徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

昭和29年の紅白歌合戦と江利チエミの「ウスクダラ」

2012-09-30 16:57:23 | 音楽芸能
 YouTubeのトップページに、相互にチャンネル登録をしている“gigichen566”さんが、アメリカの女性歌手アーサ・キットの「ウスクダラ」を高く評価したと表示されていた。懐かしい想い出がよみがえった。この「ウスクダラ」の原曲はトルコの民謡だが、日本では江利チエミが歌ってヒットした。僕ら子どもは意味もわからず「♪ウスクダラ ギデリケン オードゥダ ビリヤンムー」なんて口ずさんでいたものだ。アーサ・キットはその後、日本の「証城寺の狸囃子」をアレンジした「Sho-Jo-Ji」なども歌っていたし、江利チエミはその後もトルコものの「シシ・カバブ」を歌っていたから、戦後最初のエスニック音楽ブームと言っていいのかもしれない。
 その江利チエミ版「ウスクダラ」の想い出と言えば、昭和29年のNHK紅白歌合戦だ。まだテレビもない時代で大晦日の紅白歌合戦は布団の中でラジオを聞くのがわが家の習わしとなっていた。この年の紅白歌合戦は、紅白合わせて30人くらいが歌ったと思うが、その中で「ウスクダラ」が一番強烈な印象を残した。小学3年生だった僕は、この歌の何やら妖しいメロディに淫靡な雰囲気を感じとっていたようだ。
 ところで布団を並べて寝ていた祖母のお目当ては大好きな春日八郎の「お富さん」だった。


本條秀太郎の「祝い囃子」

2012-09-29 19:11:28 | 音楽芸能
 本條秀太郎さんの唄の中でもこんな軽いノリの祝い唄も実に味があって良い。ザ・わらべの舞台を見るようになってから、度々地方を務めてくれるのが本條流師範の本條秀美さんだったこともあり、家元の秀太郎さんの作った曲をよく聴くようになった。自ら興した俚奏楽を始め、民謡、江戸端唄などから現代邦楽に至るまで実に幅広いジャンルで活躍しておられる。9月15日の熊本城本丸御殿での「秋夜の宴」で、この「祝い囃子」をザ・わらべが踊った時は、初めて聞く曲だったし、演目の紹介もなかったのだが、すぐに本條秀太郎さんの声だとわかった。帰ってからネットで「本條秀太郎」と、あてずっぽうで「祝い唄」の二つのキーワードで検索したら「祝い囃子」というのが出てきた。検索結果の中に幸い試聴できるページがあって、本條秀太郎さんが作った「祝い囃子」という唄だとわかったというわけだ。いかにも洗練された曲調がここちよく、耳から離れなくなるような気がする。


球磨の六調子(くまのろくちょうし)

2012-09-28 17:55:25 | 歴史
 まもなく人吉市の国宝・青井阿蘇神社の例祭「おくんち祭」が始まる。熊本県球磨地方の代表的な民謡「球磨の六調子」には、地元で「青井さん」と呼ばれて親しまれている青井阿蘇神社を唄い込んでいる。

※右の画像をクリックすると動画が別ウィンドウで再生されます。

 この唄について、昭和57年に発行された「熊本県大百科事典」によれば次のように解説している。

 球磨地方を代表する民謡の一つ。六調子とは三味線の調子のことで、三下りを地と感(上下の意?)の二つの調子に弾くという。七・七・七・五のはっきりした二六音形の歌詞に、にぎやかな囃子ことばを入れながら、激しいテンポの三味線に合わせて面白おかしく歌うので、祝宴には欠かせない唄である。由来や伝承もなく、いつ、何のために、どのように歌うという定めもなく、宴たけなわともなれば、突然、だれかが歌い出し、それから調子が崩れて、手拍子、手踊りが始まる。歌詞は多いが、歌い出しは、

♪球磨で名所は青井さんの御門(前は前は)/前は蓮池桜馬場 ヨイヤサー

で始まり、間に

♪多良木の文蔵爺 湯前の猫八どんお主ゃ かみあげほっつりほっつりのぼらんせ

などの囃子ことばと、歌詞の間にいろいろのざれ言葉も加えて一段と変化をつけ、座興を添える。(渋谷敦)

 この唄の起源については、牛深ハイヤ節が球磨川を遡って伝わったという説と、瀬戸内地方や大分県などで広まった「よいやな節」が南下してきたという説があるという。

▼「気になる!くまもと」サイト

Dear Heart! Mr.アンディ・ウィリアムス

2012-09-27 20:17:11 | 音楽芸能
 僕が最も敬愛するシンガーの一人、アンディ・ウィリアムスさんが亡くなった。僕が中学から大学の頃、まだ今日のように海外のポップスをリアルタイムで見たり聴いたりできなかった60年代、最も海外のポップスに触れることができたのは「ペリー・コモ・ショー」や「アンディ・ウィリアムス・ショー」などのTV音楽番組だった。とりわけ「アンディ・ウィリアムス・ショー」は7~8年間見続けた記憶があり、いろんな意味で影響を受けた。アンディ・ウィリアムスのヒット曲の中では「ムーン・リバー」など一連のヘンリー・マンシーニの曲が大好きだが、中でもこの「ディア・ハート」は大学生の頃、寮のラジオから聞こえてくるFENの放送で毎日のように聴いて随分癒された想い出がある。デルバート・マン監督の映画の主題歌だが残念ながら僕は映画は見ていない。アンディ・ウィリアムスさんを送る曲としてはこの曲が一番ふさわしいと思う。合掌。

▼Dear Heart(Click to Movie)

♪Dear heart wish you were here to warm this night
 My dear heart, seems like a year since you've been out of my sight
 A single room, a table for one
 It's a lonesome town all right
 But soon I'll kiss you hello at our front door
 And dear heart I want you to know
 I'll leave your arms never more

大河ドラマに「明智光秀」!?

2012-09-26 19:41:34 | テレビ
 2014年のNHK大河ドラマの有力候補として「明智光秀」が検討されているという話題をスポーツ紙などが伝えている。もしこれが事実ならば、肥後細川家二代・細川忠興の正室となった明智光秀の三女・珠(後のガラシャ)は熊本でも人気絶大で、以前から大河ドラマの主人公にという声もあったぐらいだから、ガラシャが主要な登場人物となるドラマであれば大いに歓迎だ。ただ、熊本では数年前から「加藤清正を大河ドラマに!」という署名運動が官民で進められており、すでにNHKへの具体的な働きかけも行われているため、県民の率直な気持には微妙なものがあるだろう。
 それはさておき、一番気になるのは大河ドラマ「明智光秀」が実現した場合、今年の「平清盛」の二の舞になりはしないかという点だ。僕らの子どもの頃、明智光秀の人物像はどちらかといえばネガティブなイメージで語られてきた。おそらく年配者にはそんなイメージを抱いている人が少なくないと思う。今年の「平清盛」が不振を極めたのは、基本的にはドラマの作り方や役者の問題よりも、大河の主要なファン層である年配者がもともと持つ「平清盛」に対するイメージが大きな原因だと思う。

  ▼細川ガラシャが祀られている泰勝寺跡の四つ御廟

曼珠沙華咲いてここがわたしの・・・

2012-09-25 19:29:30 | 熊本
 朝目覚めると快晴、今日こそはと菊鹿町矢谷地区の「番所の棚田」へ出かけた。ここは3年前初めて訪れた時に、あまりの美しさに「ここは天国かッ!」と思わず口走ったことを来る度に思い出す。早くも稲刈りをやっていた地元の方の話では、曼珠沙華の満開には3日ほど早かったようだが、澄み切った青空のもと、稲の黄金色と曼珠沙華の真紅の見事なコントラストを時の経つのも忘れて楽しんだ。
 山頭火の句に倣えば、「曼珠沙華咲いてここがわたしのシャングリ・ラ」とでも詠みたいところだ。

   曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ(種田山頭火)

 昭和7年9月、山口県小郡町(現新山口市)に其中庵(ごちゅうあん)を開いて移り住んだ頃、詠んだ句である。






津軽あいや節 ~ 海道二千キロ ハイヤの旅 ~

2012-09-24 16:19:51 | 音楽芸能
 日本全国の約50といわれる「ハイヤ」系民謡の源流は、牛深ハイヤ節といわれ、江戸時代、北前船の船乗りたちによって各地の港に伝えられたと言われる。この「津軽あいや節」もその一つで、津軽では鯵ヶ沢や青森、野辺地などで、港の女たちが酒席で盛んに唄っていたという。藍より青い南の海から、凍てつく北の荒海へ、優に2千キロを超える船旅をして辿り着いた唄が歌い継がれていく、何というロマンだろうか。



♪アイヤアーナー 
  アイヤ唄が流れる お国の唄が よされジョンガラ それもよいや アイヤ節
♪アイヤアーナー 
  アイヤ岩に松さえ 生えるじゃないか どうせ添われぬ それもよいや ことはない


  ▼牛深ハイヤ節

“人吉旅館”が登録有形文化財に!

2012-09-23 20:54:21 | 熊本
 人吉市の老舗旅館「人吉旅館」と「芳野旅館」が国の登録有形文化財(建造物)になるという。正式には10月下旬に登録されるそうだが、人吉温泉で創建当時の姿を残しているのは人吉旅館と芳野旅館だけだそうで、人吉の近代史を語る上で貴重な史料となる建造物だという。10月14日には人吉旅館と芳野旅館の見学会が開催されるそうだ。
 昨年11月、母の卒寿を祝う旅行で初めて人吉旅館を利用させてもらったが、重厚な造りの玄関から中に入ると、昔懐かしい旅館の香りが漂っていて、まるでタイムスリップしたかのような気分だった。機会があればまたぜひ行ってみたい。
※写真は人吉旅館の女将さんと娘の嘉恵ちゃん


昔の旅館はこんな感じの玄関が多かった。


昭和7年に与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻が人吉を訪れた時に晶子が詠んだ歌の歌碑


人吉旅館から目と鼻の先の国宝・青井阿蘇神社。10月3日~11日には「おくんち祭」が開催される。

「秋夜の宴」第四夜は古代ロマンの世界・・・

2012-09-22 21:45:16 | 音楽芸能
 熊本城本丸御殿「秋夜の宴」は第四夜。今夜は8月2日に行われた、和水町の「古墳祭」における中村花誠さん演出の創作舞台「炎の宴」の本丸御殿バージョンが繰り広げられた。本丸御殿大広間とあって、さすがに火は使えず、「古墳祭」のような幻想的な雰囲気には欠けたが、そのかわり至近距離から観ることができて、衣装の鮮やかな色彩や振付の細かさなどがよくわかり、また違った魅力に惹き込まれた。


和水町・古墳祭「炎の宴」の再現


こわらべたちも頑張りました!



名君 細川重賢公と九曜紋

2012-09-21 21:05:07 | 歴史
 今朝、早朝に小用を催して目が覚め、電燈替わりにテレビをつけた。するとNHKでちょうど「視点・論点」が始まったところで、「武士の家計簿」などの著書でも知られる歴史学者の磯田道史さんが「時代が求めたリーダー」というテーマで、肥後熊本藩六代藩主・細川重賢公の話をしているところだった。思わず小用も忘れて聞き入った。細川重賢公といえば、延享四年(1747)江戸城内での刃傷事件に巻き込まれて不慮の死を遂げた兄の宗孝公のピンチヒッターとして図らずも藩主となったが、危機に瀕していた藩の財政を立て直した財政改革の他、行政改革、教育改革、司法改革など、いずれも後の世の手本となる「宝暦の改革」を行なった名君として名高い。たしかに今の日本こそこんなリーダーが求められているのだろう。
 さて、そんな朝があり、昼から歩いて交通センターへ出かけた。その途中、行幸坂のところで中学生と思しき一団が、中年男性のボランティアガイドに引率されて坂を登って来た。これから天守閣に登るのだろう。すれ違う時、一人の男の子がガイドに質問した。「あの旗のマークは何を意味しているのですか?」と、坂に沿って立てられているのぼり旗に染め抜かれた細川九曜紋を指して言った。ガイドは「あれは太陽を中心にまわりを惑星が・・・」。通り過ぎたので最後までは聞こえなかったが、そこで僕はハッと思い出した。細川重賢公が図らずも六代藩主となった刃傷事件もあの九曜紋が原因だったことを。しかも、事件の再発防止のため現在のデザインに変更したのも重賢公の時だった。朝のテレビとの妙な符合に不思議な気分になった。

綾瀬はるか「八重の桜」はいかに・・・ ~ 徳富記念園で思う ~

2012-09-20 18:47:07 | 熊本


 今日、大江の市立図書館へ行くついでに徳富記念園に寄ってみた。ここら辺はよく通るのだが、徳富記念園の中に入ったことはない。産業道路に沿ってビルが立ち並ぶ一角にひっそりとたたずむレトロな空間の中に入ると、初めてにもかかわらず、なぜか懐かしい思いがする。徳富蘇峰がこの地に開いた大江義塾を明治19年(1886)に閉じた後、義兄の河田精一が始めた河田経緯堂という絹織物工場で、僕の祖母が若い頃働いていたからかもしれない。
 徳富記念館の中の展示物をひととおり見て回ったが、中でも来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の文字が目についた。どういう関係なのだろうと目を凝らして読んでいくと、まず蘇峰の同志社時代の恩師が新島襄であり、父の徳富一敬、横井小楠、勝海舟と並んで蘇峰の四恩人の一人であること。そして弟の徳冨蘆花の小説「黒い眼と茶色の目」に書かれているように、蘆花が恋した相手が新島襄の妻八重の姪である山本久栄であったことなどだ。
 来年の大河ドラマの主人公は新島襄夫人である八重で、当代随一の人気女優・綾瀬はるかが演じるという。大河ドラマというと今年の「平清盛」は相変わらず苦戦が続いているようだが、「八重の桜」ははたして近年では最も高い視聴率を誇った2008年の「篤姫」を超えられるだろうか。ファンとしては気になるところだ。

▼徳富蘆花 「黒い眼と茶色の目」より
 この小説の主人公は蘆花自身で「黒い眼」は新島襄、「茶色の目」は恋人山本久栄を表している。

――今年、数え年の十七になった寿代(久栄)さんは、木屋町時代よりも身長もずっと伸び、一体に肉づいて、小さな渦の入る顎、肩のあたり、ぽちゃぽちゃした手の甲まで軟らかなる円みを帯びて来た。その茶色の眼は睫の下にうっとりと眠るかと思えば、とろとろと人を溶かす媚を含み、またたちまち睫を蹴って、いなづまのように光った。淡褐色の頬に時々薔薇のような紅潮が上った。――
※写真は山本久栄



綾瀬はるか

“八幡の国”と“出雲阿国”は同一人物か!?

2012-09-19 20:14:40 | 歴史
 慶長14年(1609)、加藤清正公に招かれて京から熊本へやって来た女歌舞伎の「八幡の国」については、以前にもこのブログで取り上げた。その後、いろんな文献を調べてみたが、この出来事が書かれている「續撰清正記」以外にはその名前を見出せない。「八幡の」という名前から見当をつけて京都・石清水八幡の「八幡の歴史を探究する会」にもおたずねしてみたが初耳だという。
 というわけで、大胆な仮説を立ててみた。それは
「“八幡の国”という人は“出雲阿国”と同一人物ではないのか!」ということだ。
 その根拠を述べる前にもう一度「續撰清正記」のこのくだりを読み直してみる。

――その頃八幡の国というややこを下し、熊本の鹽屋町三丁目の武者溜りにて、勧進能を致し、その能の後に歌舞伎をして、家来の諸侍は、銀子一枚宛出し、桟敷を打って見物し、地下町人は八木(米)を持ち来りて、鼠戸の口より入りて、芝居にてこれを見る。この国が、歌舞伎の始めなりければ、西国方の者は、聞き及びたることもなき頃なる故、貴賤上下の老若男女、鼠戸の前に市をなし、押合い押合い見物したり。――

■根拠1
 当時は歌舞伎踊りのカリスマ的存在「出雲阿国」を模倣した芸能者が大勢いたらしいが、清正公がそんな紛い物みたいな芸能者をはたして連れてくるだろうか。家来や領民にはやはり当代随一を見せたいと願ったはずである。
■根拠2
 この慶長14年という年は、慶長12年に「出雲阿国」が江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えたという空白期間に当り、「出雲阿国」を名乗れない何らかの事情があったのではないか。
■根拠3
 「多聞院日記」に基づく年齢推定が正しければ、この時「出雲阿国」は37歳くらいであり、まだ十分現役として踊れる年齢であること。
■根拠4
 「八幡の国」なる名前は熊本での仮の名前だから他に記録がないのではないか。また加藤清正公は「八幡信仰」が強かったと言われているから、清正公の発案で付けた名前ということも考えられる。
■根拠5
 上の「續撰清正記」の文中に「この国が、歌舞伎の始めなりければ、西国方の者は、聞き及びたることもなき・・・」という表現がある。これは今まで僕は「この女歌舞伎・八幡の国が西国で歌舞伎踊りを上演するのは初めてだから・・・」という意味に理解していたが、そうではなくて「この国という女歌舞伎が歌舞伎踊りを初めてやった人だから・・・」つまり「出雲阿国」であることを言っているのではないか。 

 今後、この仮説を検証すべく調査を続けたい。


阿国歌舞伎図の一部(京都国立博物館蔵)

納得いかないオスプレイの安全宣言!

2012-09-19 12:43:40 | 時事
 日本政府は今日、オスプレイの安全性が確認されたと宣言した。墜落事故が多発したものの、機体そのものに問題はないという。これって根本的におかしくないか!?
 オスプレイが無人機ならまだしも、人が操縦する、いわゆるマンマシン・システム。システムの一要素として人間の働き(判断や挙動)が極めて重要な要素である。つまりヒューマン・エラーへの対策が万全に施されなければ安全などとはとても言えないのである。このヒューマン・エラーへの対策は果たしてどう施されたのか。日本政府からの説明はない。
 一方で、このところ領有権問題で近隣諸国との緊張が高まっている。僕らの子どもの頃の「李承晩ライン」があった時代以来の緊張の高まりだと思うが、おそらく政府にはオスプレイの配備による抑止効果を多少なりとも期待しているのかもしれない。
 いずれにせよ、わが熊本もオスプレイの低空飛行訓練ルートに入っている。ヒューマン・エラー対策について詳細な説明を聞きたいものだ。

昭和初期 熊本で歌われていた童謡(2)

2012-09-18 20:54:47 | 熊本
 父と教員仲間だった I 先生が、熊本師範時代の昭和10年に調べられた「京町の歴史」には、当時の熊本の風俗がわかる事柄が書かれていてとても面白い。以前、一部をご紹介したが、その頃歌われていた子守唄や手まり唄は今では失われてしまった歌ばかりだ。残りの一部をご紹介したい。

♪ちょちょけ 饅頭食わしゅ~ 菜種の実食わしゅ~
 天にあがれば 命んなかぞ~
 権現山かる ちょちょけが来んけん 戻ろ~戻ろ~
 (注)ちょちょけ=蝶々

♪天道さん天道さん 甘酒一杯あげまっしゅ~
 カラスに持たせてあげまっしゅ~
 カラスが道々ひん飲うだ~
 カラスの頭のひ割るうごつ て~らんせ て~らんせ

♪熊本の花岡山から 練兵場眺むれば
 右向け右、あいにゃ左向く馬鹿もおる

 このユーモラスな三つの歌はいずれも題名もメロディも不明だが、おそらく子供を寝かしつける時にでも歌っていたのだろう。

嗚呼 映画館全盛のころ!

2012-09-17 20:05:51 | 映画
 僕が映画を初めて見た記憶があるのは幼稚園の頃だが、母が勤めていた幼稚園の父兄に映画館主の方がおられたお蔭で、足繁く映画館へ出入りし始めたのは小学校に入った昭和27年頃だった。その頃の映画館の様子は、映画解説でおなじみの熊大講師・辻昭二郎先生が熊日新聞の連載コラム「わたしを語る」の中で克明に述べられているのでその一節をご紹介したい。
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▼盛況だった熊本の映画館(一部省略)
 戦後すぐは映画館が焼け、日本映画の新作も少なく、洋画はGHQ(連合国軍総司令部)の命で制限されていた。にもかかわらず、熊本の映画業界の客数はすさまじかった。
 客席は冬は完全冷房、逆に夏は暖房の状態。座席はベンチのところも。十分に電気が来ない館もあり、自家発電の音がスクリーンから聞こえ、薄暗い画面から始まることもあった。
 切符売り場ではお札を両足の間に置いた箱に入れ、あふれると足で踏み入れていた。25円の入場料のうち15円は税金で、館の実入りは10円だったがそれでももうかっていた。
 正月には人が入りきれず、上映回数を増やすため早回しや中抜きをやっていたけしからん館もあると聞く。業界は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だった。
 フィルムの数が少ないので、都会では1本が3館ほどで掛け持ちされていた。自転車の荷台にフィルムの入った缶を3個ばかりチューブで固定して運んだ。
 今までのは封切り館の話で、それが終わると2番館、3番館が待っている。一部の人にとっては映画は芸術や文化ではなく金もうけの手段だった。
 ある劇場の看板描きは、米ギャング映画のスター、ジェームズ・キャグニーを「ギャグニー」と書いていた。注意すると「こうしないと強く見えない」と言われた。
 ピーク時には熊本市内で35館、県内では120館ぐらいの映画館があり、ほとんどが1館1スクリーンだった。客足は徐々に減り、映画館も姿を消す。今は郊外シネコン全盛で、市中心部にはDenkikan(電気館)が残るだけ。ここはキネマ旬報ベストテンに入る映画の半分ほどを毎年上映しているので、ファンもその心意気に応えてほしいところだ。
 それにしても、あの頃の少し青みがかった白黒の画面のなんと美しかったことか。風呂屋や八百屋で週替わりのポスターを眺め、胸躍らせながら劇場に通う。まさに映画は生活の一部だった。
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 ちなみに僕は基本的にメディアの映画解説を信用していない。感性は人それぞれ千差万別だと思うからだ。しかし、僕が全面的に信用していた解説者が二人いる。一人は高校の大先輩でもあるこの辻昭二郎先生と、もう一人は、かの双葉十三郎さん(故人)である。


左からジャック・レモン、ジェームズ・キャグニー、ヘンリー・フォンダ、ウィリアム・パウエル
映画「ミスタア・ロバーツ(1955)」より