちゃあぶないよ
 あああぶないと言ってる間に ソレ落っこちた

※歌詞はこれ以外にも数多く存在する。

◆熊本自転車節

♪逢いたかばってん逢われんたい たった一目でよかばってん
 あの山一丁越すとしゃが 彦しゃんのおらす村ばってん
 今朝も今朝とて田のくろで 好かん男に口説かれて
 ほんに彦しゃんのおらすなら こぎゃん腹も立つみゃあばってん
 千代八千代 どうしたもんじゃろかい

♪チリリンチリリンと出て来るは 自転車乗りの時間借り
 曲乗り上手と生意気に 両の手離した洒落男
 あっち行っちゃ危ないよ こっち行っちゃ危ないよ
 危ないよと言ってる間に そらずっこけた
 千代八千代 どうしたもんじゃろかい


エンターテイニングな梅林天満宮の秋祭り!

2013-11-25 21:14:14 | イベント
 あまりに身近なところにあり過ぎて、これまでナマで見たことのなかった玉名市・梅林天満宮の秋祭り。これほどエンターテイニングな祭りだとは思わなかった。山部田神楽保存会の神楽に始まり、本社である太宰府天満宮から派遣された巫女舞、そしてクライマックスは流鏑馬と飽きる間がなかった。残念なことに平日ということもあって見物客が少ない。けっしてひっそりとやるような祭りではないと思うのだが。玉名の一人応援団としては何か打つ手はないのだろうかと、帰りの車の中でそればかり考えていた。


夜半から明け方までの大雨が去って


梅林天満宮縁起


山部田神楽保存会の神楽


太宰府天満宮から派遣された巫女舞


鳥居前の田を突っ切り馬場の西側から流鏑馬入場


約400mの馬場に設置された3本の的に、3回の騎射を行なう



「長唄 神田祭」 と 「神田明神」

2013-11-24 20:41:49 | 音楽芸能
 今年5月、江戸三大祭りの一つ「神田祭」が4年ぶりに行われた。この祭りは隔年開催で前回行なわれたのが平成21年(2009)なので、本来なら平成23年(2011)に行われるはずだった。しかし、東日本大震災のため中止となり、今年、4年ぶりに行なわれたというわけだ。
 「神田祭」は東京都千代田区外神田にある「神田明神」こと「神田神社」のお祭り。神田という名前の由来は、もともと伊勢神宮の御田(おみた…神田)があった土地に、その土地の神を鎮めるために創建されたので神田ノ宮と称したという。「だいこく様」と「えびす様」と「平将門」の三柱を主祭神として祀る。
 現在では5月に開催されている「神田祭」は、もともと旧暦の9月15日に行われていたので、その名残りか「長唄 神田祭」は秋の花「菊」をモチーフとしており、歌詞の中にも何度も「菊」の言葉が出てくる。

 柳田國男の「日本の伝説」には、神田明神にまつわる次のような話が紹介されている。

 東京では神田明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門の霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷の後裔だからというのであります。下総成田の不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神鎧大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府豊多摩郡淀橋町柏木)

(注)佐野氏(さのし)は、平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族


紅葉シーズン たけなわ!

2013-11-23 19:32:29 | 熊本
 今日あたりから数日間が紅葉見物の最も見ごろのようだ。午前中は成道寺や柿原養鱒場など、午後は熊本城周辺を観て回った。いつも思うのだが、こんな見事な色彩で野山を彩る自然のチカラってすごい!そして、それをちゃんと認識できる人間の能力ってすごい!


成道寺門前を鮮やかに彩るもみじ。


成道寺本堂も今日は華やかに見える。


成道寺の池の水面に紅葉が映り込む。


熊本城・細川刑部邸門前の大銀杏。


細川刑部邸でもみじ拾いをする母娘。

われわれはこうして自然を失う!

2013-11-22 20:14:09 | 熊本
 童謡「春の小川」そのままの清流が流れる花園地区の成道寺川。かつて本妙寺田畑と呼ばれた美しい田園地帯の北西部を流れている。熊本市内ではもう数少ない清流も今や風前の灯だ。近くで熊本環状道路関連の工事が始まって数ヶ月。2、3年前の状態を思い出すと明らかに川の透明度が落ちているように感じられる。全国でも珍しいという金色のスナヤツメや二枚貝などはまだ棲息しているのだろうか。国道3号線の渋滞が緩和されて便利にはなるだろう。でもそれとひきかえに、われわれはこうして貴重な自然環境を失っていくのだろう。


晩秋の雲厳禅寺

2013-11-21 17:42:27 | 文芸
 金峰山周辺の紅葉の進み具合を見てまわった。春以来、久しぶりに雲厳禅寺を訪れる。


▼雲厳禅寺
のどかな小春日和の中、岩戸山の木々に埋もれたかのような雲厳禅寺。前方の階段を登ったところに本堂があり、左の一番奥に岩戸観音を祀った霊厳洞がある。


▼山下庵跡(案内板には次のように書いてある。)
謡曲「桧垣」と山下庵跡
 謡曲「桧垣」は、生前大宰府で舞の誉れ高い白拍子であった桧垣の女の亡霊が、水を汲む歌の縁によって背負った罪業の苦しみから逃れたいと仏の恵みを頼る有様を描いた曲で稀に演じられる格調の高い秘曲である。
 岩戸山参籠の僧が、毎日仏前に水を供える老衰の嫗の名を尋ねると「年ふれば我が黒髪も白河の みつはぐむまで老いにけるかな」と詠んだ桧垣の女であると言い、水を運ぶ縁にすがって成仏の回向を頼んで消えて行く。
 岩戸山を望む山下庵跡は桧垣の居住跡で、謡曲「桧垣」の前段である。藤原純友の乱に遭い、熊本に逃れて白河の蓮台寺付近に草庵を結んだ桧垣の嫗は境内の井戸水を汲んで西山岩戸観音に日参(15キロm)していたが、後には此処に草庵を結び観音信仰に明け暮れて、ひたすら罪障消滅を願った。
謡曲史跡保存会



▼鼓ヶ滝
県道沿い岩戸観音入口の橋の傍にあるのが、かつては和歌の歌枕ともなった鼓ヶ滝(つづみがたき)。桧垣が詠んだとも伝えられる歌が残されている。

    音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける


あの人に会いたい ~ 十八代目中村勘三郎 ~

2013-11-20 17:49:07 | テレビ
 先週土曜日、朝早く目が覚めてテレビをつけると、ちょうど、NHKで「あの人に会いたい」をやっていて、今回はたまたま「十八代目中村勘三郎」だった。「あの人に会いたい」というのは20世紀の歴史に残る著名人が残した珠玉の言葉を永久保存・公開し、後世の「生きた教材」にして行こうという趣旨の番組だ。わずか10分間だが懐かしさもあって、とても感動的で大好きな番組の一つである。
 今回の十八代目中村勘三郎の言葉は

「どんな面白いことになるか いつも考えながら 何かをつくり続け 誰かにバトンタッチしていく」

 歌舞伎界きっての人気俳優だった十八代目中村勘三郎は、伝統芸を受け継ぐ一方、新しい歌舞伎を作ろうと飽くなき挑戦を続けた。平成6年から、若者の街渋谷で始めた「コクーン歌舞伎」。江戸時代の芝居小屋を再現した「平成中村座」。そしてニューヨーク公演等々への挑戦の思いがこの言葉に込められている。
 番組の中でも紹介されたが、彼の言葉の中で僕が忘れられない言葉がある。
「江戸時代にラップがあったら歌舞伎に取り入れているだろうし、ギターやトランペットがあったら使っているはずだ。歌舞伎とはそういうものなんだよ」

※再放送 11月22日(金)午前11:20〜11:30

銘菓「さおしか」 と 泰勝寺跡

2013-11-19 18:26:15 | 歴史
 父が幼い頃(大正時代初期)、お坊っちゃまの遊び相手として毎日伺候した泰勝寺の長岡家では、おやつとして肥後の銘菓がふるまわれたという。父はそれが楽しみで毎日通っていたようだが、父の手記には熊本一流の菓子舗、福栄堂や米屋(よねや)の高級和菓子としか書いてなく、どんなお菓子だったのかはわからない。六間町にあった福栄堂も七軒町の米屋も今はないので、それぞれの菓子舗でどんなお菓子が作られていたのか調べてみたが、福栄堂の「さおしか」という和菓子が人気商品だったらしいことだけがわかった。おそらく父もこの「さおしか」を食したことがあるに違いない。
 この「さおしか」というのは「小牡鹿」と書いて若い牡鹿のことだ。万葉集の中にも度々この言葉が出てくる。そして今日では「さおしか」と言えば徳島県の銘菓として知られている。福栄堂の「さおしか」と同じお菓子なのかどうかはわからないが、徳島の「小男鹿本舗冨士屋」の創業者はもとは江戸の武士だった人で、明治時代の前期に江戸菓子をベースに「さおしか」を考案したといわれる。このお菓子が熊本に伝わったのか、はたまた偶然名前だけが同じで別ものだったのか、食べたことがある方が健在であればぜひ聞いてみたいものだ。

 ちなみに「さおしか」が詠まれた和歌を一首

   我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
   (わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
   (大意)私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。

▼今日の泰勝寺(立田自然公園)

大河ドラマ誘致運動(京都の細川家関連市町村)の幟旗が気になる


苔園の周囲も秋色が目立つようになった


あと4、5日もすれば池の周りも紅葉のピークか

縄文時代のくまもと 人々の暮らしぶりは?

2013-11-18 17:03:26 | 歴史
 先週土曜日、新南部遺跡群(しんなべいせきぐん)の発掘調査現場を見学に行った。新南部遺跡群は熊本市東区新南部周辺の白川流域左岸に広がる遺跡だ。まずその広大さに驚く。竪穴住居の跡が50軒以上も見つかっているという。それらの住居が建てられた時代は約3500年前から1300年前までの2000年以上もの長きにわたっているらしく、遺構だけでは特定するのは難しいらしい。
 縄文時代は地球温暖化が進み、海面が上昇して内陸部まで海が入って来ていたというから、今の熊本市の大部分は海だったかもしれない。それによっては人々の暮らしはわれわれの想像とはだいぶ違っていたかもしれない。また、どんな食生活だったのだろうか。縄文時代の後期に始まったと言われる米の栽培は始まっていたのだろうか。説明ではゴボウの畝みたいなものが見られるそうなので、原始的な農耕は始まっていたようだ。調査が進めばいろいろ分かってくるだろうが興味は尽きない。


広大な遺跡群


人々が暮らした痕跡


子供たちの発掘体験


すぐ脇を白川が流れる

羽根の禿(はねのかむろ) ~ 第49回熊本県邦楽協会演奏会 ~

2013-11-17 19:49:35 | 音楽芸能
 今日は熊本県邦楽協会の定期演奏会を見に行く。会場の熊本市国際交流会館ホールは、6年前、馬頭琴のコンサートの会場として使ったことがあるが、キャパ230名に対し、今日のお客さんは半分もいただろうか。特に若い人の姿がほとんど見えないのは寂しい。やっぱり僕らがもっとPRしていくべきなのだろう。
 一方、舞台上では杵屋五司郎さんを始めとする一流演奏家に混じって、舞踊団花童の子たちが「花と誠の会」のメンバーとして舞台を華やかに彩った。これは演奏が上手いヘタの問題ではなく、フレッシュなエネルギーが邦楽の未来を明るいものにしてくれるような期待を感じながら会場を後にした。
 そんな彼女たちの演奏から、演奏会のラストを飾った「羽根の禿」をご紹介したい。




熊本城歌舞伎!

2013-11-16 19:41:08 | 音楽芸能
 今朝の熊日新聞都市圏のページに極めて興味深い記事が載っていた。それは、来年の「春の熊本城お城まつり」で「熊本城歌舞伎(仮称)」が行われることになり、大物歌舞伎俳優の出演も予定されているというのだ。2月に行われるプレイベントには、最近、ドラマ「半沢直樹」でも注目された片岡愛之助さんが出演するそうなので、「熊本城歌舞伎」も愛之助さんが出演するのかもしれない。
 どんな脚本になるのか楽しみだが、加藤清正が慶長15年(1610)、塩屋町三丁目の武者溜りで阿国歌舞伎を行なったという故事も盛り込まれれば嬉しいのだが。
 同様のイベントとしては、3年前の平成22年11月に市民会館で行われた創作舞台「熊本城本丸御殿物語 ~汝(なれ)こそは昭君~」があるが、今回は本格的な歌舞伎になりそうだ。来年の春が待ち遠しい。
 そう言えば先日、舞踊団花童の総帥、中村花誠先生が「来年は大物を招いて大きな舞台がある」と仰っていたのはこのことだったのか。花童の子たちにとって生涯忘れ得ない大舞台になるだろう。