徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本井関音頭 ~ 父の想い出 ~

2012-02-29 20:43:53 | 音楽芸能
 YouTubeで相互にチャンネル登録していただいている“0klz”さんが「熊本井関音頭」をアップされたのでさっそく聴いてみた。昭和32、3年頃に製作されたもののようだが、何だかとても懐かしい気がした。これには理由があって、実は昭和24年に井関農機熊本工場が創業した時、僕の父が社員として勤務したことがあるからである。
 父は戦時下の昭和16年、三菱重工業熊本航空機製作所の青年学校の教諭に転身した。戦況が悪化の一途をたどる中、日本各地から集められた多くの青少年たちの教育に携わるかたわら、戦闘機の生産活動にも従事したという。終戦と同時に軍需工場から民生品への転換を迫られた三菱重工は残った設備で農機具を作ることになった。多くの従業員が解雇される中、父は青年学校の後始末兼人事課員として三菱に残った。しかし三菱重工の農機具生産はうまくいかず、井関農機に事業譲渡することになった。父も井関農機に転籍することになった。ところが井関農機も当初は業績があがらず、給料遅配が起こったり、人員整理が告知される状況となった。ここが転機と見た父は教職員への復帰を決意したのである。そんなわけで、父にとっては良い想い出ばかりではなかったかもしれない。しかし、もし父が生前この歌を聞いていたらおそらく昔を懐かしみ喜んだに違いない。

▼熊本井関音頭 
   作詞:園田次男 作曲:松村義人 唄唱:浅野靖子




昭和18年10月4日 三菱熊本青年学校第7小隊(中央が父)

海達公子の短歌

2012-02-28 20:58:42 | 文芸
 小学校時代、“天才少女詩人”と呼ばれた海達公子は、高等女学校に入る頃から、父への反発もあって童謡・自由詩の創作意欲をなくして行きます。その頃既に交流のあった若山牧水の妻、喜志子の影響を受け、短歌を志すようになります。若山喜志子の指導を受けながら作り始めた短歌のいくつかをご紹介します。
 最初の5首は女学校3年生の時に行った関西への修学旅行を詠んだものです。後の3首は彼女のはつ恋のせつない気持が込められています。いずれも乙女の瑞々しい感性が感じられます。


アカデミー賞作品賞に「アーティスト」!

2012-02-27 21:37:04 | 映画
 僕は映画を見始めてやがて60年になる。しかし、かつて自他ともに認める映画少年そして映画青年だった頃の熱気はすっかり冷めた。これは僕が歳をとったせいばかりではない。最近の映画はいろんな面で刺激の強い表現ばかりが目立ち、僕らが子供の頃に見ていた映画とは全く別ものとしか思えないからだ。そんな折、今年のアメリカのアカデミー賞作品賞になんと白黒サイレントのフランス映画「アーティスト」が選ばれたそうだ。フランス映画がアカデミー賞作品賞をとったのも初めてだそうだが、そりゃそうだろう、フランス語のセリフがあったら対象外になるだろうから。それはさておき、この「アーティスト」の受賞は「映画とはなんぞや?」ということをもう一度原点に帰って考え直すよい機会になりそうだ。まだ、インターネットで予告編を見ただけで内容はよくわからないのだが、子供の頃よく見ていたフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの映画を髣髴とさせるシーンが見られるようだし劇場公開が楽しみだ。

「寛永はいや節」 そのロマンとミステリー

2012-02-26 22:08:39 | 音楽芸能
 この映像は2010年5月に「新幹線くまもと創り」事業の一環として熊本県立劇場で行われた「はいやくまもと2010」の舞台の模様である。「はいやの祭り 里がえり」というサブタイトルで、全国のはいや系民謡が一堂に会しているが、各地方それぞれに独自の発展を遂げ、はいやの永い歴史を感じさせる。この最後の演目「寛永はいや節」は今日伝えられるはいやの起源を舞踊化したものでとても興味深い。この舞踊の音楽監督兼地方を務める本條秀美さんの伸びやかな歌声が絶品だ。
 描かれているのは、牛深の港で南風(はえ)待ちをする船頭が浜の娘がとめるのも振り切り、水主(かこ:船乗り)を引き連れて遊女のいる飯盛旅籠へ出かける。そこで酒盛りをして歌舞に興じるが、最後にみんなで歌い踊るのがはいや節というわけだ。
 牛深港は天然の良港として中世から漁港および廻船の寄港地として栄えたという。江戸時代初期には牛深はいや節は既にその原型ができていたと伝えられるが、寛永年間には天草下島の北半分は亡所化したといわれるほどの島原の乱をどうやってくぐり抜けて来たのか、あるいは奄美系など他地方の音楽がどう影響しているのかなどまだまだ謎は多い。

▼企画・演出
 吉村ゆみ
▼出演
 遊女:吉村ゆみ
 船頭:花柳伯龍
 水主:藤間誠申・吉村昭則
 浜の娘:吉村みず輝・吾妻成莉音・吉村なつき
▼地方
 唄:本條秀美・本條満寿美・坪井捷代
 三味線:本條秀岱・本條秀斗・大友秀咲・中村聡志
 笛:古閑凌山
 鳴物:中村花誠・中村弌誠・今井烈

演奏される曲は
 ▽寛永はいや節Ⅰ
  俚奏楽「磯節月夜」
  長唄小曲「漁船」
 ▽寛永はいや節Ⅱ
  俚奏楽「雪の山中」より「山中節」
  俚奏楽「雪の山中」より「湯女の踊り」
  民謡「牛深三下り」
  民謡「牛深はいや節」




母の娘時代

2012-02-25 15:44:12 | ファミリー
 僕の両親は共働きだったので、幼い頃は祖母に育てられた。兄弟姉妹4人みなそうだった。明治女の気骨を絵に描いたような人で躾は厳しく僕らにとっては怖い存在だった。祖母は膝が悪かった。ほとんど曲がらなくなっていた。永年続けた機織り仕事のせいだと聞かされていた。気位の高い人だった。しかし、ご用聞きに来る商店の人や行商のおばさんたちなど、わが家に出入りする人にはよく気を使っていた。そんな祖母の人となりをよく理解できるようになったのは、父が、わが母(僕の祖母)について書き残した下記の記録を読んでからである。
※写真は小学生時代の父
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 母が大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通い始めたのは16歳の時だったという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この工場を開設したそうである。若くして夫に先立たれた母は、この工場で身に付けた機織り仕事に夜を日に継いで働き、私と弟の幼い兄弟と出戻りの義姉を養っていたのである。娘時代、機織りの工場に行った理由について母は、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。なぜなら、娘時代、母の父親は大江村の村長を務めていて、祭りや折々に家で行われる宴が盛大であったことや水道町一帯の大火で持ち家十数軒が烏有に帰してしまったことなどを何十ぺん、何百ぺんとなく聞かされたものだ。
 私が小学6年生の頃こんなことがあった。母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた70歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」という。母も一瞬驚いた様子だったが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いた。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だった。あとで聞いた母の話によると、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者だったそうである。また、わが家によく訪れていた母の昔の機織り仲間が、「阿部村長の時は父が戸籍係として大変お世話になりました」と言っていたのを聞いたこともあった。
 母の実家は女系の家だったから、私が生まれると祖父は6キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したそうである。その祖父も私が生まれた翌年には他界した。そんなわけで母の娘時代は割と恵まれた家庭環境にあったようである。

尾野真千子という女優

2012-02-24 16:44:10 | 映画
 朝ドラ「カーネーション」は、いよいよあと1週間でヒロイン糸子役が尾野真千子から夏木マリに交代する。尾野真千子の登場シーンはとっくに撮影が終わっているようだが、ここ数年イチオシの女優として注目してきただけに、今はご苦労さんと労いたい。彼女は基本的には映画女優である。しかし、全国的にその名を知られる女優になったという意味では、この朝ドラのヒロインを演じた意義は大きい。彼女はこれまでも数々の優れた映画に出演してきた。今回のキャリアが、今後彼女が出演するであろう映画にまた一つ価値を付加することは間違いない。さらなる活躍を願うばかりだ。
 というわけで、彼女に関するトリビアをいくつか。
▼朝ドラ「カーネーション」で初めて尾野真千子を知った方も多いと思うが、彼女をもっと知りたい方が押さえておくべき映画およびドラマ(あくまでも僕の個人的意見)
 萌の朱雀(1997)、リアリズムの宿(2003)、殯の森(2007)、ヤーチャイカ(2008)、クライマーズ・ハイ(2008)、火の魚(2009)<TV>、小川の辺(2011)
▼一昨年、文化庁芸術祭大賞など数々の賞を受賞したドラマ「火の魚」を観た大林宣彦監督(尾道三部作などで有名)は、「これはテレビドラマとして制作されてはいるが見事な恋愛映画だ!」と絶賛。
▼「カーネーション」を観ていても彼女にあまり色気を感じないという方が多いが、実は映画では彼女のヌードまたはセミヌードシーンが意外と多いのだ。
 リアリズムの宿、殯の森、ヤーチャイカ、真幸くあらば など。
▼これまでにチョイ役も含め、数多くの映画に出演しているが、中にはこんな意外な作品が。
 世界の中心で、愛をさけぶ(2004)、山のあなた〜徳市の恋〜(2008)

※写真は「火の魚」の撮影時のスナップ。昨年他界された原田芳雄さんをはさんで、左は「カーネーション」でも組んだ脚本の渡辺あやさん。

肥後五十四万石の秘話ヒストリア

2012-02-23 15:12:42 | 熊本
 今年は肥後五十四万石の礎を築いた加藤清正公の生誕450年にあたる。二代目忠広公の時に改易になった加藤家に替わって肥後藩主となったのが細川家三代目・細川忠利公(細川忠興公・ガラシャ夫人の三男)だが、加藤清正公とも旧知の間柄であり、清正公の治政を熟知していた細川忠利公は、肥後に入ったその時から、徹底的に清正公を立て、礼を尽くしたといわれる。これが結局、以後13代、237年に及ぶ肥後細川藩の安定の基礎となったわけである。しかし、このことが今なお残る熊本県民の加藤清正信奉(熊本県民は加藤清正公のことを「清正公さん:セイショコサン」と二重の敬称を付けて呼ぶ)にも繋がったのは皮肉でもある。その細川忠利公が、肥後に入ってすぐに調べた藩の実石高が54万石を遥かに上回り、70万石をも軽く超えていたことに驚き、狂喜したと伝えられる。これはとりもなおさず、清正公が行なった新田開発、灌漑用水の整備、堤防建設による治水などの農業振興策の賜であったわけだが、そのことにより細川忠利公はますます清正公への尊敬の念を深めたものと推察される。そして江戸後期にはなんと90万石を記録した年もあったという。


▼熊本民謡「五十四万石」(作詞:野口雨情 作曲:大村能章)
  昭和初期に作られた新民謡

♪五十四万石 細川様は
 大名中の大大名
 肥後では熊本清正公様は
 丸い蛇の目の紋どころ

♪にわか雨でさえ 御紋の下は
 蛇の目のから傘 濡れはせぬ
 お城は石垣 七重に八重に
 濠は深濠 武者返し

♪無理はいわねども
 後へは引かぬ
 熊本生まれは気も強い
 神風連やらまた田原坂
 城に輝く 宇土櫓

防府天満宮・裸坊祭とゴムクローラ

2012-02-22 19:21:02 | その他
 今日届いたブリヂストンの社内報「アロー」の事業所別のニュースの中に、山口県の防府工場のニュースとして「防府天満宮にゴムクローラを奉納」というニュースが載っていた。防府工場は1976年5月から1978年末の間、僕が勤務した工場。今回奉納したというゴムクローラというのは、本来、農機具の足回りに用いるものだが、これを防府天満宮が毎年11~12月頃に行う裸坊祭において御神幸に使われる御網代台車の車輪部分をカバーするのだという。こうしておけば御神幸の時に通る商店街のカラータイルを傷つけることがないというわけだ。思い起こせば1977年だったと思うが、ブリヂストンとして初めてこの祭りに参加した時の事務局をやったのは実は僕だ。参加者集めや用品の準備など結構大変だった。それに僕が防府の前に勤務していたのが熊本県玉名市にある熊本工場。しかも僕が転勤する数年前に熊本工場で作り始めたのがこのゴムクローラ。ゴムクローラ生産を立ち上げる時の製造現場の苦労もよく憶えている。今回奉納されたゴムクローラももちろん熊本工場製。二重の意味でとても懐かしいニュースだった。

熊本民謡「ポンポコニャ」にまつわるお話

2012-02-21 18:07:15 | 音楽芸能
 わが京町が登場することもあって、以前からその歌詞について調べていた「ポンポコニャ」だが、熊本市歴史文書資料室の佐川さんがそれを気にかけていてくれて、「熊本市史」の中に研究論文があることを教えていただいた。それは郷土史家の鈴木喬先生がまとめられた「熊本民謡『ポンポコニャー』と熊本名所地名考」という研究論文だった。鈴木さんは今日一般的に歌われている歌詞だけではなく、今日では歌われることのない源流とも言うべき歌詞まで掘り起し、その歌詞の中に歌われている地名などの固有名詞を手掛かりに、この唄がいったいいつ頃から唄われ始めたのかを考察している。そしてそれは幕末期にほぼ間違いないと結論付けているが、その微に入り細を穿った分析は驚くばかりであった。そんな論文の中でもとくに興味深い一節があった。その部分だけを下記にご紹介したい。
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 この唄は早くから熊本の芸妓連の間に歌い継がれ、祝事や宴席・酒席の演し物として好評を博していたが、第二次世界大戦中に戦意高揚につながらないことと曲のむずかしさから敬遠されて次第に歌われなくなってしまい、戦後になって民謡が歌番組として取り上げられるようになっても、なかなか表に出てこなかった。しかしたまたま昭和五十三年の日本民謡大賞の県予選を経て、中国九州予選で西村直子が全国大会の出場権を得、その年の全国大会で特別賞を授賞してからその存在がアピールされ、金沢明子と原田直之が中心となって全盛を極めたNHKの「民謡を尋ねて」にも彼女が此の唄を携えて出演し、その後暫くこの番組のアシスタントとして勤めていた。
 ところがこの唄は声の高低・抑揚の変化が多く、相当の習練を積まないと容易には歌いこなせない。歌手として著名な水前寺清子が、西村直子よりあとに「民謡を尋ねて」に出演してこの曲に挑戦したことがあるが、出だしの音の高さを間違えたために散々な結果に終わったことがある。歌の専門家でも歌い損なう位であるから、素人の歯が立たないのも当然であろう。そのせいか、いろんな会合の演し物に、芸者衆もなかなかこの曲を披露してくれないのである。
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※写真は最近の西村直子さん(もう何度も舞台で拝見しているが、そんな凄い人だったとは・・・)

いよいよ明日号砲!熊本城マラソン

2012-02-18 20:00:35 | スポーツ一般
 いよいよ第1回の熊本城マラソンが明日行なわれる。実施計画が発表されてからちょうど2年ぐらいか。当初は昨年の九州新幹線全線開業に合わせて実施する計画だったようだが、あまりにも急過ぎたのか今年の実施となった。それでも準備期間は十分だったとは言えないような気がする。思えば30数年前、東京の小平に住んでいた頃、まだ幼かった子どもたちを連れて青梅マラソンを見物しに行き、多摩川を挟んだ日の出山の中腹から、青梅街道を溢れんばかりのランナーたちが、まるで川のように流れて行く壮観な様を目にし、いつか故郷の熊本でもこんな市民マラソンが開催されたらいいなと思ったものだ。明日も寒さが厳しそうだが、何とか無事に終わることを祈りたい。これから毎年の恒例行事となっていくだろうが、いつかはしっかり準備を積んで参加してみたいものだ。

桜 稲垣早希の「くまもとさくら旅」

2012-02-17 13:44:08 | テレビ
 4月の政令指定都市移行を機に関西地方からの観光客を呼び込もうと、熊本市はタレントの「桜 稲垣早希」さんを起用したテレビCMなど関西地方でキャンペーン活動を展開している。RKK熊本放送で放送されている番組「ロケみつ」の中の企画「西日本横断ブログ旅」は熊本でも人気があり、早希ちゃんの名前はよく知られている。早希ちゃんが熊本を紹介して周る模様は熊本市のホームページでも動画が公開されているのでぜひ一度ご覧あれ。
▼「くまもとさくら旅」
 http://wakuwaku-kumamoto.com/sakura_tabi.html

どこで応援する? ~ 熊本城マラソン ~

2012-02-16 19:51:56 | スポーツ一般
 いよいよあと3日に迫った熊本城マラソン。フルマラソンコースのどこで応援するか考えてみた。街中のコースは厳重な交通規制が敷かれるため避けた方が無難だろう。やっぱりわが家から歩いて行ける熊本城のゴール周辺がいいだろう。護国神社そばの宮内橋でもいいし、二の丸広場の百間石垣からでもいいし、ゴール付近でもいい。この三か所は近くて移動も簡単だし、また二の丸広場での表彰式や特設ステージのアトラクションも見逃せない。護国神社前の梅園ではやっと梅の花も咲き始めた。大会当日はだいぶ開くかもしれない。


宮内橋か?


百間石垣か?


はたまたゴールか?


咲き始めた護国神社前の梅園

2月19日熊本市「曇時々晴」気温6℃~-3℃ ~ 熊本城マラソン ~

2012-02-15 11:47:59 | スポーツ一般
 なんだかんだ言っているうちに、4日後に迫った熊本城マラソン。今回はただの観衆に徹することにした。運営ボランティアへの参加も考えたが、年寄りの出る幕ではないとあきらめた。出場を考えなかったのは防府にいた頃、当時カネボウ陸上部監督を務めておられた貞永信義さん(ローマ五輪などマラソン選手として活躍、2003年没)とお会いする機会があり、寒い時期のマラソンの厳しさを聞いていたからだ。当日2月19日の熊本市の天気予報は「曇時々晴」、気温は最高6℃、最低-3℃、降水確率30%ということで、雨の可能性が低いのは良いが、やはり気温が低い。特に参加者のレース前などの防寒対策は大丈夫だろうか。
 それはさておき、やっぱりこの大会は今後の熊本の発展にもかかわる大きなイベントであることは間違いなく、その成否が気になる。マスメディアの報道を見聞きしていると、連日、レース中の事故への対応や、交通規制や渋滞の懸念など、心配事が日に日に募っているようだ。


スタート地点の通町筋電停




ゴール地点の熊本城二の丸広場

シンボルプロムナード in くまもと

2012-02-14 20:24:39 | 熊本
 今朝の熊日新聞によれば、熊本市は桜町・花畑地区の再開発基本構想の中で、辛島公園~行幸橋間の道路を「シンボルプロムナード」と位置付け、「まちの大広間」をコンセプトとして整備すると発表した。ここは江戸時代には広大な藩主の御屋敷「御花畑」に面した最も重要なエリア。そんな歴史を踏まえながら、熊本市民がいつでも立ち寄ってみたくなるエリアとして整備されれば熊本の新しい観光スポットになるかもしれない。


整備後のイメージ図


現在の様子


江戸時代中期の城下町絵図に見る御花畑屋敷前の道路(赤い矢印)