徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

肥後米の積出し

2016-11-30 18:16:25 | 歴史
 大代寅次郎さんの画集「水絵にのこす山鹿」(熊日新聞社刊)を見た。この画集は、大代さんの心に残る山鹿の明治、大正、昭和の風景を描いたもの。そのなかの最初に掲載されているのが「菊池川筋」の「大舟橋場近し」と題する下の絵だった。
 次のような説明が添えられていた。

 山鹿に集積された肥後米は、大橋際の米出し場から舟に積まれ、川を下り、高瀬から海路大阪へ運ばれた。菊池川は今日では想像もできない舟運の往還であった。帰りには黒砂糖や昆布などが積まれて、人力で山鹿まで遡行された。三つの瀬を越え大橋も近づくと自然掛声もはずんでくる。さんざめく橋の出迎えの人波には、妻子の顔も見えたに違いない。

 今まで僕は、過去に住んだこともある高瀬(玉名市)の目線でしか肥後米の積出しをとらえていなかったので、帰りの舟が人力で山鹿まで遡行されていたとは考えもしなかった。高瀬・山鹿間は日頃、車でよく行き来するので距離感がわかるが、あの距離を人力で舟を引っ張るとは・・・。先人たちの労をいとわない姿は感動的だ。






出雲阿国のふるさと

2016-11-29 21:04:02 | 歴史
 先週25日、島根県江津市在住の熱烈な舞踊団花童ファン、竹下さんの熊本訪問が実現した。Facebookを通じて交流を深めておられた花童サポーターの栗田さん(大分市在住)のご尽力で、玄宅寺舞踊会場で竹下さんは念願の花童との対面を果たされた。会終了後には話もはずみ、来年は花童の島根県訪問をという話まで飛び出すほど和やかな交歓が続いた。 

 島根といえば、歌舞伎の始祖とされる出雲阿国のふるさと。歌舞伎舞踊を本旨とする舞踊団花童にとって、もし実現するならばとても意義深いこと。そんなことを考えていたら、以前、ブログに書き込んだこんな話を思い出した。

 戦国武将、薩摩の島津家久が天正3年(1575)に薩摩から京に上った時の旅日記「家久君上京日記」の中に、一行が帰路、温泉津(ゆのつ:島根県大田市)で、能でもなく神舞でもない不思議な踊りを演じる出雲衆と出会うくだりがある。

一 廿五日打立行に肝付新介ニ行合候、加治木衆三十人ほと同行、さて西田の町を打過、湯津に着、
  其より小濱といへる宮の拜殿にやすらふところに、伊集院に居る大炊左衛門、酒うり持参、さて
  湯に入候へは、喜入殿の舟に乗たる衆、秋目船の衆、東郷の舟衆、しらハ衆、各すゝを持参り候、
  其より小濱のことくまかり出雲之衆、男女わらハへあつまりて能ともなし、神まひともわかぬおひいれ、
  出雲哥とて舞うたひたる見物し、
其より小濱のはたこやにつき、亦湯乃津のことく歸り候へハ、・・・


 杵築大社(出雲大社)の巫女だったという出雲阿国が文献に初めて登場するのは、この7年後、天正10年の「多聞院日記」。この時お国11才と書かれているので、家久君が温泉津で出会った出雲衆の中に、もしお国がまじっていたとすれば、わずか3歳ぐらいということになる。しかし、それはありえないことではない。現に、舞踊団花童のきみかちゃんは3歳の時からちゃんと舞台を務めていた。
 上の日記の中にある「男女わらハへ」というのは「男女の童部(わらわべ)」つまり子供ということであり、後に「ややこ(稚児)踊り」と呼ばれた阿国の踊りの原点だったのだろうか。家久君は幼い頃の出雲阿国と出逢っていたのかもしれない。




 出雲阿国が始めた「能でもない神舞でもない」初期のかぶき踊りの様子を色濃く残しているといわれる新潟県柏崎市の綾子舞(国指定重要無形民俗文化財)


くまもと全国邦楽コンクールの結果

2016-11-29 12:48:08 | 音楽芸能
 先週の25日(金)に行われた第22回くまもと全国邦楽コンクールの結果が、いつまでたっても主催者の熊本市からアナウンスされないのでクレームをつけた。
 回答によれば大会翌日、熊日新聞に掲載し、ホームページやFacebookは今週中に更新の予定だという。
 おいおい! 熊日新聞は地方紙だし、この大会は全国大会じゃなかったのかい! 
 熊本以外にお住まいの方で、この大会に注目されている方は多いと聞いている。Facebookに結果を掲載するぐらい、ものの数分でできるはずだ。お役所仕事と言ってしまえばそれまでだが、このIT時代になんというスピード感のなさ!
 このブログにおたずねになる方もいらっしゃるのでとり急ぎ掲載することにした。




西日本屈指の荒祭り 「裸坊祭」

2016-11-28 17:14:25 | イベント
 山口県防府市の防府天満宮で26日、西日本屈指の荒祭り「裸坊祭(はだかぼうまつり)」が行われた。千年以上の歴史を有する行事で、大宰府に左遷された菅原道真公が立ち寄ったときの送り迎えを再現したものといわれる。寒空の下、道真公の御霊を乗せた重さ500キロの「御網代輿(おあじろこし)」を運ぶ白装束の裸坊数千人が「兄弟ワッショイ」のかけ声も勇ましく、菅公上陸の地とされる勝間の浦の御旅所まで練り歩く。
 僕が防府に勤務していた頃、ブリヂストン防府工場として初めて裸坊祭に参加したが、事務局として数十人分の用品の手配をしたことなどを懐かしく思い出す。また、御神幸の際、御網代輿を乗せる台車の木製の車輪が路面を傷つけないよう、現在は車輪のトレッド部分を、ブリヂストン熊本工場製のゴムクローラ(ゴム製キャタピラ)で覆っている。いろんな意味でご縁があるので、熊本県外の祭りでは最もなじみ深い。


拝殿への階段下で御網代輿の到着を待つ台車。車輪はゴムクローラで覆われている。



先んじて御網代輿のご利益にあずかろうと裸坊たちのもみ合いが始まる



御旅所への御神幸の道中には各所に振舞い酒が用意されており、帰る頃にはすっかり出来上がる

民謡好きのための民謡祭典!

2016-11-27 20:00:39 | 音楽芸能
民謡「唄と三味線の会」30周年記念大会
◆日 時 11月27日(日)
◆会 場 熊本市植木文化ホール


会主・本條秀美さんのご挨拶


本條流祝儀曲「松」~ 俚奏楽「伊勢木遣」


鳴物の今井さんと今村さん


四部合奏「おてもやん」


端唄「桃太郎」


おてもやん


網起こし木遣歌


合唱「いかとり唄」


俚奏楽「島めぐり」

今年最後の玄宅寺舞踊

2016-11-25 22:47:51 | 音楽芸能
 今夜が今年最後の舞踊団花童による玄宅寺舞踊。4月に発生した熊本地震のため、3ヶ月ほどの中断はあったが、2013年から始まった玄宅寺舞踊も4年目を終えた。また、今夜は花童の熱心なファンT氏がわざわざ島根から見に来られた。
 今年は特にこわらべの成長が著しく、間近でそれを実感できる玄宅寺舞踊は貴重な催し。来年もさらなる成長を、この玄宅寺で見ることが楽しみだ。



うき世道成寺


猩々意想曲


肥後五十四万石


締めのご挨拶


記念撮影

懐かしの紅白歌合戦

2016-11-24 21:17:36 | テレビ
 この時季恒例、年末のNHK紅白歌合戦の出場者が発表された。近年紅白は、年越しそばを食べながらちらっと覗き見る程度で、あまり興味もないので、どうでもいいニュースなのだが、出場者のリストを見ても、わけのわからないアルファベットの名前が多かったりで見てみようという気すら起こらない。僕が愛した紅白歌合戦は遠い過去の思い出になってしまった。


昭和28年(1953)の紅白歌合戦


 下の映像は1963年、僕が高校3年生の時の紅白歌合戦。司会は宮田輝アナウンサーと江利チエミさん。当時の若手トップスター、吉永小百合さんや倍賞千恵子さんの登場に胸をときめかせたものだ。

▼吉永小百合さん(伊豆の踊子)

高校に石工養成科を新設!?

2016-11-22 19:34:34 | 熊本
 今日夕方のニュースで、県内の高校に石工養成科を新設する計画があることが報じられていた。これから20年はかかるといわれる熊本城石垣の復旧には膨大な数のマンパワーが必要になることは必至。かつて種山石工がその名を全国に馳せた熊本も、今はその技術の伝承はほとんど途絶えている。広く全国から人材を募って高校で養成することは、熊本城復旧のマンパワー確保にもなるし、技能の伝承という意味でもとても有意義なことだと思う。



櫨方三階櫓跡東側の石垣



熊本城で最も高い石垣は、本丸の井戸で40メートルの高さ

本條秀美会主催「民謡『唄と三味線の会』30周年記念 大会」

2016-11-21 21:39:55 | 音楽芸能
 本條秀美会主催の「民謡『唄と三味線の会』30周年記念大会」がいよいよ今週末に迫りました。

◆日 時 11月27日(日)12:30開場 13:00開演
◆会 場 熊本市植木文化ホール
      熊本市北区植木町岩野238-1
      ℡ 096-272-6906

 多くの皆様のお越しをお待ちしています!


▼本條秀美作品集

◇肥後の女(作詞・作曲:本條秀美)



◇山鹿湯の町(作詞・作曲:本條秀美)



◇水前寺成趣園(作詞:永野陽子 作曲:本條秀美)

玉名女子高校吹奏楽部 3年連続ダブル金賞!

2016-11-20 18:49:24 | 音楽芸能
 今日、大阪城ホールで行われた「第29回全日本マーチングコンテスト」において、九州地区代表として出場した玉名女子高校吹奏楽部が金賞に輝きました。これで、全日本吹奏楽コンクールと合わせ、3年連続ダブル金賞を達成しました。おめでとうございます!



8月11日のくまもとマーチングフェスティバルにおける玉名女子高校の演技

宇土櫓の内部映像

2016-11-19 21:53:17 | 熊本
 熊本城の中で最も愛着が強いのが宇土櫓(国指定重要文化財)。僕が中学生の頃まで、大小天守は再建されていなかったので、熊本城の天守閣と言えば宇土櫓のことだった。その宇土櫓の熊本地震の被災状況は、これまで外観では続櫓が全壊していることぐらいしかわからなかったのだが、昨日、やっと内部の映像が公開された。1、2階はしっくい壁の剥落がひどく、周囲をめぐる廊下の床が建物中心に向かって大きく傾いており、その他にも数ヶ所の破損が見られるという。やっぱり僕にとっては石垣とともに宇土櫓が熊本城の象徴。他に先んじて復旧が行われることを願っている。

▼熊本地震後の宇土櫓の外観


▼宇土櫓の内部映像



御船歌のはなし。 ~ そもそも船の始まりは ~

2016-11-18 19:56:11 | 音楽芸能
 肥後細川藩の参勤交代一行は、飛地である鶴崎(現大分市)から船団を編成して瀬戸内海に向かった。出発に当たっては祭礼が執り行われ、御船手方による御船歌が歌われた。この御船歌について興味があり文献等を調べているのだが、その一部をご紹介したい。

(鶴崎・剣神社所蔵絵馬)


 大阪芸術大学の西岡陽子教授の論文「祭礼における『御船歌』」によれば、
「御船歌の基本的な部分は、江戸時代初期に謡曲や狂言歌謡に影響を受けて成立し、後には時々の流行小歌や浄瑠璃等を摂取した。」とある。
 また、「曲目は『皇帝(黄帝)』『鎧くどき』『道行』などに代表される長編ものと『かすり』『だんべい』などに代表される短詩形のものとに大別される。前者は長歌、後者は端歌などと呼ばれる。諸曲目の中で、『皇帝』『鎧くどき(初春)』は、諸藩の船歌本に登場し、しかも最初に掲げて重要な曲目と位置づけられている。」という。
 さらに、諸藩の御船手方の伝習について「幕府の御船歌が規範となっていたと思われ、伝習は場合によれば江戸表あるいは大坂に出向いて幕府の御船歌を伝習した。」
 ということは、御船歌の重要な曲目は諸藩共通のものだったといえるようだ。

 最も代表的な曲目として紹介されている「皇帝」は、古代中国・黄帝の時代、貨狄という臣下が、一枚の柳の葉が水に浮かび、その上に蜘蛛が乗っているのを見て舟というものを思いついたという故事を歌ったもの。

 室町時代、観阿弥によって創られた能「自然居士」でシテの自然居士が、この故事を謡い舞うことから、江戸時代に入って御船歌にも取り入れられたものだという。


能「自然居士」

 さらに、幕末になって長唄「風流船揃」の中にも取り入れられた。

▼長唄「風流船揃」詞章
  そもそも船の始まりは
  唐土皇帝に仕へし 貨狄といへる臣下あり 
  秋吹く風に庭の池へ 散り浮く柳の一と葉の上に
  蜘蛛の乗りてささがにの 糸引きはへし姿より 
  匠み出だせし船とかや

▼長唄「船揃(風流船揃)」

銀杏城の秋

2016-11-17 22:42:58 | 熊本
 熊本民謡「ポンポコニャ」に「銀杏城から眺むれば・・・」と唄われるように、別名「銀杏城」と呼ばれた熊本城。加藤清正公が熊本城築城の際、城内に銀杏の木を多数植えたことが由来といわれています。今年も銀杏の黄葉が見頃の時期になってきましたが、例年とはちょっと様子が違います。銀杏の傍には傷ついたお城が痛々しい姿を見せています。ですから、心から風景を楽しむ気になれません。かつてのように黄葉を心から楽しめるのは何年後になるのでしょうか。


監物櫓と銀杏


百間石垣と銀杏


細川刑部邸と銀杏

▼熊本民謡「ポンポコニャ」