徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ファジィ理論と尺八

2014-11-30 19:53:08 | 音楽芸能
 今日は小中高の同級生だった山川烈君が尺八の演奏会に出演するというので見に出かけた。山川君とは家も近所だったので小学校の頃は互いの家を行き来していた思い出がある。風の便りに尺八をやっているらしいとは聞いていたが、今住んでいる福岡から熊本へ演奏会に来るほどの腕前とは知らなかった。くまもと森都心プラザホールで行われた演奏会は、彼が所属する琴古流尺八の宗家創立120周年記念演奏会だった。熊本ゆかりの三弦の名手、川瀬里子の生誕140周年記念も兼ねていた。山川君の出番は5回ほどあったが、中でも「残月」という曲では、三人の三弦奏者とともに一人で尺八を吹いた。なかなか堂々とした演奏ぶりで感心した。
 幼なじみのよしみで、山川君と気安く呼んでいるが、実は彼は世界的にも名を知られた「ファジィ理論」の大家である。数理科学の博士が、アナログそのものの尺八を吹く。このギャップが実に面白い。しかし、よく考えてみれば「ファジィ理論」というのは「あいまい」に見える人間の言葉や動きや考え方を数値化していく理論。いつか尺八の名手の演奏も数値化されて機械的に再現できるような時代がやって来るのだろうか。


一休さんとおしんさん、そして能「江口」

2014-11-29 14:35:20 | 歴史
 とんち話でおなじみ、一休さんのモデルといわれる室町時代の名高い高僧、一休宗純禅師について、最近のライブドアニュースに書かれていたのが目についた。「喜寿にしてフォーリン・ラブ!」「晩年は酔っ払いのエロジジイ・・・」などと散々な言われようだ。一休禅師が77歳のときに40以上も歳の離れた森女(しんにょ)という瞽女(ごぜ)を側女としていたと伝えられるが、これは実は、一休禅師は森女がまだ少女だった時代に出逢っていて、森女はずっと一休禅師を慕っていた、後年、応仁の乱の戦火を逃れてたずねて来た森女を一休禅師はそばに置いたという前段の話があるそうだ。
 「持戒は驢と為る、破戒は人」つまり「戒律を守るとロバになる、戒律を守らないのが人間だ」などと言って、自他ともに破戒僧であることを認めていたようで、悟りとは無縁のお坊さんだったのである。多くの詩集を残しているが、室町時代の能役者であり能作者でもある金春禅竹(こんぱるぜんちく、世阿弥の娘婿)と親交があったといわれ、今日では世阿弥の作とされている「江口」は、一休禅師の作ではないかという説もあるそうだ。
※絵は右が一休和尚像、左は森田曠平作「森上郎(森女)」

▼江口
 旅の僧が摂津の国、江口の里を訪れると、一人の若い里女が現れる。女は、その昔西行法師が遊女江口の君に一夜の宿を求めたが、それを断った話をし、自分はその遊女の霊だと言って消える。僧が遊女の菩提を弔おうとしていると、川面に遊女達が舟遊びをする光景が見えてくる。遊女達はその身の上と世の無常を語る。いつか江口の君は普賢菩薩に変わり、舟は白象となって白雲に乗り西の空に上ってゆく。
 この夢幻能は、いかにも一休禅師が作ったといってもおかしくない物語である。

能「江口」(能楽図帖より)

師弟共演!

2014-11-28 13:34:12 | 音楽芸能
 昨夜、熊本ホテルキャッスルで行われた「開懐世利六菓匠 サントリー地域文化賞受賞記念パーティー」の祝舞で、中村花誠先生と舞踊団花童の師弟共演が実現した。
 川尻は中村先生の活動の原点であり、町興しに積極的に参画してきた経緯もあって思い入れも深い。ともに歩んできた開懐世利六菓匠からのたっての願いとあって、先生自ら舞を披露することになり、花童との師弟共演が実現した。
 今回の演目は本條秀太郎さんの「俚奏楽 磯節月夜」。加勢川河口の港町として栄えた川尻を祝うにふさわしい舞となったようだ。

▼開懐世利六菓匠(かわせりろっかしょう)とは
 開懐世利六菓匠は、川尻町で、平成2年に、「天明堂」「菓舗いしはら」「立山菓舗」「菓舗梅園」「菓舗かずさや」「岩本菓舗」の6軒の和菓子店が、新しい銘菓を作ろうと集まったのがはじまりで、和菓子と町おこしを結びつけた活動を行っています。毎年2月に、川尻町のくまもと工芸会館で開かれる「お菓子とのふれあい工房」では、工芸菓子・盆景菓子の展示、和菓子の制作実演やお茶席などがあり、大勢の人で賑わいます。開懐世利とは、川尻の名が中国の古い文献に「開懐世利」と表記してあることからつけられた名前です。
(かわしりTVサイトより)










成道寺の紅葉

2014-11-27 13:58:37 | 熊本
 成道寺川の汚染状況を確認するため訪れてから3週間ぶりに成道寺を訪問。奥様の話では、紅葉のピークは3日ほど過ぎたようだ。それでもまだ十分見る価値はある美しい彩りが広がっていた。僕の子供の頃は、成道寺といえばもっぱら手近な夏の避暑地としてピクニックに来ていたものだが、その当時の手入れの行き届いた庭園の美しさは残念ながら失われた。創建以来600年に近い歴史を有するこの古刹は、菊池氏、加藤氏、細川氏に保護され、殊に細川氏の時代は重臣沢村家の菩提寺となって栄えた。園内に流れ込む湧水は、清流成道寺川の源流でもある。








「いやさか音頭」 と ニシン漁の夢

2014-11-26 19:32:49 | 音楽芸能
 「いやさか音頭」というのは北海道におけるニシン漁が盛んだった時代、鰊場(にしんば)で唄われた作業唄の一つで、「ソーラン節」もその中の一つ。
 北海道区水産研究所が刊行していた「魚と卵」の1968年12月号に、近藤賢蔵氏が著した「魚と夢物語」という文献がある。近藤氏は余市町の鰊場生れで、幼い頃からずっと見続け、そして消え去ろうとしているニシン漁への夢を語っているが、その中で鰊場の作業唄について語った部分を紹介したい。

 ソーラン節はもともとニシンの枠船から汲み船へニシンを移す時、大きな「タモ」で汲み上げるのであるが、一人や二人ではどうにもならないので四・五人が1グループとなって作業やるのであるが、その時一つのリズムをつけ力を出し合って能率をあげる時の作業唄である。グループの中の美声のものが音頭をとって即興的に文句を作り唄うので節があってないようなものである。
 今日北海道の代表的歌のような節では作業にはならず、いわゆるお座敷ソングで段々と変形俗化してしまった。また「子たたき音頭」と称されるものは、網につけられた数の子を落す時、1メートル位の根曲り竹を持って網を張り、たたいて落す時に歌ったもので、もとは東北地方の盆踊唄である。当時の漁夫は主として青森、秋田県の人が多かったので、遠く故郷をしのんで歌ったものである。一名「イヤサカ音頭」と云っているが歌の文句の中に「イヤサカサッサ」なるはやし言葉があるのでその名がつけられたものと思う。戦後、観光宣伝のために音頭なる名称をつけているが、はじめからあったものでない。このほかに「キヤリ」「舟コギ」もあるが、みな漁場の作業歌である 。




梅林天満宮秋季大祭

2014-11-25 19:42:51 | イベント
 今日、玉名市津留の梅林天満宮で、秋の恵みに感謝する例大祭があり、400年以上続く伝統の流鏑馬が奉納された。梅林天満宮は全国1万2千社ある太宰府天満宮の分社の中で最古。流鏑馬は熊本県の重要無形民俗文化財。
 山部田神楽保存会や太宰府天満宮の巫女による神楽奉納も行なわれた。


梅林天満宮


山部田神楽保存会の神楽


太宰府天満宮から派遣された巫女舞


大宰府天満宮巫女さんの記念撮影


流鏑馬神事


騎射




水前寺成趣園 秋の風情を楽しむ

2014-11-23 19:09:30 | イベント
 秋晴れの下、彩りも鮮やかな水前寺成趣園では参道カフェが開かれ、舞踊団花童が華麗な舞で大勢の観光客をもてなした。海外からのお客様は花童の子たちの舞姿に興味津々。登場すると歓声を上げながら、さかんにシャッターを切っていた。



秋晴れの水前寺成趣園


古今伝授之間


出水神社


▼花童の舞踊












歌枕 「鼓ヶ滝」

2014-11-22 21:18:40 | 文芸
 歌枕(うたまくら)というのは、和歌の題材となった名所旧跡のことだが、熊本県(旧肥後國)には10ヶ所ほどあるうちの、鼓ヶ滝(つづみがたき:熊本市河内町)や風流島(たはれじま:宇土市住吉町)などが僕にとっては身近なところだ。
 先日も岩戸の里に行ったついでに鼓ヶ滝を覗いてきた。「肥後国誌」には、滝の音が鼓の音に似ていたのでこの名がついたと記される。平安時代の女流歌人、檜垣の「檜垣嫗集」には、檜垣が詠んだと伝えられる

    音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける

という歌が掲載されている。また、檜垣嫗とも親交があった三十六歌仙の一人で清少納言の父、そして肥後國司でもあった清原元輔(きよはらのもとすけ)がこの地を訪れた時、一人の法師がこの滝を見て詠んだとして「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」にも同じ歌が掲載されているが、真相はわからない。滝の南側には「歌詠場」があるという案内板が立っているが、どうやら整備されていないようで途中までしか入れなかった。


向かって右が男滝、左が女滝


滝の上流側からの景色

「日本現代舞踊」の看板を掲げて・・・

2014-11-21 14:27:56 | 音楽芸能
 昨年7月に始まった玄宅寺での舞踊団花童月例公演も、昨夜で17回目になるが、舞踊団花童にとってエポックメイキングな回となった。昨年9月の、新曲「水前寺成趣園」発表に続き2回目の地方による演奏、しかも今回は13曲オール生演奏という豪華さ。しかし、それよりも何よりも、総帥の中村花誠先生が、舞踊団花童の今後の進むべき方向を明言されたことは特筆すべきことだと思う。
 先生の話を要約すると、「舞踊団花童は『日本現代舞踊』を標榜して活動して行きたい。伝統的な『日本舞踊』の枠にとらわれない、新しい発想、自由な表現による舞踊を追究して行きたい。しかし、基本はあくまでも歌舞伎舞踊であり古典である。今後も必要に応じて古典もやって行くつもりであり、いつでも古典がやれるように花童の子たちは鍛えてある。もうやがてこの舞踊団から初めて、"くるみ"が舞踊家としてひとり立ちしようとしている。この時期に舞踊団花童のコンセプトを明確にするため『日本現代舞踊』という呼称を使うことにした。」というような内容の話だったと思う。
 僕は一人のファンとしてとてもすっきりしたような気がするし、今後の展開がますます楽しみになって来た。





女性能楽師

2014-11-20 21:49:20 | 音楽芸能
 先月11日に行われた「熊本城薪能」は、台風の影響で急遽、会場が二の丸広場から本丸御殿へ変更となり、いかにも間に合わせの設営となったのはやむを得ないことだったかもしれない。手狭な本丸御殿大広間での舞台は出演者の皆さんもやりにくかったろうが、見る側の僕たちも見づらく残念だった。この日のプログラム、メインの能「枕慈童」のシテ方は、喜多流初の女性能楽師である大島衣恵さんだった。僕にとって女性がシテ方を務める舞台を見るのは初めてだった。それだけに環境の整った舞台で観たかったという思いがどうしても残る。
 ところで、能楽界では現在、240名ほどの女性能楽師がいるという。かつては「女人禁制」だった能楽界で、女性が能楽師として認められ、能楽協会に入会できたのは、戦後の昭和23(1948)年のことだそうである。僕の愛読書「近江山河抄」など多くの随筆の著者であり、女性能楽師の先駆者でもある白洲正子は、50歳を過ぎて梅若流の能の免許皆伝を授かった直後、「女に能は表現出来ない」と、能から遠ざかったといわれる。
 能を大成させた観阿弥・世阿弥の時代から数えても600年もの間、男性だけで連綿と演じ続けられてきた能楽の舞台に、女性が堂々と上がれるようになったことは、考えてみれば凄いことだ。一方、400年前に、出雲阿国という女性芸能者のかぶき踊りが始まりといわれる歌舞伎は、その20数年後には女性が舞台からシャットアウトされ、いまだに女性は歌舞伎の舞台に上がることはできない。この能と歌舞伎という日本の代表的な伝統芸能における女性に対する考えの違いは何なのだろうか。


紅葉見物

2014-11-19 19:38:50 | ファミリー
 今日は絶好の紅葉見物日和。午前中、母を病院へ連れて行った後、昼飯もそこそこに、再び紅葉見物に連れ出した。あまり遠くへは行けないので、行き慣れた「岩戸の里」を目指す。途中、峠の茶屋の手前で自転車で登るおじさんを追い越す。雲厳禅寺に着いてお参りをした後、周辺を見て回っていると、なんとさっきの自転車おじさんが到着。会釈をすると、「ここから熊本市内に帰る近道を教えて」と。どこから来たのかとたずねると「水前寺の近く」だという。よくまあここまで自転車、それもママチャリで来たものだと母と驚く。上松尾経由の道を教えると、お参りを済ませた自転車おじさんが丁寧に挨拶し、再び自転車にまたがって去って行った。
 帰りに熊本城内の旧細川刑部邸を訪れる。僕自身は5日前に細川刑部邸は訪れたばかりだが、さすがにこの5日間で色づきが全然違っていた。庭園を見て回った後、邸宅に上がったが、母は邸宅に上がるのは初めてだそうだ。出発してから帰り着くまで3時間に満たないほどのツーリングだったが、結構面白いことがあるものだ。
※岩戸の里は後日掲載










「八丈のめならべ達」 と 「俚奏楽 島めぐり」

2014-11-18 20:20:03 | 音楽芸能

森田曠平 「八丈のめならべ達」


 民謡・端唄の大家、本條秀太郎さんが創始した「俚奏楽」の中でも、この「島めぐり」は伊豆諸島や小笠原諸島に残る民謡を集めて歌い込んだ異色の組曲である。神津節(神津島)、御蔵島節(御蔵島)、八丈ショメ節(八丈島)などの伊豆諸島の民謡に加え、「夜明け前」、「ギダイ」、「ウワドロ」などの小笠原諸島に伝わる民謡など印象的な旋律が続く。中でも要所要所を締めるのが「八丈ショメ節」。八丈島の代表的な民謡「八丈ショメ節」は、盆踊り歌、宴会歌として即興で歌われ、何百という歌詞があるという。多くの島ことばが使われていて、「めならべ」もその一つ。「女童」と書いて若い娘のことを指す。数多の歌詞の中には、次のようなものもある。

♪ 猫にゃかとうぶし めならべにゃまだら 竈にゃむすくび 家にわ嫁
 (猫には鰹節、娘には晴れ着、かまどには太い薪、家には嫁が大切だ。)


 江戸時代、流刑の島として知られた八丈島だが、その昔、八丈島は「女護が島」ともいって、美人ばかりが住む島だったという伝説もある。八丈島に流罪となった近藤富蔵が書き残した「八丈実記」には「めならべ」とは「美並」と書くという一節もあるほどだ。


遠い日々の懐かしい熊本・・・

2014-11-17 17:39:13 | 熊本
 上熊本駅から京町台を横断する県道は、明治29年4月13日、第五高等学校に赴任した夏目漱石が人力車で通った道である。坂を登り切った辺りの京陵中学校沿いには「京町本丁漱石記念緑道」という石碑が立てられている。またすぐ脇には「すみれ程の小さき人に生まれたし」という有名な漱石の俳句の句碑も立っている。
 昨日、京陵中学校での熊本市長選挙を終え、ここを歩いて通りかかると、80歳前後と思しき老婦人が、この石碑に熱心にカメラのシャッターを切っていた。背中にリュックサックを背負っていたので「観光客かな」と思いながら通り過ぎ、京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその老婦人が「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」と。僕は老婦人が壷川小学校まで歩くのは大変だなと思って、「バスで行かれたらどうですか。ここから二つ目ですよ」と言った。しかし、老婦人は「壷川小学校は幼い頃通っていたので歩いて行きたい」とおっしゃる。それじゃ途中までご一緒しましょうと歩き始めた。道々、熊本にいたのは戦前の6年間で、京町1丁目に住んでいて壷川小学校に通ったこと、その後、父親の転勤で熊本を離れたことなどを話された。そして、「たしか道の左側に刑務所があった」とおっしゃる。京町拘置所のことらしい。そこで新坂じゃなくて観音坂を通学していたらしいことがわかった。しかし、今さら観音坂へ回るのは大変だと思い、とにかく道なりに進んで、まず壷川小学校を目指すことを勧め、別れた。別れた後、彼女にとって懐かしい子供時代の思い出の熊本を訪れるのは、おそらくこれが最後の機会だろうと思うと、なぜ、遠回りになっても観音坂へ連れて行ってあげなかったのだろうと後悔にくれる一日だった。



▼観音坂(豊後街道)

菊 随想

2014-11-16 19:33:27 | イベント
 肥後六花の一つ、「肥後菊」の展示会が熊本城竹の丸などで始まった。「肥後菊」は、肥後熊本藩6代藩主・細川重賢公が宝暦年間、藩士の精神教育として奨励したのが始まりと伝えられる。
 見事に咲いた菊の花々を眺めながら、往時のもののふの心情に思いを馳せるのも一興か。









■菊の舞
 人吉市の国宝・青井阿蘇神社の「おくんち祭」は旧暦の9月9日すなわち「重陽の節句」のお祭り。「重陽の節句」は、別名「菊の節句」ともいわれ、お祓いには「白菊」が用いられるなど、菊祭りとも言える。
 この「菊の舞」は4年前、中村花誠さんが「おくんち祭」で行われる菊花展にちなみ、新曲「御守殿」と地元民謡「球磨川新調」、「球磨の六調子」などを組み合わせた創作舞踊。あでやかに咲き誇る菊の姿をよく表している。