徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

自己表現欲求とパソコン

2024-04-23 20:37:25 | 友人・知人
 長嶺でパソコン教室を開いていた頃、習いに来ていたMさんが久しぶりにやって来た。いつものように西原村産のさつまいもを抱えていた。全国の品評会でも上位にランクされるというさつまいもで、甘くて美味、本当にありがたい。
 今日の来意は、しばらく離れていたパソコンを再開したい。ついては新しいパソコンを購入したいのでアドバイスをということであった。彼が初めて習いに来たのは2000年頃で、ちょうど国を挙げて「IT革命」などと喧伝している最中だった。彼は当時1級建築士として多忙な頃だったが、CADなど新しい技術には少々乗り遅れ気味だった。パソコンを基礎から学びたいということでExcelやWordなどを教えたと記憶している。それから10数年後、体を悪くして彼は仕事から退いた。そして70歳を過ぎた今、もう一度パソコンで何かやれないだろうかと思い立ったらしい。
 これといった趣味もお持ちでないようで、おそらく年齢的なこともあって「自己表現欲求」が湧いて来たのではないかと思う。また後日、古いパソコンを持って再訪問するそうなので、新しいパソコンに買い替えるかどうかはさておき、目的を明確化し、彼の生きがいにつながるようなアドバイスをしたいと思っている。


熊本城二の丸の老木と点検・手入れをする人たち

酒井先生の思い出

2024-03-28 22:06:43 | 友人・知人
 先日まで行われた「春のくまもとお城まつり」などで熊本城二の丸広場に行くことが多いが、西大手門への通路の脇にある「歩兵第十三連隊の跡」記念碑を見る度に9年前に94歳で他界された酒井恭次先生のことを思い出す。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医で、亡くなられるまで年賀状のやり取りが続いた。亡くなられる数年前から、年賀状には必ず、戦時中熊本の「西部第十六部隊」に入営された頃の思い出が書かれていた。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」の後身の部隊のことである。よほど懐かしい想い出だったのだろう。
 久留米ご出身の先生は横浜工場勤務が永かった。僕が東京勤務だった30数年前、横浜工場の酒井先生のところへ新医療システムの相談で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預けた。精算は女将にまかせて店を出る時、財布を受け取って帰るというのがお決りだった。ある時、2、3軒回った後、カラオケバーに入った。先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。それは、その若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのだろう。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。テレビなどで松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」を見る度に先生とあの夜のことを想い出す。


歩兵第十三連隊の跡


助産師と舞踊家

2024-03-10 21:39:59 | 友人・知人
 先々週、かつて舞踊団花童のリーダーを務めたくるみさんからFBのメッセージをいただいた。近況を知らせるお便りだった。もうだいぶ前になるが彼女のお母様から結婚されたことは伺っていた。今は子育てに大わらわだが、やがて育児休暇から助産師の仕事に復帰する予定であることが書かれていた。おそらく今まで以上にお忙しい毎日になることだろう。舞踊家としての復帰を期待している僕らくるみファンにとってはいずれ必ず復帰の日がやって来ることを信じて待つしかない。
 ただ、個人的には、かつて産業医や保健師、看護師などと一緒にプロジェクトチームを組んで仕事をしていたことがあり、彼ら医療専門職の献身的な働きを目の当たりにした経験から、助産師として活躍していただきたいという気持も一方ではあり、ちょっと複雑な思いが交錯する。

2015.4.25 熊本城本丸御殿 春の宴
振付:中村花誠
立方:中村くるみ

老ドクターと思い出の歌

2023-07-29 21:42:26 | 友人・知人
 今頃の季節になると決まって思い出すのは53年前の7月下旬、ブリヂストンに転職し横浜市戸塚の横浜工場へ半年の新人研修に行った時のこと。多くの方々にお世話になったが、なかでも横浜工場診療所の所長を務めておられた酒井先生には、僕が人事労務に配置されて仕事のつながりがあったこともあって、永年にわたってお世話になった。先生が亡くなられて8年経つが、先生のことを思い出すと必ず頭に浮かぶ歌がある。

 僕が東京本社に勤務していた80年代後半、先生のところへ仕事でお伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性プロパーさんはプロ並みに歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「赤いスイートピー」や「SWEET MEMORIES」などは絶品だった。松田聖子は、実は僕の先輩社員に久留米出身で、かつて松田聖子のお父さんと同じ職場で働いていたという人がいて、彼女がデビューする時、応援を頼まれたりしていたので余計心に残った。

 僕が会社を早期退職した後も先生は相変わらず横浜工場の産業医を務めておられたが、年賀状のやり取りだけはずっと続いていた。亡くなられる数年前から、戦時中、熊本城二の丸にあった西部第十六部隊時代の思い出をしきりに懐かしがられた。そんな時、熊本城本丸御殿で行われた春の宴で舞踊団花童が踊った「小坪いかとり歌」が妙に心に残った。この歌について調べてみると、先生が亡くなられるまで住まわれた逗子市の小坪漁港で歌い継がれている古い歌であることがわかった。以来この歌も先生の思い出の歌となった。今夜は下の2曲を聞きながら先生を偲びたい。




感謝と鎮魂

2023-06-23 19:42:40 | 友人・知人
 時々送られてくるブリヂストン社友会ニュース(OB会報)に掲載されている訃報欄に、存じ上げている方の名前を拝見することが多くなりました。今月のニュースには在職時代に大変お世話になった方が3名載っていました。
 お一人目は栃木工場時代の直属上司のI様。信頼していただいて幅広い仕事を任せていただきました。名家のご出身で見識が高く、また多趣味で、プライベートでも大変お世話になりました。弟様は著名なクラシック音楽の指揮者でした。
 お二人目は同じく栃木工場時代の大先輩S様。この方を初めて知ったのは1964年の東京オリンピックの時。水泳の自由形の選手で、この大会の日本水泳唯一のメダルを獲得した800㍍リレーメンバーの一人です。大会のプールサイドで見ていた僕は、後に同じ職場で働くことになるとは思いもしませんでした。同じ水泳畑ということで公私にわたって大変お世話になりました。
 お三人目は東京本社時代にちょうど社員の高齢化対策が始まり、健康管理情報システムを構築するためのプロジェクトが立ち上がり、僕が事務局担当を仰せ付かりました。そのプロジェクトメンバーの一人として横浜工場から参加いただいたのがT様です。ダンディーでソフトな語り口でシステムエンジニアとしての提案をしていただき、多くのことを学ばせていただきました。

 お三方に心からの感謝と哀悼の意を捧げます。


あの娘が眠る丘

2022-07-21 13:35:35 | 友人・知人
 こんな夢を見た。これは漱石の「夢十夜」の書き出しだが、そんな不思議な夢を見た。

 シチュエーションがよくわからないのだが、どうやら僕が防府に勤務していた45、6年前のようだ。当時所属していた課の慰安旅行で木造の洋風建築に宿泊している。まるで学校の一室のようだ。もちろん実際にはそんなところに泊ったことはない。そして気が付くと僕のそばに一人の女性が寄り添っている。彼女は会社で僕と机を並べていたOさんだ。当時、高校卒業したばかりの18歳だった。
 実は彼女は15年前に48歳で他界している。だが夢の中の彼女は初々しい18歳のままだ。そのうち同僚たちは町へ繰り出していった。そして部屋に残されたのは僕と彼女の二人だけ。この状況はマズいぞ、と思っているうちに目が覚めた。

 2009年の正月、防府時代の同僚からの年賀状によって彼女の死を知った。まだ48歳、あまりにも早過ぎる旅立ちだった。
 1976年の5月、僕は熊本から防府へ転勤し、そこで机を並べたのが新入社員のOさんだった。まだ女子高生そのままの雰囲気だった。明るくて笑顔がチャーミングな娘だった。転勤したばかりで様子がわからない僕に、自分も入社したばかりなのに一生懸命サポートしようとする姿がいじらしかった。その2年後、僕が東京へ転勤した後、しばらくして寿退社をしたという知らせを聞いた。ご主人も僕が知っている人で、子どももでき幸せな家庭を築いていると思っていた。
 訃報を聞いてから数ヶ月後、僕は防府へ墓参りに行った。周防灘へつながる中浦湾を見下ろす小高い丘の上に彼女は眠っていた。28年ぶりの悲しい再会だった。五十路にもまだ届かぬ歳で愛する家族と別れなければならなかった胸中を察するにあまりあるものがあった。真新しいお墓に香華を手向け手を合わせると、机を並べていた頃の、愛らしい顔が微笑んだように思えた。

 今まで彼女が夢に出てきたことは一度もない。なぜ今?あれこれ思いめぐらすうちに夜が明けた。


彼女が眠る丘から中浦湾を望む。遠くに浮かぶ佐波島が寂しげに見えた。

パソコン教室の閉校

2022-05-26 20:23:13 | 友人・知人
 僕が会社を早期退職してパソコン教室を開いた時、一緒に起業研修を受けた仲間から「パソコン教室閉校」を知らせるハガキが届いた。
 年賀状のやり取りは続いているのでまだ開いていることは知っていたが、僕が約10年で閉校したのに比べ、25年もの長きにわたりよく頑張ったなぁと敬意を表したい。これで、1997年前後に、ほぼ同時に開校した仲間はほとんど閉校した。「IT革命」と盛んに喧伝され、国の肝いりで始まったIT教育ブームは醒めるのも早かった。情報格差の解消がテーマだったが、結局問題を積み残したまま、国の熱気も冷めてしまった。一種のバブルだったのだろうが、あの10年間は何だったのだろうと最近よく考える。

大先輩との歴史談義

2022-04-21 19:38:38 | 友人・知人
 久しぶりに、近所の老舗米屋のご主人森さんの話を聞きたくなってお邪魔した。森さんは僕の高校の大先輩でもあるが、ただの米屋のオヤジではない。※「米屋とパイロットときりしたん」参照
 森さんはわが街・京町の生き字引のような人で、京町のこと、住人のことなど話し始めると次から次に芋づるのように話題は尽きない。今日はそんな森さんの意見を聞いてみたいことがいくつかあった。
 その話題と話の概要は次のとおり。

1.米相場の旗振り通信
 江戸時代から明治・大正初期まで、投機目的で大坂の米相場を一刻も早く伝達するシステムとして旗振り通信が各地に存在した。しかし、九州では久留米、大川から南には旗振り通信の中継地点があったという史料は見出せない。米相場の伝達にはもう一つ米飛脚という手段があり、堺屋という飛脚屋が熊本辺りまで営業範囲にしていたことがわかっている。熊本は米飛脚に頼っていたのか、本当に旗振り通信はなかったのか、米を扱う商売の森さんの意見を聞きたかった。しかし、森さんは米相場伝達システムについて聞いたことがないという。ただ、大坂から熊本までの距離を考えると旗振り通信の情報の信頼性には疑問があるとのこと。  

2.京町濱田屋
 西南戦争の貴重な史料となっている「吉田如雪の明治十年日記」の中に、如雪本人が京町濱田屋の湯に行き、そこで熊本城本丸からの出火を目撃する場面がある。その京町濱田屋というのがどこにあったどんな店舗なのかがわからない。昨年一度、森さんの意見を聞いたことがあった。如雪が見たのは三階からとあり、三階建てとなると妓楼か料亭だろう、場所は出火を目撃した方向や位置関係などから京町1丁目と2丁目の間辺りが怪しいということになった。今日は、西南戦争で京町遊郭が焼失後、新たに二本木に遊郭がつくられる時、いち早く妓楼建設に着手した濱田屋というのが京町濱田屋と同一の経営者ではないかという話になった。

 他にもいくつかの話題があったが、また別の機会に。

老医師の年賀状

2022-01-16 18:57:37 | 友人・知人
 お年玉付年賀はがきの抽選が明日だと思い出したので、今年いただいた年賀状をあらためて眺めていたら、ふと酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は永年ブリヂストン横浜工場の産業医を務められた方で、僕は在職中大変お世話になった。残念ながら7年前95歳で他界されたが、毎年先生からいただく手書きの年賀状が楽しみだった。何度かブログネタにさせていただいたが、その中から二つ再掲して先生を偲びたい。

▼2019年3月11日
 熊本城二の丸の西大手門への通路の脇に「歩兵第十三連隊の跡」記念碑がある。今日散歩のついでにしばらくながめていたら、ふと4年前に他界された酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医である。亡くなる数年前から、毎年、年賀状には必ず戦時中の熊本の「西部第十六部隊」にいた頃の思い出が書かれていた。よほど懐かしい想い出だったのだろう。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」が昭和12年の支那事変で出征した後、その補充部隊が集められ、この部隊が後に「西部第十六部隊」となった。
 先生は久留米のご出身だが横浜勤務が永く、亡くなるまで逗子市に住まわれた。今日は先生のお住まいにほど近い小坪漁港で歌い継がれている「小坪いかとり歌」でも聞きながら先生を偲びたい。


歩兵第十三連隊(西部第十六部隊の前身)記念碑 熊本城二の丸広場




▼2016年1月4日
 今年いただいた年賀状の中で最高齢の方は、今年93歳を迎える酒井恭次先生。文面には相変わらず「無為徒食の輩」などと先生一流の自虐ネタが書かれていた。もう30年ほど前になるが、横浜工場で産業医を務めておられた酒井先生のところへ仕事で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預ける。精算は女将にまかせていて店を出る時、財布を受け取って帰るというのが慣わしだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。松田聖子はその頃デビューして5、6年経っていたと思うが、実は僕の会社の大先輩に久留米出身で、かつて松田聖子のお父さんと職場が一緒だったという人がいて、彼女がデビューする時、応援を頼まれたりして、彼女にはずっと注目していたこともあり、この夜のプロパーさんの歌は特に印象深かった。毎年、酒井先生の年賀状を見る度にあの夜のことを想い出す。


大先輩の情熱 衰えず

2021-08-09 21:40:03 | 友人・知人
 大会期間中はオリンピックについてノーコメントを貫いたが、終わったのでオリンピックに関する話題を一つ。
 数日前、中・高および会社の大先輩の藤本重信さんから突然電話。2、3年電話はなかったので何事ならんと出てみると、何のことはない後輩の名前の確認だった。しかし、電話の主旨はそのことではなかったらしく、その後、オリンピック水球についての長電話となった。どうやらNHKプラスでオリンピック水球のセルビア対ギリシャ戦かなにかを見ていて電話せずにはおられなかったようだ。それはなかなか勝てない日本チームや低迷が続く母校チームのことが頭にあったのだろう。話題は次第に戦術面の話になり、尽きなかった。
 藤本さんは1964年の東京オリンピックで日本水球チームの主力として活躍された方。ご自身の経験を踏まえ誰かに話しておきたかったのだろう。もう80歳は超えられたはずだが水球に対する情熱は衰えていないようだ。僕も1964年に間近で見た優勝チームハンガリーのエース、カルパティの思い出などを話させていただいたので余計盛り上がった。


東京オリンピック1964の時の藤本さんと高校の恩師平田忠彦先生

世間ばなし

2021-05-18 20:43:25 | 友人・知人
 散歩の途中、近所の森さんという老舗の米屋の前を通りかかると、コワモテのご主人の顔が見えた。ヒマそうにテレビを見ておられたので久しぶりにご機嫌をうかがって行こうかとガラス戸を開けて中に入った。帽子とマスクのままで入ったがすぐに僕だとわかったようだ。通り一遍の挨拶の後、さっそく世間話が始まった。僕の高校の大先輩でもあるので、高校時代の剣道部の先生や先輩の思い出や大会で活躍した話などがしばらく続いた。その後、航空自衛隊のパイロット時代の思い出話などを次々と語られた。時々知っている名前が出てくるので相槌を打つと、ますます話は膨らみ、あっという間に30分以上が過ぎた。ほとんどが初めて聞く話ではないのに面白い。先日、どこかでこの話を他の人にも聞かせたいなと思い、熊日OBの同級生に話したところ、熊日の連載コラム「私を語る」に推薦してくれた。採用されるかどうかわからないが、採用されればきっと面白い話が聞けると思う。
※参考記事「米屋とパイロットときりしたん(2020.12.25)」 


助産師合格を祝う!

2021-03-27 07:06:35 | 友人・知人
 昨日、中村くるみ(はつ喜月若)さんから助産師国家試験に合格した旨の連絡をいただきました。
 一年前の看護師合格に続き、見事に目標を達成されたことに心からお祝い申し上げるとともに、今までのご努力の積み重ねにあらためて敬意を表します。
 4月からいよいよ助産師としてスタートを切られることになりますが、いまだ続くコロナ禍のなか、医療現場でのご活躍を心よりお祈り申し上げます。また、今後、可能であれば舞踊家としての活動もぜひ拝見したいというのがくるみファンとしての切ない願いです。


真美さんの絵本

2021-01-17 19:38:05 | 友人・知人
 かつて様々なイベントで司会やナレーションなどを度々お願いしたり、昨年亡くなられたお父様が開いておられた料亭にもお世話になったりした松田真美さんが絵本を出版されたというニュースが今朝の熊日新聞に載っていた。題材は随分前からお聞きしていた「いのちの大切さ」を訴える内容で、彼女の念願がひとつかなったことに心よりお喜び申しあげたい。いまだコロナ禍が続くなか、彼女が長年続けている啓蒙活動の価値が再認識されることを願ってやまない。





今回出版された絵本


馬頭琴演奏会で司会を務めた真美さん(演奏者のリポーさんとともに)


アメノウズメを祭神とする高千穂荒立宮で奉納舞を行う真美さん

ホテル・カリフォルニアと日航機長

2020-06-15 21:43:17 | 友人・知人
 20代の頃、会社の担当者会議でよく東京に出張した。日帰りも多かったが、会議が2日以上におよぶ時は六本木にあった会社の寮に泊まった。
 ある時の出張の帰り、離陸を待つ機内でイヤホンから聞こえる音楽を聴いていた。それは昨夜、同僚たちと行った六本木のクラブでイーグルスのコピーバンドが演奏していた「ホテル・カリフォルニア」だった。少し遅れて隣にダンディな紳士が座った。この紳士、普通の人と様子が違っていた。離陸する時、頭を傾げてじっと聞き耳を立てていた。僕は気にしない素振りをしていた。飛行機が上空に上がって安定飛行に入った時、その紳士が突然話しかけてきた。「いや、私もね、この飛行機を操縦するもんですからね、離陸と着陸は気になるんですよ」そうですかと答えた僕に「今日の機長は上手いですよ」と続けた。それからしばらく、お互いの出身や会社のことなどを語り合った。すると共通の知人がいることがわかった。それは、僕の家の近くのMさんという老舗のお米屋さんだった。ちょっとコワモテのご主人は僕よりひと回り以上も上の高校の先輩だった。高校卒業後、防衛大学に進み、航空自衛隊に入ったらしいと聞いていた。僕が大学を卒業し、熊本に帰ってきた時、Mさんはすでに自衛隊は退職し、家業の米屋の主人におさまっていた。実はその紳士の航空自衛隊時代の操縦訓練の教官がMさんだったらしい。紳士は「Mさんは私にとって神様のような方です!」と言う。そして「Mさんは凄い腕を持ったパイロットでした!」。飛行機が熊本空港に近づき、着陸態勢に入ると紳士は再び聞き耳を立てた。着陸した時、「ほら、上手いでしょ」と言った。空港での別れ際、紳士は「Mさんにくれぐれもよろしく!」と言い残して颯爽と去って行った。後日、そのことをMさんに報告したのはもちろんである。聞くところによるとその紳士はJALのB777の機長として名を馳せ、パイロット引退後はJALの重役になったらしい。


6年前の出来事

2020-05-02 20:38:07 | 友人・知人
 仕事に出かける息子を朝夕車で送迎するのと、たまに散歩に出るくらいで、後は家の中でゴロゴロ。ヒマでしょうがないので、過去のブログ投稿記事をチェックし始める。特に5月を見ていくと目を引いたのはちょうど6年前の今日、従姪のかずえがテレビに出ていた。
 その年の4月6日、NHKホール(東京都渋谷区)で行われた「2014 全日本きもの装いコンテスト世界大会」で、かずえが所属する必由館高校・和装文化部が学校対抗の部で見事1位の栄冠に輝いた。その活動の様子を熊本朝日放送「新発見伝くまもと」が紹介してくれたのだった。彼女たちも既に社会人になっているが、6年というのはあっという間だ。