徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

余震のまにまに(9)

2016-04-30 19:32:13 | ファミリー
 昨夜の報道ステーション(テレ朝)にコメンテーターとして出演した歴史学者の磯田道史さんが、今回の熊本地震は、400年前、慶長三陸沖地震に始まり、熊本・大分大地震を始め、中央構造線近くで相次いだ大地震とよく似ているという話をしていた。
 今回も5年前の東日本大震災、そして熊本・大分の大地震と400年前を想起させるという。歴史学者の立場から、古文書に残された大地震の歴史を教訓として対策を講じるべきで、安易に「過去に前例がない」とかたづけるべきではないと警鐘を鳴らした。

1596年 慶長伊予地震
      慶長豊後地震
      慶長伏見地震
1611年 慶長三陸沖地震
1619年 熊本・大分で大地震
1625年 熊本・広島・香川などで大地震
1633年 小田原大地震

 歌舞伎の演目にもなっている「地震加藤」における慶長伏見地震の清正伝説は知っているが、今回の熊本地震も、地球の長い歴史の中で繰り返し起こっている変動の1ページであるという視点も重要なのだろう。
 ちなみに、明日5月1日に改修後再オープンする小田原城の初日の入場料を全額、熊本城の復旧復興にあてるため寄付をするというニュースが流れていたが、これは400年前、小田原大地震で小田原城が被害に遭った際、最初に幕府に支援を求めてくれたのは熊本藩主だったことへのお礼の意味もあるらしい。

▼つつじも真っ盛りになったのだが・・・

温かいご支援に ただただ感謝!

2016-04-29 15:27:53 | 音楽芸能
 いまだに余震が続き、いつ治まるともわからない熊本ですが、日本全国はもとより、世界各国からも義捐が寄せられているようです。
 皆様の温かいお心に、熊本県民の一人として、ただただ感謝あるのみです。本当にありがとうございます。

 復興には、長く険しい道のりが待っていますが、必ずや、かつての美しい熊本を取り戻すため、とにかく大いに元気を振るい、明るく前に進んで行きたいと思っています。どうか引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。


▼くまもとの元気唄




余震のまにまに(8)

2016-04-28 19:33:54 | ファミリー
 ブリヂストン時代の大先輩、坂本正詮さんから、わが家の近くの京陵中学校で薬草料理の炊き出しボランティアをやるので来ないかというお誘いがあったので行ってみた。
 玉名市の北西に位置する小岱山一帯は、150種類の薬草が自生する「薬草の里」として知られていて、玉名市ではこれを利用した薬草料理が盛ん。坂本さんも「小岱山薬草の会」の一員として薬草料理の普及に携わっている。
 今日は、オオバコやイノコズチなど数種の薬草を持ち込み、校舎の一角で、薬草の会のメンバーが薬草のテンプラを揚げていた。食事時間の6時頃になると多くの避難者が列をなし、ご飯とおかずのテンプラを受け取っていた。炊き出しは油ものがほとんどないため、とても喜ばれていたようだ。
 こうしたボランティアの皆さんによって避難所生活が支えられている実態を目の当たりにしたが、本当に頭が下がる思いだ。


10名ほどのメンバーでテンプラづくり


おいしそうな薬草テンプラが揚がる

余震のまにまに(7)

2016-04-27 19:29:19 | ファミリー
 今日昼過ぎ、雨が上がったので、新堀橋まで歩いて行ってみた。途中で山口・下関ナンバーの病院業務車や滋賀ナンバーのパトカーに出会う。いずれの地方も僕にとっては懐かしい。遠方から本当にご苦労様と心から感謝したい。
 新堀橋から先は進入禁止となっているので、監物櫓(長岡図書預り櫓)や百間石垣(一部)などの被災状況しか確認できない。新堀橋入口で警備をしているおじさんとしばらく会話する。それによると城内に入っている復旧作業員の間で、宇土櫓は凄いという話が広まっているらしい。昭和35年に再建された大天守、小天守に対し、宇土櫓は400年も前の建築。今回の地震で続櫓は倒壊したものの、宇土櫓本体は平然と立ち続けている。今また新しい清正伝説が加えられそうだ。
 今朝のNHKニュースで、昨日、東京新宿で行われた行定勲監督の熊本県PR映画「うつくしいひと」のチャリティ上映会の模様と映画の内容が紹介されていた。これから各地でチャリティ上映が行われる予定だというが、行定監督もまさかこの映画が熊本復興支援の映画になるとは思ってもみなかっただろう。

▼白壁が剥がれ落ちた監物櫓。右側の石垣も一部崩落している。



▼映画「うつくしいひと」の一場面(主演の橋本愛)。被災前の熊本城も登場する。

余震のまにまに(6)

2016-04-26 19:31:50 | ファミリー
 間欠的な余震がとまらない。昨夜も何度も起こされた。わが家は熊本市中央区だが、熊本市西区に近く、最近、西区に余震が多くなったような気がするのが不気味だ。
 今回の熊本地震でつくづく思ったのは、われわれが「科学」とか「科学的」とかよんでいる事の不確かさと頼りなさである。考えてみれば、地球が生まれて46億年。一方、人類はせいぜい25万年。地球の歴史を1メートルの定規で表すと、人間の歴史はうしろの0.05ミリメートルに過ぎない。わずかその程度の経験で得た知識しか持ち得ていないのだ。大きな自然災害が起きるとすぐに「想定外」という言葉を発するが、それは当たり前の話で、地球や自然界のことをわかったつもりになっていることが土台間違っている。
 下の写真は3年前の4月25日、熊本城二の丸広場の風景である。こんなのどかな風景が一日も早く戻ることを願っている。僕が子供の頃、熊本城には、大天守も小天守も飯田丸も大手門も本丸御殿も無かった。時間はかかるかもしれないが、また再建すればいいじゃないか、そんな気がしてきた。



市松模様のエンブレム

2016-04-25 15:22:18 | ニュース
 2020年東京五輪・パラリンピックの公式エンブレムが、最終候補4作品から「市松模様」のA案に決定した。
 やや色味が寂しい面は否めないが、なんとなく最終的にはこれに落ち着くのではないかという気がした。

 昨年12月5日にこのブログに載せた「歌舞伎から生まれた言葉」の一部を再掲したい。

「市松模様(いちまつもよう)」
色違いの正方形を互い違いに組み合わせた紋様。石畳模様。寛保元年(1741)若衆方(のちに女方)の初代佐野川市松がこの模様の衣装を着たことから、-般の女性たちも競ってこの模様を使ったため大流行し、市松模様と呼ばれた。



余震のまにまに(5)

2016-04-24 19:31:56 | ファミリー
 10日が過ぎた。余震は沈静化しつつあるのかと思いきや、昨晩から再び震度3が頻発している。立ち直る気力が萎えてしまう。
 生命を守ることが最優先であることはいうまでもないが、この非常事態が長引くことが明らかとなった今、僕には気になってしかたがないことがある。それは高校や中学などでスポーツに励んでいる生徒たちが、あたらシーズンを棒に振ってしまわないかということだ。例えば、陸上競技の熊本選手権は4月16日に行われる予定だったが、5月5日・6日に延期された。しかし、これも会場となる熊本県民総合運動公園陸上競技場が支援物資の集積場となっていて、はたして使える状態になるのかどうか不明だし、もう一つの水前寺競技場も半壊して使えない状態にあるという。おそらく他の競技も同じような状況にあるのではないかと思われ、1ヶ月後に迫った熊本県高校総体などの大きな大会もはたして開かれるのかどうか心配だ。
 生徒たちの中には、それぞれの種目で将来を嘱望された人材も多く含まれており、彼らの人生が大きく変わってしまうことにならなければよいがと祈るばかりである。

▼熊本県民総合運動公園陸上競技場での昨年の高校総体

牛深ハイヤ祭りの中止

2016-04-23 13:09:55 | イベント
 一向に収まる気配のない熊本地震の影響を受け、4月15日から17日まで行われる予定だった「第45回牛深ハイヤ祭り」がすべて中止された。

ハイヤエーハイヤ ハイヤで半年ゃ暮らすエー 後の半年ゃ サーマ 寝て暮らすエー

とハイヤ節に唄われるほど、ハイヤ祭りは牛深の人々にとって最も大事な年中行事。毎年、県内外から約8万人の観光客などが訪れ、大変な盛り上がりを見せるとともに、大きな経済効果をもたらすのである。それだけに、今回の中止が牛深の人々にとってどれほど残念な決定だったか、察するに余りある。
 僕は牛深ハイヤ踊りを現地で見たことがない。来年になるかもしれないが、地震が終息し、日常生活が戻ったら、なんとしても現地で牛深ハイヤ踊りを見たいものである。


▼牛深ハイヤ節


▼牛深三下り

余震のまにまに(4)

2016-04-22 12:00:46 | ファミリー
 昨夜は1週間ぶりに風呂に入ろうと、家内と二人で合志のユーパレス弁天へ。ところが、風呂の前には長蛇の列。特に女性浴場の方は、1時間以上も並んで待たなければ入れないという。僕も家内もすぐに心が折れて引き返した。しかし、よくよく考えてみると、避難所で暮らしている皆さんは毎日がこんなことの繰り返しなのだろう。あらためて避難所生活の大変さを思い知らされた。

 相変わらず余震は続いている。しばらく落ち着いているなと思っていると必ずドーンと来る。最近は地震速報も出ないことがよくある。体感は震度3ぐらいの衝撃は感じるのだが、速報が出る時と出ない時の違いは何なんだろう。それにしても、緊急地震速報と言うやつ。けたたましいアラームでビックリするが、役に立ったためしがない。鳴った時は既に治まっているか、なんの変化もないこともある。その信頼性は大いに疑問だ。
 ところで毎日見かける気象庁地震津波監視課長の会見だが、いつも言うことは「余震は減っているように見えるが、このまま収まるということではない。全体の活動は依然として活発な状態で、まだ1週間程度は激しい余震の可能性がある。」という説明。課長の感想というわけではないのだろうから、そう判断するデータがあるはずだ。時々はデータを示して説明してもらわないと、だんだん納得性が薄れてくる。

▼気が付けば目にも鮮やかな若葉の季節。穏やかな気持で若葉を愛でる日はいつ来るのだろう。

※写真は昨年4月22日のもの

余震のまにまに(3)

2016-04-20 09:11:34 | ファミリー
 熊本地震が発生してから6日が経過した。この間、わが家で寝たのは1日だけ。車の中で2泊、親戚宅に3泊。こんな生活はいつまで続けなければならないのだろう。94歳の母のことを考えると、満杯状態の避難所には行けないし、かと言って、崖の上のわが家は夜中の激震の恐怖が抜けない。しばらくは親族に頼るしかなさそうだ。
 インターネット上では虚実とりまぜていろんな情報が飛び交っているが、なんでもかんでも鵜呑みにしないようにしたい。

▼倒壊した東十八間櫓と北十八間櫓

余震のまにまに(2)

2016-04-18 17:08:34 | ファミリー
 余震が一向に収まる気配がない。テレビでは政府の非常災害対策本部会議だの、被災者生活支援チームだのと言っているが、どんな立派なことを机の上で決めても、要は被災者のところに迅速に物資なり、施策なりが届かなければ意味がない。
 懐中電灯の電池を買おうと歩いて近くのコンビニを回ってみた。しかし、水と食料品しか売ってなかったり、電池はほとんど売り切れていたり、早々と店を閉めていたりと、結局手に入らなかった。前震から本震、いやもう一段デカいのが来るかもしれないという学者先生もいたりして不安感は募るばかりだ。

▼倒壊した往生院の山門

余震のまにまに

2016-04-17 19:50:34 | ファミリー
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

▼残念にも崩落した京町のむくり屋根の家(F氏宅)の石垣。屋内には西南戦争時の弾痕が残る。

鹿島大明神と中央構造線

2016-04-15 18:00:01 | ニュース
 昨夜来、メール、電話、ブログ、Facebookなどで多くの皆様にお見舞いをいただき心よりお礼申しあげます。今のところ、家族全員無事で、本当にありがたく思っております。余震はいまだ続いていますが、徐々に間隔があき、弱くなりつつあるような気がします。まだまだ油断はできませんが、このまま終息に向かうことを祈るばかりです。

 江戸後期の安政2年(1855)10月、江戸を襲った「安政の大地震」。家屋の全壊と焼失は一万四千戸以上、死者は七千人以上と伝えられています。江戸時代、地震は地下で大鯰が大暴れすることによって発生すると考えられていました。「安政の大地震」をきっかけに、大地震を起こしたという鯰や、それを押さえつける鹿島大明神など、鯰を題材とした多色摺りの「鯰絵」が発売され大ブームを呼びました。鯰を擬人化し、社会を風刺した「鯰絵」は、大災害に遭いながらもそれを洒落のめす、江戸庶民の「諧謔(かいぎゃく)」趣味にあふれています。
 東日本大震災の頃から「中央構造線断層」という言葉をよく見たり聞いたりするようになりましたが、実は、大鯰を押さえつけるという鹿島大明神のある茨城県の鹿島あたりを東端とする「中央構造線断層」の西端に位置するのが、今回の「平成28年熊本地震」の原因と言われる「布田川断層帯日奈久断層帯」なのです。古の人々は、経験的に鹿島大明神の位置的な意味に気づいていたのかもしれません。

4月15日は 阿国忌

2016-04-14 17:56:07 | 歴史
 明日、4月15日は「阿國忌」、すなわち阿国歌舞伎の創始者であり、今日の歌舞伎の祖とされている出雲阿国(いずものおくに)の命日とされている。しかし、実際には生没年不詳で、お国の出自や経歴についても、確実な資料が少なく、はっきりしていない。
 熊本は、慶長15年(1610)に、加藤清正が「阿国歌舞伎」を招いて、熊本城下の鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで上演させた故事が伝えられるが、いったいどんな舞台が繰り広げられたのかよくわかっていない。
 今から13年前、歌舞伎発祥の年とされている慶長8年(1603)からちょうど400年を記念し、関西楽劇フェスティバル協議会が主体となって「阿国歌舞伎」の復元上演が京都で行われた。そのプロジェクトの中心メンバーでもあった歴史学者の笠谷和比古氏が、日経新聞に「阿国再臨 京の夜彩る」と題して阿国歌舞伎について実に分かりやすくまとめた寄稿がある。その一部を掲載してみた。



▼阿国歌舞伎の歌舞伎踊「茶屋遊び」の詞章(一部)

▼阿国歌舞伎を現代風に舞踊化した「阿国歌舞伎夢華」

漱石先生 120年後の来熊

2016-04-13 17:51:07 | 歴史

漱石先生の到着を待つ人々


必由館高和太鼓部の歓迎演奏


必由館高書道部のパフォーマンス


五高生による「武夫原頭に草萌えて(五高寮歌)」


池田停車場(上熊本駅)に漱石先生が到着


蒲島県知事や大西市長に出迎えられる


漱石先生を乗せた人力車が京陵中学校の前を通る


新坂の下りに差し掛かり、漱石先生は熊本市街を眺望する


新坂を一気に下り、第五旧居を目指す


漱石来熊120年記念のラッピング電車