徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

注目のBSドラマ2本

2019-05-31 22:07:45 | テレビ
▼大富豪同心
 今、注目の若手歌舞伎役者・中村隼人が初めて主演する時代劇シリーズ。われわれの世代にとって懐かしい東映時代劇の大スターだった中村錦之助の萬屋の家系であり期待は大きい。これまでTVではお殿様役などが多かったが、このドラマの主演でひと皮むけそうな気がする。そういえば、海老蔵や幸四郎や勘九郎や猿之助らもみんなTVドラマの経験をステップに歌舞伎役者として大きくなっていった。このドラマでも本條秀太郎さんが邦楽指導しているのも要注目だ。(BSPで現在放送中)

▼長閑の庭
 原作は漫画らしいが読んだことはない。今、大河ドラマ「いだてん」でも阿蘇出身の遊女を演じている橋本愛に注目。現在23歳の橋本愛の相手役がなんと、御年74歳という田中泯。本来、舞踊家だが、映画でも「たそがれ清兵衛」や「メゾン・ド・ヒミコ」などで強烈な印象を残した。橋本愛は5年ほど前、NHK総合の「ドラマ10」で放送された「ハードナッツ! ~数学girlの恋する事件簿~」以来のデキる系の女性を演じるのも見どころ。(6/2よりBSPで放送)

Mさんの訃報

2019-05-28 21:46:43 | 友人・知人
 会社のOB会報がだいぶ前に届いていたのに開封せず、届いていることすら忘れていた。昨日、ふと思い出し、開封して、まず訃報欄を見た。そこになんとMさんの名前が。彼とは同世代で、長い間、同じ人事労務部門で働いた。彼は体育系の大学を卒業後、社員研修の一環として導入された社内体育の指導者として採用され、会社が急成長して大量に入社してくる若い社員の教育研修に活躍した。病気とは最も縁遠いと思っていたが、70歳を過ぎてからの病には勝てなかったようだ。今夜はありし日の彼を偲び、お互いに若かった頃の思い出に浸って過ごしたいと思う。


Mさんの出身地・彦根市の市花「花しょうぶ」

石橋余話

2019-05-27 21:50:54 | 日本文化
 今日皇居では両陛下がトランプ大統領夫妻を招いて晩さん会が催された。招待者全員から順番に挨拶を受けられるのが「石橋(しゃっきょう)の間」。能「石橋」をモチーフに前田青邨が描いたシテおよび2枚の牡丹の障壁画が飾られていることからこの名が付けられたという。能「石橋」は中国の仏跡を巡る修業の旅を続ける寂昭法師が清涼山にある石橋付近に着くと、ひとりの童子が現れ、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であると告げる。この橋がかかる谷は数千丈、長さ三丈余、幅一尺足らずで容易に渡れない。つまり、仏道修行の困難を示唆しているという。後半の獅子の舞は、歌舞伎や舞踊に獅子の舞として取り入れられた。これらの獅子の芸能を総称して「石橋もの」という。
 先日、八千代座で行われた「山鹿をどり」は、「花童あかね改めはつ喜流月乃」さんのお披露目も兼ねていたが、彼女が踊ったのが「長唄 鏡獅子」。「石橋もの」の一つである。彼女にとっても厳しい修行の日々が続くことだろうが、ぜひ頑張って一流の舞踊家になってほしいと願っている。


はつ喜流月乃

いだてんの真実

2019-05-26 21:55:33 | スポーツ一般
 今朝の熊日新聞に、大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三さんの思い出や不思議な縁について、元三加和町長の池上緑良さんの話が掲載されていた。1960年の熊本国体の時に見た炬火台に点火する金栗さんの姿や、三加和町長時代に地元出身の金栗さんの顕彰に努めたこと、さらに箱根駅伝の創始者でもある金栗さんの名を冠した最優秀選手賞「金栗四三杯」の贈呈を始めた時の苦労話などが紹介されていた。そんな中でちょっと興味深かったのは、ドラマのコミカルな描き方に違和感を覚えたり、史実なのにまるで創作された話のように見える描き方などへの不満をもらしておられた点だ。推測だが、池部家に婿入りする前後のエピソードなども含まれるのかもしれない。いつか直接お聞きしてみたい。実は、池上さんは高校・大学時代、僕の一級先輩で、特に大学時代は同じ寮で3年間生活をともにした。

義兄の三回忌

2019-05-25 22:17:26 | ファミリー
 明日は一昨年に他界した義兄の三回忌。あっという間に2年が過ぎたが、今でもわが家にひょっこり顔を見せそうな気がする。思えば、ファミリーの行事ではいつも幹事役の存在だった。わが息子たちや孫たちをいつも暖かく見守ってくれる優しい人だった。晩年は闘病生活でさぞ辛かっただろう。僕が会社を辞めて事業を始めてからは、いろいろアドバイスもしてくれたが、時には意見がぶつかることもあった。今となってみれば、もう少しちゃんと意見を聴いてあげればよかったのにと反省しているところである。


1985年頃の夏の栃木温泉ファミリー旅行(右端が義兄)

フェイシャルエステ

2019-05-24 21:52:35 | 
 今日、毎月1回の歯医者に行ったら、歯のクリーニングがひと通り終わった後、なんと先生が「今からフェイシャルエステをやります」という。右上の奥歯が抜けて以来、左側の奥歯ばっかり使うので、顔の筋肉の使い方がアンバランスになり、ゆがんできている可能性があるという。今、歯医者ではこんなこともやるのかとビックリ。エステなんぞというもの、まだ一度も経験したことがない。どんな按配かとおそるおそる身をゆだねていると、これが何とも気持ちがいい。しばらく天井を眺めているうちに寝落ちした。家に帰ると顔のベタベタが気になり、すぐに洗顔した。


チェリーセイジ

「第25回くまもと全国邦楽コンクール」の見どころ

2019-05-23 20:35:47 | 音楽芸能
 来たる6月2日(日)熊本市民会館で行われる「第25回くまもと全国邦楽コンクール」の出場者の中で、僕が特に注目しているのは下記の3名。松下知代さんは昨年優秀賞を受賞したが、今年も最優秀賞を目指して出場する。毎年、一次審査をクリアして本選出場権を獲得すること自体が凄い。はたして今年こそ最優秀賞受賞なるか。中嶋ひかるさんも昨年に引き続き出場。昨年は奨励賞を受賞したが、再び最優秀賞を目指す。本條秀五郎さんは同じ本條秀太郎一門の本條秀慈郎さんが、平成27年の第21回コンクールで最優秀賞を受賞したこともあり、今回の演奏がとても楽しみだ。先日、八千代座で行われた「山鹿をどり」にも三味線方として出演。

松下知代(熊本県)筝曲の部(二十五絃箏独奏のための「トッカータ最終楽章」)


中嶋ひかる(東京都)筝曲の部(なばりの三ツ)


本條秀五郎(東京都)三味線の部(江戸端唄「綱は上意」)


漱石旧居と舒文堂とポンポコニャ

2019-05-22 18:05:46 | 熊本
 たまには古書店でも覗いてみるかと、上通りの舒文堂河島書店へ歩いて向かった。途中、夏目漱石内坪井旧居の前を通るので、庭に入ってみた。熊本地震で大きく損壊した邸はいまだ手着かずのまま。座敷に座って庭へ視線をやる漱石は少し怒っているようにも見えた。
 舒文堂は明治10年の創業で、漱石が熊本時代に愛用したゆかりの書店。店の入口に掲げられた看板の文字は、明治・大正・昭和三代の天皇の侍従を務めた落合東郭の揮毫によるもの。「舒文堂」の屋号とともに「東郭散人」の署名がある。また、落合東郭は漱石の熊本三番目の住居となった「大江村の家」(水前寺に移築保存されている)の家主でもある。
 舒文堂の店頭に平積みされた古書をながめていると、見慣れた「市史研究くまもと」の文字が。数年前、熊本市の歴史文書資料室で散々お世話になった文献だ。鈴木喬先生(2010年没)の書かれた論文「熊本民謡ポンポコニャーと熊本名所地名考」が掲載された1994年3月発行号もあった。せっかく来たので540円で購入した。もう一度じっくり読み直すことにしよう。


夏目漱石内坪井旧居。座敷から睨みを利かす漱石。
手前の井戸は長女筆子の産湯に使った水を汲みあげた井戸。「安々と海鼠の如き子を生めり」


舒文堂河島書店の看板


市史研究くまもと(熊本市発行)


熊本民謡ポンポコニャ

乙畠春そば畑

2019-05-21 19:45:31 | 熊本
 熊本市南区畠口町の乙畠地区は今、満開の白いそばの花が一面に広がっています。北に金峰山を望む約4㌶の田圃には、11年前から、乙畠営農組合が飼料米を作付けする前に春そばを栽培。白い花が咲く5月中旬頃の風景は壮観で、「ばえる」景観スポットとしても人気があります。乙畠地区は江戸時代から干拓が進められた地区で有明海に面しており、潮風が当たっておいしいそばができると評判です。


カバー写真 ~麦秋~

2019-05-20 23:02:16 | 熊本
 毎年、この時季になると、たわわに実った麦が一斉に頭を垂れている写真を撮りたいとねらっているのだが、実はこれ、5、6年前に撮った写真で、その後、この写真のような状態には出会わない。
 ここは遠くに小岱山を望む玉名平野の一角、玉名市下地区の麦畑である。年々、作付け計画も違うのだろう、こんなに広い範囲でこんな状態を見られるのはなかなか無いようなのである。向うには菊池川に沿って集落が続いているが、農業を営むわが妻の実家もここからほど近く、今、観光スポットとなっている金栗四三さんの旧居(池部家)もそう遠くない。戦後間もない、まだ自転車のある家が珍しかった頃、金栗さんが高瀬の街へ出かける際、妻の実家へ自転車を借りに来たらしい。長閑な田園風景の中を「自転車節」でも唄いながら漕いで行ったのだろうか。


三斎好みの茶室

2019-05-19 19:11:59 | 日本文化
 泰勝寺跡(細川家立田別邸)で細川護光作陶展を開催しているというので見に行った。その後、ついでに立田自然公園内の茶室「仰松軒(こうしょうけん)」を見ておこうと行ってみたら、なんと今日は生け花教室が行われていて、いつもは雨戸が締め切られている「仰松軒」の内部を見ることができた。内部を見たのは実に7年ぶりだ。日頃の手入れが行き届いているのか、7年前と何も変わらないように見えた。
 利休七哲の一人、細川三斎(忠興)が残した設計図をもとに大正12年(1923)に復元されたのが、茶室「仰松軒」。もと京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた三斎好みの茶室を復元したもの。躙り口(にじりぐち)はなく、上り口は入り込んだ土間の奥にあり、向かって右手の口を入ると客座になり、正面の口から入ると点前座になるという独特の造り。




大阪ミナミと谷汲観音

2019-05-18 21:52:01 | 歴史
 今夜のブラタモリの舞台は「大阪ミナミ」で、テーマは「なぜミナミは日本一のお笑いの街になった?」だった。
 江戸時代の古地図に「火屋」と記されている現在の千日前周辺。それは焼き場のことで、かつて広大な墓地があったところ。そんな郊外の土地に人を呼ぶための工夫が、船で道頓堀川から芝居茶屋に直接入り、そこから芝居小屋へ呼び込むという仕掛け。江戸時代、わずか400㍍の道に芝居小屋が6つも立ち並んでいたミナミの街は芝居町として発展した。さらに大衆受けを狙って様々な見世物興行が行われた。お化け屋敷、格闘技、水芸などのほか、歌舞伎と「にわか」をミックスさせた「喜劇」という新しいジャンルの笑い芸も誕生し、今日の万才などのお笑い芸へとつながっていく。
 そんな話を聞きながら、松本喜三郎の生き人形による「西国三十三所観音霊験記」の興業も千日前で行われたことがあることを思い出した。明治12年のことらしい。この興業で最も人気を博したという「谷汲観音」は現在、熊本市高平の浄国寺でいつでも拝観することができるが、今度行った時には、生き人形興業の歴史にも思いをいたし、さらに味わいが深くなることだろう。


浄国寺の谷汲観音像

「はばき」のはなし。

2019-05-17 19:24:28 | 日本文化
 今朝の熊日新聞に、熊本地震で被災した熊本城飯田丸五階櫓の石垣の復旧方法についての記事があった。内容を簡単に言うと、地震で緩んだ石垣をすべて解体・積み直しするというわけではなく、「ハバキ石垣」という別の石積みで外から押さえる方法も併用するということのようだ。「ハバキ石垣」は熊本城で何ヶ所か使われているが、下の写真のように櫨方三階櫓(現在の加藤神社)の土台となっている石垣もその一例だ。
 久しぶりに「はばき」という言葉を聞いたが、すぐに思い出したのは「脛布(はばき)」のこと。脚絆ともいうが、下の早乙女たちの下肢のように脛に巻きつけて紐で結んだ布のことだ。そういえば、もうやがて御田植祭の時季となった。 


右側の出っ張った部分が「ハバキ石垣」


熊本城稲荷神社の御田植祭の風景