徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

泰勝寺跡にて

2023-11-11 19:20:18 | 世相
 今日は所用で子飼へ出かけたが、帰りは車が混まない立田山の方へ回って帰ることにした。立田自然公園(泰勝寺跡)の前まで来るとやっぱり素通りは出来ず四つ御廟をお詣りして帰ることにした。
 いつものようにまず肥後細川家初代藤孝公と夫人の御廟をお詣りした後、忠興公と玉(ガラシャ)夫人の御廟をお詣りするのだが、ここまで来るといつも思い出すのが、忠興公が朝鮮出兵にあたって夫人に送った歌とガラシャ夫人の返歌のことである。
 忠興公の歌は
  「なびくなよ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
 これに対するガラシャ夫人の返歌が
  「なびくまじ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
 これは、忠興公が美貌のガラシャ夫人を籬で囲った女郎花にたとえ、自分の留守中にあらぬかた(太閤の暗喩)からの誘いがあってもけっして乗ってはいけないという戒めと、それに対して絶対にそんなことはしないというガラシャ夫人の決意を歌で交わしたもの。
 ガラシャ夫人は15歳で忠興公(同年齢)に嫁ぎ、37歳で亡くなるまでの22年の間には、父明智光秀が起こした本能寺の変で一時、離縁した時期もあったりして山あり谷ありの夫婦生活だったが、最後まで貞節を守り抜いた。


ガラシャ夫人の御廟とその右奥に忠興公の御廟

創作舞踊「細川ガラシャ」


 今日もう一つ気になったのが池が干上がっていたこと。昨年3月頃もあったのだが、この池は雨水池なので雨量が少ないと当然水位が落ちる。しかし、昨年まで干上がった池を見ることはなかった。環境変化が心配だ。
 干上がった池を眺めながらつい檜垣媼の歌が頭に浮かんだ。
  「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思ひ忘れむ」
 肥後国司を務めた清原元輔が任期を終えて帰京する時、檜垣が惜別の歌として詠んだとされる歌で「白川の水が涸れてしまっても、けっしてあなたを忘れることはありません」という檜垣の深い愛が込められている。
 泰勝寺の池はこのまま干上がってしまうとは思えないが、水位回復の雨が待たれる。


底の水ひて佇むサギ

檜垣媼の歌を織り込んだ「檜垣水汲みをどり」

肥後菊/肥後さざんか

2023-10-27 20:11:25 | 世相
 季節は晩秋から初冬へ。昨年3月から5月にかけて開催された「くまもと花博」にちなみ制作された舞踊団花童の創作舞踊「花七変化 肥後六花」の中から、秋の花「肥後菊」と初冬の花「肥後さざんか」のパートをあらためて視聴してみました。
 なお、「くまもと花博」の歓迎アトラクションとして披露された舞踊団花童の「花七変化 肥後六花」が公式記録に記載されています。

🌸肥後菊
 神無月
  凛と気高く
   匂う 菊の花
    つつましやかに
     命つとう
      あゝ肥後菊は

🌸肥後さざんか
 霜月に
  ほのかに香り 咲き乱る
   散り染めし 花びらの
    なお美しく
     あゝ肥後さざんか



▼肥後菊

【肥後菊の歴史】
 文政二年(1819)には、肥後菊栽培の花祖と呼ばれる藩士秀島七右衛門が、肥後菊栽培要綱を指示した「養菊指南車」を著しました。そこには、肥後菊の花壇作法が定められており、明治二十年、肥後愛好者によって「愛寿会」が結成された後も固持され、現在に至ります。
現在作られている肥後菊花壇作りは、秀島流に依ったものです。

▼肥後さざんか
(肥後銀行サイトより)
【肥後さざんかの歴史】
 肥後山茶花は、第八代藩主細川重賢公が 1756 年に、御薬草蕃滋園において薬種として栽培させたという記録があります。薬種、油脂としての栽培から、花の美しさに魅せられて、次第に観賞用となっていきました。数が少なくなりつつある純品種の肥後山茶花を保存する目的で、「肥後さざんか協会」が設立され、保存、改良、普及に努められています。
(熊本県ホームページより)

秋吉台と民謡「男なら」

2023-10-21 21:50:08 | 世相
 今夜の「ブラタモリ」は山口県のカルスト台地・秋吉台が舞台。約3億5千万年という長い年月をかけて、この地形が形成された過程とそこに住みついた人々の暮らしについて解き明かしていた。
 僕が秋吉台を初めて訪れたのは高校3年の時。この年1963年の国体夏季大会は山口県で行われ、僕が参加した水球競技は美祢市の大嶺高校プールが会場となった。秋吉台へは車で1時間もかからない所で、大会終了後にはバス観光で秋吉台と秋芳洞を見て回った。その10数年後、ブリヂストン防府工場に勤務していた間にも何度か訪れた思い出の地である。
 番組を見ながら当時を思い出して懐かしかった。



 高校時代最後の公式大会となった山口国体では、宿舎となった美祢市内の旅館に到着したその日、歓迎の夕べが開かれ、地元婦人会の方たちの唄と踊りにより民謡「男なら」が披露された。僕にとって山口県民謡といえば「男なら」である。


第28回くまもと全国邦楽コンクール

2023-07-02 21:56:27 | 世相
 今日は朝から熊本市民会館へ「第28回くまもと全国邦楽コンクール」を見に行く。このコンクールは2011年から見始めた。1年延期と1年無観客があったので見るのは今回が11回目になる。今回は5人の審査員席より前の席が立入り出来なくなっていたので演奏者を遠くからしか見られずちょっと残念。
 それはさておき、今回嬉しかったのは筝曲部門の中島裕康さんが最優秀賞に選ばれたこと。実は随分前から個人的な「推し」で、何度かこのブログでも紹介したことがある。そのうち6年前の記事がこれ。(第23回くまもと全国邦楽コンクール
 彼の受賞でなぜかホッとした。


最優秀賞に選ばれた筝曲部門の中島裕康さん

▼第28回くまもと全国邦楽コンクール結果

或る少女

2023-05-02 21:19:39 | 世相
 今日、散歩コースの一つ、往生院へ向かっていた。県道303号を渡ろうと横断歩道で信号待ちをしていると、一人の少女が近づいて来た。見た目は12,3歳くらいだろうか。髪は短めで眼鏡をかけているが冬のようなウィンドブレーカーを着ていた。なんとなく薄汚れた感じがした。
「おじちゃん、どこ行くの?」と声をかけてきた。
「そこのお寺だよ。キミはどこへ行くの?」と返した。
すると「わからない」と言う。そこで僕は発達障害の子かなと気付いた。
「家はどこなの?」と聞いても「わからない」と言う。
「どこから来たの?」と聞いても「わからない」
「誰か来るの?」と聞くと「何かあったらここに電話しなさいと言われた」と言って1枚のカードをポケットから出した。
見るとパトロールカードと書かれていて名前と電話番号が書かれていた。どうやらおまわりさんが渡したものらしい。前に保護されたことでもあるのだろうか。とにかく連絡してみようとスマホで電話してみた。やはり警察署だった。当の警察官はいなかったようだが、電話に出た女性の係員が女の子の特徴をしつこく聞くものだから「カードを渡した警察官に聞いてください」と言って電話を切ろうとしたところに、女の子を知っている人が通りかかった。なんでも割と近いところに住んでいる子らしい。「またね」と言って別れたあと、あまり良い家庭環境ではないように思え、この子がこれからどんな人生を歩んで行くのだろうと思うとせつない気持になった。


坪井川

昭和の日

2023-04-29 20:59:01 | 世相
 今日は「昭和の日」。昭和世代のわれわれにとっては「天皇誕生日」であった。かつては門口に日の丸を掲げていたものだがそんな風習もなくなった。まさに「昭和は遠くなりにけり」である。

 昭和2年(1927)に行われた昭和天皇のご即位の大礼に際して、古代から伝わる「八乙女の舞」に明治天皇の御製三首を使って新しい歌詞がつけられた。近代の創作神楽である。
 下の動画「扇の舞」はその中の、明治43年に「神祇」と題して詠まれた一首
  「わが国は 神の末なり 神まつる 昔の手ふり わするなよゆめ」
を歌詞としている。

2022.11.25 梅林天満宮例大祭 太宰府天満宮の巫女

初夏の香り

2023-04-21 18:00:42 | 世相
 わが家から新坂を歩いて下っていると、どこからか甘い香りが漂ってきた。えッ!これはたしかテイカカズラの花の香だなと思い、山側斜面の藪を見上げると間違いなくテイカカズラの花が咲き始めていた。毎年5月に入る頃から咲き始めていたと思うので今年は開花が早まったのだろう。近年、周辺のテイカカズラ繁茂の勢いが凄い。帰りがけによくよく見て行くと、漱石ゆかりの坂であることを示す案内板の近くにまでテイカカズラが迫っていた。いずれこの案内板にも絡みつくのかもしれない。




 午後、立田山湿性植物苑のカキツバタを見に行く。今年も本紫の花を咲かせていた。ちょうど1年前、くまもと花博の会場となった時、遊歩道の木柵などが整備されたらしい。もうしばらくすると肥後花菖蒲も咲くと思うのでまた訪れたい。山あいの窪地を薫風が吹き渡っていた。


文豪の道

2023-03-01 20:56:26 | 世相
 今日から3月。恒例の氏神様への朔日詣りで藤崎八旛宮へ徒歩で行った。実はこの道、僕は勝手に「文豪の道」と名付けている。道々、文豪ゆかりのスポットを通るのである。

まずは新坂下り口。明治29年、五高に赴任するため池田ステンショ(現上熊本駅)に降り立った夏目漱石が人力車でここにさしかかり、眼下に広がる熊本の市街地を初めて眺めた地点である。


漱石内坪井旧居パンフレットより


漱石内坪井旧居(熊本第五の旧居)


内坪井旧居で生まれた長女筆子と鏡子夫人(内坪井旧居パンフレットより)



壷井橋から広丁通りを真っすぐ進み、藤崎宮の表参道へ入る。楼門をくぐり拝殿で朔日のお詣りをすませる。



帰りは表参道の途中で右折、漱石北千段畑旧居(熊本第六旧居)の前を通る。



子飼商店街からの道(八雲通り)に出て3号線を渡ったところにある種田山頭火が得度した報恩禅寺に参る。


この後、八雲通り沿いに漱石合羽町旧居(熊本第二旧居)跡があったのだが、今ではその痕跡もなし。


八雲通りを進み最後は小泉八雲の坪井西堀端旧居(熊本第二旧居)跡で記念碑を見て帰る。

令和 やがてまる4年

2023-02-27 20:09:53 | 世相
 三日間、風邪で寝たり起きたりを繰り返したが、やっと今日床を上げた。かかりつけ医での検査ではコロナでもインフルエンザでもなかったが、考えてみればコロナは5回ワクチンを打っているし、インフルエンザワクチンも打っているのでそんなに簡単にかかってもらっても困る。すっかり体力が落ちているので今日は近所をゆっくり散歩した。徐々に距離を伸ばしながら体力を回復して行こう。

 ところで、もうやがて令和になってまる4年となる。この4年間、コロナが蔓延したり、ウクライナ戦争があったりとあまりいいことはなかった。「令和」の意味もすっかり忘れつつあるが

「初春(しよしゆん)の月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す」

という万葉集・梅の花三十二首の序文を典拠としている。

「初春のよき月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている」

というような意味らしいが、今までのところ「令和」にふさわしい4年ではなかったような気がする。もちろん元号はそうあってほしいという願いが込められたものだから、これからの令和時代が「令」であり「和」である時代になるよう願うばかりである。 


令和時代 3年

2022-05-01 20:49:31 | 世相
 今日で令和時代になってまる3年が過ぎた。
 3年前の今日はどんよりとした一日だった。初詣のつもりで藤崎八旛宮と加藤神社にお詣りに行った。多くの人々が参拝に訪れていた。3年経った今、その日のようにどんよりとした世の中が続いている。その年の暮れから始まった新型コロナウィルスの脅威はいまだに続いているし、今年の2月末に始まったロシアによるウクライナ侵攻はますます状況悪化の一途を辿っている。第三次世界大戦にもつながりかねない極めて危険な状況だ。いったい、こんな世の中がいつまで続くのだろうか。


2019年5月1日の加藤神社の風景


 縁起でもないが、スキータ・デイヴィスの「The End of the World」をふと思い出してしまった。


我慢の三連休

2020-11-21 20:03:16 | 世相
 今日から三連休。こちとらはあまり関係ないが。テレビでは盛んに「我慢の三連休」だと言っている。昨日から旧細川刑部邸の紅葉開放が始まったので午後から覗いてみた。入口で検温、手の消毒、連絡先記入を済ませ、邸内に入ってみると、好天に恵まれたにもかかわらず、たしかに例年より人出は少ない。昼前ごろには全国の感染者数が最多になりそうだというニュースも流れていたせいか、外出を躊躇する人も多いのだろう。刑部邸の紅葉はというと、邸前の大銀杏はほとんど落葉している一方、邸内の紅葉はまだまだといった様子。数年前には大銀杏と邸内の紅葉時期がほぼ同時だった記憶があるが、今年の気候が特異なのか、あるいは気候変動が進んでいるせいなのか気になるところだ。




アマビエ と 新作能「沖宮」

2020-05-11 19:43:26 | 世相
 NHK夕方のニュース番組「シブ5時」で「アマビエ」の話題を取り上げていた。アマビエとは江戸時代後期の肥後国の海中から現れた、疫病退散のご利益があるという伝説の妖怪のことだが、昨今のコロナ禍に際して急にクローズアップされている。アマビエを象ったお守りやいろんな商品が作られて販売されているようだ。先行き不透明な中、人々の心の支えになればいいと思う。
 このアマビエの絵を初めてみた時、僕が直感的に思い浮かべたのは「これは人身御供になった人の変異した姿ではないのか」ということだった。実際、江戸時代などには疫病退散を目的とした人身御供が行われていたことは、江戸時代後期の旅行家、菅江真澄の紀行文にも見えるし、埼玉県秩父地方にはそんな風習も残っていたと何かで読んだことがある。
 そう考えると、僕は昨年9月、熊日本社で行われた石牟礼道子さんの遺作である新作能「沖宮」上映会のことを思わずにはいられなかった。人柱となる少女あやが流されて行く後姿が目に浮かび、いたたまれない気持になった。

【新作能「沖宮」あらすじ】
 新作能「沖宮」は石牟礼の育った天草を舞台に、戦に散った天草四郎と生き残った幼い少女あや、そして、人々の死と再生の物語。
 干ばつに苦しむ村のために、雨の神である龍神への人柱として亡き天草四郎の乳兄妹であるあやが選ばれる。緋(ひ)の衣を纏ったあやは、舟に乗せられ一人沖へ流されていく。やがて稲光とともに雷鳴が轟き、あやは、天青の衣を纏い現れた天草四郎に導かれ妣(はは)なる國である“沖宮”への道行きが始まる。


雨乞いの人柱となる少女あや

桜花散るを惜まぬ人やある

2020-04-28 18:37:00 | 世相
 本妙寺へコロナウイルスの早期終息を願って二度目の参拝に。参拝者は数えるほどしかいない。浄池廟拝殿では僧侶たちによる御祈祷が行われていた。おそらく「コロナ退散」も祈っていたのだろう。
 午後からは先日録画した「古典芸能への招待」のうち「湯谷(熊野)」をじっくりと観た。終盤の「降るは涙か桜花 散るを惜まぬ人やある」のくだりで、そう言えば今年の桜はコロナ騒動で心穏やかには見られず、いつの間にか散ってしまったなぁという感慨が湧いてきて切ない気持になった。


浄池廟拝殿では僧侶たちの御祈祷の声が


いかにせん 都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん

じじいの「はぶてぐち」

2020-04-03 19:16:47 | 世相
 熊本弁に「はぶて口」という言葉がある。祖母がよく使っていた。悪口や憎まれ口のような意味だったと思う。何かにつけていちいちケチをつける人を「はぶて口ばかる言う」というような表現をしていた。熊本ではあまり聞かないが、中国・四国や九州の一部などで「はぶてる」という動詞を使うらしい。意味は同じで悪口や憎まれ口を言うことのようだ。相当広い地域で使われるということから推察すると、かなり古い言葉で、中世の頃から使われているようだ。
 それはさておき、ブログでは極力「はぶて口」は言わないように努めているが、昨今の新型コロナウイルスに対する政府の対応ぶりを見ていると「はぶて口」を言わずにはいられない。未曽有の感染拡大の前に政府は当事者能力を失っているのではないか。「…の見とおし」だとか「…を検討」とかはもう聞き飽きた。マスクの増産対策も一向に成果が見えないし、休業要請に対応する補償の問題は一刻を争うはず。休んでも給料を減らされることがない人たちだから切実感がないのだろうなぁ。


立田山の桜

さつまいものはなし。

2020-01-27 18:30:43 | 世相
 日本テレビ夕方のニュース・情報番組「news every.」で「品川やきいもテラス」の紹介をしていた。今年が4回目というこの「品川やきいもテラス」は全国から集結した人気やきいも屋さんが、100品目以上の様々なやきいもを出品するのだという。昨年のこのイベントにはなんと5万8000人の来場を記録したそうだ。中には1本1,000円もするやきいもがあったりして、さながらB級グルメだ。
 そんな番組を見ながら、僕は、父が天草の大矢野島(現在の上天草市)の上村小学校に赴任した昭和10年頃の様子を記した備忘録のことを思い出した。父が受け持ったクラスでは、40名ほどの生徒の4分の3が、弁当に「かんちょ(上天草の言葉でさつま芋のこと)」を持ってきていたと記されている。当時は家が貧しいために「口減らし」として子守奉公に出されたり、「からゆきさん」として売られていく少女たちもいた時代、「かんちょ」は貧しく哀しい当時の人々の生活の象徴だったのである。