徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「草枕 鏡が池」のモデル

2024-05-18 20:30:45 | 文芸
 昨日、子飼へ車の給油に行った帰り、泰勝寺跡の前を通ったのでちょっと立ち寄った。昨年、一時干上がった池の現状が気になっていたからだ。満水まではいかないが4分の3くらいまで水位が戻っていて安心した。
 2016~2017年に開催された夏目漱石記念年事業の一環として出版された「漱石の記憶」(熊日出版)の中に、中村青史先生(元熊大教授、2023年8月没)の「草枕 鏡が池のモデル」という小論が掲載されていて、漱石の「草枕」に登場する「鏡が池」は泰勝寺の池がモデルではないかと推論されている。
「草枕」の「鏡が池」のくだりでは、画工と那美さんのやりとりの後、「鏡が池」の描写がある。
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「あなたはどこへいらしったんです。和尚が聞いていましたぜ、また一人散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧りみてにこりと笑った。茫然たる事多時。

 鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股に岐かれて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁には熊笹が多い。ある所は、左右から生い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形で、ところどころに岩が自然のまま水際に横たわっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連ねている。
 池をめぐりては雑木が多い。何百本あるか勘定がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌え出でた下草さえある。壺菫(つぼすみれ)の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
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 中村先生曰く「吾輩は猫である」の舞台となっている立田山麓の、寺田寅彦の下宿先や泰勝寺や五高などの描写から、漱石が泰勝寺の池を見ていたことは間違いなく、「吾輩は猫である」の「鵜の沼」や「草枕」の「鏡が池」のイメージは泰勝寺の池がモデルになったのではないか。実際に泰勝寺の現地で「鏡が池」の描写を思い浮かべながら池の周囲を見て回って確信されたようだ。一般的に「鏡が池」のモデルは小天の庭池とされているが、そこがあまりにも小説のイメージと異なることに疑念を抱いておられたようだ。


水位を回復しつつある泰勝寺の池


満水だった頃の泰勝寺の池


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

鏡子夫人の証言

2024-04-21 22:06:24 | 文芸
 漱石夫人の夏目鏡子さんが口述し、娘婿の松岡譲さんが筆録した「漱石の思い出」を読んでいると、関係者しか知り得ない漱石作品の「behind the scenes」を見るようでなかなか興味深い。
 その中の一つ、「草枕」の一節、画工が「那古井の宿」の浴場に入っている時、湯煙の中に「那美さん」が手拭いを下げて湯壺へ降りてくる場面についての鏡子夫人の証言が面白い。
 小説の登場人物は画工と那美さんの二人だけだが、実際には漱石と同行した山川信次郎の二人が浴槽に入っているところへ裸で入って来た前田の姉さん(那美さんのモデル)がびっくりしてあわてて逃げ出したが、実は別の女中さんも裸になりかけていたというのが真相のようだ。また、漱石と山川信次郎は、名士を迎えるために造られたというこの前田家別邸で一番上等の「三番の部屋」に逗留したが、家の人たちはみな「三番のご夫婦さん」と呼んでいたそうで、二人の関係性がうかがわれる。


「三番の部屋」と呼ばれた漱石が逗留した部屋

 小説にはこう描かれている。


松岡映丘筆「草枕絵巻・湯煙の女」


浴槽

山路を登りながら、こう考えた。~草枕の世界~

2024-04-17 21:08:42 | 文芸
 「山路を登りながら、こう考えた。」
 これは漱石の「草枕」冒頭の有名な一節である。そしてこの山路というのは鎌研坂(かまとぎざか)のことといわれている。熊本市島崎の岳林寺辺りから金峰山に登る最初の険しい山道でもある。
 先月末日に行われた本妙寺桜灯籠を見に行った時、参道の一角で米屋を営む中学時代の親友の家を訪ねた。と言っても親友は11年前に既に他界している。僕がまだ「草枕」のことなど何も知らなかった中学時代、その親友と毎週のように登った山道だ。今日では自動車道が並行しているが、当時は「けもの道」のような山道が一本あるだけ。お互いに母親が作ってくれた弁当をリュックに詰め、一路金峰山を目指した。二人とも大の映画好き。道中は互いに知っている限りのまめ知識を披露し合うのである。当時は西部劇の全盛期で、話題は見た西部劇のストーリーや好きなスターの話ばかり。話に夢中で険しい鎌研坂もあっという間に峠の茶屋へ着いたものだ。2年ほど前、昔を思い出して鎌研坂を登ってみようと竹林に分け入ったのだが、あまりの過酷さに早々に断念した。
 漱石が小天温泉を目指してここを登った時は五高の同僚、山川信次郎が一緒だったようだが二人の間に会話はあったのだろうか。
※上の写真は「草枕の道」の起点となっている岳林寺
映像は鎌研坂で撮影したものです。

石仏と五高

2024-04-04 15:50:51 | 文芸
 今日は子飼のガソリンスタンドに給油に行ったが、県立劇場が熊本大学の入学式だそうで大渋滞。普段は通らない抜け道を使った。帰りも子飼橋から浄行寺にかけて渋滞していたので熊大の脇から立田山を越える道を選んだ。途中、小峰墓地に立ち寄った。
 ラフカディオ・ハーンが愛した石仏(鼻欠け地蔵)は相変わらず五高(現熊大黒髪キャンパス)を見下ろしていたが、今はもう木々が繁り、民家も立ち並んでいて彼の眼には五高は見えていないだろう。ハーンの「石仏」の中に、五高の教育についてふれた一節がある。近代的な五高の学舎を見下ろしながら「最新の科学は教えても、信仰のことなど誰も教えられないだろう」とでも言いたげな石仏のシニカルな微笑を感じ取り、ハーンは、おそらく漢文の秋月悌次郎先生以外は誰も答えられないだろうと思うのである。
 そんな一節を思い出しながら、石仏や熊本の偉人たちの墓に手を合わせた。

▼「石仏」より
 石仏と私はともに、学校を見下ろしている。そして、私が見つめると、仏様の微笑みは――たぶん光線の具合だろうが――私には表情を変えられたように思われたのだが――皮肉的な微笑みとなられた。にもかかわらず、かなりの強敵のいる要塞を熟視しておられる。そこには、三十三人の教師が四百名以上の学生たちを教えているが、信仰については教えない、たんに事実のみを教える――つまり、人間の経験の体系化の明確な結論についてだけ教えるのである。私がかりにブッダについて訊ねたとしても、三十三人の教師のうち、(ただ一人の親愛なる七十歳の漢文の先生を除けば)誰一人として答えられるものはいないだろう、と間違いなく確信できる。というのは、彼らは新しい世代の人間であり、そんな質問は「蓑の合羽を着た男たち」が考える事柄であって、明治二十六年の今日、教師たるもの、人間の経験の体系化の結論のみを考えていればよいと思っているからである。しかし、人間の経験の体系化とはいうが、科学は、決して「何時」、「何処へ」そして最も悪いことには――「何故か」について、私たちに教えてはくれない。


葉桜になりつつある桜の木の下に坐す石仏

高浜虚子と祇園の舞妓

2024-03-20 23:04:55 | 文芸
 高浜虚子の「漱石氏と私」には、明治40年の春、京都で夏目漱石と一緒に過ごした祇園の夜などが書かれている。この時、漱石は、第三高等学校の校長を務めていた狩野亨吉宅に逗留し、職業作家として初の作品「虞美人草」を執筆中だった。ちょうどこの頃、漱石を第五高等学校に招いた菅虎雄も狩野宅に逗留していた。狩野は漱石が五高へ招いた人でもあり、五高ゆかりの人物が揃っていたわけだ。虚子は漱石を誘って、都踊りを見に行ったり、祇園の茶屋「一力」で舞妓たちと雑魚寝の一夜を過したりしている。ここに登場する二人の舞妓、十三歳の千賀菊と玉喜久は虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」にも登場する。千賀菊はなぜか、三千歳という名で登場する。「風流懺法」には舞妓たちが「京の四季」や「相生獅子」などを踊る様子が描かれている。
 この三千歳という舞妓は数年後、一念という比叡山の小法師と出逢い、恋に落ちるのだが、ある客に身請けされてしまう。あきらめきれない一念は三千歳と落ち合い心中行を決行する。しかし、死に場所を求めて入った山中で出逢った炭焼き男の小屋に招かれ、男と一緒に暮らす女の暖かいもてなしに心中を断念するという後日譚がつく。


漱石の熊本観

2024-03-07 21:20:20 | 文芸


 散歩で新坂を下りながら遠く阿蘇山を望んでいると必ず思い出すのが、明治29年4月、第五高等学校に赴任するためここを人力車で通りかかった夏目漱石のこと。熊本市街を見おろしながら「森の都」と言ったと伝えられるが真相はさだかではない。もし漱石先生が、ビルが林立した今日の風景を眺めたらいったい何と表現されるだろうか。

 漱石は明治33年(1900)7月、英国留学のため4年3ヶ月を過ごした熊本を去るが、その8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を次のように語っている。
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 初めて熊本に行った時の所感、それならお話いたしましょう。私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。
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漱石来熊120年記念「お帰りなさい漱石祭」(2016.4.13)漱石が新坂から熊本市街を眺める場面を再現

加勢川と「五足の靴」

2023-12-24 21:40:40 | 文芸
 今日は久しぶりに県立図書館で文献探しをした。目的に沿う文献は見つからなかったので、図書館裏の加勢川沿いの道を散策した。水前寺から流れ出て来た水は相変わらず青く澄んで、ただ眺めているだけで時の経つのを忘れてしまう。
 川面を泳ぐマガモを見ているとふと「五足の靴」を思い出した。「五足の靴」というのは、明治40年7月から8月にかけて、歌人与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文「五足の靴」のことである。その中で「勢舞水楼(せんすいろう)」という料亭から屋形船に乗り、江津湖の涼を楽しむくだりがある。僕が川面を眺めていた場所がかつて「勢舞水楼」があった辺り。船上には二人の町芸者が呼ばれ、民謡「おてもやん」を披露する。そんな場面を空想しながらひと時を過ごし、あくまでも青く澄んだ流れを後にした。 


清流を泳ぐマガモたち


水草の上にたたずむサギ


これならわかる!「草枕」

2023-09-07 21:10:29 | 文芸
 夏目漱石の「草枕」は言葉が難しくて途中で断念したという方が案外多いようです。かくいう僕もその一人で、若い頃、父の蔵書で読み始めたものの途中であきらめていました。歳をとってからやっぱり地元が舞台の小説だからきちんと読み直そうと思って再び手に取ったもののなかなか先に進みません。そんな時、救世主があらわれました。それが、熊本市西区のホームページにある「これならわかる!夏目漱石の「草枕」」というコーナー。難解な言葉の読みや意味を解説し、参考事項まで説明されていて、楽しみながら「草枕」を通読することができました。そして小説の舞台となった「草枕の道」を歩いてみると一層漱石の小説世界を楽しむことができます。
 「草枕」をこれから読みたい方、途中で断念した方などにぜひお勧めしたいと思います。
※熊本市西区のホームページ
 これならわかる!夏目漱石の「草枕」


鳥越の峠の茶屋跡(現在は県道寄りに再建されている)


「おい」と声を掛けたが返事がない。という峠の茶屋の場面を思い出す。(再建された峠の茶屋)


鳥越の峠の茶屋を出て竹林の中を野出峠へ向かう。


杉林の中の石畳の道


茶屋に馬子の源さんがやって来て、茶屋の婆さんが5年前の那古井の嬢さまの嫁入りを思い出す場面。
(草枕絵巻より)

幻の「海達公子物語」

2023-08-21 22:52:52 | 文芸
 明後日は大正から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子の生誕107年に当たる日。わが母の高瀬高女の6年先輩になる。2017年に他界された規工川佑輔先生の「評伝 海達公子」に感動し、先生がたまたま僕が熊大附中を卒業する時、入れ替わりに赴任された先生だったこともあり、お願いして初めてお会いしたのは15年ほど前だった。以来、先生の玉名のご自宅を訪問したり、海達公子関連の行事にご一緒したりして先生の研究成果を聞くのが楽しみだった。そんなある日「評伝 海達公子」のテレビドラマ化に挑戦してみませんかと僕が持ちかけ、先生も過去に実際ラジオドラマ化の話があったそうで乗り気になられた。手始めに静止画を使ったショートムービーを試作し、松田真美さんのナマのナレーションで試写会をやったりした。そして脚本づくりに当っては玉名、荒尾そして徳島までロケハンに出かけ、いよいよ本格的な脚本づくりに取り掛かったのだが、頼りにしていた公子の高女時代の親友でもあった規工川先生の伯母さまが亡くなられ、そして規工川先生ご自身も帰らぬ人となられ、この計画は断念せざるを得なかった。
 下記は、未完成の脚本の一部で、児童文芸誌「赤い鳥」誌上で北原白秋の指導を受けていた公子が初めて白秋と対面する場面である。
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昭和三年七月 大牟田駅
駅舎の中に十人ほどの人が列車の到着を待っている。白い背広姿の与田(準一)と海達父娘が改札口のまん前に立っている。濛々と黒煙を吐き出しながら列車が入って来る。改札口にほど近いデッキから、男の子が小さな女の子の手を引いて降りてくる。北原白秋の長男隆太郎と長女篁子である。すぐ後ろから鞄を提げた白秋と妻菊子が続いて降りてくる。白秋はカンカン帽の下に涼しげな笑みを浮かべている。カメラのフラッシュが炊かれる。改札口に近付いた白秋が先乗りしていた書生の与田に気づく。白秋一家が改札口を出た時、与田がすっと近付き、白秋の鞄を受け取る。

与 田「お疲れ様でございました。奥様もお疲れになったでしょう!」
白 秋「おぅ、ご苦労!」
   与田は、横にいる海達父娘を紹介しようとする。すると新聞記者らしい男たちが三人、
   ずかずかと白秋の前に進む。
記 者「北原先生!お帰りなさいませ!今回のご滞在はいつまで・・・」
白 秋「どうもどうも、ちょっと待ってくれたまえ。」
   と軽く手を上げて記者を制した後、すぐに視線を海達父娘の方に向ける。
白 秋「やあ、やっと会えたね!」
松 一「お初にお目にかかります!いつもご指導を賜り感謝いたし・・・」
   白秋が言葉をさえぎるように
白 秋「堅苦しいことは・・・。」
   と言いながら、再び記者たちの方に視線を向け
白 秋「この子、私の弟子なんだよ!」
記 者「あゝ、そうでしたか。」
   白秋を中心とした集団がぞろぞろと駅舎の外に向かって歩き出す。
   駅舎の前には二台のセダンが待っている。


左から北原白秋、与田準一、海達公子

漱石俳句あれこれ

2023-08-17 18:20:02 | 文芸
 昨日も夕食後散歩へ。京陵中学校前の漱石記念緑道のベンチでひと休み。
 漱石句碑「すみれ程の小さき人に生れたし」を見るといつの間にかコスモスに覆われ、上半分しか読めない。もう季節は秋を感じる。
 この句と似たような自らを卑下するような句があったことを思い出し、家に帰ってから調べた。
それは
 「能もなき教師とならんあら涼し」という句だった。
 この句は漱石の熊本時代、漱石を主宰に寺田寅彦らが中心となっておこした俳句結社「紫溟吟社」が発行した俳誌「銀杏(いちょう)」に盛んに投句した井上微笑という俳人に宛てた漱石の手紙の中に書かれたものという。日付が明治36年6月17日というから、漱石がロンドン留学から帰国して半年足らず、東京帝大講師としての適性に疑問を感じていた頃と思われる。漱石の覚えめでたかった井上微笑という人は筑前秋月の生まれでこの手紙の当時は熊本県湯前村に住んでいたらしい。漱石の手紙にはこんな句も書かれていたという。
 「蝙蝠(かわほり)に近し小鍛冶が槌の音
 これは謡曲をお題とした漱石の句の一つで、「蝙蝠」は夏の季語で、こうもりが飛んでくるような夏の夕暮れに、鍛冶屋の槌音が響き渡っているという夏の風情を詠んだのだろう。
 今年の正月、Eテレで放送された喜多流の「能 小鍛冶」を録画していたことを思い出し、再見してみようと思った。 


京陵中学校前。漱石句碑



喜多流「能 小鍛冶」より。後シテ稲荷明神の香川靖嗣さんとワキ宗近の飯冨雅介さん

百貫の港とハーンの長崎行

2023-07-14 18:23:08 | 文芸
 今日、玉名に行った帰り道は海沿いの国道501号線を帰ることにした。この道の愉しみの一つが、百貫港灯台の近くに車を停め、ボンヤリと海を眺めながらひと時を過ごすことだ。晴れた日には有明海の向こうに雲仙がきれいに見えるのだが今日はあいにく霞んでいて見えなかった。この景色を眺めているといつも必ず思い出すのが、ここから船で長崎を目指したラフカディオ・ハーンのことである。明治26年(1893)の7月、ハーンは百貫港から小舟で出港、沖合で蒸気船に乗り換えて長崎へ向かうつもりだったが、この蒸気船がなかなか来ない。7月下旬の舟上は相当暑かったに違いない。散々待たされてやっとの思いで長崎に渡った。ところが長崎のあまりの暑さにほうほうの体で帰ってくる羽目になる。しかしこの後、三角港で「夏の日の夢(THE DREAM OF A SUMMER DAY)」を見ることになるのである。この時の経緯を友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレン宛の手紙で次のように書き送っている。

 七月二〇日の早朝、私は、一人、熊本を出発し、百貫(ひゃっかん)経由で長崎へ向かうつもりでした。熊本から百貫までは人力車で一時間半あまりの距離でした。百貫は水田の中の、くすんだ小さな村です。土地の人たちは淳朴で善良です。そこで、漢文を勉強している生徒の一人に会いました。そこからは、小舟で蒸気船に向かいます。この舟の舳先へさきは壊れていました。コールリッジの詩にあるような静かな海をゆらりゆらりと四里ばかり進んで行きました。それは退屈でした。そして、停泊して一時間以上も待たされましたが、海面をじっと見ていると、さざ波が繰り返し/\押し寄せて来るので、まるで反対方向に引っ張られて動いているような、奇妙な錯覚を覚えました。他には見るものとてありません。ついに、私は、はるか水平線上にコンマを逆さまにしたような船影を見つけました。それが近づいて来ます。ついに、ボーッという汽笛を聞いたときは、嬉しくなりました。けれどそれは別の船でした。先の小舟に乗ったまま、さらに一時間も待たされたあげく、やっと目当ての船が現れたのです。


百貫港灯台


寺田寅彦と映画

2023-06-28 20:55:07 | 文芸
 夏目漱石内坪井旧居を訪れるといつも邸内を見た後に見ておきたくなるのが寺田寅彦ゆかりの馬丁小屋。漱石を俳句の師と仰いだ寺田寅彦(1878~1935)は物理学者であり、随筆家、俳人でもあった。彼の随筆の中には漱石について書かれたものもいくつかあり、漱石の実像を知る上でもとても貴重な作品ばかりだ。
 その寺田は、当時まだ草創期にあった映画についても数多くの随筆を残している。彼の死後88年経ち、映画は著しい発展を遂げたが、彼の指摘は極めて正確に的を射ており、今日読んでも興味深い。下の文章は昭和7年8月に「日本文学」誌に寄稿した「映画芸術」と題する随筆の一部である。

◆映画と国民性
 すべての芸術にはそれぞれの国民の国民的潜在意識がにじみ出している。映画でもこれは顕著に滲透(しんとう)している。アメリカ映画はヤンキー教の経典でありチューインガムやアイスクリームソーダの余味がある。ドイツ映画には数理的科学とビールのにおいがあり、フランス映画にはエスカルゴーやグルヌイーユの味が伴なう。ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠(ぼうばく)たるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。数年前の統計によるとフィルムの生産高の数字においてはわが国ははるかにフランスやドイツを凌駕(りょうが)しているようであるが、これらの映画の品等においてはどうであるか。たくさんの邦産映画の中には相当なものもあるかもしれないが、自分の見た範囲では遺憾ながらどうひいき目に見ても欧米の著名な映画に比肩しうるようなものはきわめてまれなようである。
 ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦(しんたい)を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったかはわかりかねるが、この批評はある度までは甘受しなければなるまい。なんとなればわが国の映画製作者でも批評家でも日本固有文化に関心をもって、これに立脚して製作し批評しているらしい人は少なくも自分の目にはほとんど見当たらないからである。アメリカニズムのエロ姿によだれを流し、マルキシズムの赤旗に飛びつき、スターンバーグやクレールの糟(かす)をなめているばかりでは、いつまでたっても日本らしい映画はできるはずがないのである。
 剣劇の股旅(またたび)ものや、幕末ものでも、全部がまだ在来の歌舞伎(かぶき)芝居の因習の繩(なわ)にしばられたままである。われらの祖父母のありし日の世界をそのままで目の前に浮かばせるような、リアルな時代物映画は見たことがない。チャンバラの果たし合いでも安芝居の立ち回りの引き写しで、ほんとうの命のやりとりらしいものはどこにも求められない。時局あて込みの幕末ものの字幕のイデオロギーなどは実に冷や汗をかかせるものである。現代の大衆はもう少しひらけているはずであると思う。もちろん営利を主とする会社の営業方針に縛られた映画人に前衛映画のような高踏的な製作をしいるのは無理であろうが、その縛繩(ばくじょう)の許す自由の範囲内でせめてスターンバーグや、ルービッチや、ルネ・クレールの程度においてオリジナルな日本映画を作ることができないはずはない。それができないのは製作者の出発点に根本的な誤謬(ごびゅう)があるためであろう。その誤謬とは国民的民族的意識の喪失と固有文化への無関心無理解とであろう。もっとも、良い映画のできないということの半分の責任は大衆観客にあることももちろんであろうが、しかし元来芸術家というものは観賞者を教育し訓練に導きうる時にのみ始めてほんとうの芸術家である。チャップリンのごとき天才は大衆を引きつけ教育し訓練しながら、笑わせたり泣かせたりしてそうして莫大(ばくだい)な金をもうけているのである。
 和歌俳諧(はいかい)浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気(ふんいき)の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。

寺田寅彦が好んだフランス映画「パリの屋根の下」(ルネ・クレール監督)から



夏目漱石内坪井旧居


夏目漱石内坪井旧居玄関


寺田寅彦が居候を望んだ漱石内坪井旧居の馬丁小屋


寺田寅彦の下宿先(黒髪町下立田)

空山一路(くうざんいちろ)

2023-06-18 22:10:53 | 文芸
 昨日、YouTubeに投稿した「俚奏楽 伊勢土産」には「坂は照る照る 鈴鹿は曇る」という「鈴鹿馬子唄」のフレーズが織り込まれている。この一節を聞きながら、ふと漱石の「草枕」を思い出した。峠の茶屋の婆さんとの会話の合間に、馬の鈴の音が聞こえ、画工を「夢現」の世界に誘う。

―― 会話はちょっと途切れる。帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴こえ出した。この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
  春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いてみた。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
  馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 ――

 漱石が鈴鹿峠を歩いて越えたという話は聞いたことがない。おそらく小天温泉へ向かう峠道で五六匹の馬と馬子に出逢い、聞き覚えた「鈴鹿馬子唄」が頭に浮かんだのだろう。

 「鈴鹿峠」は東海道土山宿から坂下宿への峠道で難所の一つであり、お伊勢参りに向かう西国の旅人にとっての要衝である。「伊勢土産」を作った本條秀太郎さんも漱石と同じようにこの風景を表現したかったのかもしれない。


「空山一路」を思わせる漱石が歩いた草枕の道



合羽町の家

2023-05-01 21:05:36 | 文芸
 今日は例月のとおり藤崎八旛宮へ朔日詣りに歩いて行った。その途中、八雲通りを歩いていると漱石の合羽町の家跡(現坪井2丁目)の駐車場で掃除をしている中年男性が目に入った。ひょっとしてここの家主さんかなと思い声を掛けてみた。
「ここは漱石旧居があったところですよね」
「そうです。合羽町の家のあったところです」
とにこやかに返事された。
「その痕跡は何にもないんですか」と聞くと、漱石旧居だったことはずっと前から聞いていたが何も痕跡がないことなどを話していただいた。
 漱石が熊本に来て最初に住んだ光琳寺の家からわずか3ヶ月で引っ越してきた二番目の家がこの合羽町の家である。この合羽町の家に住んでいた頃、次の句を詠んでいる。

 枕辺や星別れんとする晨(まくらべやほしわかれんとするあした)

 鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものらしいが、まんじりともせず夜が明ける状況を牽牛と織女の別れ星の寓話にでもなぞらえたのだろう。この句を俳句の師正岡子規へ送ったのが明治29年9月25日というから引っ越してすぐである。まぁ何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


漱石の合羽町の家跡


漱石が住んでいた当時の合羽町の家


   牽牛と織女(織姫と彦星)の天の川の逢瀬をモチーフとした端唄「もみじの橋」

散る花を 惜しむ心やとどまりて

2023-04-07 19:11:46 | 文芸
 未明まで降り続いた「桜流しの雨」もやっと止んだ。数日前、花見客で賑わった熊本城周辺を散策してみると、咲き残る花をまばらに残しながらほとんど葉桜に近い状態となっていた。毎年繰り返される風景だが、つい、自分はあと何回桜を見ることが出来るのだろうと思ってしまう。千年昔の人々もきっと同じ思いだったに違いない。

 春雨の 降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ 人しなければ(大友黒主) 

 散る花を 惜しむ心やとどまりて また来ん春の たねになるべき(西行)



桜花散るを惜しまぬ人しなければ


   ▼創作舞踊「桜月夜」