徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ビートルズ60年

2024-05-17 23:12:23 | PC
 ザ・ビートルズが「ラブ・ミー・ドゥ」でメジャーデビューしたのは1962年10月のこと。しかし、日本では1964年2月に発売された「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」がビートルズの日本デビュー曲となった。この1964年がいわば日本のビートルズ元年といえる。僕は当時も今も特別なビートルズファンというわけではないが、彼らが世に出た頃が一番音楽を聴いていた時期なので、その時代の空気感みたいなものはよく憶えている。
 この1964年、僕は高校を卒業して上京した。この年は東京オリンピックの年で、大学の水泳部もシーズンインがいつもの年より早く、まだ卒業式前の2月に入ると早くも大学水泳部の寮に入った。慣れない寮生活で楽しみと言えば、高校時代からのラジオでヒットポップスを聴くことだった。なかでも熊本では聞けなかったFEN(Far East Network)を聴くことができるのは嬉しかった。FENというのは駐留米軍向けの英語放送で、朝から晩までアメリカのヒット曲を流していた。2月のある日、ミョーな曲を聴いた。それが「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」だった。最初は奇声を発しているとしか思えなかった。その前年は「ヘイポーラ」、「ワンボーイ」、「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」、「ブルー・ベルベット」など、甘ったるい曲が流行っていたので、かなり衝撃だったことは間違いない。その日以降、「I Want To Hold Your Hand」は毎日何回も聞かされることとなった。今でこそ「I Want To Hold Your Hand」もビートルズの名曲の一つに数えられているが、当時は音楽評論家と称する人の中にも酷評する人が結構いた。おまけにあのキテレツなヘアスタイルもあって「キワモノ」扱いする向きもあったほどだ。しかし、不思議なもので何度も聞かされていると段々耳にここちよくなってくる。最初は眉をひそめていた僕の先輩も、しまいには彼等の格好も含めて「可愛い…」と言い出す始末。いやはや、とんだ「ビートルズ元年」の想い出である。


清少納言と清原元輔そして檜垣媼

2024-05-16 18:32:15 | 歴史
 昨夜のNHK「歴史探偵」のテーマは「清少納言と枕草子」だった。大河ドラマ「光る君へ」を放送中なので番宣の意味もあったのだろう。「清少納言と枕草子」についてはこれまでも「100分de名著」などいろんな番組で取り上げられてきたので、あらためて内容については触れない。そこで、清少納言の父親、三十六歌仙の一人で肥後国司を務めた清原元輔との関係について気になっていることを記しておきたい。
 清少納言は生没年不詳とされているが最近では康保3年(966年)生まれとする説が有力のようだ。ということは、元輔が59歳頃に生まれたことになる。現代でも70歳前後で子を生す人はいるので不思議ではないが、平均寿命が50歳くらいだった平安時代に随分お元気だったのだなぁと思う。
 元輔が天延2年(974年)周防国司として赴任した時、清少納言はまだ8歳、当然帯同した。「枕草子」の中にもその船旅が書かれている。僕が防府に在勤中、何度も周防国衙跡を見に行ったが、清少納言のことは全然頭に浮かばなかった。それはさておき、昭和7年に出版された「熊本市史」には、元輔が寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後国司として赴任した時、清少納言も一緒にやって来た形跡がないか調べたような記述がある。残念ながらそれらしい史料は見出だせなかったようだ。この時、清少納言は20歳くらいになっており、既に結婚、出産などを経験していたので肥後へ来ることはなかっただろう。
 元輔が肥後国司在任中、伝説の女性歌人檜垣との交流が始まる。かつて清少納言を元輔と檜垣との間に生まれた子であるという俗説もあったらしいが、元輔が檜垣と出会ったのは肥後下向後のことであり、清少納言の年齢などつじつまが合わない。単なる俗説の類であろう。元輔は永祚2年(990年)に任地肥後にて83歳で亡くなるが、当時としては極めて長命であった。元輔は北岡神社(熊本市西区春日1丁目)境内飛地の「清原神社」に祀られている。小さな祠には元輔と親交のあった檜垣も祀られているという。この小さな祠の中を覗いてみると四体の座像が収められている。束帯姿が元輔だろうが、あとの三体のうち二体は明らかに女神。妻の周防命婦と檜垣媼なのだろうか。もう1体の小さな座像が大黒様のような態に見えるが、ひょっとしたら幼い頃の清少納言なのかもしれない。元輔の死後3年の正暦4年(993年)頃から、清少納言は一条天皇のきさき定子に出仕する。そしてその数年後から「枕草子」の執筆を始めたと考えられている。


清原神社


祠の中の四体の座像

60年の歳月を隔てて

2024-05-15 21:03:05 | スポーツ一般
 今日ネットニュースで嬉しい写真を見つけた。ドジャースの専属カメラマン、ジョン・スーフーさんが今日、自身のインスタグラムに公開した、大谷翔平選手と日本人初のメジャーリーガー、村上雅則さんのツーショット写真だ。
 60年前、それまで日本人にとっては遠い夢の世界だったメジャーリーグに先鞭をつけた村上さんと、今やメジャーリーグのトップスターとなった大谷選手。60年の歳月を隔てて二人が並び立つ姿を見て感慨もひとしおである。

Massey Murakami(村上雅則)
 メジャーリーグ初の日本人選手、村上雅則さんがSFジャイアンツのリリーバーとして活躍したのは1964年と1965年。当時の日本ではMLBのテレビ放送などはなく、毎朝、新聞のスポーツ欄で確かめ、たまに数日遅れの映像をテレビで見るのが楽しみだった。
 さらにその3年ほど前、僕が高校1年の夏、インターハイを前にした水球部の東京合宿で、合宿地となったのは川崎市木月にあった法政大学体育会の施設。ラグビー部の合宿所に寝泊まりしながら、野球場近くの学生食堂で毎日食事をしていた。その行き帰りで目にしたのは当時全盛期にあった法政二高野球部の練習風景。エースの柴田勲(後に巨人入団)を擁し、前年の夏とこの年の春に甲子園で連覇し、三連覇を目指していた。200名に近い部員がひしめいていたのは驚きだった。柴田さんの1級下に村上雅則さんがいたはずなのだが、誰がどこにいるのかわからない盛況ぶりで、その時はそんな選手たちの中から日本人初のメジャーリーガーが出るなどとは想像もしなかった。

伝説の起り

2024-05-14 22:12:20 | 歴史
 先月、NHK「歴史探偵」で平安時代の名僧・空海を取り上げていた。日本各地およそ3,000ヶ所に空海伝説が伝わるという。それは、「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれた下級僧たちが全国各地に赴き、勧進をし空海の教えを説いたからだという。それはいつの頃からか空海本人が訪れたという話に変わっていった。
 見ながら僕は「小野小町」のことを連想した。小野小町も全国いたるところに生誕地や墓などゆかりの地が存在する。柳田國男は著書「妹の力」の中で、「小野小町の遺跡が全国に(西は九州の熊本付近から、一方は奥州羽州にかけて)充満している事実に対しては、(中略)わたしはこれを小町の物語をもってあるく女性が、もとはおおよそ一つの中心から、発足したからではないかと想像している。(中略)小野小町の物語をしてあるく者を、直接にその小町が来たという風に伝えることは、今日ならばもちろんおかしいことであるが、これはその語り手が自身も上臈であり、しかも神憑きなどと同じ形式に、一人称を以って昔のことを述べたとしたならば、誤解でなくともそういう風に呼ぶことはあり得る。」と述べている。(※上臈:高級女官)
 しばらく行っていないが、熊本市の北部、植木町には小野小町が産湯を使ったという「小野泉水」があり、植木方面に行った時には憩いの場としてよく利用していた。
※上の写真は2014年京都葵祭において小野小町に扮した祇園舞妓(当時)のまめ藤さん


小野泉水

「そうじゃおまへんか節」の系譜

2024-05-13 20:43:19 | 音楽芸能
 ブログ友の「無題・休題-ハバネロ風味-」さんが地元である山形県酒田市の趣のある料亭街などを紹介されていました。その中に街中の路面にはめ込まれた「酒田甚句」のプレートが印象的で、同じ系統といわれるわが熊本の「おてもやん」のことを思い出しました。

 5年ほど前、熊日新聞の連載企画「肥後にわか~笑いの来た道~」に、東海風流プロジェクト(水野詩都子・﨑秀五郎)さんが「おてもやん」の音楽的系譜について寄稿されました。その要点は

――明治20年頃「きんらい節」という曲が流行りました。上方の噺家・初代芝楽が京都から江戸に移り、「きんらい節」を披露し花柳界から瞬く間に全国に届くほど大流行しました。蓄音機ができる10年前ですから、広範囲で流行したというのは凄い事だと思います。曲のおしまいに呪文のような囃子言葉があります。
「キンムクレッツノスクネッポ スッチャンマンマンカンマンカイノ オッペラポーノ キンライライ
 そおじゃ おまへんか アホらしいじゃ おまへんか」
 そして「きんらい節」は「そうじゃおまへんか節」とも言われました。
 この「そうじゃおまへんか節(きんらい節)」を源流とするといわれるのが
  酒田甚句(山形)、名古屋甚句(愛知)、日高川甚句(和歌山)、男なら(山口)、おてもやん(熊本)などの民謡です。
 これらの唄は、必ず「そうじゃおまへんか節」の旋律が入っています。
  「名古屋名物」では「おそぎゃあぜえも」。
  「おてもやん」では「花盛り花盛り」「それが因縁たい」。
  「男なら」では「オーシャリシャリ(仰る通り)」
  「酒田甚句」では「繁盛じゃおまへんか」「ハーテヤテヤ」
の部分です。――

 「そうじゃおまへんか節(きんらい節)」に源を発するこれらの唄の中でも、独特な発展を遂げた次の2曲をあらためて聴いてみました。
 なお、昨年1月放送された「民謡魂 ふるさとの唄」(NHK-G)ではこれらの唄について「二上り甚句」系の民謡として紹介されました。

熊本県民謡「おてもやん」

山形県民謡「酒田甚句」

「母の日」に想いだすこと

2024-05-12 20:41:22 | ファミリー
 今日は「母の日」。僕は「母の日」に必ず想いだすことがある。今年102歳となった母はもう炊事をすることはないが、まだ元気に炊事をしていた頃、時々作ってくれたのが「炊き込みご飯」だった。といっても、にんじんと揚げとゴマメを入れ、醤油で味付けしただけの質素な「炊き込みご飯」である。実はこれ、昭和15、6年頃、母が勤めていた島崎尋常高等小学校で、待労院(慈恵病院の前身)から登校していた孤児たちに給食として食べさせていた一品らしい。おかずはない。孤児たちはこれが大好きで喜んで食べていたそうだ。
 2006年だったか、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を立ち上げた時、メディアなどでは売名行為などと批判する声もあった。時の某首相など、この件を記者から尋ねられると、あからさまに不快な表情を隠さなかった。孤児の救済を戦前からやっていた慈恵病院にとっては、ごく自然な取り組みだったのである。新聞やテレビで取り上げられるたびに母は「昔からやってたのにね」と言った。そして、母は必ず当時の孤児たちと、この給食のことを思い出すらしかった。

シーボルトのかっぽれ

2024-05-11 21:16:44 | 音楽芸能
 この映像に付けられた音楽は、江戸後期、長崎のオランダ商館の医師として日本へやって来たシーボルトが採譜し、ドイツの作曲家ヨーゼフ・キュフナー によってピアノ曲に編曲された「日本の旋律」という楽曲である。全7曲のうち2曲目に収められているのが、俗にいう「シーボルトのかっぽれ」という曲で「Poco lento (かっぽれ)」という題名が付けられている。「Poco lento」とはイタリア語で「少しゆっくり」という意味だそうで、0:47から2:20までが「Poco lento (かっぽれ)」である。
 この映像を視聴すると、誰しも「かっぽれ」とは似ても似つかぬと思うだろう。


 いったいなぜこんな曲になったのだろうか。
 まず、シーボルトはいつ、どこで、どのような状況で「かっぽれ」に接したのだろうか。この時代、彼がいた長崎出島周辺に「かっぽれ」が伝来するのはまだずっと後の時代。となるとオランダ商館の一員として⽂政9年(1826)に江戸参府した時の道中か江戸滞在中に見聞きした可能性が高いが、シーボルト自身によって書かれた「江⼾参府紀⾏」にはこれについての記述はない。ちょうどこの文政年間、江戸市中で願人坊主たちによる「かっぽれ」が流行り始めた時期だったようだ。シーボルトは江戸市中を歩く機会があり、その時偶然、願人坊主たちの大道芸「かっぽれ」に遭遇したのではないかと思われる。

 「幕末明治見世物事典」(倉田喜弘編 2012年)によれば、「かっぽれ」の起りと流行について次のように記されている。
――早乙女の姿をまねる大坂の願人(最下層の僧侶)が「住吉踊」と称して市中を勧進する。それを見て、江戸の願人も文化年中(1804~18)、同じ格好で万灯傘を持ち出し、「住吉踊」の名のもとに「伊勢音頭」や「深川」などを唄い、また、茶番を演じながら、市中を流すようになった。江戸の住吉踊は天保の改革(1842)で一掃されたが、5年後の弘化4年(1847)には4組15人が復活している。彼らは願人ではなく号胸で「烏万度豊年踊」と唱える、今のところ風教に害はないので見守りたいと、隠密廻りは「住吉踊風聞書」に提出した。住吉踊はやがて「かっぽれ」と改称する。その時期は明らかではないが ――

 また、明治から昭和にかけて江戸文化の研究家として高名な三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)が著した「鳶魚随筆(大正14)」の中に「甘茶でカッポレ」という條がある。この中に、「住吉踊り」から「伊勢音頭」や「深川節(吉原通い)」などを取り込みながら「かっぽれ」へと変遷していく経緯などが書かれている。

 このように、シーボルトが見聞きした願人坊主たちの大道芸「かっぽれ」は、彼の耳にはどう聞こえたのだろうか。「かっぽれ」という囃子詞は聴き取れたかもしれないが、今日われわれが聞き覚えのある「かっぽれ」と彼が感受した曲の印象はだいぶ異なっていたかもしれない。加えて、編曲したキュフナー は「かっぽれ」を聞いたことがないわけで、自らの解釈で曲作りをしたのだろう。

 この曲には次のような意味不明の歌詞がローマ字で付記されている。これもシーボルトの耳コピーが断片的で不完全なものだったことを表していると思う。
 Anokomitasani jorekorekorewatosa(あのこみたさにほれこれわとさ)
 siwokakarinana(しおかかりなな)
 Boosunikapore(ぼおずにかっぽれ)

かっぽれ

伊勢音頭

深川節

中将湯と中将姫

2024-05-09 20:18:56 | 歴史
 ブログをフォローさせていただいている「りぼんの部屋」さんが、朝ドラ「虎に翼」に違和感を感じるという記事をアップされていた。りぼんさんは「昭和初期の家庭内で女性の生理について大っぴらに会話するなどあっただろうか」という主旨だった。実は僕も見ていて同じことを感じていたのでさっそくコメントを入れさせていただいた。同意を伝えると、りぼんさんからリプライがあり、その中に「ドラマでは、生理痛の時に、三陰交のツボ押しの話は出てくるが、「中将湯」の話が出て来ないのはなぜ…」という疑問を抱かれたようだ。「中将湯」というのは生理痛など女性特有の症状に幅広く用いられる生薬のこと。女性ならではの気付きだと思うが、たしかに「中将湯」は明治26年に発売されたとあり、昭和初期にはかなり普及していたはず。僕らが子どもの頃、あちこちで「中将湯」の看板を見かけたものだ。NHKだから固有の商品名は使いづらかったのかもしれないが、あの会話の流れの中に出て来ないのは、りぼんさんが言われるとおり不自然と言えば不自然だ。
 その「中将湯」は、奈良時代の当麻寺で中将姫(藤原郎女)がこの寺で学んだ薬草の知識から生まれたと伝えられている。中将姫と言えば、当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」を一夜で織ったという伝説がある人物。

 この中将姫をまつる熊本のお寺が金剛寺(熊本市中央区新屋敷)。別名「中将姫」として広く知られている。この金剛寺はもともとわが家にほど近い中坂の登り口にあった。熊本城の鬼門にあたり、かつては加藤神社の別当を務め、熊本民謡「ポンポコニャ」にも唄い込まれたほど栄えていた。明治維新の廃仏毀釈により衰退したが、現在は新屋敷で再興されている。
 この中坂は日頃、僕の散歩コースでもあるが、かつての金剛寺入口あたりに小さな石仏が鎮座している。この石仏、いつ誰がここに安置したのか誰も知らない。僕はこの石仏に手を合わせる度に、かつてこの地にまつられ、そして去らねばならなかった中将姫の身代わりではないかと思えるのである。


金剛寺
【金剛寺のご詠歌】
 極楽を 何処ときけば 金剛寺 中将姫のいます浄土ぞ

父が生きた時代

2024-05-08 20:35:26 | ファミリー
 来る5月19日はわが父の祥月命日である。今年は没後24年になり、コロナで23回忌を見送ったかわりに、今年25回忌を行なうことを菩提寺のご住職と相談して決めた。
 これまで父の祥月命日には父が書き残した備忘録の中から選んで記事を投稿してきたが、今回は戦前の3題をあらためて再掲することにした。

【1】昭和11年3月、天草上村で・・・(2011.5.19)
 今日は父の11回目の祥月命日。先日、母を連れて、かつて父が赴任していた上天草市の上小学校を訪問したが、その後、父の古いアルバムの中に、その当時の写真があるのを発見した。当時の上村尋常高等小学校の教職員の集合写真だった。昭和11年3月撮影と記されていた。ということは父が24歳、教員になってから既に5年ほど経った頃のようだが、真ん中で腕組みをしているところを見ると、結構生意気な若手教師だったのかもしれない。すぐそこに戦争の影が忍び寄っている頃だが、皆さん、その後どんな人生を送られたのだろうか。父の手記の中に、この写真について下記のようなメモが書かれていた。

――これは本校の裏庭です。当校には他に野釜(離島)、賤之女分校がありました。この写真にはそれらの職員(3名)も加わっています。本県では昭和8年教職員の標準服が制定されました。そしてそれは当時、学習院型とか海軍将校型とか言われたものです。これを一着持っていれば、常時はもちろん当時の三大節(四方拝・紀元節・天長節)の儀式もこれで済まされたので経済的ではありました。この写真に見るように、この頃までは男職員が多かったのですが、昭和14年頃から兵役に召集される者が多くなったために次第に男女の比率が逆転していきました。――



【2】父と天草(2021.5.19)
 今日は21回目の父の祥月命日。父は生前、自分史のようなものを書き残している。これまで何度もこのブログのネタにさせてもらったのだが、いろんなエピソードの中でも最も印象深い一つがこの話。
 戦前の昭和11年、天草・大矢野島の上村小学校に勤務していた頃、貧しい家の少女たちが、「からゆきさん」として中国や東南アジアなどに売られて行った悲しい思い出である。そんなこともあってか父は天草をことのほか愛した。まだ元気だった頃はよく家族で天草旅行に行ったものだ。
 命日に当たって今一度読み直してみた。



2012.4.7 熊本城本丸御殿中庭~桜の宴~ 少女舞踊団ザ・わらべ「愛の南十字星」
「からゆきさん」として異国に売られて行った天草の少女たちの悲しい運命を描いたラジオドラマ
「ぬれわらじ」(木村祐章 作)をモチーフとして、長唄三味線の今藤珠美さんが作曲した舞踊曲。

【3】親父の生きた時代(2009.5.19)
 今日は親父の祥月命日(しょうつきめいにち)。もう9年が過ぎた。午前中に母と家内と一緒に墓参りを済ませ、午後からは、亡くなってからは一度も見たことがなかった親父のアルバムを引っ張り出してみた。なにしろ生まれたのが明治44年(1911)なので、古写真のデータベースで見たような写真ばかりだ。親父はずっと教員をやっていたが、下の写真は島崎尋常高等小学校の訓導をやっていた昭和13年頃と思われる。野外教練でもやったのだろうか、橋の欄干に座って得意げなのが親父だが、まだ20代の後半なので生徒たちにちょっと危ないことでもやって見せていたのだろう。場所はさだかではないが、下を流れているのが井芹川と思われるので、今の横手町から城西小学校に向かう道にかかった橋の上だと思われる。日中戦争が既に始まっている頃なので、軍靴の音高い社会情勢の中で親父や生徒たちは何を考えながら、この写真に写ったのだろう。


来春の愉しみな公演

2024-05-06 19:02:25 | 音楽芸能
 先日「城彩苑」で行われた「春の熊本城坪井川園遊会」の「舞踊団花童&はつ喜」の公演を見に行き、終演後、舞踊団主宰の中村花誠先生にご挨拶した際、別れ際に先生が「来年はよろしく!」とおっしゃった。一瞬何のことかと思ったが、すぐに来春計画されている特別公演のことだなと気付いた。舞踊団結成25周年と先生の還暦を合わせて祝う公演の計画は何度か伺っていた。
 どんな公演になるのか楽しみだが、2018年・2019年に行われ、その後、新型コロナの影響もあって途絶えている八千代座での「山鹿をどり」をしのぐ公演になることを期待している。

2019.5.12 山鹿八千代座 第二回山鹿をどり
作詞・作曲:本條秀太郎
   作調:中村寿誠・中村花誠
  笛作調:藤舎元生
   振付:藤間珠寿恵
【立方】 :藤間誠申・はつ喜月若・花童きみか・花童じゅの・麻生朱里
【地方】
  三味線:本條秀太郎・本條秀五郎・本條秀慈郎・本條秀英二
    唄:杵屋六花登・松永鉄文那・松永鉄文智・杵屋弥栄葉
    笛:福原洋音
   小鼓:鬼塚美由紀・花童ゆうあ・花童すず・藤田敬悟・荒木隆幸・山部拓斗
   大鼓:森香代子・竹田奈津子・木村葵・福原千鶴
   太鼓:望月美嘉・花童ここね

今日の散歩 ~寺原・坪井・内坪井界隈~

2024-05-05 22:41:23 | 熊本
 今日は瀬戸坂を下り、眞光寺の前で右折し、かつて家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入った。家鴨丁を抜けると左折し坪井川に架かる庚申橋に向かう。流長院の裏手の民家の脇で初夏の花「スイカズラ(忍冬)」の花を見つけた。最近、スイカズラの花を見なくなったなぁと思っていたのでちょっと嬉しい発見だった。ジョン・フォードの「荒野の決闘」を思い出して花の香りを嗅いでみたが、あまり匂いはしなかった。
 「荒野の決闘とスイカズラ


スイカズラの花

 庚申橋を渡って右折し、坪井川に沿ってひとつ下流の空壷橋で県道を横切り、坪井1丁目公園でひと休みした。ついでに近くの小泉八雲・坪井西堀端旧居(熊本第二旧居)跡の記念碑を見に行った。今は邸の痕跡もなく道路を挟んだ向かいにあった八雲ゆかりの東岸寺跡地蔵堂も数年前に撤去された。公園近くの民家の庭に「マツリカ」の花が満開になっていた。わが家にも10年ほど前に友人からもらったマツリカがあるのだが、近年咲かなくなっていたが復活の兆しあり。


マツリカの花

 散歩の締めはやっぱり「夏目漱石内坪井旧居」。今日は建屋には入らず庭を見て回った。寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」の中に次のような一節がある。この内坪井の家の様子を書いたもので

――庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。――

 とある。今では建仁寺垣の替わりにサザンカの生垣が設えられ、生垣の向こうには熊本中央高校の校舎や民家が立ち並んでいる。


夏目漱石内坪井旧居の庭より屋敷を眺める

代継宮 ~曲水の宴~

2024-05-04 19:38:31 | 日本文化
 今日5月4日は代継宮(熊本市北区龍田)で毎年恒例の「曲水の宴」が行われ、会場を取り巻く観客は雅な平安絵巻を楽しんでいた。代継宮の「曲水の宴」は今年で12回目。色鮮やかな十二単など平安時代の衣装を身に纏った歌人たちが庭園内の「遣水(やりみず)」沿いに座り、酒杯が目の前を通過するまでに与えられた歌題の和歌を詠んだ。今回の歌題は「うぐいす」と「あやめ」。歌人に扮した熊本の民放テレビ各局から選ばれた女性アナウンサーらが思い思いの歌を詠んでいた。


歌人に扮した女性アナウンサーたち


巫女による祭祀舞「豊栄の舞」榊を手に舞う。


「天の浮橋」を渡ってそれぞれの歌詠みの席へ向かう歌人たち


まさに平安絵巻を思わせる「曲水の宴」

熊本城坪井川園遊会 ~花魁三分二朱~

2024-05-03 21:31:21 | イベント
 現在、熊本城の観光施設「城彩苑」では「春の熊本城坪井川園遊会」が連日開かれており、今日は「舞踊団花童&はつ喜」6名の出演。「元禄花見踊」など4曲を披露したが、花魁、振袖新造、禿の衣装で踊り、雰囲気を盛り上げた。
 公演が終わった後、舞踊団主宰の中村花誠先生にご挨拶したが、「今日は春の園遊会なので花魁づくしでやりました」とおっしゃっていた。以前は春の園遊会でも花魁道中が行われていたが、近年は秋の園遊会だけになった。
 今日の演目の中から「花魁三分二朱(おいらんさんぶにしゅ)」をアップしてみた。
 この曲はお馴染みの江戸端唄「奴さん」である。端唄「奴さん」には多くの替え歌があり、この「花魁三分二朱」はいわば「奴さん」の花魁バージョンといったところ。「花魁三分二朱」とは花魁の揚げ代が三分二朱かかるという意味だが、今日の金額に換算するといったいいくらになるのだろう。1両は4分、1分は4朱だから、江戸時代初期のように1両が今日の10万円くらいの価値があるとすれば、三分二朱は約87,500円になるが、江戸後期には半分くらいの価値に下がったというから4~5万円というところだろう。


城彩苑の賑わい

2024-05-02 20:43:08 | 熊本
 今日は少し距離を伸ばして熊本市民会館辺りまで歩いた。帰りは熊本城の観光施設「城彩苑」 を通り抜けて二の丸広場へ上って帰った。城彩苑は大型連休中とあって大勢の観光客で賑わっている。そして聞こえてくる会話は中国語がほとんどだった。
 帰ってから夕方のRKKテレビのニュース情報番組「夕方Live ゲツキン!」を見ていると、さっき通ったばかりの城彩苑の話題が取り上げられていた。
 それによると、城彩苑の来場客数が過去最多になったという。昨年3月から1年間の売り上げが、前年比では155%、コロナ前の2019年よりも140%だという。来場者数は前年から68万人ほど増え、過去最多の226万2000人、店舗の販売高は去年の1.5倍以上と過去最高を記録したそうだ。好調の要因は、台湾からの観光客の増加だそうで、TSMCの進出効果もあるのだろう。海外からの団体客の4分の3ほどは台湾からで、タイなど東南アジアからの観光客も増えているという。また円安の影響で客単価が増えたそうだ。こうした状況のなかで懸念されるのがやはり「オーバーツーリズム」。食事の予約が取れないという状況も出ているようで、これからさらに観光客が増えることを想定した対策が求められるという。


今日聴きたいと思った音楽

2024-05-01 22:45:56 | 音楽芸能
あなたの思い出(Memories of You)
 今年に入ってから、送られてくるブリヂストンのOB会報に知人の訃報が多くなった。かつての上司や同僚など、お一人お一人の在りし日のお姿を思い出し、その人と接した場面の思い出に浸っている。




肥薩おれんじ鉄道
銚子大漁節
 先日、熊本県と鹿児島県の間で運行している第三セクターの「肥薩おれんじ鉄道」と千葉県の「銚子電鉄」との間で事業連携の協定を結んだというニュースが流れた。一瞬「?」と首をかしげたが、きっと何かメリットがあるのだろう。いや是非メリットを生み出してほしい。