徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本の風景今昔 ~ お殿様の御屋敷前から大天守を望む ~

2012-06-30 20:55:27 | 熊本

明治5年、御花畑前から大天守方向を撮った写真(明治天皇西国・九州巡幸に随行した内田九一撮影)


同じ場所(花畑公園前)から撮影した現在の風景。現在この一帯の再開発計画が進行中


 熊本城南側の山崎と呼ばれた城下町の一角に藩主の邸宅である「花畑邸」があった。現在の花畑町の大部分がその敷地で、その広さは約15,000坪あったといわれる。この屋敷は加藤清正公によって慶長12年(1607)頃に造り始められたもので、加藤氏改易後に熊本に入った細川忠利公は、入国後まもなく寛永13年(1636)には平常の住まいとする屋敷を城内から花畑邸に移したという。邸内には御殿や能舞台などの多くの建物があり、築山や白川から水を引いた泉水も掘られた大邸宅だった。また江戸時代は参勤交代の発着所になっていたわけで、大分県鶴崎剣八幡所蔵の細川氏大名行列絵図(下の動画参照)を見ながらこの写真を見ていると往時の御屋敷前のさざめきが聞こえてくるようだ。
のポイントが上の写真撮影ポイント
右の図は江戸時代から明治6年頃までの山崎町の絵図
番号順に
1:下馬橋(明治35年に撤去され新たに行幸橋が架けられた)
2:御花畑(明治4年に熊本鎮台が置かれた)
3:追廻田畑(馬の調練場に沿って田畑が広がっていた)
4:馬場(馬の調練場があった)
5:武家屋敷(明治時代には練兵場となった)
※2の御花畑の中の■の部分が現在の花畑公園。花畑邸の広さをうかがい知ることができる。


花を愛でる ~ 肥後六花撰に思う ~

2012-06-29 21:00:04 | 熊本
 熊本には「肥後六花」と呼ばれる花がある。肥後椿、肥後芍薬(しゃくやく)、肥後花菖蒲(はなしょうぶ)、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花(さざんか)の六つをいう。江戸時代もしくは明治時代からそれぞれ独自の歴史をもっており、「肥後六花」とひとくくりで呼ばれるようになったのは戦後のことである。中でも肥後菊は宝暦年間(1751-1763)に8代藩主細川重賢公が藩士の精神修養として奨励したと伝えられるように、日本人にとって花の育成は精神的な意味を持つ。花を「愛(め)でる」という言葉がある。あらためて国語辞書を引いてみると、「美しさを味わい感動する」「いつくしみ、愛する」「かわいがる」「感心する」「ほめる」などと書いてあるが、「愛でる」という言葉のニュアンスは、これらの意味がないまぜになっていると思う。この「愛でる」を和英辞書で引いてみると、「love、admire、appreciate、enjoy」などが出てくるが、正直どれも違和感がある。おそらく「花を愛でる」ということ自体が日本人独特の精神世界なのだろう。


肥後六花撰の一つ肥後花菖蒲


伊藤エミさん(ザ・ピーナッツ)

2012-06-28 13:08:27 | 音楽芸能
 僕の青春まっ盛りの1960年代、女性ポップス歌手の代表格として活躍し、また今日のガールズ・グループの走りともなったザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなった。テレビや映画はもちろん、生のステージも見たことがある。
 学生時代、僕は熊本に帰省して東京に戻る時はいつも特急みずほを利用した。東京駅に午前中に着くので、そのまま寮へ帰るのもつまらないし、だいたい映画を観たりして時間をつぶして帰るのが常だった。たしか1967年の正月だったか、当時あった日比谷の日劇でクレイジー・キャッツやザ・ピーナッツなどが出演するショーをやっていることを思い出して観に行った。その頃、正月の定番興行となっていた「初笑い クレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」だった。クレイジーの生のコントや可愛らしいザ・ピーナッツの歌の数々に時の経つのも忘れ、2ステージも観てしまい、寮に帰りついた時はとっくに日が暮れていた。あれから45年、でも71歳はちょっと早過ぎる。もう一度お二人のコーラスを生で聞きたかった。合掌。
※写真は左が姉のエミさん。右が妹のユミさん。


映画「裏切りのサーカス」

2012-06-27 21:45:51 | 映画
 久々に楽しみな映画がやってくる。イギリス映画の「裏切りのサーカス」だ。
 スパイ小説の巨人ジョン・ル・カレの「TINKER TAILOR SOLDIER SPY」が原作。若い頃はこの人の小説をよく読んだ。中でも僕が大学生の頃出版されてベストセラーとなった「寒い国から帰ってきたスパイ」が最高だ。すぐにリチャード・バートン主演で映画化もされた。この頃は東西冷戦のさなかだったこともあって、スパイ小説や映画が流行していた。その代表格がイアン・フレミングの007シリーズ。ショーン・コネリーがジェイムズ・ボンドを演じた映画のシリーズも次々とヒットした。その007シリーズとは対極のリアルなスパイものの代表格が「寒い国から・・・」だった。
 この「裏切りのサーカス」の原作は読んでいないが、やはり東西冷戦時代の70年代前半の話だという。しかも当時のスパイもののおきまり、二重スパイの話のようだ。さてあの頃の興奮が甦るだろうか。

“くまモン”人気の秘密

2012-06-26 23:10:17 | 熊本
 熊本県のPRマスコットキャラクター“くまモン”人気の勢いがとどまるところをしらない。昨年の「ゆるキャラグランプリ」で全国1位になったこともあって、今やその人気は全国区と言っていい。最近、熊本とは縁もゆかりもない人の口から「くまモン」の名前を聞くことが度々ある。そのロゴとキャラクターはロイヤリティー・フリーということもあって街には“くまモン”を表示した商品が溢れている。また、関西を中心として積極的に県外へもPRに出かけた地道な活動が功を奏した面もあるだろう。
 そうしたことに加え、僕はやはりネーミングとデザインの良さを見逃すわけにはいかない。“くまモン”の生みの親は天草出身の人気脚本家・小山薫堂さんだ。“くまモン”というネーミングは熊本弁が転じてなどと言われているが、僕はそれは後付けの話で、逆に“くまモン”という名前ありきで発想したのではないかと思う。つまり“ドラえもん”のようにシンプルで憶えやすく親しみやすいというわけだ。それにキャラクターデザインの色使いが素晴らしい。黒・白・赤の三色はシンプルながら非常に印象が強い。実はこの色使いは、僕がブリヂストンに在籍していた1984年、CI(コーポレート・アイデンティティ)の一つとして標準化されたロゴタイプと同じ色使いだ。見る人に強い印象を与える色使いだという研究もあると聞いている。このキャラクターをデザインしたのは「グッドデザインカンパニー」という既に多くの実績を持つ東京のデザイン会社だそうだから、そうした理論に基づいているのかもしれない。
 さて、“くまモン”の今後の展開が見ものだ。


少女舞踊団ザ・わらべとも度々共演しているくまモン


基本のキャラクターデザイン


参考:ブリヂストンのロゴタイプ

俚奏楽「島めぐり」

2012-06-25 16:10:22 | 音楽芸能
 民謡・端唄三味線の本條流家元・本條秀太郎さんが創始した「俚奏楽」は、消えてなくなりそうな古い民謡・俗謡を掘り起し、新しい解釈で甦らせ継承していこうというもの。全国各地の民謡を題材としているが、中でもこの「島めぐり」は伊豆諸島や小笠原諸島に残る民謡を集めて歌い込んだちょっと異色の組曲だ。
 神津節(神津島)、御蔵島節(御蔵島)、八丈ショメ節(八丈島)などの伊豆諸島の民謡に加え、「夜明け前」、「ギダイ」、「ウワドロ」などの小笠原諸島に伝わる民謡は明らかにミクロネシア系を思わせる旋律が印象的。

■立方:ザ・わらべ
■地方:本條秀美と秀美社中
中村花誠と花と誠の会


熊本の風景今昔 ~ 棒庵坂下から大小天守を望む ~

2012-06-24 19:10:40 | 熊本
 明治5年の明治天皇西国・九州巡幸に随行した写真師、内田九一が撮影した熊本城の写真の中に、棒庵坂(ぼうあんざか)下から大小天守を望んだ1枚がある。下の写真がそれであるが、今日まだ復元されていない櫨方三階櫓(はぜかたさんがいやぐら)や御裏五階櫓(おんうらごかいやぐら)などが写っており、往時の熊本城の偉容を偲ぶ1枚としてとても興味深い。現状と比較するため同じ撮影ポイントを探したが、今では家庭裁判所の敷地の中になるようだ。


真ん中の小天守とその後ろの大天守。左側に御裏五階櫓、右側に櫨方三階櫓が見える。
手前左は加藤清正に仕えた下津棒庵の屋敷があったところで、備蓄用の御蔵もあったと聞く。
手前右が棒庵坂の登り口。


現在の様子(1)木々が繁り、位置関係がよく見えない。


現在の様子(2)

夏目先生の家 ~ 寺田寅彦随筆集「夏目漱石先生の追憶」より ~

2012-06-23 21:05:58 | 文芸
 寺田寅彦が俳句の教えを請うために夏目漱石の家に通った想い出が書かれている。最初は藤崎宮の傍の井川渕の家で、しばらくして漱石は内坪井に引っ越している。寺田はだいぶ遠くなったように感じているようだが、実際にはそれほどの差はない。現在、夏目漱石記念館として残されている内坪井の家へのルートは今、「八雲通り」と呼ばれているルートとほぼ同じと思われる。小泉八雲の坪井旧居跡も近いところにあるが、この当時はまだ堀があってルートは限られるので五高へのルートは当然同じになるわけだ。このルートの途中には種田山頭火が出家した報恩禅寺もあり、この通りを通ったのは八雲、漱石、寺田寅彦、山頭火とまさに「文豪通り」と呼ぶにふさわしい。

栗の花 ~ 寺田寅彦「花物語」より ~

2012-06-22 17:14:28 | 文芸
 戦前の物理学者であり、随筆家、俳人としても才能を発揮した寺田寅彦の随筆集の中に「花物語」という作品がある。その中に「栗の花」という一節があるが、これは寺田が熊本の第五高等学校在学中に下宿した立田山の麓の吉住の家の想い出話である。この家は僕の父の生家にも近く、書かれた情景がリアルに思い浮かぶ。寺田の作品には師と仰いだ夏目漱石の熊本時代を書いたものも多くとても興味深い。
(注)黒髪山とは立田山の旧名


That's Entertainment!吹奏楽

2012-06-21 15:08:34 | 音楽芸能
 吹奏楽ファンとしてはEテレ日曜の「スクールライブショー」は要チェックの番組だ。先般、「吹奏楽バトル・炎の関東大会編」および「吹奏楽バトル・魂の関西大会編」が放送されたが、どこの学校も素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。全日本吹奏楽コンクールや全日本マーチングコンテストなどの緊張した雰囲気とはまた違い、生徒たちが伸び伸びと演技している。 特に関西編で優勝した京都橘高校は審査員のアルトサックス奏者・小林香織さんも「最高!かつてない高得点をつけた。演奏が上手で皆が曲を理解してキャラを作っている。金管楽器って、かっこいいんだと改めて感じた。足使いもすごいし、元気印のオレンジと黒を組み合わせた衣装もセンスがある。」と絶賛していたように1級のエンタテイメントになっていた。出演した各学校の中から吹奏楽の先輩である小林さんに続くビッグアーティストが出てくるかもしれない。


明治天皇と熊本

2012-06-20 20:23:16 | 熊本
 来月30日は明治時代が終わって、つまり明治天皇の崩御からちょうど100年となる。熊本には明治天皇ゆかりの地やそれにまつわる話がいろいろ残っている。明治天皇が熊本へ行幸されたのは明治5年(1872)と明治35年(1902)の2回だ。最初の明治5年は西国・九州巡幸の折、6月18日長崎から、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤艦」で熊本小島沖に到着された。遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するまで手間取り、上陸されたのは夜遅かったという。その際、随行した西郷隆盛は軍関係者の不手際に怒って、行在所で供されたスイカを投げ割ったというエピソードが残っている。行在所となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家(現存)だった。
 余談になるが、この時からさかのぼること約20年、嘉永6年(1853)に薩摩藩・篤姫のお輿入れに西郷さんが随行した時は、豊前街道・御馬下の角小屋での休息の折、篤姫が供されたスイカのあまりの美味しさについ食べ過ぎて侍女にたしなめられたというエピソードもあり、さすがは熊本、スイカの名産地である。
 さて、翌19日の行在所となったのが新町の会輔堂、旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。この8年前には長崎に向かう勝海舟や坂本龍馬も宿泊している。現在は一新幼稚園の敷地となっており行幸記念碑が建っている。
 2回目の行幸は明治35年、熊本で陸軍大演習が行われた時だ。まるで父のように慕っていた西郷さんは明治10年に逆賊として死んでいった。前回の熊本行幸のわずか5年後のことだ。2度目の熊本で明治天皇の胸に去来するものは何だったろうか。この2度目の行幸に際し、御料車が登れるようにと行幸坂(みゆきざか)と行幸橋(みゆきばし)が造られた。今、熊本には明治天皇の行幸を記念する「みゆき」という名前を冠するものがいくつかある。この行幸坂と行幸橋はもちろんそうだが、明治天皇が最初に上陸された小島には「御幸(みゆき」という地区があるし、熊本市の南区には頭に「御幸」を付けた町名が多い。すなはち御幸笛田町や御幸西無田町など。その由来については御幸小学校のホームページに次のような記載があった。

▼学校名「御幸」の由来
明治35年11月13日、陸軍大演習統覧のために熊本に行幸された明治天皇は、その帰り、西無田付近で沿道の奉迎者の中に婦人に背負われた老婆をご覧になって早速、清浦法相(熊本県出身で、後の内閣総理大臣)に命じて調べさせられたところ、同村、田中茂二太の母ヤヲ(88歳)と娘ジュミ(55歳)と分かった。天皇は、老婆の健康と娘の孝順をたたえるために、徳久恒徳知事を自宅に遣わして、お見舞いのことばとお菓子を賜った。このことに感激した地元部田村では、上村校長の提案で、御幸村と村名を改称することを村会で議決、当局に申請した。翌年3月に内務省は官報をもって正式に告示した。明治36年3月12日「御幸村」と改称するとともに明治36年1月1日本校名を「御幸小学校」と変更した。

 明治5年の「西国・九州巡幸」に随行した幕末・明治期の写真師・内田九一が撮影した当時の写真が残っている。


明治天皇が見た明治5年の熊本城(1)
数寄屋丸の方から大小天守を望む。平左衛門丸には錦山神社(加藤神社)が見える。

中村屋と肥後中村家そして出雲阿国

2012-06-19 19:58:09 | 音楽芸能
 中村勘三郎さんが食道がんの治療のため年内休養の見通しだという。生の舞台は一度しか観たことがないが、歌舞伎以外でも、まだ勘九郎ぼうやと呼ばれていた頃から数々のテレビドラマや映画でずっと楽しませてもらっている好きな俳優さんでもある。元気に復帰されることを心から祈っている。
 能楽の「金春流肥後中村家」のサイトによれば、江戸時代初期の江戸歌舞伎の始祖である初代・猿若(中村)勘三郎の一族と金春流肥後中村家がどうやら遠縁にあたるという。また、歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国と初代勘三郎との接点もあったようで、ますます能や歌舞伎に興味が湧いてきた。


京都四条河原で歌舞伎踊りを演じる出雲阿国(刀を担いでいる)。その左側が猿若(道化役者)。



阿国歌舞伎夢華より

僕の「近江山河抄」 -2-

2012-06-18 23:50:05 | その他
 サラリーマン時代、僕は約20年間で10市町村に移り住んだ。いわゆる“転勤族”と呼ばれるやつだ。だから一か所の滞在期間は平均すると2年ほどだった。各地それぞれいろんな想い出があるが、その中で滋賀県の彦根は、今になってみると惜しいことをしたという想いが一番強い。というのは琵琶湖の周辺は日本の文化の発祥地と言われるだけに、名所旧跡にはこと欠かないし、どこを眺めても風光明媚なところばかりだ。にもかかわらず、2年間の間にじっくり見たところがほとんどない。もちろん仕事でも県内各地を回ったし、何カ所かは家族と観光にも行った。しかし、滋賀を離れてみると、ここも見ていない、あそこも見落としたというところが山ほどある。
 僕が住んでいたのは彦根市内の高宮町という町だった。その昔、中山道の64番目の宿場町であり、「お多賀さん」として知られる多賀大社の門前町でもあった。町内にはそこかしこに往時を偲ばせる風情が残っていた。すぐ近くには芹川という清流が流れていて夏には小振りながら鮎が釣れた。冬の伊吹降ろしは凄まじく、べっちゃりとした重たい雪が横殴りに吹きつけた。仕事の面では今なお残る問題が僕を悩ませた。そんなこんなで決して良い想い出ばかりではないけれど、もう一度行ってみたい町の一つであることは間違いない。


僕の「近江山河抄」

2012-06-17 20:31:44 | 文芸
 滋賀県の彦根に在勤していた頃、県内の高校をリクルーティングして廻った。大津方面へ出かけた時、帰りのルートはいつも琵琶湖の湖岸道路を通った。中山道(国道8号)で近江八幡まで来ると、左折して湖岸道路へ回るのがおきまりのコースだった。長命寺川を渡る辺りまで来ると、車窓から見える素晴らしい景色が僕のお気に入りだった。白洲正子の「近江山河抄」の中に、「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。・・・」というくだりがある。その当時は「近江山河抄」は読んでいなかったので影響を受けたわけではなく、後年読んで「なるほど!」と納得した次第である。ただ、当時僕には一つ問題があった。それはいつも長命寺山の麓を通り過ぎる辺りで決まって、かすかな胸苦しさを覚えるのだ。湖岸道路の中でそんな気分になるのはそこの地点だけだった。僕は霊感とかには全く縁のない人間なのだが、何か歴史的な祟りでもあるのだろうかと地元の同僚にたずねたこともあるが、特に何の心当たりもないという返事だった。結局、原因はわからないまま僕はしばらくして滋賀から転勤した。今でも時々あれはなんだったのだろうと想い出すことがある。




湖岸道路から琵琶湖西岸を望む

御船手渡し場と熊本民謡「ポンポコニャ」

2012-06-16 21:20:58 | 音楽芸能
 昨日の熊日新聞に、江戸時代に築かれた石積みの護岸などが残る川尻の「御船手渡し場(おふなてわたしば)跡」を国史跡に追加指定するよう文科省に答申した、というニュースが載っていた。御船手渡し場は熊本藩の年貢米を川尻御蔵に搬入した場所で、既に外城蔵(とじょうくら)跡と船着場跡は国史跡に指定されている。
 ところで熊本民謡「ポンポコニャ」には熊本の名所がたくみに歌い込まれているが、現在一般的に知られているのは下記の1~4番までである。しかし、郷土史家・鈴木喬先生が「新熊本市史」に発表された論文によると、他にもいろんなバージョンがあり、実は川尻を歌った歌詞もあるという。いずれ川尻編も復活するかもしれない。

▼現在歌われているバージョン
♪ 花の熊本 長六橋から眺むれば オヤポンポコニャ
  下は白川 両芝居 少しさがればな オヤ 本山渡し船
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

♪ 花の熊本 涼みがてらに眺むれば オヤポンポコニャ
  清水湧き出る水前寺 少し下がればナ オヤ 江津湖の舟遊び
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

♪ 花の熊本 銀杏城から眺むれば オヤ ポンポコニャ
  下は清正公菩提所 少し下がればナ オヤ 横手の五郎さん
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

♪ 花の京町 中坂越ゆれば金剛寺 オヤポンポコニャ
  揚弓カッチリ 信濃の善光寺 少し下がればナ オヤ ほんまの二十四拝
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

▼川尻を歌った歌詞
♪ 花の川尻 御蔵の前から眺むれば オヤポンポコニャ
  下は加勢川 外城町 少し下がればナ オヤ 御船手渡舟
   オオーサポンポコ ポンポコニャ