徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「八重の桜」よもやま話

2013-03-31 15:20:16 | テレビ
 大河ドラマ「八重の桜」における長州藩の描写に山口県民が不快な思いをしているという記事をエキサイトのニュースで見た。僕は山口県にも住んでいたから山口県民の気持はよく理解できる。いまだに残る会津藩に対する遺恨の話は、映画「釣りバカ日誌12」でも描かれていた。萩生まれの娘(宮沢りえ)は恋人(吉岡秀隆)が会津生まれだから結婚が許されない、というような話だった。しかし、映画でもドラマでも歴史モノはだいたい主人公の側の視点で描くから、相対する側の立場の人から見れば納得いかない点があることは、「八重の桜」に限らずこれまで何度もあった。今度の「八重の桜」に関して言えば、僕はこれまでのところ長州藩がそれほど一方的に悪者扱いになっているとは感じない。ただ、長州側の久留米藩士・真木和泉に関してはひと言言いたい。演じた嶋田久作は個人的には好きな俳優さんなのだが、何せあの怪優ぶり。真木和泉は久留米水天宮の宮司。僕個人にとってもゆかりの深い神社だから、嶋田久作の真木和泉については正直違和感を拭えなかった。一方、会津藩と相対する立場になってしまったわが熊本藩士の宮部鼎蔵はかなり好意的に描かれていて、襲った新撰組のハネ上がりぶりが際立ったのは個人的には納得がいった。
※写真は久留米水天宮でのお詣り(2006年)

野林祐実のシーズンイン! ~ 2013春季陸協記録会 ~

2013-03-30 17:22:35 | スポーツ一般
 快晴に恵まれた今日、陸上のトラック&フィールド競技がシーズンイン!熊本県民総合運動公園陸上競技場で春季陸協記録会が行われ、久しぶりに中高生らの元気な掛け声がスタジアム内に響き渡った。毎年、この記録会はオフの間にトレーニングを積んできた選手たちの仕上がり具合をチェックし、新シーズンのスタートに当って心構えを新たにするのが目的。
 注目の野林祐実選手(九州学院)も記録よりも感触を確かめるような走りだった。そして、2週間後の4月13・14日には早くも「2013年度熊本県陸上競技選手権大会兼国体1次予選」が迫っている。そこが今シーズン最初の成果を問われる場となる。


歌舞伎の410年 新しい時代を開くために・・・

2013-03-29 20:08:49 | 歴史
 新しい歌舞伎座が完成し、4月2日に開場することを記念して、27日、東京・銀座で歌舞伎俳優64人による「お練り」が行なわれた。沿道に集まった約3万2000人の観衆は新しい歌舞伎の時代到来を予感したのかもしれない。
 そもそも歌舞伎の始まりは、慶長8年(1603)に出雲阿国が北野天満宮で興行を行なった時点をもって始まりと言うそうだから、今年で410年の歴史と言うことになる。出雲大社の巫女だったといわれる出雲阿国は、はじめは念仏踊りのような信仰的なものだったらしいのだが、次第に、ふりごと・物まね・あてぶりの踊りを演ずる様になった。当時「かぶき者」と呼ばれた派手な身なりをした若者たちが京の町を騒がせていた。阿国はいち早く彼らの身なりを模倣し、能舞台に似せた舞台を設えて「かぶき者」を演じた。出雲阿国が、芸能史上、特筆すべき存在となったのは、それまでの宗教的な唄や踊りから解放された新しい芸「歌舞妓踊り」を生み出したからといわれる。
 しかしその20年後には、風紀を乱すとの理由から女歌舞妓は禁止され、歌舞伎の舞台から女性がシャットアウトされて今日に至っている。もともと歌舞伎を生み出したのは女性。どうだろう、真の意味で新しい歌舞伎の時代を開くために、400年の時を超えて女性を再び舞台に上げることも考えていいのではないだろうか。


熊本城本丸御殿落成記念「坂東玉三郎特別舞踊公演」より「藤娘」
(2008.4.30 熊本城二の丸公園)

加藤清正と伊勢音頭

2013-03-28 19:47:53 | 音楽芸能
 慶長15年(1610)、徳川家康は諸大名に役割分担させて名古屋城築城を開始した。加藤清正は中でも最も難工事といわれた天守台石垣を担当した。この工事の石曳きのときに唄われたのが木曳き唄(木遣り唄)。清正は自ら音頭をとって木遣り唄を歌わせ、皆と一緒に綱を取ったと伝えられる。そして、その木遣り唄は、伊勢神宮の御神木を曳くときに唄われるようになり、伊勢音頭として全国に広まったという。
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」 という歌詞はそんな故事にならったものかもしれない。


立方 ザ・わらべ
地方 本條秀美と秀美社中/中村花誠と花と誠の会

人形浄瑠璃を楽しむ ~ 八陣守護城 ~

2013-03-27 20:45:23 | 音楽芸能
 前から見たいと思っていた人形浄瑠璃「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)は、開催日が今日であることをすっかり忘れていた。ところが、ラッキーにもGさんからご案内をいただいて観ることができた。感謝!
 ともかく人形浄瑠璃をナマで観るのは初めて。今日のもう一つの演目はおなじみ「傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)」の「順礼歌の段」。テレビで何度か観たことがあるが、やはりナマの感動はひと味違った。
 加藤清正公を主役とした「八陣守護城」の、今日の演目は「浪花入江の段」と「正清本城の段」の二つ。清正の一番カッコいい場面のようだ。もし機会があるなら全11段を通しで観てみたいものだ。
 この人形浄瑠璃が初演されたのは江戸時代後期の文化4年(1807)という。しかし世はまだ徳川幕府の天下。そんな時代によく徳川家康を暗喩した人物を悪役に仕立てた浄瑠璃が出来たものだと感心した。

熊本県勢が激突した55年前の春の選抜!

2013-03-26 19:10:26 | スポーツ一般
 普段はあまり高校野球は見ないのだが、やはり母黌が出るとなるとそういうわけにもいかない。なんとか初戦をクリアしてくれたので正直ホッとしているところだ。55年ぶりの春の選抜大会出場ということがメディアでもさかんに取り上げられているが、当時の野球少年としてはどうしても忘れられないことがある。それはその大会には熊本工業も出場していて、なんと準決勝で熊本県勢がぶつかってしまったことだ。済々黌のエース城戸投手と熊工の対戦はそれまで6回あり、対戦成績は熊工の4勝2敗。しかも新チームになってからは熊工が2連勝していた。実は僕はその頃、水前寺球場で行われた高校野球の試合はほとんど見ていたので熊工が勝つだろうと思っていた。ところがスーパースター王貞治を擁する早稲田実業を激闘の末破った済々黌は完全に勢いに乗ってしまった。この熊本県勢同士の準決勝は済々黌が投打に上回り、決勝へと駒を進めたのである。僕は今でも、この歴史に残る熊本県勢同士の準決勝がこの大会の事実上の決勝戦だったのではないかと思っている。
 話は変わるが、最近の選手はインタビューを受けるとだいたい「次も絶対勝ちます!」という。あの根拠のない自信は何なんだろう。55年前は毎試合後の城戸投手のインタビューを見るのが楽しみだった。城戸投手は毎試合後、あっけらかんと「次は負けま~す!」と言っていたのをなつかしく想い出す。


日本の農業と「三番叟」

2013-03-25 19:16:28 | 音楽芸能
 TPPへの参加で、日本の農業の明日に危惧が広がっている。日本人の魂の根源ともいえる農業の将来像について、まだ政治家は誰一人示していない。
 日本の文化は古来より農業と切り離して考えることはできない。それはこの「三番叟」についても同様である。

 「〇〇三番叟(さんばそう)」と名のつくものは数あるが、もとは能楽の中でも最も古いという「式三番」という伝統芸能の三番目の演目が「三番叟」。文字通り三番目に出てくる爺様のことだ。この「三番叟」の舞は五穀豊穣を寿ぐ、いわば農業の神事のようなもので、古来、歌舞伎舞踊や各地方の郷土芸能にも取り入れられてきた。
 下の「ザ・わらべ」が踊る「羽衣三番叟」はこの「三番叟」と「天女伝説」を結びつけた創作長唄だが、くるみちゃんと文乃ちゃんの台詞は古式通りのものだし、舞の中にも種まきや土踏みの動作が入っている。

おおさえ おおさえ 悦びありや 悦びありや
我が 此の処より 他へは 遣らじとぞ 惟う

 「災いや困難を抑え抑えて得たこの実りの喜びをけっして手離したくないと思う」
というような意味ではないかと勝手に解釈している。


  立方 ザ・わらべ
  地方 今藤珠美と今藤珠美社中/中村花誠と花と誠の会

陸上トラック & フィールド シーズン到来!

2013-03-24 20:22:18 | スポーツ一般
 今週末30日(土)に県民総合運動公園陸上競技場で行われる「春季陸協記録会」からいよいよ陸上競技のトラック&フィールドの新しいシーズンが始まる。やはり僕の一番の期待は、昨年のインターハイで100m・200mの二冠を達成し、今年が高校最後のシーズンとなる野林祐実選手(九州学院)がどこまで進化するかだ。昨年の岐阜国体の100mで11秒70と2年ぶりに自己新をマークし、一つの壁を破った。さらに今年は当面の目標である同級生のロンドン五輪代表・土井杏南(埼玉栄高)に迫り、2016年のリオデジャネイロ五輪出場への足掛かりを築いてほしいと願っている。

▼野林選手・昨年のベスト記録
 100m 11.70 岐阜国体   10月5日
 200m 24.22 インターハイ  8月1日

清正夫人の大脱走!

2013-03-23 19:06:28 | 歴史
 加藤清正公を祀った神社として知られる加藤神社は、清正公を主祭神とし、清正公に殉死した大木兼能公と韓人金官公を陪神としている。その大木兼能公の逸話として有名なのが、関ヶ原の戦の前の「清正公夫人の大坂脱出」エピソードだ。この話は昨年10月24日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」でも語られたが、「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。

▼清正夫人の大阪脱出
 慶長五年七月頃、加藤清正は肥後に帰って居られ、大阪の肥後屋敷には大木土佐(兼能)が夫人の清浄院殿(徳川家康の養女)を守護して留守を預って居た。清正は「石田三成等が、この際愈々、徳川征伐の軍勢を繰出すに違いない。そうしたら、きっと大阪在住の諸将の妻子を人質として城中に連れ込むにきまっている。人質などに取られては無念至極だ」と、御船奉行の梶原助兵衛景俊を招き寄せ、大阪に上って、よく土佐と相談して適宜の方法を執るように内命された。
 大阪に上った助兵衛は肥後屋敷へ往来の途中、毎日ぶらりと歩き廻っては油を売って歩いた。「面白い爺さんだな」と町人も町役人も、段々梶原を見知るようになった。そのうち助兵衛は少し病体になった。病体になっても毎日二度づつは駕で往来した。「老病の事で御座れば、乗物の儀平に御容赦下されたい」と、番所々々を過ぎる毎に駕の中から役人に挨拶した。大きな綿の頭巾をかぶり、大きな夜着を背中から打ちかけて、乗物の左右の窓を明け払って居る。「御老体御病気となれば、少しも苦しう御座らぬ。但し役目がら、一応接見は致す」と形式だけの検閲はするが、勿論、何の怪しい事もない。後には「いつもの病人か、構わぬ/\」と、形式だけの検査も全くしないようになった。
 二十日ばかりの後、御屋敷の門を出る梶原の駕の中には、大きな夜着の裏に隠れて、清浄院殿夫人が小さくなって乗って居られた。助兵衛は後にもたれるようにして、刀の柄に手をかけて居た。大大土佐は梶原の帰るのを見送りがてら散歩にでも出るようにして、眼を八方に配りながら、駕の後からぶら/\とついて行った。「いつもの老人か。苦しうない通れ/\」で無事に町口を出てしまった助兵衛は、兼て用意の早船に夫人を乗せ、大阪川口の番船をも、うまく胡魔化し港を出ると一帆千里似せ老人の老奉行の櫓擢の手並あざやかに、瀬戸内海を西へ西へと走ったのである。
 この策を取計った留守居役大木土佐は、この功によって二千石の加増を受けた。

▼「歴史秘話ヒストリア」のメインテーマ

勤王の志士の故郷に立って・・・

2013-03-22 20:08:39 | 歴史
 御船町の吉無田水源へ水汲みに行った。帰る途中、宮部鼎蔵(みやべていぞう)一族の墓地と生家跡を通った。大河ドラマ「八重の桜」ではつい先々週、宮部鼎蔵が命を落とした池田屋事件が放送されたのを思い出した。車を停めて一族のお墓と記念碑にお参りをした。わが家からすぐ近くの内坪井には宮部鼎蔵の旧居跡があり、立田山山麓の小峰墓地にある宮部鼎蔵のお墓には度々お参りしているのだが、生家跡に来たのは初めてだ。ここら辺は現在は御船町上野と言う所だそうだが、御船町の中心からは随分離れた山里だ。しばらくあたりの風景を眺めながら、志なかばで散った勤王の志士の無念の情に思いを馳せた。
 生家跡の石碑の傍らにある説明板には次のように書かれていた。

史跡 宮部鼎蔵生家跡
 肥後勤王党の総帥、宮部鼎蔵は文政3年(1820)医者の長男として生まれた。
 このあたりを茶屋元といい鼎蔵の生家跡がある。大きなカシの木の下に出産のときの産湯の井がこけむして残っている。
 鼎蔵は名を増実(ますざね)といった。代々医家であったが、おじの宮部丈左衛門の家をついで山鹿流軍学をおさめ、30歳のとき熊本藩の軍学師範となった。長州藩の吉田松陰とは仲のいい友人であり、東北諸藩を遊歴して諸国の志士と交遊し、尊王攘夷の信念を深くした。
 文久元年(1861)12月、清川八郎らの来熊を転機に「孝忠」の遺訓を家に残し、或は熊本に、或は京都に、尊王攘夷の運動に活躍するが、文久3年8月の政変で七卿とともにいったん長州に落ちた。やがて京都に潜入、翌元治元年(1864)6月5日三条小橋池田屋で同志と会合中、新撰組に踏み込まれ、奮戦して自刃した。45歳であった。鼎蔵には春蔵という弟がいた。兄と同じく勤王家で、元治元年7月、真木和泉守とともに幕府軍を向うにまわして戦い、天王山(京都)で自刃した。近くの公園は宮部兄弟の名を一字づつとって「鼎春園」と名付けた公園である。
 鼎蔵、春蔵の歌碑が建っている。
昭和49年12月
御船町
御船町観光協会



花のお江戸から熊本に伝わった文化

2013-03-21 17:35:18 | 音楽芸能
 江戸時代の中頃には「花のお江戸」が大衆文化の発信地となった。田舎の熊本にもファッション、書物、絵本、食、芸能等々の江戸の文化が伝えられた。もちろん今日のようなメディアやコミュニケーションツールはないから、専ら熊本と江戸間を往来する人々によって伝えられたので時間はかかったのだが。そのあたりの事情について、昭和56年発行の「肥後史話」(卯野木卯一良著)には次のように書かれている。

 お江戸上りの侍や足軽達は参勤交替の長い旅から熊本へ帰ると、いつも得意で、江戸の流行歌を家中の朋輩などの間で歌って聞かせたものである。すると熊本にはまた熊本の芸術家が居って、早速、その悠暢なリズムに一味のユーモアを加えて、更に第二の歌謡を作り出す。面白い/\、肥後独特の郷土味があって素敵だ、などと宴会ごときの場合には、すぐ首打ち振りながら歌い出す者が出るという始末、こうして文化の中心江戸の歌謡は、それら参勤交替の御供の人々の間から、数年越しに田舎の熊本あたりまでも輸入されたものであった。博多や長崎などの様に、海運交通の便利にも余沢にも恵まれていない純然たる封建城下町の熊本市は、一、二特別の場合を除くの外、あらゆる中央の文化的要素を、この参勤交替の御供の人々の土産物として貰い且つ喜んだものであった。

 そんな江戸の文化を研究している「江戸東京下町文化研究会」というサイトがある。僕は以前から興味があってこのサイトをちょくちょく訪れている。熊本に伝わった江戸文化の一例として「品川甚句」の映像を紹介したところ、このサイト上でご紹介していただくことになった。

 ▼「江戸東京下町文化研究会」のサイト


天才少女詩人の没後80年

2013-03-20 19:20:56 | 文芸
 毎年恒例の「海達公子まつり」が荒尾市で始まった。昭和8年に16歳の若さで夭折して今年で80年。今年は、海達公子の発掘者、規工川祐輔先生の体調がすぐれず、式典に先生の代理で出席した。今年も小中学生の自由詩、俳句、書道、絵画などの部門別表彰が行われたが、応募数は年々増え、今年は600点に達したという。4年後に迎える生誕100年を機に、海達公子を全国に知らしめる活動を進めたいという海達公子顕彰会の松山会長の力強い挨拶が印象的だった。

 昭和5年5月、公子は日頃「赤い鳥」の選評などを通じて指導を受けていた北原白秋と2年ぶりに再会する。その日のことを彼女は日記に次のように記している。

「今日は三時間して早引をし、矢部に行つて白秋会に行きました。柳川高等小学校で自由詩についてわかりよく話されました。顔を見てゐると、どことなくぽかんとしたようで、子供らしい所があります。それが一時間以上かかつて山田屋で、えん会がありました。そこを出て、又違ふ所に白秋先生達がいきなすつたので、あとをついて行きました。先生は、私に「大きくなつたね、私の女でしですよ」と言つたりなんかして、手のすぢを見て下さいました。出世線があつて、じゆんけつだそうです。自分で私に自分の写真を下さいました。(後略)」

 なお、この2年前に初めて会った時、白秋は熊本放送局(現NHK熊本放送局)の開局記念放送に出演した際、わざわざ公子を連れて行っている。


高瀬高女入学を記念し、級友たちと恩師の戸上訓導を囲んで(後列真ん中が公子、昭和4年)

“春爛漫” と “残雪” と

2013-03-19 19:06:45 | 美術
 長男の姑御(嫁の母)から展覧会のご案内をいただいたので、家内と一緒に会場の熊本県立美術館分館へ観に行った。わが家から歩いて行ったのだがちょっと異様な暖かさ。熊本城周辺の桜はもう満開近しを思わせる。この調子だと春まつりシーズンに入る前に散ってしまわないかと心配だ。
 さて、展覧会は「RKK学苑日本画教室作品展」。今回の姑御の出展は4点だったが、中でも「残雪」という作品は絵寸が縦1620mm、横1303mmという近くで観るとかなりの迫力の大作。眺めながら、その創作意欲には脱帽だ。やっぱり僕ももう一度、いろんな分野で表現してみたいという気持を起こさせてくれた。


桜の満開近し!?



作品「残雪」

少女哀史と唄

2013-03-18 19:46:35 | 音楽芸能
 父が書き遺した備忘録の中に、天草のからゆきさんに関するものがあることは、以前このブログに書いた。
 からゆき(唐行)さんとは、江戸時代後期から昭和の前期頃まで、東アジアや東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことで、熊本の天草や長崎の島原出身の女性が多く、貧困にあえぐ農村や漁村の娘たちだった。
 父がその実態を目の当たりにしたのは昭和11年、天草の上村尋常高等小学校に勤務している頃である。義憤に駆られて校長や父兄たちに「人身売買」を非難したり、父が仮住まいする宿へやってくる女衒(ぜげん、人買い)たちとの攻防が綴られている。
 今では全国的に知られている「島原の子守唄」は島原地方で歌い継がれていた子守唄をもとに、「まぼろしの邪馬台国」で知られる宮崎康平が戦後作ったものだが、この唄も実は「からゆきさん」がモチーフとなっている。

▼島原の子守唄
♪おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
 梨の木 育ちよ
 何の なしやら 何の なしやら
 色気なしばよ しょうかいな
 はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい
  ※鬼の池の久助というのは実在した女衒

 また、「ザ・わらべ」の演目の一つにもなっている「愛の南十字星」は、「からゆきさん」を題材としたラジオドラマをモチーフとして長唄三味線の今藤珠美さんが創作したもので、三味線や筝に加え二胡の響きが、遠い異国で南十字星に明日への希望を託す少女たちの哀しい心情を表現している。

▼愛の南十字星

 原作:木村祐章「ラジオドラマ『ぬれわらじ』より」 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂

消えゆく渋谷の風景

2013-03-17 20:28:11 | 時事
 東急東横線と東京メトロ副都心線の直通運転化に伴い、東横線渋谷駅は昨日から地下5階へ移り、地上駅の歴史が幕を下ろしたそうだ。学生時代の4年間利用した東横線渋谷駅のホームから眺める渋谷の街の風景は、僕の東京での生活の中でも最も印象深い風景の一つ。中でも映画好きだった僕は、毎日ホームから見える渋谷パンテオン劇場の看板を眺めるのが楽しみだった。初めて東京へ行った昭和36年、高校1年の夏、掲げられていたのはポール・ニューマンとエバ・マリー・セイントが寄り添う「栄光への脱出」の大きな看板だった。そして大学へ進学して上京した時に掲げられていた「007危機一発」のショーン・コネリーの不敵な表情の看板。この二つは50年ほど経った今でもけっして忘れることはない。渋谷パンテオン劇場はもう数年前に閉館されたと聞くが、今度はあの懐かしい東横線渋谷駅のホームそのものが無くなるという。時代の移り変わりとはいえ、想い出の風景が次々と消えていくのは寂しさを禁じ得ない。